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分析家の独り言 39 (日本的自己愛人間と日本的マゾヒズム)

西洋においては「個」が尊重され、自己主張すること、自己価値が重んじられる。
ところが東洋においては、仏教の教えにあるように、「我に執着する」自己愛は煩悩の最たるものである。
日本人は、「我執」「うぬぼれ」というように、自分に愛着したり執着することを、いいこととはみなさず、それを迷いとみなし、そこから開放されることが課題とする。
文化論的にいえば、西洋人の場合は自己の権利を主張したり、自己を愛したりすることは当然であり、自尊心(プライド)はいい意味で使われる。
しかし日本人の場合、自分自身を誇りにしたり、愛したりすることをいいこととは考えない。
常に他者からどう評価されるかという受身的な自己愛である。
相手本位の日本人の場合、自己確信的・自己主張的に自分を独善的に主張し発揮することは「わがまま」であり、脱却すなければならないという考えが方が強くある。と小此木啓吾氏は著書『自己愛人間』 で書いている。

自分の自己愛を引っ込めて、他者を尊重するという配他的(他者に配慮する)態度が日本人の思いやりである。
文化人類学的にみると、日本人は農耕民族であったために、その土地に住み続け、周りの人と助け合い、協力し合って暮らしてきた。
飢餓になったときには、お互い助け合う必要があり、人の援助を期待せざるを得ない。
そのためどうしても、他者に配慮的になる。
それは他ならない自分が気を配ってもらいたいからである。
自分が相手にしておけば、相手も自分にして返してくれるだろうという思いのもとにする。
ここに見返りを期待する、恩を着せるということがある。
遊牧民のように移動するならば、たとえ嫌なことがあってもそのときだけのことで終わる。
草がなくなればその場を立ち去るので、同じ人と再び合うことはまずなく、してあげたことの恩、見返りなど期待しないため、自然にボランティア精神が育つ。
日本人はまず自分のことを犠牲にしても、他者に配慮しなければならないという民族的無意識がある。

自己愛で大事なのは、エロス的交流。(自分の快と満足が、相手の快と満足になるような交流)
このエロス的交流を、人はまず最初の対象である母親と体験し、母に愛されるよい対象自我を自己の中にイメージできる。
ところが、多くは自分の欲求の抹殺が相手を喜ばせる。
いってしまえば、自己主張しないこと、欲求を出さないこと、自己愛の抹殺が母を喜ばせる。
欲しがらないこと、自分を出さないこと。
そうして、母の欲求を読み取り、母に気に入られるように母に合わせて生きる。
そこに自分というものはない。
結果自分は何が好きなのか、何をしたのかわからなくなる。
だからクライアントには、「好きなことをしましょう」という。
すると、「好きなことしていいんですか?」「そんなこと学校でも家庭でも教えられませんでした」とか、
「好きなことしたいが、何をしたいのかがわからない」と言う。
分析を通して、自分を見つめ、自分を知り、主体性を取り戻し、好きなことができる自分になる。
そして自分らしく、いきいきと生きて欲しいと願う。
              (11/29 インテグレーター養成講座内容の一部より)

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2007年11月30日 20:41に投稿されたエントリーのページです。

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