フロイトは日常生活の現象の中でおこる錯誤(失策、しくじり)行為に、無意識を発見した。
その代表的なものが、「度忘れ」「言い間違い」「貴重品の喪失」「思いがけないヘマ」などである。
これらは、その背後にあるもう一つの意識(意図)が抑圧を打ち破って行為化されたものである。
例えば、度忘れは、やりたくないことを頼まれて忘れてしまうとか、思い出したくない人や地名を忘れてしまうなどがそうである。
ある会議の議長が、その会議を開きたくなかった。
それで、「開会します」と言うところを、「閉会します」と言ってしまったという。
私が書いた昨日のブログ、分析家の独り言(理想化の落とし穴:ありのままの自分になる)にも錯誤行為があり、苦笑した。
ブログの文章の後半に「〇〇大学の付属小学校、中学の征服を着た我が子は、母親の自己愛を満たす。」と書いた。
この文章のなかの「征服」は、本当は「制服」である。
この漢字の変換の間違いを、知人に指摘されるまで私は気づかなかった。
この間違い、しくじりの裏にあるもう一つの意識は(無意識)は、私が小学校、中学校時代征服されていた、支配されていたということ。
それは親に、である。
私は分析において、そのことを散々思い知らされ、その通りと納得したはずだったが、まだ受け入れきれず、その残骸というか、残りかすがあった。
まだどこかで少しくらいは親に支配されず、自分を持っていたと思いたいのだろう。
親に征服されていた自分をしっかり自覚しないと、無意識に他人を征服したくなる。
同じ間違いは、自分が味わった苦い思いを、他者にさせてはいけない。
こうしてまた自分を知らされた。
人と人の関係は、征服するでも、征服されるでもなく、平等で対等な関係を築くことである。