人は二つの目を持つ。
一つは現実を見る目、これは光学的に世界の事象を見る目。
もう一つは、自分の内的世界を見る、いわゆる心の目とでもいう目。
例えば、愛着を持った対象=母が亡くなったとする。
現実に母はもう死んでしまい、この世にはいない。
ところが、心の中に映し込んだ母が心の中で生きている。
この内的世界を見る目にとらわれると、現実とのギャップが生じる。
内的目で母の死を見つめ、心の中に整理をつけ始めるのは現実に区切りがついたときである。
それは例えば仕事が終わったあと、ホッと一息つく瞬間であったりする。
現実を忙しくして、内的な目をつぶれば、母の死という悲しみは襲ってこない。
これが一つの防衛法である。
隙間なくスケジュールを入れ、忙しくしている人は、何か内面に見たくないものを抱えている可能性が大きい。
例えばまた逆に、内的世界に自分を襲ってくる迫害イメージを持っていたとすると、それに襲われないようにいつも現実に目を向け、現実にとらわれるようにしておく。
この方法で複雑な操作をしているのを神経症という。
内的世界と現実を常に混同しながら、それにとらわれ、脅えている状態である。
その人の中に何がとり入れ内在化され、何が映し出されているかが非常に大事である。
分析はこの心の中の世界に映しこまれたイメージ、絵を読み取ること。
人は外的世界と内的世界を交互に、また並行して、錯綜しながら経過していく。
これがはなはだしくなり、現実と内的世界の境界がなくなってしまった場合、妄想に至る。
これは外的世界と内的世界が重なってしまう、自我境界の喪失を意味する。
通常我々にはこの自我境界がある、精神を病んだ人は、この境界が曖昧であるか、またはない。
その行き着く先は、精神内界で起こっていることに確信を持ってしまう。
すると、「自分を殺しにくる」「自分はねらわれている」「人が自分を攻撃してくる」「自分は嫌な臭いを出していて、他人に迷惑をかけている」などと言う。
それは現実を見ているのではなく、その人の心の中に映し出されたものをみているのだ。
こういう心の構造を知っていれば、なんでこんなことを言うのだろうとは思わす、それなりに理解できる。
人の心の構造を解き明かし、理論的にすっきり説明できることに興味を持つ分析家とは、奇妙な存在かもしれない。
それとともに、そこにはヒューマニズムがあると私は思っている。