ご挨拶
ゲストはラカン精神科学研究所の宣照真理(せんしょうまり)さんにおいで頂きました。
惟能先生の久々の新刊ですが、最初にタイトルを見た時には、精神分析的な観点による姓名判断マニュアル本の様なイメージを持ったのですが、実際の本の内容は、名前の意味の解説、人の運命を決定してしまう無意識の解説、ライフサイクル、更に、自己精神分析から改名に至るまで・・精神分析のエッセンスを詰め込んだ様な内容になっています。惟能先生の本をネタに、皆さんに少しでも「精神分析」の世界とインテグレーター(分析家)を理解して頂ければ幸いです。^^
著者:惟能創理(いのうそうり)プロフィール
日本初のインテグレーター(精神分析家)
1951(S.26)年 埼玉県熊谷市に生まれる
1992(H.04)年 大沢精神科学研究所設立
1992(H.04)年 道越羅漢(みちおらかん)となのる
2008(H.20)年 LAKAN精神科学研究所に名称を改める
2008(H.20)年 惟能創理(いのうそうり)に改名する
「運命は名前で決まる」購入方法
兵庫県神戸市
金谷精神療法研究所(ラカン精神分析研究所)
おすすめ本
滋賀県大津市
ラカン精神科学研究所
本の紹介
宮城県仙台市
セラピールーム燦燦(さんさん)
本の紹介
まえがき
まず、最初に「まえがき」で作者自身である「惟能創理氏」が、何ゆえ自分を精神分析家と規定した時に「道越羅漢」と名のったのかを語っています。
「名前は自己の意味と自己同一性の自我理想を象徴化した記号に他ならないと・・。」
更に惟能氏は語る。
「・・クライエントの名付けられた由来の語りを通して、名前はその人の運命を方向つける大事な記号であると学んだのである。」
第一章 名は何を表す Page.001
1、名は他者の欲望を表す Page.001
名前は、自分を意味付けるレッテルや表札のことでである。・・しかし、ここで問題がある。それは、この名は本人がつけたのではないことと、勝手に他者が名付けてしまったことである。・・・
<欲望の起源は>
名前は、こうして他者の我が子への願いと祈りを期待を背景に、それを起源として、象徴界から漢字を選び取ってくる。極めて主体的行為なのである。たとえその思い入れが浅かろうが、深かろうが。
<人間の欲望>
意味も判らず名付けられた子は、自らをその名で呼び、それが自分を表す何かだと認識していく。それもある種自我理想的自己像をも象徴しているこの名に、無意識的に引きずられて生きていくことになる。
そして、名付けるという行為には欲望が必要とされることだけは確かである。・・・
<欲望は主体を表す>
そしてその欲望は名付けたい、こうあって欲しいという祈願において発生する。それはその行為の主体のあり方を示す。
<意味ある名>
祈願によって人は子に名前をつける、あるいは自らにつける。その欲望は意味を持っている。子供自身に自分の名前の意味は判らない。しかし、判らないが音は刷り込まれていく。日常会話の中で、音からそれぞれの使われ方の違いを場面を通して学習し、意味を汲みとっていく。それらの意味が自分の名前に意味付けられていく。そうして、自分がそういった存在になっていくのである。その事実を、私はこの書において証明したい。
<無意識を名付ける>
他人が人を命名する行為には、無意識が使われる。他者は人に名前を付けるとき、祈願であり、欲望をもってそれをすると述べてきた。祈願も欲望も、かつて名付け親自身がそうありたいと考えたそれを言語化(抽象化)したものである。・・・この世に不在の自我を抽象したことになる。実現されなかった幽霊のような自己を表す語を人に付ける事になる。
こうして名前と現実(名付け親の行動)が矛盾することを目の当たりにする。そうして、人は親をモデルとして模倣し、性格を身につけていく。その結果、名前は体を現さなくなり、それとは正反対の行動を取り、人生を変えていく。
正直であれ!の背後には。「嘘をついていけない」がある。それが意識されずにいるという意味において、「無意識」が名付けられるというのである。
事例)松本海君 松本真二郎さん一家殺害事件
事例)種元駿君 長崎園児殺害事件
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2、無意識とは何か Page.009
意識とは何か?言語によって構成された世界。
無意識とは、そこに存在しながら、人に存在しないというあり方。・・・認識論の説明
<心的世界の無意識とは>
心的世界の無意識とは(フロイトの言った無意識とは)
概念化と概念・・人は概念を通して(五官で)実物を認識する。

認識は概念を実物と認識者の間に挟み込んだ、意識の作用をいう。
ラカンは「大他者A」あるいは「象徴界」といった。
この認識作用の最初に来る心的機能を意識という。
意識は世界を現出し、また、消滅させる。認識の知は、即ち「意味」を表す。その時点で我々は世界そのものを、在るがままに視ているのではなく。「意味」に置き換えて把えていることになる。
その意味の貯蔵された言語の世界を、無意識界という。
<無意識の起源>
無意識界にあるのは「意味」としての言語であるから、言語をしゃべり始めた頃というのが妥当であろう。
我々は幼児期においては、大人が何を話しているのかまったく判らない。それが次第に話している音の規則性と繰り返しにより、その音と物が結び付き、そこに感覚が伴い、快と不快を構成し、「意味」となる。
それまで何も知らず、吸い付いて飲んでいた乳房が、甘く、柔らかく、愛しい愛着のある乳房と認識する事態が訪れる。しかし、いつまでもそれに吸い付いていたいのに、(父-の-名)の介入により、それから引き剥がされる。その時、乳房は、永遠に手にすることのできないものとして象徴界に組み込まれ、主体はそれ(乳房)への欲望としてそれ(乳房)を置き換える。そして更にその欲望は抑圧され、乳房が別な物に置き換えられた形の似比物(にせもの)を掴まされながら、欲望は主体と共に浮かび上がり、消滅する事を永遠に反復し続ける。この抑圧こそ無意識の誕生である。
<言語はいつ頃から理解されるのか>
例)一歳三ヶ月の女児の症例・・お出掛け反応と、何でも口に入れない子
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3、名は運命を表す Page.016
<名は他者の欲望の刻印>
他者の欲望の刻印こそ「名前」だったと判った。それは、名付けられた人にとってどんな意味を持つのか考えてみたい。
<言語を持った人間>
動物と人間の決定的な違いは、「言語」を持っていることである。動物は「言葉」は持っている。仲間とのコミュニケーション手段として鳴き声というサインは持っているが、文字は持っていない。何故なら彼らは本と言う文化を作らなかったから。人は文字という記号を手に入れた。それは物と記号の一対一の関係だけ指し示すものでなく、そこに「意味」をつくった。即ち「象徴界」というもう一つの動物にない世界を創造したのである。
人は、言語を発明したことで世界対自己という二項対立した存在になってしまったのである。
<言葉を持たない自然>
人が人間でいる限り、この意味の世界から逃れることができないのである。
<孤独は癒し>
だから時折り人は、自然の中に逃げ帰る必要があるのだ。それは無記名な人になることである。名付けられたということは、人としてのこの意味の十字架を背負って生きていくことを運命づけられたことでもあるのだ。自然のなかで人が癒されるのは、この十字架を外していられる楽さのためである。重荷を解かれた軽さと解放・自由が心を軽くし、人を癒すと思わせるのである。
人間の住む社会は、言語と文字に溢れている。洪水のようにメディアは、音と映像・活字を垂れ流して、人々を襲っている。この過剰な意味からの脱出以外に自分を取り戻す方法はない。孤独になることこそ救いである。これを病的に表したのが、引きこもりである。彼らは自己防衛として社会から撤退し、自分を守っているのである。
<社会は競争>
私達の住む社会は、私人か公人のどちらかの存在しか認めない。人には多面性があることを社会は認めない。これこれの人間であらねばならないと勝手にレッテルを貼り、個の他の側面を切り捨てる。そうして権力と富の競争社会に駆り立て、経済を動かしている。社会は公人を求めている。それも競争に打ち勝っていく強い人間を。この競争にエントリーするのに名前がいる。それは登録が必要だから。生まれて、人は名付けられ、競争社会に登録され、死ぬまでリタイアできないようにされてしまう。これこそが人間の運命である。
<淳子の母>
症例)淳子
・・・かくある自分を、かくあらねばならない自分、もしくはかくありたい自分が引っ張っていくのである。これを運命という。
<かくありたい自分>
かくあって欲しい自己は他者によって名付けられたが、かくありたい自分が判ったら、それで生きていけば運命は変わるという事になる。
例) 勝 海舟 (本名:義邦)
例) 森 鴎外 (本名:森林太郎)
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4、名前は人生を表す Page.028
<人生を象徴する名前>
症例
<「好子」という名の運命>
症例
<符合か偶然か>
名前は主体の欲望によって付けられたものという、精神の運動として把えたとき、名前という記号は単なる記号としての視覚的存在ではなく、他者に欲望された、その意味を具現すべく求められている指示としてその主体に作用しているとするならば、名前は存在的ダイナミズムをもった、記号を超えた機能的存在になる。
<必然とは>

今の私が、そうである自己理想像を知っている私に向かって、実存主義的に言えば*投企していく構造が、必然(当たり前)である。
今の私を知らなければ、未来に向かって投企するすることも努力することもない。何故ならば、自己理想をもつことができないからである。自己実現すべき自己の理想的姿は、今の私との差異によって生み出されるものだから。今の私を知らずして自己理想を語るのは、絵に描いた餅である。具現化するための具体的努力をすることはできない。それは、今を理想像と比較参照したときに、今何が足りないかが判るからである。その欠如に気づかない限り人は努力をしない。
<名前は人生そのもの>
人にとっての名前の意味が、人生を決め、導き、それとは逆の運命を予言するそのであるとみてきた。その名の通りの人生を運命を生きる人もいる。それはその名前を自己理想として実存的に投企して生きて行く限りにおいて実現する。それとは逆に無意識的であれば、名前とは正反対の運命を生きることになる。
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編集部注「投企」とは、ハイデッガーの用語。いつもすでに自己の可能性に向かって開かれている現存在(人間)固有の存在の仕方で、具体的には理解という形をとる。
第二章 運命を握る無意識 Page.037
1、無意識の形成 Page.037

<最初の無意識>
第一章で簡単に無意識の起源は説明したが、その後どのように何が無意識として我々の心に構築されていくのか考えよう。
乳幼児期において人は、すでに、無意識を形成する以前に反復を学習している。反復とは、快の視覚・味覚・臭覚などの感覚が統合された記憶イメージの再生である。いわば、幻覚の再現を繰り返し行うことで、反復という不快な状態を防衛することを学ぶ。それは「指しゃぶり」である。
指でなくも、胃に入る流動物、多くは水分であるが、それでもいいし、乳に似た乳製品でも、乳首を模したおしゃぶりでも、乳首を眺めているのでも良い訳である。乳房の柔らかさの感覚の再現は、同様の弾力性をもったものであれば形は問わない。その感触を通して乳房全体と授乳を再現できることになる。この感覚の再生能力は、記憶イメージの鮮明さによる。ではこの授乳の場面の主役である乳房のイメージこそ、最初の無意識といえないだろうか。
<口唇固着>
記憶は刺激の蓄積である。単純に言って、一回でも多くの授乳体験をすることで、感覚記憶はより多く蓄積して鮮明なイメージとして定着する、そうすれば、再生の幻覚はより現実に近いものとしてリアルティーをおび、乳児は不快と不安を免れることになる。それだけ乳児は安定した心でいられるということである。
だが、もしこの体験が少なく、記憶が不鮮明であったらどうなるのだろうか。その事態は、離乳が早期に行われたり、母との分離が早かったケースに表れる。そのとき、乳幼児の授乳体験記憶は不鮮明で曖昧なイメージとなる。その不安定なイメージは、再生してもぼんやりとした中途半端なものとなり、欲求は満たされることなく、再生は失敗におわり、より強い不満を抱き、更なる再生を試みるしかない。しかし、少ない感覚記憶は、再生に際して誇張した表現による、強さを必要とする。そして感覚器官に限られ、入り口の口唇だけとなる。フロイトはこれを口唇期固着といった。
この固着は、口唇の刺激を求める行為となる。それは、食べる、飲む、噛む、吸う、嘗める、しゃぶるなどの口唇行為で示される。
食べるは大食、美食、過食などになる。そしてそれらは甘くて柔らかいものに集中する。
飲むでは、多飲症とアルコール中毒に代表される。
また、薬物を飲む、煙草を呑むなどの中毒や依存症はと発展していく。
ガムを噛むや飴をなめるなどもそれらである。
<依存症と中毒>
依存症には、薬物、買い物、アルコール、愛情依存などがある。それらはどうしてその対象が選ばれ、それから何を得ているのだろう。
依存には甘えの心が因になっている。土居健郎氏の「甘えの構造」の紹介
甘えとは「他我を理想的イメージの中に摂りいれて。そこに合致すると確信している」
他人は自分にこうしてくれるのではないかと予測したり、そうしてくれることを求める欲望も、他人の欲望を無視して自己に奉仕させる自我へと書き換えてしまった心的機能こそ、甘えである。
甘えの目的には、「誰かにもっと大切にしてもらいたい、安心させてもらう」ということがある。クライエントの訴えは、世話されずにほったらかしにされた、どうでもいい存在としての存在論暦的意味付け以前の、淋しさと不安に集約される。
<傍に居て欲しい>
クライエントの語りからみた甘えを現象学的に定式化してみよう。
生の人間の、傷ついた心の語りは一つであり、同様の体験によって「刻印」されたものだとわかってくる。それは養育史である。養育者によって何をされ、何を言われてきたかが、相互的に、現象学的に学習されて、それが心に刻まれる(記憶される)ことが共通している事に気がついた。その共通した体験からの共通の叫びは、「傍にいて!」だった。
クライエントたちは、親と自己における相互関係による現実から、親の主体の意味を汲み取るのだ。放任や関わって来ようとしない親を彼らは、「自分は嫌われている」と意味付けて受け取るのである。
親の不在は必然的に独り遊びをもたらし、独り言を生む。誰かに語りかける訳でもなく、子供は何かをしゃべる。それは、おもちゃだったり、縫いぐるみや人形だったり、壁だったりする。言葉はイメージを生み、途方もなく大きな空想界を創り出す。こうして放っておかれた子供の心には、現実界と自己の間に空想界を挟みこむことになり、空想界が現実の代理をするようになる。そして、言葉・言語が想像界(空想界)の担い手であることを知る。こうして、言語を自在に操りながら現実を別なものに変えていく術を手に入れる。
<言語の優位性>
フロイトはリビドー論における発達論の肛門期を、支配と服従の学習期とみなし、自我の自律性の獲得を課題にすると定義した。
言葉と自立歩行・・・言葉を操り。その実効性において言葉の信憑性を学び、自立歩行で肉体の操作性を学び、自己を統合していく。
なかでも言語は自分と世界、自分と他者をつなぐ大切な道具である。これへの信頼性がなければ恐くて参入していくことができない。特に言葉は世界・現実に生きる自己を母を操れるかどうかで言葉・意味・現象の三位一体を構成する中心に位置する。この屋台骨が怪しければ、三位一体は崩壊し、世界は崩壊する。そして、心も崩壊する。崩壊した後に、新たに独自な言語体系をつくる。それが統合失調症者の語る妄想・幻想の世界である。
<現実界に生きるとは>
現実界において彼らが必要なものは「安心」と「安全」それに「生きる」である。
「安心」と「安全」は保護であり。「生きる」は世話である。
養育者として当たり前の、いつも幼児の傍らに居て見守りながら世話をしていくという、単にこれだけのことが人間には必要なだけである。にも拘らず、その事が充分になされていない。
<母性とは>
母性とは、まなざしとスキンシップである。
<まなざしは鏡に>
母のまなざしは、成長につれ。それは鏡にとって代わられる。鏡に映った自分の姿を発見し、子供は嬉々とする。この喜びの意味は何か。メタ心理学は自己愛という。ナルシズムの発現である。自己愛とは、自己が内的世界に描いたイメージの他者による是認欲求のことだ、と私は定義する。
症例)十八ヶ月の子供
<スキンシップとは>
甘えと依存は安心と安全の確保であった。それと最も効果的にたやすく手に入れられることのできるのは、人肌の温もりである。肌と肌の触れ合いは、乳幼児にとって保護を意味する体験である。起きている時も、寝ている時も、いつも母の肌に包まれて保護された、懐に抱かれた状態は、安心と安全の極地である。この安心と安全への欲求はスキンシップへの欲望に置き換わり、無意識となる。
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2、無意識の行為 Page.053
<行為の原理>
例)殺人行為には、明確な動機がある。それを明らかにするのが裁判である。犯罪の立証には凶器と動機が必要である。何で殺したのか?が語られて、殺人は犯罪となる。
ただ、その中には、あの幼稚園児を殺してしまった「お受験殺人」の女性のように、何で殺したのか自分でも判らないものもある。唯一動機の明確な殺意の中にも、判らないのが存在する。それはどうしてか?彼女は嘘をついているのでもごまかしているのでもない。本当に自分でもわからないのである。それはどうしてかといえば、人間には「無意識」があるからであり、動機を形成した因に無意識があることの証明ではないだろうか? お受験殺人事件(山田みつ子)
<動機の構成>
動機の構成には、感情をベースにしている。不快感情をベースに人を殺したり、快の感情をベースに恋愛したりする。犯罪動機も恋愛動機も共に感情を基に発生している。
<もう一つの動機>
人間の心にあるのは、理性(知性)と感情である。ならば、理性による動機もあるということだ。理性は知によって動機をつくる。
知とは、象徴化された概念、すなわち言語である。それを私は「辞書」と読んでいる。
辞書は項目と意味によって構成され、項目は同じでも、その下の意味不明文はそれぞれが書き込んだものである。たとえ他者とその辞書が違っても、人は自らのそれを書き改める事をしようとしないものだ。それを頑固・自己防衛という。どこまでも自分の辞書を信じて、それに従い人は生きていこうとする。この自らの法典のような存在こそ、動機を形成するもう一つの源泉である。人はここから沸き上がってくる文字に従い、動機を形成する。
例)「一番」
図式すれば次ページのようになる。

人の運命は、すべてその人に裡にある無意識的言語によるのである。
言語は構造化され辞書を形成し、意味は換愈(かんゆ)・隠喩(いんゆ)によってイメージに置き換えられる。それに感情が付与されて欲動となり動機を作る。そして、それは行動の因となり、現象化される。現象化とは行動の結果である成果をいう・これが積み重なり、数学で謂うならば積分値が運命・人生ということになる。そしてその運命(積分値)を微分したものが、無意識の言語ということになる。それが名前となってその人自身の運命を表すのである。
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3、無意識の目的 Page.062
<何かに向かう>
無意識が言語によって形成され、意味と感情を伴いコンプレックスができ、それを抑圧して無意識となり、それは抑圧をはねのけて意識に浮上する。しかし、自己防衛としての抑圧は強く働き、意識化されずに無意識に留まる。留まりつつも浮上しようとするエネルギーを発揮して、抑圧との闘いに消耗している。それが、イライラとか葛藤やしくじり行為となって現れる。しかし、人はそれをコンプレックスの叫びの行動化や心的表現であることに気づかない。まさに無意識なのである。
コンプレックスとなった無意識は、何処に向かおうと喘いでいるのだろうか。コンプレックスはただ闇雲に意識化を求めている訳でなく、その方向と目的・目標は定まっているのである。それは何故か。コンプレックスは、意味と感情の複合観念であるから、意味はその表題である項目(文字)をもっている。その文字の現象化こそ、コンプレックスの行き着く先である。感情はその表出を求めて、その文字の現象化に伴い、追従し、放出の機会を捉える。
これらの流れを一つの症例を通して眺めてみよう。
症例)恐怖症の女性 山本ひろ子(仮名・41歳)
<自己愛共謀夫婦>
山本ひろ子の両親の夫婦関係
<ひろ子氏のみていたもの>
山本ひろ子の養育史
<ひろ子のコンプレックス>
ある演歌歌手のMが、子宮の全摘出をした。私はそのTVを視ていて、彼女は男になりたがっている、そして男になったんだ、と思った。番組はその後のインタビューで、Mにこう質問した。「今度生まれ変わっても歌手のMになりたいですか?」「いえ、今度生まれたら、絶対男です!」と何度も繰り返しMは言っていた。その語気の強さに、並々ならぬ決意を感じた。
このように、女性はコンプレックスを体全体で表出するのである。これが無意識・コンプレックスの目的なのである。
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4、無意識と共に生きる Page.071
<生きるとは>
人が生きるとは、さまざまな心を持ち、さまざまな動機を持ち、さまざまなコンプレックスを持ち、さまざまな感情を持ってそれらに突き動かされながら、生きていくことなのである。地球上の人々の生き様が、一個人の精神内界にもそのまま圧縮された型で存在し、個人史を形成して、(図表:自分の分裂)いく因になっているのである。
よく人は言う、自分探しの旅に出ると、または自己実現すると、そこで語られる、自分、自己とは何だろう。その文脈に何人の自分がいるのだろうか。
<三つに分裂した自己(私=自分)>

私という存在は、何らかの能力と性格をコンプレックス(無意識)をもちつつ、今の私ではない、違った私、すなわち私が私が考える処の理想を求めて生きている、と言えないだろうか。理想の私とは、言語的、イメージ的に語れるだけだから象徴化された私でしかないから、私という「知」でしかない。
今在る私は「知」の私に追いつき重なり、今在る私に変わる。そのときまた新たな「知」の私が生まれる。これを図にすると、
「今在る私1」 → 「知1」 → 「今在る私2」 → 「知2」 → 「今在る私3」
となり、一つの数列を形作ることが判る。この数列をフィボナッチ数列という。ラカンはその数列を使って、象徴化され続けていく自己を表し、その極限値が黄金比である、と示してみせた。
この無限の連なりこそ「生きる」ということなのである。常に自分を象徴化した「知」に「今在る自分」が、何の支障もなくうまく重なり続けていくものなのだろうか、という疑問が湧く。
・・・・・・・・・・
<人間でないものに>
元々ラカンの言う「知」には、自我理想は含んでなくて。「我思う、故に我在り」と思う我在り、というコギト(編集部注:我思う、ゆえに我あり・・は、ルネ・デカルトが自著「方法序説」の中で提唱した有名な命題である)の連続性を言ったものである。それを敢えて私は、その知の中に今の自分と比較参照することで対立する未来の自分の姿を想定した。その未来の自分に向かって生きることを、実存主義では「投企」といった。人は不断に投企し続けていく存在なのである。次々と生まれてくる未来の自分を「知」とするなら、フィボナッチ数列は成立する。
それには前提がある。未来の自分に今の自分が予想どおりに重なる、という前提の元に数列は成り立つ。しかし、必ずしも現実は、思い通りにいかず、例えば、母に愛されたいと思っていても、そうではなかった場合、数列は崩れる。そこには別な数値が入り、それまでの連続した自己は崩れて人間ではないものになってしまう。何故なら、人間が人間として成立するのは、この不断の自分の連続性(歴史性)に他ならないからである。違った数値はそれまでの人生を断ち切ったり、欠落をつくったり、停止させる。このとき。人生は空虚になり、充実感を失う。充実とは、この不断の連続性のことだったのだ。
人間に停止はなく、永遠に手に入らない「知」に向かって投企し続けていくだけの存在なのである。それが生きていくということなのだ。むしろこの「知」に牽引されながら生きる。この「知」を失ったときに、人は死ぬ。生物としての死ではなく、人間としての生の終焉を迎える。
名付けられた名前こそ、その「知」なのだ。知は変化していく。それにつれて名前も変わるべきなのだ。なのに人は名前を変えない。それができるのは、作家ぐらいなものだ。
もっと、人間は自由に名前を変え、未来の知に向かって生きるべきなのだ。べき、と言ったのは、進化して行く精神が本来と考えるからだ。その本来性を国家と社会と常識と文化と教育が、それを奪っているからである。名前を変えるエネルギーがあれば、人はきっと自ら運命を変えることもできる。だから変えるべきだ、と言うのである。
<人間になるために>
「人」の文字を名に付ける。
人は均一の存在ではなく、個々全く違う存在なのである。人に成る人もいれば、人に成れずに死んでいく人間もいる。この統一なき人間の群れがつくりだした社会・世界は、矛盾と不条理に満ち満ちている。人類の完全統一など、夢のまた夢である。宗教jも哲学も教育もいまだにそれを果たし得ずにいる。
人は、人について正しい知を得ない限り、すなわち無意識を意識化しない限り、平和も統一もやってこない。人類は、精神の科学を作り得たことで、その端緒を得た。きっといつの日か、その日はくると信じて生きるしかない。人類の幸福の未来は、精神の科学にある。
<人から個人に>
人に成った人間は、それは単に社会人でしかない。社会に適応していくための常識・道徳・倫理・尊法を学んだ社会人でしかない。人が真に人に成るということは、個性を身につけることである。誰にも似て居ない個性を創造することである。
・・・・生きていくことは、このライフサイクルを社会人として生きながら、永遠の個を模索しつつ生きていく存在になるしか、有限で不条理に満ちた社会人としての自己を、生きて行くことができない。
幸福論の誤謬は、この社会人としての成功と個人としての成功を同一視したことによる。そもそも別次元の幸福をアイディンティティ(自己同一性)の概念によって同化させた誤りが、社会をこれだけ「金」だけの世界としてしまったのだ。
社会的成功は地位と名誉と権力と金を手に入れることになり、それがそのまま自己実現となり、幸福と感じる幻想を我々は社会から教育された。このイリュージョン(幻想)から解き放たれることなく、一般人は国家に消費されていく、納税者として。
・・・・もっと自己実現に、個性化に目を向けて、精神の発達に目を向けることしか、社会を正常化する道はない。何より、社会の健康は、個人の健康な精神に依るものだから。
第三章 環境と性格 Page.082
1、人間環境に適応する人 Page.082
<地球環境>
人間は地球の余りであり、余計な存在である。自然の生態系やその生命サイクルにおいて、邪魔で余計なものである。自然界におけるすべての動植物において人間は、余計である。彼らは何も破壊していない。自然環境の中で、適応し適者生存の法則の中で生きている。唯ひたすら種の保存だけに全生命を賭けている。しかし人類は、同種の人を殺し、動物を殺し、植物をつぶし、自然を破壊して都市と文明を築いてしまった。その結果が二酸化炭素の増大における地球温暖化である。
<人類の発展>
言葉の発明こそ、人類を発展させる推進力になったのである。言葉はものを指し示す音の記号となった。すなわち、言葉による音は、物の代理に成れたことである。音を聞くことでそのものが視覚的に誰でも同一に描けることを知った人類は、音と物(視覚的イメージ)を結び付け、文字をつくることになる。象形文字がその始まりである。物の形を簡略化して表していくうちに、それはどんどん簡略化され、シンボル(象徴)が生まれた。文字の完成である。
こうして、言葉と文字を手にした人類は、人と人を統一的につなぎ、団結をつくり、時代を超えて次世代へと、さまざまな概念を伝えていけることになった。これが様式となり、文化となり文明をつくったのである。
<芸術と文明>
文字は文章を作り、本を生み出した。人は記号を形にする欲望を得て、道具と芸術を生み出した。実用が道具になり、象徴化が芸術になった。文字は文学に、形は彫刻に、視覚は絵画に、音は音楽へと形を成し、道具は実用から武器へと展開していった、形式の中に意味の魂を詰めた芸術は、人の心を豊かに広げていったが、実用性の道具は自己保身と他者の排除に使われていった。何かを象徴し永遠に遺したいという欲望は、芸術を象徴へと推し進めて行ったが、実用性の概念は、富と権力を生み出し文明を形成した。機械技術と物質が都市を形成している。文字と言語によって構成された全く意味だけの世界を文明と言う。すべて意味によって埋め尽くされている。名もなきものはどこにもない。すべて名称(名前)がついている。
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2、自然から名前を付ける Page.088
<人は何処に生きているか>
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3、環境と固体(免疫と病気) Page.091
<養育環境>
<育てる環境>
<学歴偏重社会の縮図>
家庭生活における人間は、常に幸福を求め続ける。社会生活における人間は、名誉と権力、金を求める。欲望は、野心や夢となって人々を衝き動かす。そして上り詰める人、転落する人、淡々をした平坦な道を歩き続ける人などさまざまに人間模様が繰り広げられる。そのさまざまな模様を作り出す動機こそ、「名前」に込められ、隠されているのである。
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4、社会と個人及び人格の形 Page.101
<社会とは>
社会とは何か、それともその語の定義から始めなければならない。
『社会』とは-人間が集団で共同生活する際に、共通のルール(掟)を作り持ち、相互に役割という人間関係を組織化した総体をいう。
私はセラピーをしていて不登校や閉じこもり、出社拒否のクライアントに接しながら、彼らが撤退した集団組織を、取り敢えず社会と認識するが、治療目的をその社会への参入や適応においていない。一般世間の人々は、学校への復帰や会社への復帰を願っているが、私とクライアントで合意する治療目的は「自我同一性」である。それはすなわち、自分のしたいことや生きる意味を見いだすことである。人は何のために生きているのだろうか?の問いに答えること、いやその問いに答えること、いやその問いをもってしまった人達がクライエントなのである。精神治療をしているのではなく、哲学しているのだ。精神分析とは生きる意味の問いに答えを出す精神科学なのである。
<競争と勝ち負け>
もう一つ、社会の側面に家庭と対比される概念として「競争」と「勝ち負け」がる。利潤追求型の経済の中心にあるのは「金(マネー)」である。金とは貨幣である。人間の行った労働や創造した形にたいして支払われる対価としての金である。この額は数字に置き換えられ、すべての価値の象徴となる。生命さえも金に置き換えられる。こうして金を社会の頂点に立ち、絶対の、まるで神のごとき存在に祀り上げられたものこそ「社会」である。
この意味における社会は貨幣経済の怪物と化した。金こそすべてであり、それをより多く手にする事が人生の目的であり、人生の価値とされ、その為に学歴が手段化された。そもそも学問を学ぶという本体の主旨は学校教育からは忘れ去られ、すべて点数、偏差値に置き換えられた。点数を取れる生徒が頭がよく、取れない生徒は馬鹿とされた。利口と馬鹿の二種類しか学校教育は生み出せなくなった。その教育の成果が現れた、象徴的出来事が2005年11月に起きた。
症例)東京都町田市 高校1年同級生刺殺事件
<生か死か>
人は誰でも人生の勝者になりたがる。しかし何をもって勝者というのか?が問題である。前述した「金」至上主義の一点で人生の勝ち負けを果たして分別できるのだろうか。
症例)元ライブ・ドア社長 堀江貴文
決定的な問いかけをしてみよう。
「あなたにとって生きるとは?そして死とは何ですか」そしてまた、「生きる意味は何ですか」
皆さんはこれに即答できるでしょうか。意味のない人生、意味のない生命、意味のない生活、意味のない時間? 人はいつも意味を感じながら生きているでしょう。それ以前にそんな問いかけをして生きているでしょうか。否です。多くの人は問いかけません。問いかけているのは、私が接するクライアントたちだけです。彼らは常に問いかけてきます。
「生きている意味があるのですか?」とダイレクトに彼らは質問してくる。
私はこう答えます。
「意味などありません。だから意味を創造するのです。ただ人間に与えられた自由は、この意味を創造して生きろ!ということの裡にあるのです」
しかし、彼らはその意味を創るということ自体が判らないのです。そもそも構造が、すなわちシニフィアン(意味生成運動)がないからです。シニフィアンがないとは、対象a(母)すなわち母が存在しないからです。母とは対象恒常性をもたらした、愛着対象ということである。
母が不在ということは、生が感じられないのと同時に意味も喪失してしまっているのである。言わば生きていない、すなわち死んでいることになり、死者とは意味を喪失している存在なのである。
<成果主義の社会>
・・・・何らかの結果を出す事が点数から、社会人になると金にシフトされる。お金は資本主義社会の主導権を握り、王様のようにふるまっている。誰もこの王様に楯突けないし、否といえない。社会は人間を資本主義、自由経済を民主主義へと展開しながら、人間性なる情緒的存在を排除してきた。何故なら、人間が生きていく条件として先ず、「お金」を考えるように構造化していったからである。心や感性や優しさだけでは生きていけない。まず労働し、金銭を稼がなければならない構造を社会が作り上げ、人間が生きていく意味の問いかけを根こそぎ奪った。しかし、自由人である学生時代だけは、人はこの問いかけを失わずもち続けることができる。ただし不登校や神経症の中にいる子供達だけだが。一般に適応し学校へ通っている、いわゆる正常な子供達には、一部を除いてこの問いかけはできない。ひたすら社会システムの中で、その流れに乗って生きていくしかない彼らには、人は何のために生きているのかの問いはない。
生きていくとは何か?がなくなったために、迷える人、犯罪や狂気へと誘われる子供達が増えて来たのである。生きる意味を失えば、人は自殺するしかなくなる。生きて行く価値のない存在を自己規定したことになる。この自己規定は、どのようになされるのか?
<人間の価値>
<オーラの本質>
・・・私なりに徳を定義すると、徳とは心理を悟った人の行い全般をいい、それは人徳、美徳という光りを放つものである、といえる。中でも最も重要なポイントは、「真理を悟った」という処にある。その人の行為が真理の知を動機としたものであること、それが徳を定義づける。また、真理を知ることを悟るともいうのである。この世の真理を知った人こそ聖人であり、学者であり、賢人であり、仙人であり、天才であり、羅漢であり、ジャック・ラカンなのである。
<市井(しせい)の人の輝き>
人の価値は成果主義や実力主義の結果において決まるものではなく、生きる意味を創設し、それを持ち、それに基づいて行動し、生きていくことで決まるのである。それが徳という考え方であろう。
富も権力も名声も私は否定しない。社会システムはそれを必然として内包しているものだから、それは認めざるを得ない。私が言いたいのは、それに真理の知を即ち「智」を加えて欲しいのだ。社会における価値にこの目に見えない「智」を連ねて欲しい。
心の時代、PTSD、統合失調症、うつ病といった言葉だけが社会の中で交わっているだけで、その本質に有る人間の心の深層である無意識にまだ気づいていないようだ。もっと人間の意識の底に潜む「無意識」の存在に関心を向け、もっとそれについて知るべきだと、訴えたい。
その象徴が名前として社会の中に存在する。この名前を手掛かりに無意識について考え巡らしてもらいたい。
<誘拐犯の名前からみた社会>
症例)仙台新生児誘拐
我々人間がこの世に存在するということは、名前という記号を付けられて戸籍に登録されることである。そのときから、社会というシステムの一構成員であらねばならなく、個としての存在は抹殺されるのである。個人として生きることは、個の欲望に従って生きる存在のことである。しかし、社会は個の欲望を否定し、社会システムの秩序を維持するために必要な「人格」を強制し、社会人に仕立て上げる。そこに求められるものは、いわゆる掟を尊守する社会人という得たいの知れない従順な納税者である。社会の秩序を利益に奉仕できる人間を人格者をして褒賞し、それを自我理想とするように洗脳してくる国家の中で、人間は、市民は社会人に創られていく。
あぁ!個としての人間は幻想の民主主義という文字の中にしかないのである。どこに個があるのだ。名前を自分で付けて、あるいは持たずに生きる自由を国は認めない。・・・・
第四章 人は死して、名を残す 人は一代、名は末代 Page.126
1、人の一生 Page.126
<ライフサイクル>
・・参考になる著作に講談社学術文庫の『ライフサイクルの心理学(上・下)』ダニエル・レビンソン著、南博訳がある。これによれば男性のライフサイクルとして断りがあるが、載っているのでそれを基にしてみたい。
大雑把に分ければ、人生は
1、児童期と青年期 0~22歳
2、青年前期 17~45歳
3、中年期 40~65歳
4、老年期 60歳以降
と四期になるが・・・
人生には成長と共に、また発達段階に沿って節目が存在するということである。その時代に相応しい生き方が、生活スタイルがあることを承知した上で、人はそれぞれに合わせて変わっていかなければならないということを示唆しているのが、ライフサイクル論である。
<人生半ばの過渡期>
40代を人生の半ばの区分点として最初に注目したのは、ユングである。彼は人間の自己実現、所謂「個性化」の観点から、その努力は人生半ばに始まり、残る半生その努力が続くことを示したのである。
私は臨床上45歳が人生の分岐点(生と死を分けるターニングポイント)であることをみていた。母性喪失者の多くが45歳に死を迎えている。およそ42歳から45歳の間に、母親と4歳まで、あるいは早期に分離・死別・見捨てられ体験に遭った人たちの実に多くの人が亡くなっている。これがどういう訳でそうなるのか判らなかった。仮説としては、心的エネルギーの枯渇を考えた。人は養育者(母親)のまなざきと抱っこ、それに情緒的支持と共感によって心的エネルギーを備給するのである。それで一生分蓄えて、その心を資本に消費しながらも備給し、収支バランスをとりながら生きていくのである。ところが、母性喪失者は、その基本となる備蓄が非常に少ないために、40年余りで涸渇し、生きる希望を失い死を志向するようになってしまう、とクライエントを見てて、そう考えたのである。
<人生半ばの個性化>
四つの課題
①若さと老い
②破壊と創造
③男らしさと女らしさ
④愛着と分離
このテーマは対立した両極性があり、葛藤をしつつ統合していく過程を孕(はら)んでいる。この統合に成功した者が後半生を実り多き生き、失敗した者はそこで淘汰される。
・・・人間から意味を持つということ、個を確立していく道を選んだ証左である。生物は生きる道を、すなわち種の保存をDNAに従い、選んだのだ。しかし、人類は言葉を持ち記号を創りだし、名前を付けたところから、生命を超えた象徴界という永遠を志向し始めたのである。だから、戦争もし、地球を汚染し続け、自らの生きていく生存基盤すら自らの手で危うくする自己撞着(じこどうちゃく)(言行や文章などが前と後とで食い違って、辻褄が合わないこと)を行動化してしまうのである。
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2、成人前期 Page.138
<人生の序幕>
・・・まさにその未成熟さ故の危うさがこの時期の特徴で、その後の人生の方向を大きく決定付けてしまう大事な時期でもある。その要素に、環境との出会いがある。
環境とは、どの国に、どの文化、どんな両親、家庭、教育のなかに育ったかを謂(い)い、出会いは、その環境の中でどんな人間と交流したかである。出会った人間とは、自らの生き方にインパクトや憧れ、影響を与えた人の意である。
生きていく上で、人に裏切られ、いじめられ、挫折し続けたなら、やはり人は死を選ぶだろう。でなければ犯罪者になっていただろう。人生の序幕において人生を完全に放棄しなかったのは、そんな人々との出会いがあったからである。そしてやはり今でもこう言いたい、「出会いこそ人生のすべて!」だと。
<名前は奇跡を呼ぶ>
・・・・・・私は、未だに自我理想を探し求めていた。
ある種の満足を得られても、肝心な自我理想が見えてこない苛立ちが、一挙に解決しようという焦りになって超越的世界にそれを求めてしまい、一過性の分裂病に罹患(りかん)した。そのときに付けた名前が「天桂秀明」だった。
しかしこの心の病いがきっかけで、私は精神の科学と出会ったのである。どうしても自分の身の裡(うち)に起きたことの真実が知りたくて、心理学書を読み漁っている途次に、フロイトに出会い精神分析を知った。その??から27年かかって漸(ようや)く私は私のその時生じた病理の病状の説明をすることができるようになった。私は初めて私自身を知った。そして人はこの真理に出会うまで「無知」であることも知った。無知のまま死ぬわけにはいかないと、私は私の無意識の中で叫んでいたのかもしれない。自分を知らずに死んでしまっては生きたことになrないと感じていた。生きるということは、何かに、すなわち真理に触れ、それが何かを言葉で語れるということだと私は知った。こうして私は永年求め続けてきたアイデンティティを「精神分析家・インテグレーター」であることに決めた。こうして私の成人前期は終わった。
生活のために仕事をし、家族を守り、家庭を維持し続けるのには相当なエネルギーを要し、自己について考える余裕は現実的に庶民生活レベルでは困難である。現在セラピーを生業として14年経つが・それなりに生活の余裕の無い人は、精神分析に出会うのは困難である。それは、分析者の数が絶対的に少ないのと経済的理由から、本当に限られた人々のみが、宝くじに当たるような確率で精神分析に出会っている。太平洋を漂流していて木片に出会うような確率でもある。私は精神分析に出会えたことを奇跡だと思っている。そして、素人分析家が十余年に亘(わた)ってセラピーし続けていることも奇跡である。研究所開設当時1992年は、日本において素人(大学の研究室や外国の精神分析家の資格も無い、無学歴、無資格、無教育)分析家がセラピーをするという前例がない処で始めたのである。クライエントは一人も現れないと思っていた。また、どのように人を集めたらいいのか全くノウ・ハウも無く、ただ私は分析者だと勝手に独り名乗っていただけだった。
それが、口コミで一人二人、三人、四人とクライエントが訪れるようになった。その連続が十余年の歴史を作った。日本で最初の素人分析家がここに誕生したのである。現在は日本カウンセラー協会とか、財団法人日本臨床心理士資格検定協会の催す資格試験に合格した者が、臨床を行っている。私は私自身が資格を決めた「自己規定」資格である。
審査に必要書類として60時間以上の研修証明をあるが、私に言わせれば、1000時間の臨床に臨床スーパービジョンの証明書が必要だと言いたい、分析者になるためには。
それはとまれ、私にとって資格が大事なのではなく、分析者の資格と能力、それに臨床経験は元より、人格、品格、教育と感性と情緒性が成人のそれとして有しているかどうかが、分析知識以上に大切であることを認識し、精神分析学を理論的に語れる人間のみが分析者だといいたい。ここでも私は体制や社会とは与(くみ)しないので、素人分析家である。しかし、私は分析家になる決意を、すなわち分析道としてその道(タオ)を極めていく者として、僭越ながら「道越羅漢」としてスタートした。この名前こそ奇跡を呼んだのである。
<女性における成人前期>
学童期18歳もしくは22歳までとして、それまでは男女の差は無く、自己同一性を目指して試行錯誤する。そして仕事に就く。技術追求や地位向上のために女性も努力する。そして研究者に、芸術家に、スポーツに、実業家・・政治家にと男性のそれと同様社会で活躍し、地位を確立する。しかし女性はそれだけで終わらない。子を産み、育てるという男には無い大事業がある。これは選択性であっても女性として生みたい欲望を止めることはできず、出産、育児と新たに事業が増える。ここでコースは分かれる。産むと産まないに分かれ、仕事をやめると続けるに分かれ、否応(いやおう)なしに女性は生活構造の変換を強いられる。
ライフサイクルは仕事と育児の並行構造になる。これは論じ難い二重構造である。前者は社会、後者は家庭という次元に違う世界の二つに身を置く女性と、家庭にしか身を置かない女性のライフスタイルは全く違ってくるし、自己同一性も全く異なるゆえに同一平面状で語れないのである。
だから別々に考えていく。
産むことを諦め、放棄した女性も、育児を他人任せに託して働きに出た女性も、これは女性、母を放棄、捨てたことを意味する。ということは男性のライフサイクルに入ってしまうことになる。
一方、産んで育児に専念することを選んだ女性は、真に母として女性として女性としての道を選んだことになる。これは、女性のライフサイクルといえる。この特徴は、女性になることを選んだということは、男性のようになりたいことを意味する。女の道を歩む決意によって社会ではなく、人類への奉仕を誓った女たちを、女性というのである。
<女性の欲望>
子を産み、母になろうとする女性の欲望はなんだろうか。男性のそれのように多用な形にならないで、いくつかにそれは集約できる。
1、まず「美」である。
2、そして次の欲望は「愛」である。
女性が男性に求める愛の形に限定して考えると、それは、子の父を確保するために必要な「信頼」の意味が愛といえる。そして自らも愛=信頼によって男(夫)に見捨てられることなく安心して生きられるという保障としての愛である。それにもうひとつ、この愛には男(夫)に必要不可欠な存在として意味づけられていることも含む。必要とされない女は捨てられる。男にとってどうしても必要とされていると思えること、それが女の愛だ。
3、三つ目の女性の欠如は「まなざし」である。女性はペニスがないために、「隠されたもの」への関心が高く、見えないものを見たがる欲望を持つ。それが視覚優位を作り、見るは「見られる」によって支えられているために、他者からの「まなざし」の欲求が強くなる。こうして女性は、見栄や外観にこだわり、本質という象徴界には余り興味を示さない。
4、そして四つめの欲望は「安心」である。女性が多く怖がりなのも「安全志向」が強いからである。これは子供を危険から守る必要があるために敏感になっているからである。・・・女性は子供のためになら、より愛と平和と幸福を志向するのである。
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3、中年期 Page.150
<中年期のテーマ>
・・・そこで中年期に入り、自分は余りに世俗的な戦いに精を出しすぎてきた、これからはもっと自分と闘う必要がある、と内省的になる。
そして私とは何かと問いかける。
「自分は本当に何が欲しいのか? 自分は自分についてどう感じるのか? 自分は将来どんな生き方をするのだろうか?」と自問するのである。
人生後半は自分とは何かと問いかけつつ、自己実現に向けて生きていく生活構造変換しなければならない時期なのである。
それまでに、前半生の課題を終わらせておかないと、一歩も前へ進めない。進めないどころか、そこでピリオドを打つことになる。・・・人の寿命は運命でも宿命でもなく、自らが決めていると私は考える。多くのクライエントの家族および周辺の人たちの死に様を聞いていると、そう結論付けられる。・・
寿命と生きる意味は一つの概念に含まれると私は考える。生きる意味とライフワークが寿命を決めるのだ。
その生きる意味を再度問いかける中年期は、実に貴重な年代なのである。
・・・「無」こそ男の生きるテーマである。だから愛も幸福も平和も関心がないといったのである。
<男に愛がテーマにない訳>
男に何故「愛」と「幸福」の概念がないかといえば、すべては性の非対象性にある。それは、男は最初に愛着を抱く対象が母であり、それは女性である。そしてそれは最初から異性愛である。しかし、女性は最初に愛着を感じた母は同姓であり、後に異性愛に移行する時には、この最初に愛着した母、すなわち同性愛を解消し、しかる後に異性愛に、父への愛にシフトし、そこから更に父以外の男性に愛着なり愛情を感じるという複雑な回路を通り、経路をたどっていかなければならない、手続きの煩雑さがある。これが、女性が口にする「男は単純でいいわね」の意味である。
男の場合、愛着も愛情も触れる身体イメージも、何ら変換することなく、母から新たな女性にオーバーラップさせればいいだけで、何の苦もなく母以外の女性に愛着を抱くことは実に容易である。何らの手続きも、経由もせずに、女性に行き着く。よほど母に飲み込まれていないかぎりは、母からのシフトが可能である。
このために、男性は「愛」とは何か?とか、愛情を持つにはどうしたらいいかも考えることなく、母の代理人としての女性に甘えれば、愛と幸福は一つのものとして体験できるのである、だから愛を求めることはしない。なぜなら最初からそれを持っているから。
<存在と無>
男が求める最終目標は「自由」である。
他者の承認を賞賛によって浮かび上がる自己の存在価値に身を委ねている限り、人はいつも存在論に脅かされながら、ビクビクして生きていかなければならない。それこそ囚人である、意味、価値の。いや奴隷といったほうがいいこもしれない。人の究極の存在論は「自由」である。
存在への問いは、自己への意味の問いかけに他ならないことが判った。人は意味なしには生きられないことも判った。だから人は存在の意味を持たせることを人生の始まりから主体とは関係なく、押し付けるのである。それが名前である。
・・・人は安全に平穏に暮らすことにそれほど困難はない。ニートはそれを実践している。
国家納税者に仕立て上げられた国民はそういう訳にいかず、働かねばならない。そうして働く意味づけをして、生きる目標を設定しなければならなくなる。それは子孫を残すだけの存在の動物と違って、多種多様な意味を創出してしまった人間は、生きるとは何かの意味から考えなければならなくなった。これこそ人間が背負った最大の悲劇である。
<悠久のときを生きる>
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4、老年期 Page.159
<人生の最終楽章>
<終わりの美学>
歴史的存在としての自己、有限な存在としての自己、区切られてしまう無力な自己ゆえに、永遠を志向するのである。歴史に名を残したいとの願い=欲望が生じる。こうして人は死して名を残すというのである。
<墓碑名>
名前が一つとは、一度きりの人生である。名前の数だけ人は人生を生きたことになる。私は5回生き、また6回目を生きようとして名前を準備している。それが私の進化を意味するのである、名前を変えるということが。
唯一度のライフサイクルを名前を変えながらその階段を上ってきた感がある。各時代の過渡期にあって、その都度自己改造し、その結果名前を新たにしてきた。その進化、成長こそ私のライフサイクルである。それを教えてくれた精神の科学=精神分析に出会えたことは、至上の幸福といわざるを得ない。
この仕合せを分け合うために、運命を変える名前の付け方を、次章で考えてみよう。
第五章 運命を変える名前を付ける 新たなる自己規定 Page.167
1、名前の意味を知る Page.167
<自己を知る>
運命を変えるためには、まず己を知ることである。自分は何を求め、それを何故求め、何処へ向かおうとしているのかの自己認識が必要である。そのためには、生まれ育った環境と現状を比較参照しながら分析する。
<家族>
両親の目指す欲望が明確か、否かでほぼ運命は決まる。それに家族のイメージをどう抱いているかが次の決め手になる。そして両親の性格とパーソナリティーの分析になる。
それはまた、両親の生い立ちに関わってくる。こうして世代は連鎖して今に至ることを知るのである。
症例)悪魔君
人は何のために生きていくのかを設立しない限り、生きていけないのである。そのために人がまずこの世でやるべきことは、己を知ることである。自分とは何かの問いに、しっかり答えることから始める必要が有る。では、どうしたら、自己を知ることができるのか。
<無意識の探求>
それは、自己の無意識を知ること、すなわち、無意識の意識化である。無意識の構造については、第1章の2と第2章で展開しているので、そこを再読いただきたい。ここでは、それを踏まえて、自己の無意識に気づく方法を述べたい。どうしたらそれに気づけるのか。
方法は二つである。
①自己分析する。
②精神分析(セラピー)を受ける。
①は、自分自身で自己を分析するのである。言わば自分で分析する者と分析される者に分裂して、心理学的知識と自分史を基に、己の人生を振り返り、純粋客観的に分析することである。詳しくは後に述べる。
②は、分析者の許(もと)で被分析者、すなわちクライエント(分析の依頼人)になって、分析してもらうことである。
自己分析の方法
(1)自我心理学の基礎知識を得る。
無意識に関する文献を読み漁る(フロイトの著作)
(2)自分史を書く
(3)性格を知る
(4)感情と感性
(5)無意識を知る
①夢日記をつける
②錯誤行為(しくじり、ミス、度忘れ、言い間違い)
③夢分析をする
フロイト著『夢分析』(上・下)新潮文庫
小川捷之著『夢分析』朝日出版社
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2、自己を受容する Page.185
自己分析に首尾よく成功したなら、次は、その無意識の言語化された内容を受け入れることである。この段階の困難と障害は、「抵抗」が生じることである。「抵抗」とは、それに気づきたくないという「抑圧」である。受け容れることへのまさに抵抗が生じるために、気づいたものの、その内容については拒絶し、排除し、無かった事にしてしまう心的機制のことである。
無意識は何処までも巧妙に己を隠蔽(いんぺい)しようと、あらゆる防衛を駆使してくる。それ故、受け容れる心的状況を作ることが難しいのである。
意識して、勇気を持ってそれを受け容れるとは、自己が変容することへの意味を積極的に見出していなければならない。ただ良くなればいいとか、変わりたいだけでは抑圧は解除されない。もっと積極的に意味づけとして、人間にとっての善は成長、進歩、向上することだとか、生まれ変わるのだという強い決意に似た意思の強さがそこにないと、とても受容はできない。
仮に、その決意があったとして、次に求められるのは、定着である。無意識は意識化し、言語化し、それを受容したなら、次にそれを心の裡(うち)に定着させなければならない。何度も何度も繰り返し、反芻(はんすう)する。それによって意識化に収まり、定着し、変容しダイナミックに人は変身するのである。
分析によって気付けるクライエントは幾らでもいるが、それを受け容れることの出来るクライエントは数少なく、限られる。それをみて、私はいつも人間の自己愛への傷つきの恐れの強さと、変容することへの頑固なまでの拒絶から、今の自己への固執を感じる。それほどまでにして、「人はそのまま」で居たいのか?と不思議に思う。いわば、変容する意味もない訳だから、それを求めなくても当然である。変容の必然性がある状況を分析家が把えても、本人がその必然性を認知しなければ、分析は無用である。
おそらくこの本を手にした人は、少なくとも成長や向上に対する憧れや意欲を持っている方々であろう。そうでなければ、ここまで読み進めることは出来ないはずだから。
<無意識の書き換え>
そうして受け容れられたら、その無意識だったものを、新しく書き換えるのである。これは*交流分析でいう「人生シナリオ」の書き換えである。
・・・こういったメッセージが*「人生シナリオ」となって無意識に潜在(せんざい)し、人の運命をコントロールするのだ。そのことを知ってどんなメッセージが刷り込まれているのか無意識下から喚起(かんき)し、書き換えるのである。
<実践へのワープ>
自己分析は、気付き→受容→定着→書き換えと進んできて、最終段階の実践へとやってきた。今まで続けてきた自己分析の総仕上げは、実践にある。実践なくして自己変容も運命の転換もありえない。当たり前だと思われるだろうが、判っていてもやれない、のが人間ではないだろうか。
<思考は物質化する>
ついに決断し、実践に身を投じれば、後は結果待ちである。この時点に至れば、結果はどうでもよくなる。実行できたことの満足感と達成感で、将来の不安も何もなかった。
この世の成功とは、意志と目的と目標を決定し、決断して実行するという唯それだけのことの証左でしかない。大事なのは、何を意志するかの方である。それは換言すれば、いかなる「欲望」を持つかである。即ちどんな「名前」を自らにつけるかである。
こうして第一章に戻るのである。
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3、名付けるとは運命を決めること Page.192
<名前の付け方>
<自我理想を描く>
<苗字の付け方>
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編集部 人生脚本:交流分析によれば、人は、とても幼い頃に、世界と自分の立場を理解しようとして、自分に対する人生の脚本を書く。その脚本は人生の中において改訂されるが、核となる話は一般的に7歳までに選ばれ決定され、大人になっても気づかないものである。(ウィキペディア)
香田証生さん拉致殺害事件
2004年10月 福岡県直方市の香田証生(24)さんが、ワーキングホリデー制度を利用してニュージーランドに渡り、そこから中東経由でイラクを訪れた。
10月26日、武装組織「イラク聖戦アルカイダ組織」と名乗るグループが香田さんを拉致したとウェブサイト上に映像付きの犯行声明を出した。48時間以内にイラク南部サマワから自衛隊を撤退させなければ殺害すると警告。しかし日本政府は要求を拒否。バグダッドで30日、首が切断された香田さんの遺体が見つかった。同組織は11月2日、ウェブ上で殺害時の映像を公開した。
この事件では、日本政府の対応や、紛争地域に立入る民間人の行動について議論が巻き起こり、「自己責任」「自分探し」という言葉が注目を集めた。
香田証生さんの名前「証生」は生:生きている、「証」:あかし、証明、と素直に解釈することが出来ます。香田証生さんの名前は「生きるための証を求めるため」両親が付けたのだという。それからわかるように、両親は敬虔なキリスト教徒であり、日本聖公会系の直方教会に所属するらしい。また、香田証生さんが拉致された際、マスコミのインタビューに対して。ご家族が「生きている証をみせて欲しい」と答えられていた。
しかし、結果は残念な事に、彼は生きる事の正反対の殺される「死ぬ」事によって、全世界に生きていた証をたてることになってしまいました。
この事件を通して、証生という名前は、*タナトスにより香田証生さん自身を危険な紛争地域に導き、武装組織に殺害させてしまったと言えます。
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タナトス:ギリシア神話に登場する、死そのものを神格化した神。ギリシア神話でのタナトスの役割からジークムント・フロイトでの攻撃や自己破壊に傾向する死の欲動を意味する用語。
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- メール
- rtkggo☆yahoo.co.jp
- サイト
- :田村精神療法研究所
- ブログ
- :田村所長からのメッセージ
- モバイル
- :田村精神療法研究所mobile
- QRCD
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- 東京都千代田区
- 竹田精神科学研究所
- インテグレーター 開聞真達(かいもんしんたつ)
- 住所
- 東京都千代田区神田小川町3―28―13―1103
- 埼玉県熊谷市籠原南1-57(埼玉研究所)
- メール
- fwkw5529☆mb.infoweb.ne.jp
- サイト
- :竹田精神科学研究所
- 神奈川県海老名市
- 東京精神療法研究所
- インテグレーター 立木歩実(たちきあゆみ)
- 住所
- 神奈川県海老名市門沢橋2ー20ー5
- メール
- tokyo.mtl☆gmail.com
- サイト
- :東京精神療法研究所
- ブログ
- :立木歩実のセラピー日記
- モバイル
- :東京精神療法研究所mobile
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- 備考
- 東京方面へ頻繁に出張しております
- 神奈川県足柄上郡
- 吉川精神療法研究所 湘南セラピールーム
- インテグレーター 岡本真見(おかもとまみ)
- 住所
- 神奈川県足柄上郡開成町延沢585
- サイト
- :吉川精神療法研究所 湘南セラピールーム
- 滋賀県大津市
- ラカン精神科学研究所
- インテグレーター 宣照真理(せんしょうまり)
- 住所
- 滋賀県大津市蓮池町13-6 コーポ唐崎103号室
- メール
- lacan.msl☆gmail.com
- サイト
- :ラカン精神科学研究所
- ミラー
- :ミラーサイト
- ブログ
- :ラカン精神科学研究所福岡支所
- サイト
- :スカイプでセラピー
- サイト
- :オールOK子育て法
- サイト
- :不登校・ひきこもりに悩む方々へ
- サイト
- :子どもの非行・家庭内暴力に悩む方々へ
- ブログ
- :宣照真理のセラピー日記
- ブログ
- :天海有輝のセラピー日記(旧ブログ)
- モバイル
- :ラカン精神科学研究所mobile
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- :

- 備考
- 京都府京都市に支所があります、月1回福岡県福岡市、大阪府大阪市にて出張セラピー実施中
- 兵庫県神戸市
- 金谷精神療法研究所(ラカン精神分析研究所)
- インテグレーター 真理攫取(しんりかくしゅ)
- 住所
- 神戸市北区松が枝町三丁目1-95
- サイト
- :金谷精神療法研究所(ラカン精神分析研究所)
- モバイル
- :携帯サイト
- 和歌山県和歌山市
- F-L精神科学研究所
- インテグレーター 話座眞智(わくらまち)
- 住所
- 和歌山県和歌山市栗248 キューブN-B-216
- メール
- yumeji772000☆yahoo.co.jp
- サイト
- :F-L精神科学研究所
- ブログ
- :言語化すること
- ブログ
- :F-L精神科学研究所
- 福岡県福岡市
- ラカン精神科学研究所福岡支所
- 月刊精神分析編集部
- 住所
- 福岡県福岡市東区箱崎5-11-3
- メール
- lacan.msl☆gmail.com
- サイト
- :ラカン精神科学研究所福岡支所
- サイト
- :精神分析用語辞典 for インテグレーター養成講座
- サイト
- :姪浜ドライビングスクールで大型自動二輪免許を取得せよ!
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