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福島17歳母親殺害事件

神戸の少年Aの事件以来10年が過ぎ、今回起こったこの事件を、精神分析的視点から解説した。
世間一般の考えや見方とは違った視点であり、一部差別的偏見と思われる表現もあろうかと思う。しかしこれは決して、個人を攻撃・誹謗中傷するものではなく、一つの見方として理解していただきたい。
故人のご冥福をお祈りいたします。
 

まず三つのキーワードがある。
1. 母の生首を持って出頭した。(母をバラバラに寸断した)
2. 腕を切断し、植木鉢に刺した。
3. 「殺すのは誰でもいい」といった。
サブ
1  実家を離れてアパート暮らしをしていた。
2 母は保育士だった。
3 母の誕生日に殺した。
これら全体をコンテキスト(背景)という。このコンテキストから一つのテキストを作り出してみる。
彼は母を殺した。だから殺すのは誰でも良かったわけではない。母をバラバラに切断したということは、身体のバラバライメージがあった=鏡像段階を経ていない。鏡像段階を経ていない彼は、母を憎しみの対象としてみていた。これはどういう意味かといえば、母のまなざしを受けていない、彼は透明人間であったことを意味する。(神戸の少年Aと同じである。)そうすると、母の腕を切った=象徴的去勢(ペニスの設立を意味する)。彼の母は(彼にとっては) ペニスを持った母であり、男性的な母によって育てられた彼らは共感・共鳴によって優しく心を抱かれることがなかったと考えられる。ゆえに彼の母のイメージは冷たい母である。のみならず彼らは見棄てられ、母は他人の子どもを保育していた。彼が人間としてこの世に生まれ変わるためには、母をこの世から削除し抹殺する必要があった。母を去勢することで、 彼は自分が男としてこの世に生まれ出るのである。それは儀式にもなってしまった。そして母の削除は「殺すのは誰でも良かった」という言葉と矛盾するが、「誰でもいい」という言葉を「どうでもいい」という言葉に置き換えてみたらどうだろうか。すなわち母は彼にとってどうでもいい人であった。ゆえに彼にとっては抹殺の対象であり、だれでも良いは=母を指す言葉になる。その証明として、母を母の誕生日に殺害した。これは、コンピューターの削除には上書きという行為がある。彼は母の誕生日を命日という言葉に上書きしたのである。だから母の誕生日に殺さなければならなかった。(コンピューターの削除、前歴を消すためには上書きすることで消える。だから誕生日を消すにはそれを命日にすれば消える)そこまでしても母を削除したかった。それほど母は恨まれていた。実家を離れアパート暮らしをしていたとは、島流しを意味する。保育士になるとは適切に世話されなかった、育てられなったことの証し。彼は知性高かったために、こういう儀式化をする。彼は「戦争がなくなればいい」とか逆に「テロがおきればいい」と言っていたが、戦争とは殺されるのは誰でもいい。戦争が起きれば彼は殺すのは誰でもいいというのが実行できる。だから戦争という言葉が出てきた。彼は戦国時代の武将と同じ、主君の首を取った(=戦利品)。彼は自分が男になった、人間になった証明をしたかった、それにはどうしても母の生首が必要。彼は殺人の証拠に母の首を持ていったのではない。自分を支配した母を殺すことで、やっと自分は人間なったという証拠品として持ていった。それまでは主体性を抹殺されていた彼。だから母の腕を切り取って、白いペンキで塗り、植木鉢にさした。のこぎりも白いペンキも事前に用意したのであり、衝動的殺人などありえない。だから計画的殺人である。母の腕を切ったとは、母の偽りのペニスを切ったということであるし、白いペンキを塗ったとは、白い血=白血病の母=冷たい母、情も何もない母。(マリリン・マンソン)植木勝ちにさしたその植木鉢とは、くぼんだものは女性性、子宮をあらわす。それにペニスを刺す=SEXをあらわす=近親相姦願望をあらわす。彼の場合には母と一体化したかったということ。それを象徴的に表現した。あとペニスを持った母という象徴でもある。これを隠喩という。女性でありながらペニスを持っていた、しかも冷たい母であった。母を解体して、生きた人間の姿をしてたけど、本当の母あなたはこういう姿でしょう、これが一番ふさわしい形だいいたかった。
この母は(子どもである彼が望む)世話をしていなかった。しかし世間では、子どもを世話して働いて親の鏡だといわれている。世間の評価と子どもの評価は違う。彼には母を殺した罪意識もないし、むしろ人間としてよみがえった喜びのなかにいるだろう。自分のされて来たことを考えれば、何を反省し詫びる必要があるのかと思っているだろう。彼はこれら象徴的儀式をしない限り、人間としてこの世に生まれ出られない。しかし、この母は特別な母ではなく、世間一般に普通にいる。


 子どもの望むことと、親の思いは違う。親は親なりに子どものために良かれと思っていろんなことを、言ったりしたりする。しかしそれは子どもがして欲しいことと一致しないことが多い。子どものして欲しいことに親が応えてくれたとき、子どもは満足し、自分を受け入れられたと思える。そういう食い違いがこの親子の間にも多々あったのではないだろうか。
 自分の子育てを振り返っても、同じようなことをしてきてしまった。途中でそのことに気がつき、幸いにして軌道修正することが出来たので、私のところにはこういう事件は起こらなかったが、あのまま自分の無意識のままに行動していたら、私にも同じことが起こっても不思議ではなかったと思う。
 だからこそあえてこの事件を取り上げ、過激と思われる表現もしながら解説してみた。
 ならばどうすればよかったのか。子どもの主体性を活かす対応法「ALL OK」しかも「「敏速かつ的確」に子どもの要求に応えることと、「承認と賞賛」と与えること。「ALL OK}というと 多くの方からは「そんなにわがままにしていいんですか」と言われる。子どもがわがままでなく、自分の本当の気持ちを言えず、親の顔色を見、親に合わせた自我をつくることに問題がある。だから非行でも不登校でもひきこもりでも、子どもの問題でお見えになる親御さんには、説明したあと、とにかく3年だまされたと思って「ALL OK」してください。必ず良い結果が出ますからと伝える。それを信じて実行してもらった方から文句を言われたことは一度もない。もちろん最初からうまく対応出来るわけではなく、やろうとしても出来なかったり、迷いが出てきたりする。それを分析を受け、自分を振り返り、母親教室で学んだりしながら少しづつ出来るようになられる。子どもの幸せを願わない親はまず居ない。しかしその方向が違っていたら今回のようなことも起こりうる。原因があっての結果だるから、結果が母親殺害という不幸な結果であったということは、子どもを育てる家庭に間違いがあったと言わざるを得ない。また無智であったことの悲劇ともいえる。ならば人間の精神とはどのように発達するのか、子どもへの対応はどうしたらiいいのか、それを知った上で子育てしていけば、無限の可能性を持った子ども達は自分の個性を伸ばし、いきいきと生きていけるのである。

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2007年05月26日 09:00に投稿されたエントリーのページです。

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