心的遺伝子論

1、はじめに、

編集部A 新年明けましておめでとうございます。月刊精神分析編集部Aです。今年は「寅年」です。世間的に言うと、寅年というのはあまり縁起のいい平和な年ではなく、どちらかと言うと猛虎のような波乱、動乱の年のようです。今年、平成22年(2010年)はどんな事が巻き起こるのでしょうか?

月刊精神分析2010年01月号の特集は「心的遺伝子論 精神分析的生み分け法」です。著:道越羅漢(みちおらかん:発刊当時の大沢先生の精神分析家名)氏。自費出版ですので残念ながらAmazonで検索しても出てきません。

本誌で丁度一年前「09年01月号 特集 運命は名前で決まる(著:惟能創理:いのうそうり:発刊当時の大沢先生の精神分析家名)」をWebマガジン版を発行しておりますが、書籍の発売順は「心的遺伝子論:2003年12月20日初版発行」「運命は名前で決まる:2008年11月20日初版発行」となっています。順番が入れ替わってしまってすみません。

実は私が、精神分析の世界に興味を持って初めて読んだ本がこの「心的遺伝子論」でした。

本のタイトルが「心的遺伝子論」副題「精神分析的生み分け法」ですので、一般の方が、この本を見た時の印象は、遺伝子(DNA)と精神(心)にどう言う関係があるのか?精神論で男女の生み分けが出来る筈がない。もし出来たらノーベル賞もんだ...と言われる方が殆どなのではないでしょうか?所謂、トンデモ本(とんでもない本)だと思われるかもしれません。

私も理系の大学を卒業し、コンピューターメーカーでソフト開発をして来た理論派でしたので、このタイトルを見た時に作者がこの命題にどうアプローチするのか不思議でしたし興味を持ちました。

実際に読んでみると「なるほど」と素直に読める展開、平易な文章、専門用語が出てくる頻度が少なく、一般的な教養を持っている大人なら普通に読んで理解出来る内容でした。

今月号のWebマガジン月刊精神分析は、この本をお読みでない方の為に本の内容をご紹介します。勿論、全文を掲載する事は出来ませんので、一部エッセンス的な紹介となります(項目名は全部掲載しました)。また、数多くの症例も掲載されているのですが、残念ながらこちらも紹介できません(一部例外を除く)。それでも、物量的には結構な量になりました(汗)。

本の内容は、生み分けに至るまでの話として、第一章 妊娠の意味第二章 生み分けられている第三章 心-女(アニマ)第四章 心-男(アニムス)。第五章 心と身体第六章 症例・「私はこうして生み分けた」。...と、人間の根源的要素...妊娠とは?女とは?男とは?そして心と体の関係、実際の生み分けの症例と深く掘り下げていきます。特に心理学的専門用語に精通していなくても読み進む事ができます。男女生む分けマニュアル本を期待した方より、精神分析的視点とはどんなものだろう?と興味を持たれた方の方が楽しめるかもしれません。平成22年(2010年)元旦 月刊精神分析 編集部A


宣照真理 その通り、この本を出版するにあたり、惟能創理氏(大沢先生)は単なる産み分けのhow-to本としてではなく、人間の精神、無意識のあり方・構造を一般の方も興味を持たれるように、理解できるようにという想いで書かれたと思います。
いかに人間の行動には、その奥深くにある無意識というものが関わっているかを教えられると思います。
その無意識の関わり方の一つとして、男女の産み分けも可能であるということです。

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2、プロフィール

アルトゥル・ショーペンハウアー
(Arthur Schopenhauer)
1788年2月22日- 1860年9月21日
ドイツの哲学者。
世界は自己の表象であり、世界の本質は生きんとする盲目の意志であるとした。
主著は『意志と表象としての世界』(Die Welt als Wille und Vorstellung 1819年)
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ジークムント・フロイト
(ドイツ:Sigmund Freud)
1856年5月6日 - 1939年9月23日
オーストリアの精神分析学者。
オーストリアの白人系ユダヤ教徒アシュケナジーの家庭に生まれた。
神経病理学者を経て精神科医となり、神経症研究、自由連想法、無意識研究、精神分析の創始を行い、さらに精神力動論を展開した。
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カール・グスタフ・ユング
(Carl Gustav Jung)
1875年7月26日 - 1961年6月6日)
スイスの精神科医・心理学者。深層心理について研究し、分析心理学(通称・ユング心理学)の理論を創始した。
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ジャック・ラカン
(Jacques-Marie-Émile Lacan)
フランスの構造主義、ポスト構造主義思想に影響力を持った精神分析家。
フロイトの精神分析学を構造主義的に発展させたパリ・フロイト派のリーダー役を荷った。
フロイトの大義派(仏:Ecole de la Cause freudienne)を立ち上げた。
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惟能創理(いのうそうり)
日本最初のインテグレーター(精神分析家)
1951(S.26)年 埼玉県熊谷市に生まれる。
1992(H.04)年 大沢精神科学研究所設立。
1992(H.04)年 道越羅漢(みちおらかん)となのる。
2008(H.20)年 LAKAN精神科学研究所に名称を改める。
2008(H.20)年 惟能創理(いのうそうり)に改名する。
著書:心的遺伝子論(2003年12月)/運命は名前で決まる(2008年11月)
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宣照真理(せんしょうまり)
精神分析家。ラカン精神科学研究所(滋賀県大津市)主宰。1958(S.33)年4月22日生まれ。
出身:滋賀県大津市。二女の母。
神戸親和女子大学児童教育学科(兵庫県神戸市)卒業。
会社勤務の後、結婚し専業主婦になる。
二女の子育てに悩み惟能創理先生の精神分析治療を受ける。
インテグレーター(精神分析家)養成講座を受講の後、独立開業。
現在、新進気鋭の分析家として、引きこもり不登校の子供を持つ母親を全力で支援している。
同研究所は「京都府ひきこもり支援情報ポータルサイト」の支援団体として登録。
連絡先:lacan.msl☆gmail.com(☆を@に変えてメール送信願います。スパム対策)
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編集部A(へんしゅうぶえー)
月刊精神分析(げっかんせいしんぶんせき)編集部員。
1963(S.38)年3月12日生まれ
出身:福岡県福岡市。
コンピューター会社のシステムエンジニア。食品工場の生産管理業務に従事。
飲食店の経営を経た後、月刊精神分析編集部。
ひょんな切っ掛けから「精神分析」の世界を知り、約三年半色々な書籍を読み漁る。
「月刊精神分析」の編集に関わりながら、惟能創理先生のセラピーを受けている。
lacan.msl☆gmail.com(☆を@に変えてメール送信願います。スパム対策)

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3、本の「はじめに」

編集部A 「はじめに」の中で著者の道越羅漢氏はこう記している。

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私は、精神分析療法のなかで、夫婦から生まれてくる子の性は予測できていた。それは結婚前からでも可能であったし、事実はずれることなかった。...略。しかし、そこにM氏が「私、どうしても女の子が欲しいんです。医者は不整脈もあり、もう産むのは無理だというんですが、どうしても女の子が産みたいんです」と言った。...略。そんな彼女の必死の訴えから、産み分け方臨床実験が始まった。

男と女の生み分け方とは、決してHOW TOものではなく、何処か解釈としての余地を持った不充分な理論体系ではあるが、この書を通して人間の精神とは? その精神(こころ)と体の相関関係について何らかの考えをめぐらし、そこに生命とは何かの答えを自分なりに見つけ出すことの一助になればと思い、執筆したものである。
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編集部A 簡単に言えば「精神分析療法」的観点から、産まれて来る子どもの性は予測できた。で、今度は「精神分析療法」を応用して「男女産み分け方臨床実験」を行ったと氏は言っています。...逆もまた真なりで、理論的には理解できるのですが、世間一般の常識では「性の決定」は...

男の染色体(XY)女の染色体(XX)で決定される。男性の精子(染色体はXかY)女性の卵子(染色体はXのみ)。従って「精子と卵子の受精時にYの染色体の精子が卵子と受精すれは男の子が誕生」「Xの染色体の精子が卵子と受精すれは女の子が誕生」すると言う事になっています。

また、ネット上で「男女産み分」を検索すると「ピンクゼリー」「リンカル錠」「男の子なら、深く、濃厚なHを」「遠心分離器」「パーコール法」「食事とpH」...など色々な情報が出てきます。それらは詰まる所...Yの染色体の精子とXの染色体の精子の違いを応用したものであります。また、100%確実な方法が有ったとしても、それは倫理的に問題がある...つまり「男女を決めるのは神の領域」である...という観点から人が意図的に生まれて来る子どもの性を決定する事はできない。...と言うのが結論の様です。

...とすれば、精神分析療法つまり「人の心」から「性の決定」にアプローチしようとする本著の試みは超画期的な試みと言っていいでしょう。はたして、そんな事ができるのか?人とは?男とは?女とは?何なのか...

さぁわくわくしながら読み進めて行きましょう。

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4、第一章 妊娠の意味

子を生すとは

編集部A まず、本著では、男女産み分け以前に、妊娠の意味について問います。意識上は不妊(欲しいと思っているのにも拘わらず赤ちゃんが出来ない)と思っている女性。ところが分析者が精神分析療法をすると、実はクライアント(女性)自身が精神的に避妊(実は、女性本人の無意識は赤ちゃんが欲しくない)している事実に突き当たる。...つまり不妊ではなく、精神的避妊をしているので不妊状態に陥ってるという解釈を綴っています。

初診において、不妊の原因が肉体的な器質障害にないと判っている場合、心的要因が考えられると分析していくと、その多くは妊娠したくない無意識に行き当たる。それは、女性(妻)の側に多く見つけられる。...略。これらの事から、妊娠は意図的に回避されていたのである。(中略)とまれ、私の診断どおり、彼女は不妊を選んだのだった。

編集部A これも逆に言えば、女性の無意識を不妊状態から開放すれば、妊娠出来る事になる。理論的は精神分析療法は不妊治療にも使える事になるります。ご夫婦ともに健康であるのにも拘わらず、大変な不妊治療を受けておられる方も多いとききます。精神分析療法を受けてみてはいかがでしょうか?

意地で産む

妊娠の条件(抜粋)

1、身体が正常であること
2、心的整え
 母体自身の産みたいという意思
 (意識化されているものと、そうでない無意識的意思と二つある)
3、外的整え
 子どもを持つことに同意する夫(男)
 母体を取り巻く、家族や地域、社会福祉の支援...が必要

妊娠したいという意思の源泉

1、母子関係のやり直し。もう一度理想の自己として生まれ変わりたいと言う欲求。
  (同性の子を欲望する)
2、自分とは何か?の問いを持ったとき、強く自己探求の欲求を持つ。

(1)は、自分はどんなふうに子供時代を送り、どんなふうに見られていたのか、母のまなざしの許で。と思ったときに同性の子を欲しくなる。記憶にない乳幼児期をどんなふうに過ごしたのかは記憶になく、人間の歴史的存在としての空白部分なのである。それは埋めるには、出産から育てるという行為を通してしか歴史再構成できないのである。その空白の自分史を埋め、尚且つ、自分は母親から見てどんな存在として映っていたのか、自分が母になって子を眺めるまなざしの中にそれを発見しようとする試みなのである。そのまなざしの重なりにおいて自分という存在の価値を、母に聞かなくとも自らで知ることが出来るのである。そうして自らが理想の母になり、理想の子を育てるという母子関係のやり直しの試みでもある。

今の自分が嫌で、死にたいけど、どうにも死ねず、さりとて変われず、途方に暮れた時、可能性としての子を想像するのである。生まれてくる子にはそれだけで無限の可能性を秘めている。そう見えるのである。まだ何も始まっていない、これからという白紙のイメージが、その親にして自らの理想を投影せしめるのである。子供はかくして親の思いどおり動かされ、操られ、支配されてしまう。理想の自己として仕立て上げようとする親は、挫折の度に、今度こそ、今度こそと次々子を生んでいく。(1)の事例の典型といえるものがある。

地方都市に住むN子、37歳主婦、結婚17年経ち三女をもうけた。夫は会社員、40歳。 N子の両親は店を営み、共働きでN子と姉それに二人の兄の四人を育てた。末っ子のN子は父が40過ぎの娘で、特に可愛がり、母もこれが最後の子育てと、あれこれ手をかけ、他の姉兄たちより習い事を多くさせた。その中に日本舞踊があった。

N子の養育史に際立ったものはなく、平凡なそれだった。セラピィーの動機は長女の不登校である。中三の春から学校へ行かなくなり、困った母は来訪した。夫には内緒で相談に来た。それは、夫の両親と同居していることが一因していた。結局夫の口から姑に子育てについて報告され、それについて反対されると予想してのことだった。

セラピィーで判ったことは、長女は単に学校嫌い、勉強嫌いで友達と遊びたかったことだけということ。学校へは行かないが、よく友達とは遊び歩き、時々家に帰って来ないこともあった。単にわがままで自由な娘ということだった。

それは、母が娘に投影して育てた「理想自我」の結果なのである。理想自我とは、可能性としての自我のことで、N子は両親の溺愛とまでは言えないがそれに近い可愛がられ方から、それを束縛と受け取り、自由がなかったのである。無意識のうちにN子は「こうであったらよかったのに」という無意識的言語に沿った型で娘に接していたのである。それが、娘に自由を与え過ぎ、わがままな子にしてしまったのである。娘は母の欲望を我が欲望として生きていくのである。

こうして母は子供の姿を通して我が欲望を実現しようとするのである。そのためのいわば、言葉は不適切かも知れないが、道具としてしまう。その道具が思いどおりに動かないと、母親は自分は馬鹿にされたとか、私には育てる能力がないのではという無力感に襲われたりする。前者は虐待の原因となり、後者は育児ノイローゼや自殺へと至る要因となる。もし仮に子供が思いどおりに育ったなら、それは自慢の子となり自己愛を満足させ、母は至福のときを迎える。しかし、子供は母の侃侭だった事に後に気づき、いつか母を落胆・失望させることが多々ある。

母が子に何を投影しているかが色濃く感じられる場合が(2)になる。

母の理想

育て直し

自己への問い

自己探求

母は自分をどう見ていたのかを、自分が赤ん坊を見つめるまなざしの中に探し出そうとする試みが、出産と育児という事になる。

授かりものと言う意味

子どもが欲しい、でもそれは天(神)からの授かりもの、という考え方を分析してみたい。...また「コウノトが運んでくる」といったお伽話の世界の事でもない。だれも本当にコウノトリが運んでくるとは思っている訳ではないことは百も承知しつつ、人はなぜかそれを口にするのか。それは妊娠の決定を自分たち以外の他社に委ねることで、妊娠という行為の場から逃避しているのである。

五体満足であればいい

あくまでこれは仮説の域をでないが、身体に先天的障害を持つ可能性としていくつか考えられる。
1、妊娠中の強烈なストレス
2、セルフイメージとしての身体者像を具体化する場合。

五体満足という言葉に秘められた母体の意識とは、自らの、ラカンの言うところの、バラバラの「寸断された身体イメージ」が前提となる。人は誰も鏡像段階を経るまではこのイメージを持ち、鏡像に接して初めて自己の統一された全身像を持つのである。この全体としての自己像を意識の中にも設立する事が肝要である。この内的自己イメージは、鏡像としての他者のまなざしが必要なのである。自己を素描する他者の言葉は、一挙に我が身を映し出す鏡の役割を果す。その他者の自己自身についての語りこそ、「私」という全体の一つのまとまりとして統一され、連続した恒常的自己イメージを成立させるのである。それは一貫した他者の語らいでなければならない。...中略。ここに、一貫してまなざしを持ち、語り続ける養育者の存在が大きくクローズアップされる。その人こそその子を産んだ母にほかならない。この産んだ人と養育者の一致した状況こそ、赤ん坊にとって最良の環境といえる。...後略。

編集部A この部分は、ラカンの精神分析理論の根幹をなす部分であり、難しい表現を使われていますが、人の精神発達論の母子関係の有り方を説く重要な部分だと思われます。
宣照真理 人は自分の全体像を自分の肉眼で見ることができません。それは鏡に自分の全身を映して見るしかないのです。鏡はバラバラだった自分の身体像を一機につなげて見せてくれます。 後にこの鏡の役割は他者が担います。 私は恥ずかしいことに、スカートの後ろのファスナーを開けっ放しで歩いていて、「ファスナー開いてますよ」と言われたことがあります。これは自分の全体像が見えないために、私はまさかファスナーを開けたまま歩いているとは知らずに居たのですが、他者が私を見て教えてくれたのです。 このように他者は鏡のように、私には見えない私の知らない自分を教えてくれます。 まだ未熟な子どもは、自分を見続ける母のまなざしの下で自我が構成されていくといっても過言ではありません。他者はそのときの私を見て「良いとか悪いとか、合ってる間違っている」等と語ります。それは私のある一時の私であり自我です。しかし生まれたときからの付き合いである母は私を見続け、その時間は誰よりも多いはずです。その母のまなざしは大きな意味を持ちます。

どっちでもいい

どっちでもいいとは、子どもが欲しいのであって、性の選択はそこにはないことを物語っていることになる。それはどういう意味かといえば、性同一性障害を表すのである。人には二つの性がある。一つは生物学的男女差としてのSEXと、らしさとしてのGENDERとがある。性倒錯は、人間の性はこのGENDERの獲得によって決まるものであることを教えている。本能的・生来的であるなら、性倒錯などDNA異常以外に起こりえないことになるからだ。しかし、現実に性倒錯は起きている。性の選択はなされなくても人は人間として生きていける。生物学的性差を社会の常識にのっとていれば、人は結婚し妊娠し、子どもを産んで家庭を築く。その役割も意識を考えることなく、子どもを大きく育てることはできる。...中略。

ここでは、人間の心の養育に深く養育者の「知」が関わっていることだけを言っておきたい。その最初が、この生み分けなのである。どちらの性を選択するかをはっきりと意識化してあるということは、人間についての深い知を持っていることにほかならないのである。だから、どっちでもいいでは、生まれくる子に対して無責任極まりないことになる。

性が選択されているということは、母はその性についての役割やらしさとの認識を持ち、父もその性に対してどうすべきか知っているから、適切に対処し、育てることができる。女の子の場合、父のとるべき態度はどうあるべきなのかを知っているとは、娘のエディプス(ペニス願望)を尊敬されることと、倫理性と理性、及び言語をしっかり持っていることを要求されていると知り、情緒的には妻(その娘の母)をしっかり愛してることを見せつけることで、子供時代を終わらせると知っているということなのである。

フロイトのリビドー論はここでは詳述を省くが、男とは、女とは何かの問いにしっかりとした答えを持たない親に生み分けはできないのである。

編集部A 現代社会は、男女の性差が希薄な世の中になったと思っいたのですが、精神分析の世界では、男女の役割において、ゆるぎない性差があるようです。著者が明確に語られている通り、そもそも男とは何か?女とは何か?がわかってないと男女生み分けもないわけで、現在の社会通念自体が、おかしな状況にあるといわざるを得ません。

流産

生きる意志

前略...。この生きようとする持続性・持続力が妊娠中の母体に最も求めらる。まさに24時間母は生きようと思い続け、胎児を意識し、心の中で呼びかけ、対話し続けているからこそ保持されるのである。ところが流産してしまう母は、胎児と臍の緒で繋がっていても、心の何処かで切れているのである。何処か心の緒か、即ち「絆」の意識に欠けるところがあるのではないだろうか。心の絆を形成できなかったとしたなら、それは、その母体とその生母の間に「信頼」が形成されなかったということである。信頼は待ち続けたり、期待し続けたり、語り続け、見守り続けることのできる心の源泉にあるものだ。これなくして人は心を持ったと言えないのである。これは、エリクソンを始め、多くの児童心理学者や発達心理学者が口をそろえて言う言葉である。

信頼するとは、「信頼するに足る対象イメージ」と「信頼される自己イメージ」と「信頼する自己イメージ」とが三位一体となっている構造をいう。

他者を信じ自己を信じる揺るぎない恒常的対象イメージと自己イメージこそ、持続力を生む。妊娠するとは十月十日生命生成のダイナミズムを維持し続けるにほかならないから、何よりこの持続性が基本となる。ここにも寸断された身体イメージが忍び込んでくる。

人は数多くの難関を突破してこの世界に生まれ出てくるのである。精子と卵子の出会う偶然の確率から始まり、母体の持続力、外的環境の安全性、母体の情緒的安定性、母体の無意識の危機の回避等々のハードルを越えないと誕生に至らないのである。いつ流産の危機を迎えても不思議ないくらいである。

不妊

前略...。「それは、理由は判らないけど、私のした事が子供によって明るみにでてしまうと確信していたので。絶対に産んではいけないと決めていたのです」と彼女は言った。そうして、その言葉どうり、彼女は産まなかった。その決意は夫には勿論話してないため、彼女独りの確信犯ということになる。夫が不妊に協力した訳では決してなく、彼女独りの考えで二十数年間そうして妊娠を逸してしてきたのである。その意思の堅さに驚いた。人はこうして、妊娠に限らず、こうと決めたことはよい事であれ、悪いことであれ、実現するのだと知った。これを理論的に言えば「暗示」である。潜在意識への刷り込み(インプリンティング)ということになる。
意識的であれ、無意識的であれ、不妊は母体が決めたことであるということが判った。

身軽がいい

前略...。自分と同じ悲しみを味わう子を作りたくなかった。それがB子の良心であり、賢明さだったのである。
母性という世話と愛情を受けずに育った子供は、わが子からそれを求められると苦痛になるのである。そうするとその苦痛を悟られまいとして溺愛するか、その反対に拒絶し虐待するかのいずれかの極端な対応しか取れなくなるのである。又は、甘えてくる子に対して何かを搾取してくる迫害者のように見えてしまい、子育てに葛藤が生じてしまう。
B子はこのことを暗々裏のうちに知っていたのである。だから妊娠しなかったのである、彼女は自分に何が欠けているか、何を求めているか知っていた。そしてそれはもう、この世では永遠に手に入らないものであることも知っていたのである。何故なら、もう母に子供の自分として愛されることは大人になってしまった今、不可能であるから。彼女にとってこうして現実界は不可能の場として理解されることになった。

夫婦共謀

夫婦とは共謀論によれば4パターンある。その一つに自己愛共謀夫婦がある。このカップルには、「一体化が愛」のテーマをもって結び付いている。常に互いは一体であるということを求め、確認して生きていく。片時も相手と違った存在であることを排除し続け、生きていく。前述のB子は夫は単身赴任がちで、別居も多く、決して一体であろうと常に考えている訳ではない。一体化を求め続ける余り、第三者の介入を許せない。たとえわが子であろうとも。このカップルは二人で一人。そして他者は二人にとって乱入者でしかない。二人の結び付きは、共通の好み、趣味、価値観、思想等々で型づくられ、第三者の介入など全く付け入る余地などない構造となっている。このカップルにとって子供など最初から考えられないのである。そして、二人の愛は完璧である。「この世で愛せるのはあまえ一人だ。今度生まれ変わっても君を愛し、結婚する」といい、どちらかが先に他界すると、もう一方が一年以内に後を追うように他界する。近年自殺した作家のE氏など、その典型例である。奥さんが亡くなり、大学時代から彼女しか愛したことのないE氏は、独り残された淋しささか自殺した。勿論二人の間に子供は無かった。後略...。

編集部A 作家のE氏とは...江藤 淳(えとう じゅん、1932年12月25日 - 1999年7月21日)は夏目漱石の研究などで著名な日本の文学評論家。本名は江頭淳夫(えがしら あつお)。...の事と思われます。興味があったらGoogleで検索してみて下さい。

多産

出産する子供の数にはどんな意味があるのか?
一人っ子の場合、生んでみたかったという経験主義的なものと、一人生んでおかなければという義務感から、そして子育ての自らの限界と自己愛に生きたいと思った夫婦間において、第二子は断念された結果だといえる。人間としての最低の義務を全うしなければという意味から生むのである。
そして二人目の出産動機は、独りっ子では寂しいから、大人になって相談相手がいないと可哀想だからといったものが主で、なんとなく二人目を出産する。
三人目はなんとなく生む。第一子は、両親の思い入れと意思も明確で、それなりの受け入れ体制の許生まれてくる。その結果、親や祖父母の思いや無意識が投影され、子供の主体性が奪われるケースが多い。次いで第二子は、その思いを入れすぎた反省から、正反対の、すなわち反動形成的正確で子供に接する。その結果、第一子とは正反対の性格を持った人間として育つ。どちらにしても親のコンプレックスの投影でしかない養育史を送ることになる。そうして、第三子は親の無意識の投影がなされた後の中立的な心の両親の許に生まれてくることになる。もっとも個性を伸ばし、人間らしく、自分らしく生きられるケースが多い。しかし、この子が最後の子だと見放されてしまった場合は、親の投影を受けてしまう。...中略。
では、四子以降はどうなるのであろうか?
まず一つは、子供は夫婦葛藤の産物である。夫婦共謀には4つの型があるといったが、どちらが支配者になるかの権力争いをする夫婦において、葛藤が高まり過ぎて頂点に達する寸前で妊娠する。出産と子育てによって、一時夫婦葛藤は棚上げされる。この構造しか二人の平和はつくれないのである。...中略。そんな二人の危険な関係を無意識のうちに感じ取っている夫婦は、よく妊娠する。
もう一つの多産タイプは、分離不安からのものである。母体が分離不安が強いと、子供が自分の手を離れ、独りで遊びだす一歳半から二歳を過ぎたころになると、子供に見捨てられたように感じて不安になる。その不安を解消するために、自分に全面的に頼りきりになる赤ん坊が欲しくなるのである。...後略。

宣照真理 母親に世話でき育てられる子どもの人数は限りがあると思います。多産で中には10人近くも産む人がいますが、多くの兄弟の中でもまれ、助け合いそれはそれでいいのではないかと言う人がいますがそうではありません。そうなると母親一人では手に負えず、上の子が下に生まれた子の面倒をみることになります。いくら兄弟でも母親の代わりは出来ませんから欠損するだけです。

その他の妊娠の意味

これは、結婚と離婚を繰り返しながら、一人一人産んでいく母である。この母は、子供が欲しいだけで、夫は要らないと言う。好きになるとその男の子供が欲しいとすぐ思う。そうして妊娠し、結婚・出産する。ほどなく別れる。理由は何でもいい、なんとなく離婚に至る。そうして間もなく次の男を見つけ妊娠・結婚・出産をし、また別れる。こうして三人の子をもうけ、四人目の男と結婚しようとしている女性がいる。この種の女性がそう多くいる訳ではないが、この例は、女性が子供を欲しがる一つのタイプであることには間違いない。
この分析はこうである。無意識に「父の子が生みたい」がある。しかし、実際はそうではないから、すぐに男を諦めてしまい、本当の私の夫がいるはずだと見切り、次を探す。しかしいつも幻滅し、期待は裏切られ、永遠の理想の男を求めていくのである。
または。父への復讐という分析もある。この場合は、未婚の母になることである。結婚という社会形態をとらず、社会通念的に認知されない私生児を生み、育てていくという形をとる女性は、父への復讐をしていることになる。社会に認められない生き方と十字架を背負った子供と共に生きていく辛さこそ、父を責めている姿なのである。

幼な妻

十代にして結婚し、妊娠するのは、一般的にその子の両親も十代でその子を生んでいる。そうでない場合は、理想的家庭を求める子は結婚が早い。早期に我が家庭に温もりも安らぎもないと知ってしまった子供は、一日も早く理想のわが家をつくろうと焦る。高校生で結婚をしてしまう場合もある。結婚パートナーは同年代が多く、このケースでは破局が多い。単純にいって社会人としての未成熟さから、生活が支えられないことが多いため。それに、精神的未熟さも二人の関係を維持できない。子供を育てる精神的、経済的余裕に欠ける。等々の理由によっては局に至るケースが多く、子供が犠牲者として残る。...後略。

(第一章のまとめ)

妊娠は意図されたものであるというのが、わたしの結論である、意図は意味を持ち、何かを表現しているのである。人が生きるとは、常に自己を顕しつつ生きていくということである。自己を顕すとは、自己実現していくことである。私が私を未来に向かって投企し創造していくことである。妊娠も自己表現の一つである。それが何の意図もなく行われるはずがない。
私が何者か人は常に問いかけ続け、その答えを求めている。私が存在しているのかどうか、他者のまなざしと承認の許に位置づけようとする。私が私自身によって何者か規定できれば一番簡単なのだが、人は自己自身を語る言葉を持っていない。何故なら、語るとは、語る自己と語られる自分の分裂を意味し、語った瞬間、主体は抹殺されて二つに分裂してしまうからである。車体は自らを語れないのである。これを自己言及の不可能性という。
自己存在を支えているのは意味すなわち言語である。意味は意味されるものと意味する(意味を生成する作用)言葉によって成立する。子を生かすということが万人に共通した意味をもっている訳ではない。十人十色の意味付けがなされ、養育されるのである。ある人にとってはそれは、生まれ変わりであり、愛着の対象であったり、自慢の種であったり、厄介なものであったり期待されるものであったり様々である。

その精神的背景を許に子供は作られる。ならばその性も大事な要素であり、生み分けられていると考えられる。その生み分けは母体の意思と夫との関係、すなわち精神的力動が関与しているというのが、私の見解である。それを第二章で展開したい。

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5、第二章 生み分けられている

編集部A この章では、氏の精神分析療法の見地から、男女の生み分けの実際を説いています。女が生まれるわけ、そして男が生まれるわけ...を解説していきます。こうやって生む性も決定されているのです。

●1、生み分けの素因(ファクター)

第1の素因 心的エネルギー(無意識)
第2の素因 優位性 夫婦関係の力関係、すなわち事柄の決定における優位や主導権・発言力・計画性・家計のやり繰り等の総合的主導権をどちらが握っているかという生活上の優位性
第3の素因 「らしさ」の優位性 男らしさ、女らしさをどちらが強く獲得し、発揮しているかという強さと確立の度合い。
第4の素因 これらの組み合わせによる力関係の分布。1から3までの素因の組み合わせによって、その夫婦の相対性による性差の優位の決定がなされる。

優位性 

夫婦生活で優位性が最も端的に表れるのが、財布の紐をどちらが握っているかということである。...後略。

平易に言えば尻に敷かれている夫との間に男の子は生まれない。
1、気力・体力で妻に負けている夫
1、惚れたが負け
1、操られている夫
1、甘えん坊の夫

夫が優位に立つ場合
1、惚れられた夫
1、頼られ切っている夫

性差の誕生

性とは何か。生物学的性差は「性別役割」と言われて、そもそも肉体に必然に付随したものである。これは客観的性差である。人間にはもう一つ性差がある。それは「性役割」といわれる。生物学的性差に基づいて社会的、文化的に要請されるパーソナリティ性のことである。言わば主観的性差である。そこで、性別役割と性役割を合わせて要約し、表現すれば次の三つになる。

(1)性別役割は生物学的性差に付随するものであるのに対し、性役割は、生物学的性差を基準とするが、その必然的産物ではない。
(2)性役割は、性別役割に何らかの価値づけが介入したものである。
(3)性役割は、人間が生後の環境の中で学習していくものである。
*「性差の発達心理」(大日本図書)より引用

...前略。(1)を換言すれば、人は生得的なものより、後天的に学習によって得たものの方がはるかに多いのである。人はすべてを知って生まれてくるのではなく、何も知らずに生まれてくるのである。養育者や社会の環境によって人の心は形成される。狼少年の話がそれを一等よく物語っているであろう。
(2)は、「女だから」「男だから」といって、意味付けされた概念・言語のことである。女の子だからそうしてはいけません、というところの女の子という定義は、生物学的性役割から派生したものである。
(3)は、(2)を環境の中で強化、学習して内在化させたということである。言わば、そう思い込ませた「らしさ」の幻想である。公衆浴場や公衆トイレには必ず男女別になっているが、家庭内ではそれは少ない。社会は男と女を至る所で峻別する。常に性差を意識させるような配慮がなされている。学校教育もそうだし、つい最近までは職業にもそれがあった。

性役割

ここで問題になるのは、性役割の概念である。これは、三つの側面から考えなければならない。「性差の発達心理」によれば、「性役割パーソナリティー」「性役割観」「性役割受容性」としている。

「性役割パーソナリティー」性役割行動のことで、身体的、外見的特性からくる遊び・社会的行動・興味・態度のことを指している。例えば、女の子は人形遊びに興味を持ち、ままごとをしたりする。一方男の子は乗り物や機械物のおもちゃに興味を持ち、冒険的遊びをする。といった風に、男女差における行動の違いが生じることを現象的に把えた定義である。

「性役割観」は、社会から期待されるいい意味での性役割に含まれない、個人の評価、価値、価値観の事である。自らが価値づける男と女の概念である。

「性役割受容性」とは、性役割と性役割観をどれだけ自らがそれを受け容れ、同一化し得ているかという測度のことである。...中略。

人間は意味において存在する。その意味は言語、言葉によって構造化され、意味付けられるからである。その意味生成作用をシニフィアンと言った。ラカンの視点からすれば、人はシニフィアンによって存在していることになる。そうして、このフィニシアンこそ精神の病をもつくるとみなせる。

その証左に、女の子として育てられた男の子は、社会的性役割を後に与えられても、切り替えられないといわれている。幼年期から女の子の服を着せられて可愛がられていた男性クライアントは、成人してインポテンツに陥った症例がある。人には、見ることのできる性とみなない性の二つがある。これが性転換への倒錯を引き起こす。

宣照真理 生物学的には男性として生まれたが、心は女性になりたくて性転換手術も考えていたクライアントに出会いました。彼の母親は、彼が女性の格好をして女性として振る舞うことを喜んでいると言います。母の欲望を彼は生きているように思いました。

男らしさ

性の決定にはイメージの明確さが大事な要素となる、男にしろ、女にしろ、その性を明確に意識化しているかどうかである。

まず、「男」の意識を概念化しなければならない。概念化とは言語化に他ならない。男という概念をどこから持ち出せばいいのか?それは父である。父以外に子供のみる男は居ない。その父が男を物語る訳である。男らしさとは、父の振る舞いと言えばいい。

女らしさ

女らしさの概念の期限は、男らしさ同様母に求められるであろう。母は女であるから、母の生活態度、すなわち家庭内での夫婦関係と家庭の役割を通じて、子は女らしさを学ぶ。
女らしさを積極的に象徴するものは何もない。唯一出産という機能の性差があるだけで、概念として女らしさを定義し象徴する何ものもない。
では、何が性差をつくるのか。それは個のパーソナリティではなく、夫婦の間における相対的な差異が性差をもたらすのである。その性差の差異こそ女らしさ、男らしさの言語になるはずである。後略...。

組み合わせ

前略。夫婦の優位性も、その時代や家庭内事情、夫の浮沈によって優位性は変動するのである。一定不変な関係は無く、その都度状況は変化し、人の心も変わる。しかし、そんな外的要因に変化を被らない、内的に頑固な心的体制を保持した夫婦の間では、性は単一化してしまう。これは、夫婦関係の硬直を物語るものである。

一姫二太郎

前略。この一姫二太郎の順序に、分析は、夫は妻をいたわり、妻は夫を立てるという夫婦愛の成長と理想が語られているとみる。日本人は夫婦の愛を正面から語らず、何と奥ゆかしくも子供の性でそれを語ったのである。日本人の美学の一つかもしれない。
因みにもう二つに本のことわざで、精神発達論と重なるものがある。それは、「三つ子の魂百まで」と「男女七歳にして席を同じゅうせず」である。前者は精神発達の基本は三歳でほぼ確立するということ、後者はエディプス期の終了と共に性的同一性は確立して男と女の性差が社会的にも認知されるということを語っている。ここにも日本人の生活から学んだ精神の科学があったのだ。

●2、女の子を生む

優位性

女の子の生み方で、まず妻の立場が優位であることを基準に考えてみる。


言ってみれば、生活の主導権を妻が握っている場合、夫が何であれそれに服従している限り、女の子ができる。物事の判断や決断、家のことなど妻が取り仕切っている限り、夫は任せっきりということで、その主体性を失い、妻が優位に立つ。...後略。

優位性と女らしさ

妻が優位性を保ちつつ、さらに女性性を有していたなら、確実に女の子ができる。その場合、たとえ夫が男らしい振る舞いや権威を奪っているように見えても実質的に家計や家庭の決定権を握っているのが妻である限り、女性性の優位となってしまう。あまつさえ、妻が女らしさをもっていることは性における優位を物語り、男性よりも女性の価値が勝っていると考えていることになる。...後略。

男性的な妻と女性的な夫

この組み合わせも女の子ができる。
前略。これが俗に言われるマザコンの夫である。心理学的に正しくは、エディプスコンプレックスが解消されていないという。母に飲み込まれ、主体性を失い、母に従属した夫なのである。後略...。

女性性の妻対男性性の夫

らしさとして同格の場合は、DNAがそうであるように女性性が優先する。生物は皆雌として生まれ、細胞のプログラム死への逆らいによって雄へと変わっていくのである。であるなら、まず人間において優位性も性差も無ければ女性性が生まれることになる。...後略。

<事例(1)-C子の場合> 省略
<事例(2)-E子の場合> 省略
<事例(3)-F子の場合> 省略

事例(1)、(2)、(3)の彼女たちが女の子を生す総ての条件やケースを表している訳ではないが、ある種の典型といえるのではないかと思う。臨床を通してそう思うのである。人は、子どもの養育を通して、否が応でも養育されてきたことや、その時々の思いを再現してしまうのである。その子を一人の人間として、すなわち自分と違う個性と能力を持ち合わせた人間として見つめることの困難さに出会う。人は子どもに「名前」を付けたときから、もう個としての視点を失っているのである。自分なり、家族なりの人の名前の一字を取って付けたなどの例は、一族としての烙印を押したことに他ならず、個としての人生は自ずと制約される。運命と言われるのはこのためである。産まれてすぐに定められるのが人間の在り方で、自らが運命を定められない構造が、この名付けるという機能に含まれている。ああ、人間とは何と悲しい存在なのだろう。自分の運命を自分で決められないとは。この名付けることは同時にその人の運命が名前に刻印されているとするなら、その名前の意味を分析すれば、その人の運命を判る(予言する)ことになる。これを精神分析的姓名判断(運命は名前で決まる)と呼ぶ。これは別な書物にして発表したい。

話はそれてしまったが、元に戻せば、人は自らの養育史の再現を子育てにおいてするということである。人は成長していく過程において数々の感情と言葉を記憶していく。あの時こう言われた、あの時こうされた、あの時こう想われた等々、数え切れないほどのそれらを蓄積している。その中の善し悪しに関係なく、今起きている現象をきっかけに、人は思い出し、感情を生々しく再表出する。それは喜び、悲しみ、怒り、恐怖、脅えなどさまざまな感情である。そんな想起の連続が日々の子育ての連続なのである。

今にして人は、こう言えばよかった、こうしていれば良かったと言えるのである。そのときは何も判らず、唯唯享受するだけなのである。無力な自分だったことに今気づく。だから今ならやり直せると考えるが、今はもう子供ではなく、そうにも取り戻すことはできない。子供としてその時に戻ってやり直したいと人は考える。それを実現するのは、現実界において、子を生かす以外にはないと知り、人は子を生すのである。

できれば性の一致もあればより投影しやすく、取り戻しは自分に近づく。その想いが強い方の性に決定される。女の子は母の想いの結晶といっていい。

●3、男の子を生む

男性性の妻と男性性の夫

この組み合わせは男しかできない。総て男性性を志向としている訳だから男の染色体以外ありえないのである。

男性性の妻は女性性の意識を排除している。男らしい夫は彼女にとって同志であり、友人であり、理想の男らしさを持った尊敬すべきパートナーということになろう。

<事例(4)-G子の場合> 省略

自己愛とは

ここで少し自己愛について触れておきたい。自己愛とは何か。語源はギリシャ神話のナルキッススからきているが、要は、自分が自分に惚れるということである。惚れるとは何か。人が人に惚れるのも、自分が自分に惚れるのも、構造的には同一である。自己が対象に同一化したということでは、対象が外在する他者(物)か内在化された対象イメージかの違いであって、主体が対象に同一化するということにおいて同一とみなせる。

では、自己愛の主体は、惚れこむ側なのか、惚れられる対象の側にあるのかといえば、もし惚れる側に主体があるとすれば、惚れられる自己を最高の存在と規定した自己であり認定者ということになる。一方、惚れられる自己に主体があるならば、他者に規定された自己ということになる。これは鏡に自己を映した時に起きている自己の分裂と同様である。すなわち、鏡を見ている実体としての自己と鏡に映っている鏡像との関係に対置される。見ている自己が鏡像に対して惚れ込んでいる状態を基に、鏡像に主体を移し替えて、見ている自己が見られている自己に変換された状態が自己愛ということになる。すなわち見る主体を他者のまなざしに移行させ、見られる自己に変貌させることを自己愛というのである。このまなざしの無限の交替の中に自己が語られ続ける限り、自己愛は保持される。主体が主体に向かって自己を指し示していく運動の許に、自己が自己の愛の対象であるという関係が自己愛という。

G子は、自己が自己に向けるまなざしを他者の主体に、すなわち夫や子ども達のその中に移し替えたのである。そこに彼女が見出したのは、「必要とされている自分」だった。他者は自己存在の外縁にあたり、自己の一部と化している。この他者との自我境界のなさ、あるいは不分明さからくる自他未分化の中に、一体化と融合の幻想に浸っているのが、病的な自己愛者である。他者が全くといっていいほど見えてない。

女性性の妻と男性性の夫

女性らしさを持った妻と男性性を持った夫の組み合わせでは、男性性優位が主体となって性を決定するために、男の子となる。後略...。

<事例(5)-F子の場合> 省略

父の子を産む

父に強い愛着を持った女性は、必ず男の子を生す。愛着対象は優位性を表し、その対象の性への同一化を目指すところから、その性が選択される。積極的に男の子を生みたいと想う。父への愛着を抱く娘というのは、まず結婚相手を十歳以上年上を選ぶ。又は五歳以上年下の男性を選ぶといわれている。これは、理想の父像への愛着から生まれたもので、真の父への愛着でないことを断っておかなければならない。真に父への愛着だけを抱いていたなら、年齢差はそれほど掛け離れたものにはならないだろう。先述の年齢差には父との年の差が如実に表れ、父と娘の関係の再現であることは、誰の目にも明らかである。有名男優の娘が十代にして四十代の男と結婚したり、...

編集部A 女優の三船美佳(みふねみか)の事でしょうか?三船敏郎と元女優の北川美佳(喜多川美佳)の長女。夫は24歳年上でタレントの高橋ジョージ。13歳頃から面識があり、その後交際へと発展し、1998年の16歳の誕生日に結婚。結婚当時、妻16歳、夫40歳での結婚が大変話題となった。 現在一児の母。以前「いわゆる『親バカ』とまではいかないものの、子供は溺愛傾向である」と自認する発言があった。

歌手の松田聖子が十歳以上年上の神田正輝と結婚し、女の子をもうけて離婚したのも、その典型である。理想的父像を投影された松田聖子の夫の神田正輝は母の手ひとつで育てられ、父の存在がなく父性を学ばず育ったのである。そんな神田正輝は松田聖子の格好の投影相手になり、父性のない神田正輝は松田聖子の求めるままの父親を演じるのは却って容易なことだったのである。そんな二人の劇も十年余りで破れた。シナリオを渡さないと動かない夫と、シナリオのまま演じる夫役に神田正輝も疲れたのだろう。父性のなさの馬脚がそこかしこに表れてくるのは必至だから。

とまれ、この二人の関係では男の子はできない。なぜなら父への愛の実体はなく、主導権を松田聖子が握っていたからである。女性性優位による女の子が出産された。

話は元に戻して、実際に父に愛着を持った女性は、父と結婚できない欠如の穴を、父と自分に流れるDNAを持った男の子を自ら生めば、その子は父のDNAを持っている、父の分身になる。その子といる限り、その女性は父と共に生き、父に触れ続けていられることになる。だから、必ず男の子を生むのである。そして、その子を愛し続け、立派な男子へ成長させることだろう。
後略...。

●4、不妊治療

不妊の意味

こうしてみてくると、不妊は一つの意図された意味があるのではとみえてくる、一つには、自己愛的共謀夫婦の関係を子供という第三者に壊されたくないという意味。次に、DNAの言いなりにならず、俺は俺だとDNAの指示に従わずに逆らった行為。余りに人間的といえる。次に、自分を見たくない。ある種、自己嫌悪からくる、再生への嫌悪から、自分の血は自分で断ち切る決意が生み出した不妊である。彼らほど、妊娠を積極的に考えている人達はいないだろう。なぜなら、妊娠をあらゆる角度から否認しているからである。一つでも肯定するものがあれば懐妊してしまう。一つ残らず生まない理由をつくらなければならないから。いくら生まないと決めても、DNAに従えば妊娠してしまう。DNAに逆らっても女性や男性の誘惑に負けてしまえば妊娠してしまう、どこまでいっても不妊には強い意志が必要である。決意と言ってもいい。ただ何となく生きている人には絶対成し得ないことである。DNAが仕掛ける様々な罠にかからず、それを擦り抜けるのには、生まないという決意以外にないだろう。もしかしたら、「自分は生んではいけない」とまで思っている女性ではないだろうか。罪悪感がなければ決意は生まれない。現実を支配的に強くコントロールするのは象徴界である。すなわち、言語と意味をしっかりと構成している人間でなければ不妊はできない。現実から妊娠を排除する訳だから。言うまでもないが、これらは、生物学的・解剖学的・医学的に妊娠可能なカップルでの話である。

治療

不妊のカップルは、妊娠する可能性をすべて否定していると先述したが、彼らは妊娠できる自分をひにん・否認・避妊しているのである。否認する心が避妊の生理的メカニズムに作用しているといえる。であるならば、まず、自己肯定が分析の出発点になろう。後略...

その他の症例

望まない性を産んだ場合

母体が望んだ性とは違う子を生んでしまった場合、どんな事が起こるのかの症例がある。母は強く女の子を望んでいたのにも拘わらず、男の子だった。母は落胆したままその子を育て、心の中で女の子だったらと思いつつ育てた。その子が中学になった頃、男の子は女装に興味を持ち始め、スカートをはいたり、化粧をするようになり、「僕は女になりたい」と言い出した。母はその子に「女の子だったらよかったのに」ということは一度も口にしていなかったのに、男の子は女でありたいと言い出したのである。この逆のケースもある。男の子が欲しいと願いつつ産んだのに、女の子が生まれた。父は女と知って直ぐさまきびすを返し産院を出たというエピソードを持つクライエントは数々いる。父に失望された子、望まれなかった子としての烙印は、終生クライエントを苦しめ続ける、その女性が結婚し、産んだ子に一人も女の子はいなかった。

胎内記憶といわれるものが報告されているが、症例上そのことに数々でくわすことがある。何らかの型で胎児は胎内に居る時に、外界の情報を記憶していると言わざるを得ない事実がある。

4歳になった少女がその日に「わたし、お母さんのお腹の中で泣いていたの」と言った。母はギクッとした。何故なら、その娘がお腹にいた頃、母親は夫の帰宅が遅く、寂しくて夜な夜な一人泣いていたのである。娘はそれを憶えていたのだ。

その事に関連して、前述の男の子が女になりたいと言い出したのも、母の思いというイメージが信号(パルス)化されたて神経を伝わり、胎児にそれとして記憶され、それが中学になってから想起されたとみることも可能である。その真偽はとまれ、望まれない性を生きる子供は、性同一性障害をもち易いことはいえるであろう。

どうして望まない性を生んでしまうのか。その子の性と生む時期を決めるのは母体だという定理からそれは矛盾してしまう。なぜだろう。それは、性差という概念の外にいる、すなわち性の同性を獲得していない中立的性を生きているからではないだろうか。男とは何か、女とは何かの定義を持たず、自らがどちらの性に属しているのか判然としない領域を生きているために、性別を口にしながらも、その性を生むことができないのである。中立ということは対象の性を認識することになる。それは、対象を男と認識したなら、自己は女という規定になる。自己を女と規定することはできない。まるで鏡像を指してそれが自分だといっている子供のように、自己の性を自己によって決定づけられない人は、対象の性を規定することで、無意識的に異性を自己と規定するのである。そして、生むとは自己を生むことだから、口にした性の反対の性が生まれることになる。こうして矛盾が生じるのである。

では、どのようにして人は、自己の性を規定しているのであろうか。

編集部A 性についての色々な話が出てまいりました。女が生まれる訳。男が生まれる訳。そして、不妊になる訳。望まない性を産んだ場合どうなるか...までみて参りました。各々"意味"があるんですね。次の章から「女」と「男」を深く掘り下げていきます。

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6、第三章 心-女(アニマ)

性差とは

第二章で「性差と性役割」について若干触れたが、ここでは詳しく、男とは、女とは何かを考えてみたい。男と女の性差は、生物学的差異(それも体表面積数値の差異でしかない)と機能の差異において分けられる。それに社会的弁別、そして心理的女らしさと男らしさの概念が性差である。性差を持たずして人は生きられないのではなく、社会的に存在できないといった方がいい。生きる上において、男でも女でも関係ない。男女雇用機会均等法によって男女差はなくなり、仕事をする上では平等であり対等になったが、社会生活の上では男か女かどちらかの性を確定しておかなければならない。それは戸籍や免許証や他様々な書類に必ず性差のチェック項目があり、そのどちらかに丸をつけなければならない。名前も男と女に分かれている。普段の生活に性差は必要ないために、それを意識せず何の支障もなく送れる。が、結婚を同性がしようとしたり、人工授精をしようとすると男女差が問題となってくる。そんな部分的関わりでしかない性について、人はその性をどう把えたらいいか、実のところよく判らないのではないだろうか。

●1、つくられる男女差

発達論的差異

性差の自認

想像的女性像(アニマ)

...前略 だから、その差異で表し得ない「男」と「女」の自我ということから「らしさ」という言葉がつくのである。この「らしさ」に同一化することで当面の答えを得たことになるのである。これを性の自認にしてしまうのだ。ここから生まれる女らしさとは、「控えめ」なということだろうか。でしゃばらない、目立たない、上に立とうとしないといった姿が浮かんでくる。決して前に出てリーダーシップを取ろうとする野心を決して見せないことが「女らしい」ということになる。この女性像が社会進出したキャリアウーマンに投影され、男社会の圧力を受け、そこから男女差別するな!と社会運動が生起してくるのである。ここでもう一度、性役割を社会的視点から把え直してみよう。

家庭

性の自認において、社会的存在における性役割に対する態度限定も大事な要素としてある。その中でも最も重要と思われるのが、仕事か家庭かの選択ではないだろうか。仕事も家庭もというステレオタイプをとるのか、そのどちらかをアイデンティティとしてとるのかがある。子を生すということを選択することが、ここでは前提となるが、それを選ぶ女性性とは何だろうか。ステレオタイプの女性も子を生すことができる訳で、女を自認しているいないに拘わらず女性は結婚し、家庭を営み、子を生すことができる。生み分け法というのは、そんな無意識・無自覚的な単なるどちらの性が産まれるか運、神任せといった蓋然性を考察することではなく、人が子を生す意味を考えることで、人間の心と精神、そして身体との関わりを考えようとしたものである。性は自認されなければならない。中略...
一般的に、社会と文化が狸造した性を何の疑いもなく受け取った女性は、自らの性役割を演じる女性として自認し、社会的な「女をとる」ことを了承したといえる。母が娘に語る女性とは、この種の女性の自認をした母が多く語って聞かせる。そうして、「女らしさ」を説明して女の術を教育しようとする。それは、そうして女を演じながら生きる方が得と心得ている母だから、娘を世渡り上手に、そして男を操作して生きられるようにとの野望から、そのことが人格形成にどんな影響を及ぼすかを考える事なく、無遠慮に語ってしまうのである。

家庭は母が子どもに自らの考え、価値観、人生観、性格、願望、失望、後悔、恨み、嫉妬、憎しみ、自慢、劣等感、無能、無知、そしてそれらすべてを含めた矛盾を語り伝承していく場なのある。その中で、女とは?女らしさとはが語り継がれていく。その語りによって性は自認されていく。

家庭を持つ意味

こうして家庭の機能をとらえてみると、母が自らを語る場を持ちたいも欲求の具現化ということになる。自らを語るということは、どういう意味なのだろうか。そして母は、誰に語りたいと思っているのだろうか。その語ったことを受け容れて欲しいのだろうか。賛同、賞賛して欲しいのか、それとも否定して欲しいのだろうか。語りにおける聴き手は二人いる。対話の相手と自分自身である。子どもに難しい話をしても判る訳でもないのに、小さい頃から人生訓や人生哲学を大人は語るものである。教育とそれをいうが、理解力の整いもない子供に何を判らせようとしているのだろうか。子供は意味も判らず、ただ親の言うことを聞いているのである。そして、語られたフレーズが記号(文字)として記憶されるのである。この記憶が後に子供を悩ませる。そのフレーズは一つの問いとなって再生されるからである。問いは必然的に答えを求め、子供はその問いに答えなければならないという強迫観念に把われ、答えを必死に探し続けるが、答えは見つからない。これが子供から意味を奪っていく。答えられない限り主体は表れてこないからである。こうして自律性と自発性を失い、アバシー(無気力)、モラトリアム情態に陥り、神経症的になっていくのである。
家庭は、語られた親のフレーズをそのまま再生し、他者に転付する場である。ならば、そのフレーズを問いにせずに今日まで保持し続けた女性はどうなるのであろうか。それは、家庭とは?でなく、家庭か仕事かに問いを置き換えて持っているのである。正面から問いを立てられることを避けるために、家庭か(結婚か)仕事かの選択にすり替えてしまえば、自らに「女とは何か?」を問いかける必要がなくなる。こうして最も危険な問いかけは回避される。

攻撃性 (一部抜粋)

例えば、女の子でも、両親の争いばかり見ていたり、自らが両親の攻撃を受けたりして
いたなら、後にその攻撃行動を、欲求不満を引き金に起こすと考えられる。この行動パターンにすっかりはまるのが、幼児虐待の図式である。虐待を受けた女の子は、自分が親になったとき、自分の思う通りに子供がしなかったり、養育の無力感を与えられたときに、母は暴力行動を必ずとることになる。これが、虐待の世代連鎖メカーーズムの一つである。

性役割のステレオタイプ

...前略。人は家庭という空間の中で連綿と家族ドラマを代々演じ続けてきたのである。男とはこうあるべきだ、女とはこうあるべきだと語られ、それを他者に要請するというドラマを演じ続けた結果、ユングいうところの集合的無意識(女と男を表す言語)ができあがり、その男と女の鋳型を持つことになった。しかし、それを持つことでその鋳型にキチッとはめ込み、そういう自己になれたかどうかは別問題である。

ステレオタイプと自己像

●2、母性とは

母性とメス性

一般的に女性が「母性本能をくすぐられる」と口にするが、このときの母性とそれに付随した本能とは何を言わんとしているのだろうか。本能とは、人間が生得的に、先験的(ア・プリオリ)に持っている行動パターンであるという意味を指して使っているように思える。そして母性とは、手をさしのべたい、何とかして上げたい、世話したいといった能動的保護、保育欲求(衝動)を意味しているらしい。とするなら、母性本能とは、理屈抜きに、対象に対して先験的欲求から誰もがそうしてしまうことを言っている。本当にそうなのだろうか。本能は動物の行動を説明するときに使われる。人間も種なら、動物としての生物学的レベルでみる必要がある。すなわちメスとして。

それはエソロジー(比較行動学)である。それによってみてみよう。

動物の営む繁殖活動は、交尾、妊娠、出産、子育てなどであるが、そのうち母性は、主に出産と子育てに関する性質であり、主に交尾に関する性質は、メス性と呼ばれる。これを人間に当てはめてみると、繁殖行動は全く同一で、母性に関してもそうであり、生殖行為においても同一である。が、しかし、ここで人間と動物のメスとして違いがあるのは、人間における性行為は、生殖行為と性愛行為(生殖、妊娠を目的としない性的行為)の二つがあるということである。類人猿は別として動物は繁殖期以外は交尾をしない。発情期によって生殖行為は厳しくコントロールされていて、種としても個体においても変わらない。しかし、人間は特定な発情期とかは存在せず、ほとんど幼児期を除いて発情し続けている。このことは、動物を基準にして、欲求の面だけをみれば、人間は本能が壊れた動物といえる。岸田秀氏もそう言っている。

猿になると交尾を繁殖行動と切り離して、行う種類の猿がいる。バナナをもらった代わりにオスに性行為をさせたり、親和性の表現として先ず交尾するものもいる。非常に人間に近い、性の商品化や道具化した猿もいる。人においてはそれは明確である。人類最古の商売と言われるのは売春である。

人はどのように、子供をつくる生殖行為と、愛の表現である性愛行為を分別しているのだろうか。

人はよく「子づくりに励む」とか、新婚さんに「子供はどうなの?」「早くつくりなさいよ」と、他人が夫婦の妊娠に関心を示す変な風潮が日本にはあるように思う。まるで、結婚したらすぐに子供ができるもの、又はつくらなければいけないことのように、脅迫するかのように二~三年子供ができないと「まだなの、まだなの」と執勘に言ってくる。計画出産をしているなどと口にしようものなら、避難されそうな勢いでせかされる。あの妊娠への急き立ては一体何なのだろうと思う。我々に妊娠とは何か、子を生し、育てるとは何かを考える余裕を与えたくないかのように急き立ててくる。結婚することも同じ様なものだ。人はある歳になったら結婚しなければならないのかのように周りは責め立ててくる。独身は変人かのように見られる。人は自らの考えや価値で語るのではなく、社会通念や世間一般の常識といった、他者の言葉で語っているだけなのだ。私はこう思うが言えない世の中のような気がする。本題からはずれたようだが、実は、女性は、女とは何かと問いをたて、答える前に答えを社会や常識や他者が、用意してしまっているために、自身考えたり、問いを立てることをしなくなり、女にされてしまっているのではないか。

女性は女だと自認する過程を経ているのか、また、どのように経ているのか、母性を通して更にみてみたい。

母性-人格としての

人としての母性はどう定義されるのか。すなわち母親側から把えた母性のことである。母が子に抱く心を母性として定義すれば、シュヴィングはこう言っている。
『母なるものは、積極的、献身的で思慮深く、かつ連綿とした優しさとでもいうべき風土の中で、相手に向けられた配慮全体と称すべきもの』と。実に過不足なく、母親の養育における心構えを言い切っている。養育環境としての母の役割を風土と表現した処にすべてがある。子供は未熟児故に大人の介助なしに育たないのである。その役にたずさわる女性として、どう子供に接すればいいのかを、大地に育まれる自然のように、人もまた母という風土の許に健康に自然に育つのである。
この環境の許で子供は、心を解放され、活力を得、生まれ変わり、人間的価値を摂り入れ自己同一性をもち、創造的で愛にあふれた人間になれるのである。

その精神を分析的にみてみよう

積極的-
献身的-
思慮深い-

では、その集注力を持っている養育者は、いつどこでそれを身につけたのであろうか。その特定はここではとまれ、それができる、という構造を持っているということ。それは対象への関心の高さ、即ち「愛着」があるということである。母性行動は愛着行動の表れとみなせる。

ちなみに母性行動(マザーリング)とは何かをみてみよう。ここでもエリクソンの言葉を借りよう。

『乳児が抱く社会に対する信頼の最初の表明は摂取時に示すくつろぎ、睡眠の深さ、便通の良さなどの形で行われる』と述べている。これは言ってみれば「快食・快眠・快便」のことである。

この快適環境を整えてやるためには、赤ん坊の立場に身をおき、赤ん坊が出すさまざまな表現
(サイン)の中から、その時々に赤ん坊が一番望んでいるものを読み取り、全感覚系を通して、「敏速かつ的確」に応答していく事である。養育者(母)との、このような非一一二口語的交流があってこそ赤ん坊は自分が受容されたと感じていくのである。この敏速かつ的確な応答こそ母性行動である、それをするために思慮深さが必要なのである。そして、対象への愛着が。

連綿とした優しさの風土-これは、一貫性と持続性ということである.母性行動を一貫してやり続ける能力ということに尽きる。

配慮全体-これは、全感覚器官を通してということに相当する.部分的に見たり聴いたりして判断するのではなく、全感覚系から入った情報を元に総合的に判断する能力のことである。この配慮性は客観的視点を持ったものということができる。養育者の主観において勝手に思い込んで判断するのではなく、あくまで赤ん坊の発する情報をそのまま取り入れて、判断するのである。希望、憶測、思い込み、心配といった養育者の主観に頼らない視点を配慮性という。一言で言えば、「まなざし」である。まなざしの体験の有無が後に親になったとき、子供にしっかりまなざしを向けられるかどうかにかかわってくる。ただ、まなざしといっても、どう見つめるかである。敵意、悪意、憎しみ、監視と、いろいろまなざしにもあるが、これまでの母性を総合すれば、愛着を持って優しく見つめるまなざしということになる。これが母性である。

編集部A この母性の記述は、息子娘に対する対応法(オールOK!子育て法)の根拠になる部分であると思われます。

母性神話とグレートマザー

「女」を選ぶ

世代連鎖

母性にまつわる話は、母性愛や神話でなく、人間の学習は世代を超えて伝承されていくということである。これを家族療法でいうところの「世代連鎖」である。宗教でいえば、崇りである。親の因果が子に報い、子の因果が孫に報いと、この世代連鎖は票りのように果てしなく繰り返される。この鎖は気づいたものだけが断ち切ることができる。そして切り替えられた新しい家族神話が伝承されていくのである。しかし、必ずしもそれは正確に模倣される訳ではなく、時に、それを拒否する世代も現れ、そこで途切れることもある。要するに、家族をつくらないことである。子孫がなければ伝承できない。子供をつくらないのは、そういった意味もある。

●3、女性への道

モデルの受容

女性が女らしくなっていくプロセスをたどってみよう。

先ず第一に、女の子が自らを女と規定するためには、母との始源的同一性を知るところから始のためには、母の存在を肯定しモデルとして認め、受け容れることである。そのために必要なことは、鏡像関係である。共に生き、共に感じる共生・共感体験である。母を自分と同一視、同化していくことが、母をモデルにし、模倣へと向かわせる。それには、共にいる時間とまなざしの交流が不可欠である。そんな長い長い時間を経て、女の子は母と自分を同じ性を持った人間として認識し、母の行動を模倣していく。その最も完成された形が「お手伝い」である。行動が身についたことで女が一つ決定する。

次に、一度は同一化した母からの出発が、父の登場と共に始まる。父には母に無かったものが在る、という発見から、父への関心が高まり、それが欲しいと願い、それに羨望するようになる。が、それは手に入らないと知る。自分がそれになる(父のようになる-男になる)事はできないと知った時、彼女はもう一度母の許に戻り、父に愛される母として象徴化しつつそれを自己に摂り入れ、女性になっていく。その過程において、父が思い描く女性像や、他者が語る女なるものの言葉が彼女の中でピックアップされて、内在化されていく。「可愛いね」「子供が好きだね」「おしゃれだね」「愛嬬あるね」「優しいね」「女の子らしいね」等々といった言葉が彼女の裡に蓄積され、女性が形成されていく。どんな言葉でも、それが彼女の裡で女らしさのカテゴリーの中に集積されたら、何でもいいのである。極端にいえば「男みたいだね」でも、それが女性らしさのカテゴリーに組み入れられたのなら、彼女にとってそれは女らしさを表す概念・イメージとなるのである。女性は謎ではなく、女として一つの型をもち、女になったのである。これが性の自認である。

女性から母へ

前略...他者や社会、時代、文化が語る他者の言葉によって見かけ上の表象-女イメージができあがる。それを内在化しないまま、そんなものかな-例えば、年頃になったから、結婚したから子供ができるのは当たり前、子供はつくるものだといった世間の常識-と、無思慮のまま何となくそうなってしまう女性には、問いかけは後に発生する。どうして結婚したのかしら、どうして子供を産んでしまったのかしらと。

母になる

母になると決断した女性は、子を生す意味を持っている。この本書の第一章でそれは既に述べてきた。母になるための決断に最も必要とされるのは、「子供時代を終わらせる」事である。子供時代が終わってないまま母になってしまうと、子供が子供を育てることになってしまう。母になるとは、子供である自己意識を、大人意識へと視座の転換をしなければならないのである。これをシフトという。子供から大人への心のシフトは、子供時代を終罵させることに他ならない。

子供時代が終わるとは、依存と甘えを捨て、能動的で与える側に回るということである。甘えと依存を捨て、自律と能動性へとシフトした時、子供時代の欲求は終わるのである。子供じみた欲求を持ち続けていると、与えるだけの母性行動が非常に取りにくくなる。子供から欲求、要求されると、腹が立ってくる。そして欲求を満たしてあげると、「我がままにしてしまう」と不安になる。この不安と怒りが育児の場で交錯してしまう。これを子供(母)が子供を育てるという。どうして子供時代が終わらないか。それは、満足体験が少なく、欲求不満にさらされている期間が長かったから、いつまでも求める心が持続してしまうのである。敏速に適確になされた母性行動の許に育った子供は、満足し、母から自律していく。

仮に子供時代の要求に終わりがきてない場合は、自らに「子供時代は無い」と自覚させることである。現実を見つめ、今ここに生きている自己が認識されれば、子供時代はもう既にここに無いことを知る。甘えるというシニフィァンを甘えさせる言語シニフィアンヘと変換させたとき、人は大人にシフトしたのである。

母になるとは、奪われ続けていく立場に立つ勇気と、与えても与えても尽きることのないエネルギーを保持している豊かさにおいてシフトされるべき発達過程の一様態なのである。

まとめ

できるだけ客観的に科学的に女性を語ったつもりだが、何処かに男の偏見の残津が見え隠れしているのではという想いを払拭仕切れないままの私見であることを、先ずお断りしておきたい。女性諸氏の批難を承知のうえで書いてみた。

女性とは何か? という問いに真剣に答えなければと思ったのは、ユングのアニマ。ア二ムス論に接してからである。爾来十数年以上経った今にして、いくらか漸くみえてきたような気がする。それまでは、そんな問いかけすらなく、唯々女性への関心と欲求のみしかなかった。換言すれば肉体のみを求めていたということである。DNAの命ずるままの動物そのものであり、いわば仕合わせな時を過ごしていたことになる。それが、ふとしたことで女性とは、男とは、父とは?という問いが立ってしまった。それが著者27歳の時だった。その時から答え探しが始まり今日に至ったのである。22年経った。そうして得た答えは、女とは「アンコール」、男とは「ファルス」、父になるとは「ファルスを持つ」ということである。

アンコール(encore:仏)、英語のmoreである。「もっと、もっと」、それが女性である。終わらない享楽こそ女性そのものである。完結も全体もない、無限に開放していく享楽こそ女性なのである。だから言葉で象徴化できない、掴まえることができない存在、それが女性としかいいようがないのである。

無限に開かれた享楽の世界に放り出された女性は、永遠の中にいる。男は永遠を考える。女性は永遠を生きている。女性は生命という無限の連鎖を支えている「永遠の担い手」である。男はその系列から分離された系列の外の人である。

女性は、永遠の中にいるとすれば時間概念から除外されていることになる。女性は自らを永遠と思い込んでいるとすれば、「老い」は絶対に受け容れられないことになる。「若くて美しい」に拘わる女性の心の裡にあるのは、この時間性のなさだったのだ。男はある程度老いを受け入れてしまうことができる。しかし、女性は本質において、美=不変、若さ=不変、という無時間性の中に生きている。無限は沈黙でもある。美の本質もまた沈黙である。神の本質もまた沈黙である。

私はここで定義したい、女性とは、

「無限の時の中に放たれた一つの美」であると。そして神であると。

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7、第四章 心-男(アニムス)

男社会

男社会という言葉から何を連想するだろう。男がつくった社会(組織)といえば、政治、経済、そしてヤクザである。これらの社会に共通しているのは、闘争と競争である。力を軸にして、すべてそれによって統率された世界である。権力、金力、筋力である。それを持つ者は強い男ということになる。強い男がその力を誇示する場所は社会でも家庭でもない。それは戦場である。筋力を武器に置き換えた闘いこそ戦争である。しかし、戦争ばかりもしていられないので、企業における経済競争の場において、男たちは企業戦士となって闘っているのである。

戦争好き、それが男であると規定できなくもないが、そこに至るまで、いろいろな角度から男なる者を検証してみたい。

●1、つくられた男性性

家制度における男

アニムス(男性像)

性差の社会心理におけるステレオタイプの項目によれば、要約すると次のようなものが男性的といわれる。

・非常に攻撃的である。
・非常に独立的である。
・全く情緒的でない。
・非常に客観的である。
・非常に支配的である。
・ちょっとした危険には全く興奮しない。
・非常に能動的である。
・非常に競争的である。
・非常に論理的である。
・決断を簡単に下せる。
・非常に自信がある。
・決して泣かない。

 のが男性で、それ以外は女性性だということになる。男性でもこれらがなければ男性とは言えないし、女性でもこれらを有していれば男性であるといえることになる。女性が心の裡に抱いているこの男性像をアニムスとユングはいった。(中略)

男性としてのかくあるべき姿(像)をどう描き持つかによって男は男になっていくのである。その時参考にされるのが、社会や文化が言語として要求してくる「男とは」である。時代と世代を渡り語り継がれて来たこの言葉を子供にどう語ったかで、このアニムスは決定する

武士の魂

前略。男性のつくりだした概念に魂がある。誰がそれを文字にし、概念化したか定かでないが、私は男性たちが創造したものと考えている。その魂とは何か。それは永遠不滅なもの、生まれ変わりの因、核になるもの。自己の元型、個性の本質、神から授けられた私の存在の核等々と表現しても、結局それは定義でしかない。私は魂を「人がどうしても抱かないと生きていけない私という存在を言い表す言語」と定義する。私が存在している、又は存在した意味の象徴である。それを人は魂と呼び、実体化したのである。魂について考え巡らせていると、どうしても三島氏の魂の叫びである「激」が聞こえてきてしまう。全文は紹介できないが抜粋してみよう。省略

●2、父性とは

類人猿にみる父性行動

前略。父性行動といわれるのは、母性行動とははっきりと異なる特徴を持っているからである。それを次にまとめてみる。

①母子を外敵から守り、かつ食物を確保してやる。
②家族的グループの統合の中心となり、ケンカを仲裁し、内部の和を図る。
③遊んであげ、その種特有の行動様式を教え、対等な付き合いをさせて社会化させる。
④家族から子供を切り離し、外婚へと追い出す。

これらのことは、人間社会の父性にも求められている行動様式であるといえる。しかしペア型の類人猿の父性はオス同士が敵対関係になる。つまり、メスを取り合ってオス同士が争う傾向にあるからである。

人類にはこの敵対を克服し、オス同士が協力し会う関係へと構造化していく精神の発達が必要だった。オス同士の協力は連帯へと発展し、その連帯は約束と契約によって保証され、それに父性を結合させた。近親婚を回避することで外婚制が確立し、そこに配偶者がそれぞれ配分され、父(オス)同士のヨコの関係と、世代というタテの関係が制度化され構造化される。こうして家族という閉鎖された一まとまりのグループを中心として、大きな集団を形成し、それが社会となっていく。この過程の根本に父の存在がある。社会が男性によってつくられたのは、この父なる存在があったためであるといえる。

中心としての父

前略。ここでいう中心は、図形的意味の中心ではなく、体系(全体)を支えている支点のことである。さまざまな要素を一つにまとめる、いわゆる収散してくる求心的点のことである。この父にまとまってくる集団、グループを家族という。家族は子育て、教育、生活、文化、保護、分化といったさまざまな要素と働きをもって集団をまとめていく為に必要とされるのが、この中心(支点)である。一つ一つは個々別々なことでありながら、全体としてつながり機能し働くために、組織化という能力が必要となる。AとBを結び付けたり、AとBを分けたり、ABCD一つにする統合力が中心の力である。この結合、分化、統合の力こそ父の機能である。これを父性という。そしてこれらの実施の担い手とは、言葉である。言葉とは象徴性そのものである。ならば父とは象徴性としての言葉の担い手である、といえる。我々の生きる、ということを支えているのは意味である。父とは生きる中心である。これをラカンはファルスといった。それは象徴的去勢において生まれるといったのである。後略。

父の意味

父性を考える上で最も参考にしたのが、林道義著の『父性の復権」(中公新書)である。父性の何たるかを知るには最適の書と思われる。私も全く同感である。父が子の精神発達に、どう関わっていくのかが克明に描かれている。自我形成に父の関与の大切さや意味もその通りなので、ここではそれについては触れず、父の意味、すなわちその本でいえば父性の条件と権威の事項について論じたい。

1、構成力(まとめあげる力) 省略

2、全体的、客観的視点 省略

権威

父性には権威が必ず伴う、とある。権威とは何だろう。母になくて父にあるとされる権威とは何か。林氏の著書によれば、三つの条件があると書かれている。第一に能力、と一口にいうがそれは、いろいろなことを成し遂げる能力。これは技術力に始まり、権威力、戦い守る力、判断力、組織力、指導力......等々と続く。第二に信頼とある。周囲の信頼を得る人格者であること。第三に知恵とある。第四は愛である。人間に対する愛の心をもち、周囲の人を愛し、他人に奉仕する人は、周囲の人の信頼と愛を獲得する、とある。そしてまとめると、権威とは人々が自然に尊敬し自発的に従うようになる力のことである、と書かれている。後略。

真理を語る

前略。権威から差異を見出し、もう一度権威そのものの力とは何かを問いかけてみたい。

人が尊敬し、ひれ伏す対象は権威だとすれば、人は真理に従って生きて行くものではないだろうか。人は迷いつつ生きている。何かを求めて、それは真理である。かって人は何のために生きているのか、どこから来て、どこへ行こうとしているのかを問い続けてきた。これに明確な答えを出せた人こそ神として崇められることになる。即ち真理を語る人だからである。真理を見出し、それを語る人こそ父ではないだろうか。真理を見出せる人とは、どんな人であろうか。

老賢人

言葉を持つ

前略。目の前の見知らぬ人間がある日突然、恐いと感じ、帰って来なければいい、居なくなればいいと想うようになり、果ては死んでしまえばいいとまで心中密かに願うようになる。これは、今まで世界を認識していただけの脳の働きとは次元を異することである。父の不在と母を独占したい欲求を人は体験する。そしてその欲求が不可能と知った時、言葉が生まれる。父の不在を断念し、母の独占を諦めた瞬間である。この時、〈父・の・名〉が象徴界(言語世界)に蓋録されたのである。これが自分自身の父になるための起源である。これを持っていないと、どのように人生を生きていっていいのか、父とは何をすればいいのか全く判らなく碓穆宮をさ迷うことになる。

〈父・の・名〉を我が心の中に讃録するということは、父の何かに自らの主体が負けて抹殺された主体がその名の下にあるということなのである。それ故主体は新たに主体をつくり出すために運動を始めることができるのである。抹殺された主体がそこになければ、人は何の運動も起こさない。父の何に主体が負けたのかの言語が一等大事なことになる。それに勝つために競争世界に参入していく訳だから。

起源の私、現に在る私、そして知っている私(現存在とその起源とを、知の中に包摂している私)と主体は次々と生み出されていく。知っている私は現存在の私をどう見ているのかという問題が出てくる。言い換えれば、かく在る自分(現在の自分)がかく在りたい自分(自我理想)に同一化していくという無限の運動が主体にはあるということなのである。いわば精神のダイナミズムである。これこそ父の力である。

父になる

言葉を持った私は、私の自我理想に向かって歩み続けることになる。人生の時々に道路標識の様に「学生」「青春」「恋」「結婚」「天職」「プライド」「家庭」「父になる」といった看板が次々と出てくる。これに一々答えを出しながらパスして自我理想に向かって歩んでいくのである。答えられないと、そこで止まってしまって先へ進めなくなる。街道を走っていたのが、その看板の指し示す小路に入ってしまい、そこから元の街道に出られなくなってしまう。これが神経症である。問いかけ続けて答えが出ない情態である。

それぞれの問いに答えながらいよいよある年齢に達すると「父になる」の看板が目に入ってくる。父になると断言するには、それまでの自分が目指していたことと次元を異にするために、一瞬ためらいが生じる。その隙間に〈父・の・名〉がしっかり誇録されているかどうかが露呈される。もし無かったり、暖昧であった場合、その地点に差し戻される。一挙にこれまでの世界が崩れ始める。意味が解体される。

しっかり讃録されているなら、難無く父になれる。精神は何の危機に遭遇する事なく、父になる。父になるとは、一家をなす、家族を支え守る責任を全うする強い意志を持つということである。依存的で無責任で意志薄弱は父になれない。そういう男は父になることを選択しない。そうすれば、精神の危機と発症は回避されるからである。

父になるとは、男にとって賭けのところがある。一か八かやってみなければ判らない無意識の世界であるから、父になってそれから考えるという無謀な行為を人はするものである。また、その危険さを知らないからできるとも言える。その恐ろしさを知っていたなら、人は決して父などなりはしない。父になることは賭けではなく、自覚でならなければいけない。父の役割と父の機能を知っていてこそ、父になるべきである。子供が好きだから、可愛いから、欲しいから、子孫繁栄のためだから父になるのではなく、子を生し、育てるとは何かを知ってこそ父になるべきである。

父不在のこの国の将来が見えてくる。父の不在は家庭崩壊を招き、家庭の崩壊は社会の腐敗を生み、社会システムの崩壊へと至り、それは政治の腐敗へと広がり、司法、立法、行政は正常さを失い、国は機能を失う。バブルの崩壊は一徴候だったのである。十七歳の凶行は家庭の崩壊の症候である。学級崩壊もその一つだし、その次は学校崩壊へと至るであろう。そんなことを予見した処で何の意味もないが、この国を憂い、我が子達の将来を考えるなら、父になるとは何かを一人一人が真剣に考える必要がある、とだけ言っておきたい。私はセラピィーの現場で痛切にそれを感じている。

父不在

父性なき父は、家族論的視点からいえば、居ないに等しく、父不在という。家庭は父の存在によって維持され、父性において家族は象徴的に統合され、相互に交流し合える場として機能する。それが無ければ、それらは機能不全に陥り、さまざまな問題が生じてくる。

症例一、仕事人間で不在の父
症例二、語り過ぎた父
症例三、特異な語りをする父
症例四、偉大な父

各症例は省略

老賢人になる

まとめ

前略。父になるとは何かに答えて生きた典型的な人物は、政治家で作家の石原慎太郎氏である。石原慎太郎氏は作家から出発し、言語を持った。そして語るべき言葉を持った。それ以前に家庭において父だった。子供は四人もうけたが総て男の子である。男性優位と共に、父性をしっかり持った父であった。そのことについては次男が本にして、わが家のことを語っているので、それを参照されればいいだろう。

石原慎太郎氏は語る場を政界に移した。三島氏との親交も深く、共に父とは何か、男とは何か、武士とは何かを問いかけた同志であった。三島氏が石原慎太郎氏の才能を見いだした最初の人である。石原慎太郎氏が三島氏と違うのは、父の体験であろう。これは私の推測である。三島氏は母を喪失したために自らの主体を母の位置に同一化し、女性化への推進力の反動形成として、男性化に走る。が、主体が女性のために、対象選択は自己愛的になり、男性の肉体の鎧をボディービルによって鍛えて武装しつつ同性を愛することになってしまった。肉体の鎧は父の紋章となり、対象は父に愛される自己自身となり、自己愛が完結する。いわゆる、見せかけの男性性だったことは、石原慎太郎氏は最初から見抜いていたから、楯の会をおもちゃの軍隊と言って笑ったのである。

石原慎太郎氏の父性は型ができていた。父とは何か、家族とは父の許に統率されることを知っていたから、階級をつくった。長男は特別の意味を附与され、家族の中にその階級の立法者であり、行政者であり、権力者であることを皆に知らしめた。その権威の型を持っていただけ、父性性があったといえる。それも確かな言語と知性に支えられているからこそ一貫性と意志を表明できるのである。

私的父性論

前略。在るがままでしかないこの宇宙の中で、人は在るがままでは物足りず、存在以上の何かを言葉によって創造してしまった。その時から言語が世界を支配するようになり、人はそれに操られるだけの存在になってしまった。文字だけが永遠になり、有限な肉体的存在は価値をその前で失った。これが宗教と文化の出現である。人は生命以上の価値に生きることのできる生物へと変容した。そこに情が生まれ、人と人との結び付きが発生し、家族が形成され、父が要請された。小さな集団をまとめ上げる者として父が誕生した。家族の集まりは社会を生み出し、家族は社会人の養成所となり、ますます父の役割、機能は増大していった。

そして現代社会は複雑なシステムと共に巨大化し、個の存在を圧倒してしまった。父なる存在はこの巨大システムの許で潰され、家庭は社会に吸収され、解体した。家庭は隅々まで社会システムが侵入しはびこり、蝕んでいる。それがIT革命である。インターネットが全家庭に入り込んだ時点で、家族は日本から消える。パソコンが父になった瞬間である。もう父は必要ない。情報だけが主役となって、父なる存在は言葉を失う。モ二ター画面の文字が父の知を越えてしまっているからである。誰に聞くことなく、パソコン画面に向かってマウスを動かせばいいのである。その日の来ないことを切に切に今は願うだけである。パソコンはまるでウィルスのように家庭に侵入し、人の心を確実に蝕んでいく。

父が父であり続けるとは、人間が人間として最低限度の自律性をもって生き続けられる社会が前提なのである。何ものにも依存しなくて、最低限度の生命維持が自律的になされる環境を人はもち続けない限り、自らを人間と規定できなくなる。文明は人間を解体し続けていくのである。化学は人を記号に置き換えていく。その究極の姿がDNAの解読であり、クローン人間の出現である。 私は最後まで、人間でありたいと思う。それは時代に取り残され、文明の最も外縁で生きていかざるを得ないことを意味している。すなわち、父性論は文明論に行き着くのである。文明とは進歩である。進歩とは速度である。速度とは宇宙の根本運動であり、光りそのものである。人は光の速度に到達したいという無意識的願望をもっているから、全ての物がスピードアップを目指して技術の進歩をしてきたのである。乗り物がこの最も典型的事物だし、コンピューターの演算スピードもより速くである。こうして文明は進歩という言語に操られ、崩壊していくのである。

だから、進歩の概念に犯されることなく、自らの言葉で、自らの「時」を生きるゆっくりのんびりこそ、父性にとって最も大事なことだったのである。

編集部A 読み進めていくと、既に"男"=父性は絶滅した様に思えます。現代は男が行きにくい世の中なんだと再認識させられます。年間自殺者3万人の中の多数を中年男性が占めているといいます。なんとか頑張って生き抜きたいと思います(汗)。

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8、第五章 心と身体

編集部A  この章では、心と体の関係を明らかにしていきます。心、精神、意識、無意識は私たちの体にどんな作用を及ぼすのでしょうか。

●1、病は心がつくる

私がこの本を書くうえで根本の理念として持っていたものは、「体は心のモニター」だということである。精神分析を通してクライエントと接していく中で、体は如実に心を映し出していると実感したのである。心身症の観点からも心が体に及ぼす影響と関係は性格論との対比の中で語られていた。日本の諺にも「病いは気から」というのがある。本来の意味は気功術のいう「気」の滞りが病気をつくるということだが、庶民はそれを「病いは気(心)の持ちよう」という風に意味を取り違え、書き換えたが、実はそれは正しかったのである。

臨床を通し、人の心は言葉、体、行動の三方向に表現されることは判っていた。心は言葉で表され、神経症や精神病においては症状を形成し、また病気で周囲に心の苦しさを苦痛で表現したり、破壊的行動で心のポロボロを表現したりするのである。特に、心と体の関係は「妙」なものを感じさせ、私はそれを興味深く探求してきた。そこで判ったことは、心と体は密接に関係し、相互に強く影響し合っているということである。

心のメッセージは体がそれを受け取り、病気で表され、体の不調や機能低下、気質障害は直ちに心に伝えられうっ気分や情緒不安定や不安として伝えられ表される。この相互の関係を通して、体は心のモーーターであると結論を得た。そんな頃、一冊の本と出会った。一九八○年に出版されたその本は『クォンタム・ヒーリング』(春秋社)であった。私は、私と全く同じ考えに立っていることをこの本で確認した。この本では私の見出した「体は心のモニター」を「体は思考の立体写真」と言っている。心のホログラフィーが体だというのだ。思考は言葉で考える。言葉は精神そのものである。西洋のある教えに「思考は物質化」するというのがある。この考え方も以前から私にはあった。願いが叶うとか、思いはいつか必ず形となるという信念があった。自己暗示にかけるというこの思考も、物質化するという真理がなければ成立しない。私はそうしていくつもの願いを現実化してきた。しかし、その物質化は、ただその物なり、その事を成し遂げたり手にしただけのことで、努力と能力で誰にでもできる事である。取り立てて奇跡のように声高に言うことでもない。錬金術のような意味での思考の物質化を体験したかった。それは、単に因果論で説明できない跳躍が必要だった。連鎖の間に科学や理論で埋めることのできない何か跳躍がある体験をしてみたかったし、それがあると推測させてくれたのが、心と体の関係だった。そして『クォンタム・ヒーリング』に出会い、それが「クォンタム(量子)」と「英知」と言う言葉で埋められた。

病いは気からの事例をいくつか見ることで心と体の関係をみてみよう。

はじめに心ありき

病院でこんな場面を目にした。私が診察室に入ったら、前の患者さんがまだ医師の説明を受けているところだった。医師が男性患者に一言こう言った。

「入院するしかないな」

すると患者の冴えなかった表情に一瞬喜悦が走った。彼は確かに微笑んだ。待ち望んだ吉報を聞いたかのような表情を浮かべた。そのとき私は、彼は病気を自分で創ったんだなと思った。

また、二年に一回とか定期的に入院する人がいるとか、何度も骨折する人、手術の頻回者とか、病院通いの好きな人とか、病院に見舞い行くとその種の話に事欠かず、いろいろ聞かされる。総じて入院する人は病気が好きとしかいえない様に見えてしまう。健康で休むより、病院のベットで寝ている方を選んだのである。そう私には見える。

これは心身症や精神医学では、「疾病利得」と言う言葉で定義される。後略。

編集部A 私も過去、「疾病利得」を随分活用してしまいました(当然、無意識に)。心は自分の体を不健康にする事によって、心の不調を表現するなんて凄いです。ただ、それは無意識によってなされるので、不健康になってしまった本人は本気で悩んでしまいます。大学病院でいくら検査しても原因不明と診断されますし、仕事も出来なくなるし、この事実をもっと早くに知っていればと悔やまれます。

骨折の意味

不注意や過失、事故などにより骨折をする場合、それにはそれなりの意味がある。いわゆる無意識的意図によって企画され実行されということである。

疾病利得という点からみれば、第一に考えられるのが、休息である。後略。

●2、クォンタムな人体

心と身体

医学は体を対象にして、肉体を構成しているその細胞と神経系統、化学反応等それらと脳との結び付きを科学的に把え、細胞においてはDNAを発見し、さまざまな化学物質を発見し、神経においては神経伝達物質とレセプター、インパルスを発見し、脳においては様々な領野を突きとめ、脳の地図ができあがろうとしている。脳を科学していくと脳Ⅱ心になってしまう。その結果精神病の治療薬が開発された。抗うっ剤や向精神薬等である。分裂病にはドーパミンが関与しているとされ、その分泌をコントロールすることで治療し、治癒すると考えられている。しかし、この薬物で治った人は一人もいないと『クォンタム・ヒーリング』の著者ディーパック・チョプラ氏は書いている。その通りである。ドーパミンの分泌を抑制し、幻聴・幻覚がたとえ無くなったとしても筒抜け感や、意味の崩壊による奇矯な行動や無気力な姿を残したままで果たして治ったといえるのかどうかということである。抗うっ剤にしても同じことがいえる。うつ病は、セロト二ンやノルアドレナリンという脳内の神経伝達物質が適切に働かないからだとされ、その化学物質のコントロールが薬剤として使われ、繰情態へと強制移行させて、それでうっが治ったとされる。チョプラ氏はうつ病を次のように書いている。

「うつ病の患者の脳ではイミプラミンと呼ばれる神経伝達物質が異常に大量に生成されていることが判りました。......イミプラミンのレセプターの分布を探してみると、脳細胞だけでなく皮膚細胞にもあることがわかりました。何故皮膚が『精神的な分子』のレセプターを作らなければならないのでしょうか。-答えは、うつ病の人は全身がうつ病だというもので、悲しい脳、悲しい皮膚 悲しい肝臓を持っているといった解釈です。」

さらにイライラする患者にもノルアドレナリンのレベルが脳と副腎で異常に高く、実はそれは血小板の密集度が高いと判った。

これを読み、まず最初に浮かんだ言葉は、フロイトの「皮膚は自我」であるということ。世界と内的世界の境界線上で働く意識こそ自我の機能であり、その場はまさに皮層ということになる。皮層病は自我機能の脆弱性と不全を表していることになる。脆弱とは自己防衛システムの弱さと未熟性であり、不全は超自我とエスに挟まれて抑制と表出がうまくいかない状態を指す。そんな未熟性と機能不全が、前者は汗が出ないとか日光に弱いとか、子供の皮膚のままとかになり、後者はアトピーや湿疹になる。

また、血小板の過剰により流産してしまうクライェントがいた。三十歳の女性で、二度流産し、検査の結果、血小板の異常な数の多さで、血管が梗塞状態になり出血し、流産となるらしい。分析していくと、そこには、完壁な母に育てられ、承認と賞賛もなく注意ばかりされていた抑うつ感と正しく自分を許価してもらえない恨みがあった。そしてさらに、自分はそれらの事から祝福して生まれた子ではないという確信を、妊娠を知ったときに周囲の人々はそれを喜んでくれたのに、当の彼女自身の心には喜びが沸き上がって来ないことから持ってしまった。彼女の心にあったのは、恨みと憎しみ、そして価値のない自分という抑うつ感に行き着いた。ここには血小板の多さが体と心を結んだ、まさに彼女のうっ的存在情態があった。生むことへの無力感が妊娠を支えるエネルギーを維持できなかったのである。

体は心の代弁者

生きんとする意思

ショーペンハウアーの言った「人は生きんとする意志がある」とは同じではないが、人が生きなくちゃ、死んでたまるか、とかの生きたい、生きようとする意志を持つことが、医師の言うところの「生命力」を表す。とは言いながらも、余命いくばくも無いと告げられて、諦めて死を簡単に受け入れてしまう人は少ないのに、生存率が低いのは何故かという疑問がでてくる。誰だって生きんとする意志がありながら、人は死なざるを得ない。生きんとする意志がありつつも生と死と分かれる。その分岐点は何なのか。

 事例を通して考えてみよう。

乳癌に確った女性がいた。33歳で子供が男の子二人いた。まだ小学生だった。彼女は乳癌を宣告された時、死の恐怖よりも「この子たちを残しては死ねない」と思った。早期発見でもあり、すぐに外科手術によって左の乳房を削除した。数年も経たないうちにガンは片方の乳房に転移した。そしてまた手術をした。こうして両方の乳房を失った彼女は、今度転移したら危ないと医師に言われた。彼女の頭の中にあったのは、「この子たちを一人前に育て上げない限り、私は死ねない」という決意だけだった。自分のために生きるのではなく、神に命乞いをするのでもなく、唯一子供のために死ねないというガンとの闘いの決意だけだった。その決意によってあやふやに生きていた彼女の人生観は、一つの明確な目標と意味を持つことになった。全細胞はそれに向けて統合され統一された。そしてその言葉どおり、彼女は八十の歳を迎えようとしている今なお健康に子供のためにと生きている。その女性の生きんとする意志は子供によってもたらされたものである。乳癌が発見されるまで、彼女は何のために嫁にきたのか、唯働くためだけの飯炊き女の女中でしかないのかと日々悶々とし、何度実家へ帰ろうかと思っていた。ところが、乳癌により、死んではいけないという想いは、逆説的に「生きる」ということを指し示すことになった。すなわち、死なないために生きてなけりやいけないという事である。生きているから生きていくのではなく、死によって生が浮かび上がってくる、差異としての生が初めて彼女の中で意識化されたのである。これが生きんとする意志となった訳である。唯、もう一度と舞台に立ちたい、走りたい、仕事したい、美味しいものを食べたい、唄いたい、書きたいという生命のながらえではない。子供にとって私が必要なんだ、私の生命は子供達に要請されている、だから生きるんだという自己の生命の他者化によって、それまでの自分のために生きる生命を抹消したのである。これで死なないで増殖し続けようとするガン細胞は抹消へと切り換わったのである。シ二フィァンが動き出したのである。主体は主体を抹消し、主体を逆説の形で主体を表す。その運動こそシ二フィァンである。そこに意味が形成される。この女性で言えば、子供を一人前にするために生きる、である。新たなシニフィァンの連動が生じるかどうかが生と死の分岐点である。この乳癌を克服した女性とは、私の母である。

「クォンタム・ヒーリング」によれば論自然寛解400例の研究で云々として、「教え込まれた信念を破壊した」人達という共通点を持っていたとある。主体の抹殺以外の何ものでもないことが判る。さらに「自発性」が鍵であるという。自らが発想し、発心し、決意するという自発性が大事なのである。ではその自発性はどのようにして起こるのでしょう?

それについての考えを、自律性と依存の対比から明らかにしてみよう。

編集部A この項の症例は著者の実母の症例という事で掲載させて頂きました。大変説得力のある症例です。ここでポイントとなっているのは「自発性」です。それについては次項で。

自律性と依存

精神形成の柱というべきものに、「信頼」と「自律」がある。そして健全な「依存」である。精神の健全は体の健康につながることは明白である。しかし、何がどう関わり、体に表れるのかをみてきたが、もう少しこの因果関係をみてみよう。

「心頭滅却すれば火もまた涼し」という諺があるが、本当に人は痛みをコントロールできるのだろうか。答えは「できる」である。それは体自身がつくりだす内因性モルヒネのエンドルフィンに依ってである。この物質の発見により、人は痛みをコントロール出来ることが判明された。これは路上で買える麻薬の二百倍も強いものを脳が生成しているのである。ならば、人間は自らで麻薬中毒患者になれる訳だが、決してそんな人は一人もいない。何故なら、エンドルフィンを勝手に自由に作り出す方法は知っていないから。では外から投与したらどうなるか。それはヘロインのような習慣性が出てくるというのである。これは何を意味しているのか。自らが自らの意識によって生成のスイッチを入れ、作り出したエンドルフィンはいくら強くても中毒症にはならないが、外から与えられると習慣性、すなわち依存性が出てしまうということを物語っている。体は、自発性においては正常で、外部からのものに対しては依存するということは、精神の構造と全く一致する。不安や不満を和らげるのに、自らの精神に依らず、他者やものによって外部から和らげ満たしてもらおうとする心理機制を依存というのである。自己の快不快は、外部に委ねられる構造になる。それ故、自己は自発性自主性を失い、完全受身性となる。これが依存症の構造である。自らが意志することが最も人間の「生きる」にとって大切なことである。この意志が自律性を構成し、病的依存性を断ち切るのである。

では健全な依存とは何か。健全とは人間としての相互交流性があるということである。二者関係において、他者を信頼し頼むということが健全な依存である。信頼とは、互いに従うということを合意し、委任において成立することである。私はあなたに従うとは、あなたも私に従うという委任を含んでいる。その相互対等性が信頼である。

夫は妻に「俺の子を産んでくれ」と依頼する。妻はそれに対して「私はあなた(夫)の子が欲しい」で応える。そこには祈願がある。良い子の種をください、という祈りにも似た願望を含んでいる。夫はその妻の願望を叶えられるという自信を持っていなければ、信頼は発生しない。すなわち「子を生す」ことは回避される。その祈願に応えられる自信とは、言い換えれば、父である、父になれるという確信である。

子を生さないクライエントの言葉にこういうのがある。「自分の家系の血を自分で断ち切らなければならない」・これは、先祖代々受け継がれた血統への恨みと反発からである。一族の構成員の性格と家庭の在り方への不信と不満が血の幻想を生み出す。自らが忌み嫌う一族の血が紛れもなく自分に流れていると考えることは耐えられないほどの自己嫌悪を引き起こし、親戚を排除し、自らを一族から分離しようとする。それは不可能であると知りつつも、彼は自己否定することで、それから逃れようとする。その彼が出来る唯一のことは子を生さないという意志と決断である。家族との親和、和合体験がないクライエントにとって、家族は要らないものである。家庭の温もりや紳から排除されて孤立した体験しかない彼にとって家族は自らを否定・拒否したものである。その自らを否定した家族を自らが作るとは矛盾である。生をなさない決断は賢明といえる。だから、私は生むことへの拒否と祷曙を感じ、不妊を選んだ人のことを[賢者」と呼ぶ。賢者は自らの子を生まないものである。聖者に子供がいないのはそのためである。

ここで、第一章で述べた子を生す意味というのがでてくる。子を生す意味を持ち生む人達と、それを考えずに漠然と生む人達がいる。子を生す前提に委任があることが判る。これなくして人の誕生はないのである。人は祈願されて生まれてきたのである。その祈願の象徴が名付ける、である。すなわち「名前」である。(運命は名前で決まる

ブラシボー効果

ここでもう一つ心と体の関係で触れておかなければならない事実に、プラシーボ効果というのがある。プラセボ効果ともいうが、それは「偽薬」でよく語られる。不眠症の人に「これはよく効く入眠剤ですよ」といってビタミン剤を服用させると、ほとんどの患者はよく眠れたという。この偽薬効果をプラシーボ効果という。言わば思い込み、自己暗示である。ガンでは死なない、この子のために死ねない、必ず治る等々の自らの想い通りになる症例がその例である。

『クォンタム・ヒーリング』ではどう言っているのであろう。それにはこうある。

「-『どんなもの』でもノシ‐ポ(ブラシ‐ポの反対の効果〉の働きをしたりブラシ‐ボの働きをしたりするということです。害に癒ったりするのは、見せかけの薬でも-医師の態度でも-ありません。患者がそれらをどう解釈するかなのです。」

ここで言っていることは、私の視点に合致する。それは「解釈」という処で。乳癌になった私の母は、それまで生きてるって何だと思っていた処、ガンになったことで「子供を一人前にする為に生きるんだ」と言う意味を生成することが出来たのである。すなわちガンを不治の病い、死に至る病いと解釈しないで、生きなければならない意志の敵として解釈したのである。中には、これで死んで楽になれるとか、死ぬのが恐いとか、これは神が私に与えた試練だとか、これが寿命なんだと受け止める人もあるだろう。それらは、ガンを自己との関係において一つの文脈に仕立て上げることである。「これが私の運命だ」というのも、ガンにかかることを予定調和に組み入れたことでしかない。しかし、その文脈はガンは必然のこととして自らは予定していたということを意味する。これは自らがガンを招いたことになる。その理由は、親がガンで死亡した人に多く見受けられる文脈作りで、親がガンだから自分もガンになる、いやならなければ私は親の子でないと考えているからである。この模倣による同一化は同病で死亡する確率が高い。親子分離していないと生じやすい。ガンを同一性の根拠と解釈してしまったということになる。

プラシーポ効果は、解釈による自己暗示の結果であり、その症例ということになる。では、解釈をしなかったらどうなるのであろう。ガンの告知に関して自己との間に文脈を作らないことは可能なのであろうか。人間に言葉と思考がある限り、それでも文脈を立てないことが出来るのだろうか 例えば「ガン、そんなものは私は知らない」といった場合、未知だと言っているが、自己に知らないと言われたガン細胞は知って欲しいとさらに増殖するか、無視されたといって自らの細胞を消す方向にいくか、逆に怒り出して他の細胞を侵食していくのか、いずれの道をとるだろう。

いずれにしても道は一つに定められない。ということは意味のない文脈を作るしかない。例えば「ガンは桜のように美しい」といった風に。文法は間違っていないがこの文章に意味はない。しかし、解釈は可能である。まるでこの文章を詩のように読み取ることは出来る訳だから。

こうして考えてくると、ガンは自己への何かの告知で、その意味を読み解かなければならないものと把えるしかなくなる。そう解釈するしか人には出来ないのである。これこそ意味生成運動を表すシ二フィァンの本質ではないだろうか。人が生きているとはシ二フィアンとして生きていることなのである。

●3、無智について

心と体を結ぶもの

沈黙の必要性

宇宙は対話している

前略。精神分析は無意識を意識化するという。これも、人間の心の構造的基本には無意識という闇の心があって、それにまさに光を当てて言い表せるようにすることを意識化といい、それは光で象徴される。心の中に光(意識)と闇(無意識)がある。意識化の拡張はやがて白い宇宙への移行をもたらし、闇の世界からの解放を意味する。人間をこの世を無明といったのはそのためである。光の世界こそ神が住む天国なのであろう。ここに至るのに必要なのは一対一の対話と会話である。それができたなら人は天国に行けるのだ。因に、天とは二人と書く。後略。

知覚の限界

ここで人間の世界を構成するのに不可欠な知覚が問題になる。人間が世界に出会うのは五官を通してのみである。それは世界のある一部を垣間見たものでしかない。光も音もある周波数を越えると見ることも聞くこともできない。電波を知覚する器官は人間には無いが、電波は存在し、それを人間は利用している。我々が五官で知覚している世界はほんの一部でしかないことが判る。

この世界はすべて振動・波動でできているとするなら、精神もある波動を持っていることになる。心は言葉で表すが、それは音の振動であり音速で表現され存在する。精神世界は心を使い言葉で表すということは、心は言語領野を自らが創り出し、それによって己を表す術を得た。無智
がDNAを設計したように、精神も言語という塩基をつくり、それを組み合わせて一個の意味をつくり、それを組み合わせて文章をつくり、概念を創出した。まるでDNAのように進化し続けるゲーム、染色体という一群の細胞の設計図は、精神でいえば無意識(コンプレックス)そのものである。

染色体が一つの無意識であるなら、それを構成している一個の言語がある筈だと考える。このゲノムの解読こそ精神分析の仕事である。精神の科学はこの解読を目指す。その言語は無智に結び付いて、我々の物質世界を構成しているのである。

分析は別名「精神の考古学」と私は呼んでいる。遺跡には必ず碑文がある。そこに何と書かれてあるのかを解読し、当時の人間の歴史を知るのである。それと全く同様に、人は原初において碑文を既に書いている。その文章どおりに生きていくのである。この考えは、交流分析の人生シナリオに相当する。私はそれは文章ではなく、たった一個の言語だと考える。後略。

●4、人は何を想う

思考こそ人間

想いは何処から

前略。生が生そのものの裡から構成される、すなわち思考されるということはないのだろうか。

一つだけある。それは「生を産む」である。

それができるのは女性のみである。生命を創り、それを産み出す、まさに生産こそ生そのものから思考した結果であるが、人はそれを実は思考できないのである。生むことの意義を語る言葉はあっても、生むことそのものの意味を語る言葉はない。

「子を生すとは何か」について答える言葉は見つからない。「子を生した」結果から生きるとは何かにすり替えて考えるしか無いのである。

「種の保存のために子を生す」という意味付けは、人間の言葉による意味ではなく、動物としての行為の記述である。人は意味を動機として行為する生物である。決してDNAだけに振り回されて生存している訳ではない。だから、生きていくことも、死ぬことも人間の意味の決定に委ねられている。その自由こそ人間の証しである。

人は何のために生きるのか

生きることも死ぬことも自由ならば、人は何故生きているのかという問いがでてくる。この問いは「生きているから生きている」になってしまう。生きていることはそれ以上でも以下でもなく、ただそれだけのことなのである。人間の問いは、「何のために生きている?」と意味の問いかけに直される。すると、「lのために」と答えることが可能になる。

例えば、家族のため、社会のため、世界平和のため、趣味を楽しむため、愛する人のため...等々何々、誰々のためという関係としての生の必然性という形でしか表現できない。生きていることの意味は生きていかなければならない必然性に置き換えて、人は生きていくのである。

ならば、もしこの必然性がなければ人は生きる意志を持てないことになる。世界も社会も人も家族も誰も自分を必要としていないと知ったならば、人は生きている意味を創出できずに、生は無になり死へと置き換わるであろう。これが無気力である。うつ病者の持っている生きることへの無力感につながる。

人がそもそも「生きる意味」を問いかけること自体、それに意味がないことを表す。最初から意味があるなら問いかけることも悩むことも探すことも哲学することも考えることも、必要ないであろう。問いかけないことの仕合わせはここにある。すなわち、それそのものと一体になっている時、人は語れないし対象として自己から分離されてない。自他に分割された状態で初めて人は認識できる。人がしみじみ生きていると感じるのは、死にかけたり、病いで死を覚悟したのに健康になった時である。これを生還という。生は死を比較参照項とした処でしか表れてこないものである。

生きたいと切望するのは病いのさ中であって、生きている日常状態の中では、人は生きたいとは思わないし、考えもしない。すなわち無意識である。

生命とは何かの問いかけも、「生きていたい」の無意識同様に、無意識に止まっていると考えられる。この問いは、「子供が欲しい」という何処からともなく湧き上ってくる欲望の型をとる。

そのために生殖行為の動機づけになってしまうことから、人はその問いに答えられないままでいる。

「子供が欲しい」に対して「何故?」と問いかけが可能である。これが「子を生す意味」の問いかけである。これに人は答えずに親になってしまう。人は先ず、自己及び生命とは、生きるとは、死とはを考えた時、子を生す意味から考える必要があるのだ。

編集部A 何の為に生きるのか?この問いの答えをさがすと、自ずと「哲学」や「宗教」の世界に入っていきます。精神分析の世界を深く突き詰めていく時にいつも感じます。

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9、第六章 症例・「私はこうして生み分けた」

症例Ⅰ.M氏の場合
症例Ⅱ.I氏の場合...省略

まとめ

二つの症例を通して、私は心とからだの関係、及び精神の構造を知った。今思う、私は真理を持ったと。真理こそ私の求めて止まないものだった。二人の女性は、その真理の探究に貢献してくれたのである。感謝してもし足りない思いで一杯である。いつの日か、この真理が世に出ることを祈りつつ、また新たな症例に取り組むつもりである。

平々凡々たる人生に喝を与えてくれたのは問いであった。精神とは何か、の問いが私の半生、いや一生と言ってもいい。いつしか分析を知り、独り学び、素人分析家になり、市井の人々と共に取り組んできたセラピィーの実践体験は、私を勇気づけ、励まし続けた。

生み分け方に気付いてから、物質世界と精神世界の明確な区分けと、関係が明らかになった。

その理論の一部始終を書いた。その後の臨床例は少ない。精神分析で生み分けができるという認識は社会に流布していないから当然のことではあるが、M氏のように生み分けを求めている人々にとって、この理論は一筋の光明となるはずである。

何より私がこの本で言いたかったことは、初めに心ありき、そして言葉ありき、それから現象ありである。すべての事象は相互に対話し合いながら構成し、全体を成立させつつ、変容していく。一つの構造を作っては壊し、また作り壊し、ある全体に向かって構造化していく運動の中に人も宇宙も存在している。何一つ単独で存在しているものは無い。私の細やかなこの行為もきっと宇宙の何処かに響き、その反響がいつしか私の許に届くであろう。私は宇宙に向かってこれを書いた。それは宇宙に向かっての私の存在宣言である。「私はここにいる!」という。

その反響を待ちつつ、この稿を閉じる。

あとがき

本を上梓するとは、我が子の出産のようなものである、ということを実感した。私は男だから子供を産めない。その口惜しさを本をまとめ上げることで我が子とした。私はこの本の執筆に十月十日をかけた。今こうして出産に到った。望外の仕合わせを感じる。女性はきっとこの喜びを体で知っているのかと思うと、何とも羨ましく思う。男ができる情けないが、ささやかな代償行為である。

とまれ、M氏をはじめ私のすべてのクライエントと藤田博史氏、新宮一成氏、小出浩氏等のラカンの著作の名翻訳書なくしては私の今は無い。唯々感謝するのみである。素人分析者のたわ言かもしれないが、それでも私は一つの真実に出会い、そこに真理を見、真理を実践し、クライエントはそれを実証した。この事実はどうしても人々に伝えたかったのである。

真理は永遠である。そしてフロイトもラカンも永遠である。

精神科学の扉は開かれ、人類の仕合わせはこれによってもたらされることを信じつつ、欄筆する。

2001年05月13日 那須・詩涌碑庵にて 道越 羅漢(みちおらかん)

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10、おわりに & 購入方法

編集部A 今月号は「心的遺伝子論」の特集でした。如何でしたでしょうか?世間の常識でいえば、100%の確率で男女を生み分けることは不可能で、もし、できたとしてもそれは神の領域である。という話なのですが、現実に、何度試みても女の子しか生まれない家庭があったりします。私は女の子6人姉妹のご家庭の存在を知っています。その家庭、ご夫婦には「男子が生まれない理由」があると考える方が自然だと思います。たしか64分の1の確率ですから。その他、世には女系家族、男系家族という言葉もあります。男女の生み分けに関しては、如何なる状況でも50:50になる...とはならない。そこに、訳があり、意味があるととらえ、逆に、男の子が生まれる意味を生成しよう、女の子が生まれる意味を生成しようとする精神分析療法のアプローチは大変興味深いものだと思います。

それではまた次号でお会いしましょう。ご意見ご感想はlacan.msl☆gmail.com(☆を@に変えてメール送信願います。スパム対策)でお待ち申し上げております。月刊精神分析 編集部A。

本の購入方法は以下の通りです。 (各々1冊の時の購入例)
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本代(1冊の時)
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本代(1冊の時)
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合計
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*詳しくはメールで問い合わせ下さい。

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11、Webマガジン月刊精神分析&分析家ネットワーク



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 精神分析(セラピー)を受け、インテグレーター(精神分析家)を目指し理論を学んだ人たちが、東北・関東・関西を中心に実際にインテグレーターとして活動しています。  夏には、那須で恒例の「分析サミット」が開かれ、症例報告・研究などの研修会も行っています。  私たちインテグレーターを紹介します。(敬称略)  メールに関して、☆を@に変換したメールアドレスにメール送信願います(スパムメール対策)

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