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事件分析 アーカイブ

2008年06月17日

精神分析家による秋葉原通り魔事件分析

<秋葉原通り魔事件>

 又しても、日本の家庭崩壊と社会の病理が生み出した、凄惨な通り魔事件が起きた。

 私は瞬時にあの大阪の死刑となった「宅間」を憶い出し、彼の再来だと思った(附属池田小事件)。あの無差別性は「社会と人間の不条理」を世に現して、宅間の殺人動機と同一であると確信した。すると、正にあの6月8日は宅間の事件日だった。

 とまれ、加藤も、あの記者会見で判る通りの夫婦の許に育てられ、あのサイトに書き込まれた彼の文面からも判るように、「主体性の奪取」による、彼の主体性の抹消こそ、彼の動機のすべてである。あの夫婦、彼の両親の関係は、週間ポストの見出しにあるように、テレビを見ていた人誰もが抱いた印象を見事こう表現していた『倒れた妻をまるで荷物のように抱えた父親』と。そして、その前に夫は、妻が泣き崩れているのに、一瞥もくれず、自分の荷物だけを先に家に入れていた。

 ただ子供を自らの自己愛の満足のために操り、主体性を奪い取りそして「見捨てた」。「中学になった頃には親の力が足りなくなって捨てられた」と彼は書いている。

 夫婦の自己愛の道具にしたことと、見捨てられたことで、彼の心は壊れた。

 あとは、親とそれへの憎しみを投影して、社会と人々に復讐することだけの主体が作りだした、「独占」行為しかなくなった。そうして選ばれたのが「ワイドショウの独占」だった。事件を起す、それも飛び切りセンセーショナルなもので、それは「無差別殺人」しかなかった。

 彼はこうして、日本の家庭崩壊した現状を先鋭的に示したのである。これは警告ではない、精神病理が現象化し始めた、パンデミックなのだということをわれわれは知るべきである。


ラカン精神科学研究所

2008年01月31日

事件分析(親族2人強殺 松村被告)

京都府長岡京市と神奈川県相模原市で昨年1月、親族2人を殺害し、現金を奪ったとして、強盗殺人の罪に問われた住所不定、無職、松村恭造被告(26)の論告求刑公判が30日、京都地裁(増田耕児裁判長)であり、検察側は「人間性のかけらもなく更生など不可能」として死刑を求刑した。

松村被告は意見陳述で、「事件の最大の原因は自分のエリート意識。自分は特別な存在だから何をやっても構わないとの考えが根底にあった」と説明。事件を起こしたことについて「全く反省していない。遺族を悔しがらせることができてうれしい」などと述べた。
「自分は理不尽な目にあった」「より罪を重くして自分を追い込みたかった」とも言っている。

(http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/murder/?1201697482 YAHOO!ニュース より)


「自分は特別な人存在」という松村恭造被告。

まったく心が育っていない、母親が何も手をかけず世話していないはず。

フロイトのいう口唇期欠損である。

口唇期とは、口と唇の刺激が心地よく、快感を求める0~1.5歳の時期である。

この時期に心地よく母のおっぱいなりミルクを飲み、適切に世話され満足感を味わっていないと、

そこに欠損・欠如感が生じる。

以後この人は口唇の満足を求め続けることになる。

その最たるものが、アルコール、覚せい剤など。(三田佳子さんの二男も同じ)

アルコール・覚せい剤に依存し続ける、それは母に依存し続ける口唇期のあり方そのものである。

依存とは人に甘えることであり、口唇期欠損者は、依存と甘えの行動をとる。

その一つには、自分がこうなるのは全て他者が悪いと思う。

自分の快不快は他者に依存しているから、自分を心地よくするのも不快にするのも他者である。

悪いのは外、他者であり、自分は悪くない、間違っていないという独善論にいたる。

このことと、甘えがいろんな構造を生み出す。

甘えとは、みんな自分を許してくれる、自分だけは特別だ、自分を嫌っているはずはない、何でも

自分に与えてくれるはずだと思い込む。

松村被告の「自分は特別な存在だから何をやっても構わない」という言葉はそのものである。

「自分は理不尽な目にあった」とも言っているため、納得のいく世話などされていないだろう。

理不尽に自分を否定され、要求を満たされず、なんで自分だけこんな目にあわなければいけな

いんだと思っている。

自分がこんない理不尽な目にあっているんだから、人を理不尽に殺しても何の罪意識も持たない。

それ以前に、彼はもう主体性を認められず精神的に殺されてきているのだから。

適切に世話をし、やさしく育てましょうという。

それは、思いやりや配慮、愛情をかけられることによって、情緒性が育ち、人の痛みのわかる、

思いやりのある人間に育つからである。



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この日記は研究所の日々の活動内容が綴られています

2008年01月16日

事件分析(八戸18歳母子殺害事件)

青森県八戸市根城のアパートで母子3人が殺害され放火された事件で、逮捕された長男(18)のその後がいろいろなことがわかってきた。
この長男は、母を殺害後遺体の腹部に人形を詰めていたという。それも女性のフィギアの人形だったことがわかった。
まず母の腹部を裂いて遺物(人形)を入れた。これは胎内回帰願望である。母のお腹の中にいた胎児に戻りたい。そのときにしか彼は安全と安心を感じられたときがなかったといえる。これはまた、彼の再生(胎内から生きなおしたい)への儀式化であり、思考の空想化である。その彼の無意識を具現化・現象化したものが今回の事件となった。無意識は三つの経路をとる。行動化、身体化、言語化。彼は行動化の道をとった。(佐世保の散弾銃乱射事件を思い出す。)
女性の人形であったことから、彼は女の子として産まれたかったのだろう。母が女の子を望んだともいえる。その証拠に殺害した兄弟の長女の首を深く切っており、首を切断するつもりではなかったかという。そこに長女への深い憎しみが現れている。自分がもし女の子として産まれていたら、もっと母は自分を認めたかもしれないと思ったのではないか。
また、分析家の独り言(心の発達 外在化から内在化)で書いたように、彼は内在化の能力が未発達であった。
しかも父不在。実際両親は離婚し家庭のなかに父はいなかった。ただそれだけではない。彼がいくつのときに離婚したかはわからないが、それまでにも父性を持った父がいなかったといえる。父の役目は社会の掟、ルールを教えること。子どもにしていいことと、悪いことを教えることである。
さらに、承認と賞賛がなかった。認められ、できたことを誉められることによって人は、私とあなた(非自己)の区別がつき、自我境界ができる。一人の人間として認められないと個が確立できず、主体性を持てない。そこには根こそぎの主体性の抹殺があっただろう。
彼には三つの障害がある。
1、 知覚の欠如。人の痛みがわからない。
2、 共感性の欠如。喜びや悲しみを共に感じ、分かち合うことがない。
3、 知性の欠如。物事の善悪がわからない。
これは残念ながらもう人間ではない。
しかしこの状態が、日本の6千万所帯で起きているといってもいいかもしれない。
例えば、小さい子どもがこけたとする。子どもは「痛い、痛い」と母に訴える。しかし母は「そんなの痛くない」という。子どもは自分の痛みをわかってもらえず、泣く。すると母は「泣くな」と言う。こうして子どもは自分の痛みを理解させず、当然人の痛みも理解できなくなり、共感する、されるということがわからないまま成長していく。日常のなかにそんな積み重ねが山とある。
家庭の障害は社会の障害である。日本は他人を思いやれない社会になってきてしまっている。
日本の社会制度、年金制度が崩れかけているこの状況は、安心と安全がなく、一部の人間の私利私欲で動いてはいないか。私は度々、日本は危ないと警告してきた。いよいよ末期現象、いやもう終わっていると言わざるを得ないのかもしれない。この日本を誰がどのようにして立て直すのだろう。
一人一人が気づいて、まず個々人から立て直すことしかないように私は思う。

2007年12月20日

長崎県佐世保市、散弾銃乱射事件

分析とは、死んでいる人を生き返らせること。
分析によって、死んでいたその時代にさかのぼり、共感して生き返らせる。
そして人は再生する。
再生=ルネサンス。
佐世保の散弾銃乱射事件のあったスポーツクラブの名前である。
馬込政義容疑者は人を殺すことによって蘇り、再生したかった。
彼は主体を、自分の欲望を抹殺し続けられた人だった。
だから欲望を持って生きている人間を抹殺した。
生殺上の鍵を握るのは神である。その神に彼はなった。
そして神としてこの世に蘇った。
というラカン理論でいう再生の道をとった。
人間とは主体を抹殺して新しい自分が生まれる。
彼は親に歯向かえば生きられなくて、いつも親の言うとおり自分の欲望を抹殺して服従して生きてきた。
だから散弾銃乱射し人を殺すという形で歯向かって自分の主体を再生した。
しかしまた彼を裁く法がある。それによって彼は裁かれる。
ならばと、自分で自分の死刑執行人となった。
だから、彼が再生の場として選んだのは、スポーツクラブ「ルネサンス」。
この名前に意味があった。
このようないたましい事件を防ぐ方法を世間や一般の人は知らない。
分析によって言語化する。
つまり、いかに自分が自分の主体性を抹殺されて生きてきたかを語ること。
銃を乱射するのではなく、一番安全な言語によって放出する。
そうすれば、犯罪(行動化)も病気(身体化)もなくなる。
精神分析という道を、理論を知ろうとしないし、親も学校も社会も教えない。
ただ無知なのである。
それゆえに人は安易な行動化、身体化に走るしかないのだ。

2007年11月29日

守屋前次官夫婦で逮捕

高級クラブでつけ回し、ブランド品のプレゼント…。前防衛事務次官、守屋武昌容疑者(63)の妻、幸子容疑者(56)が「身分なき共犯」として、夫とともに収賄容疑で逮捕された。妻が収賄罪の共犯として立件されるのは異例だが、山田洋行元専務、宮崎元伸容疑者(69)への“おねだり”は常軌を逸していた。
また、幸子容疑者は高級クラブに友人7、8人を連れてカラオケに興じ、請求書を山田洋行に送るようクラブオーナーに指示。公然とつけ回しをしていた、という。
日本は母性社会。母性社会とは、社会の中で生きる人間同士が、母子一体化のような未分化なまま馴れ合って暮らしていることをいう。
これはけじめがなく、汚職がはびこる袖の下社会である。
それを象徴するような事件である。
子どもが親にねだるように、企業におねだりした守屋武昌容疑者(63)と妻。
しかも妻は7歳年上の夫を、「坊や」と呼んでいたという。
ここにも夫婦でありながら、母子の関係がみえる。
自分たちの遊興費を山田洋行に払わせる。人のものと自分のものの区別がつかない。
そこに父性性など見えない。

2007年11月16日

三田圭子さんの次男覚せい剤取締法違反(所持)容疑で逮捕

高橋祐也容疑者(27)は三度目の逮捕。
薬物依存は、そう簡単には治らない。心の病であり、精神科に入院したから治るとも限らない。
覚せい剤に手をだしてはいけない、しかしそれが止められない。
それを止める強い自我が育っていない。
依存症は、甘えと依存そのもの。それはフロイトがいった、口唇期の欠損である。
0~1.5歳の頃を口唇期というが、その時期赤ちゃんは口と唇の刺激を求める。それはそれが快感で心地よいからである。
ちょうどこの時期と授乳時期が重なり、母の暖かい胸に抱かれ、おっぱいを飲む。このとき母親がどういう気持ちで、どのように世話したか。
アイコンタクトをとりながら、可愛い、愛しいと思って授乳できたか。
女優という仕事をもっていたら、おそらくゆっくりと子どもと向き合い、世話をすることは難しかったのでは。
そうすると、子どもの側は、不充分な授乳体験とともに、心に欠損をつくり、いつまでもそこに固着する。
そこで心の時計は止まり、心は満たされないまま、欲しい欲しいと子どもの自我のまま留まる。
母のおっぱいは後に、お酒、タバコ、薬物などに置き換えられ、その欠損の度合いによって、依存症へと移行していく。アルコール依存、ニコチン中毒、薬物依存というように。
ならばどうすれば高橋祐也容疑者は、薬物依存から抜け出し、その年齢に相応しい生活が出来るようになるのか。
三田さんは読み上げた文のなかで「女優の仕事をしていていいのだろうか。仕事をするより、子どもを監視するべきではないかと悩んでおりました」とあるが、子どもが覚せい剤に手を出さないか監視するのではない。
欠けた愛情を注ぎ、世話をし、見守るのである。それを育て直しという。
不登校でも、非行でも、育てなおしをしていくと、母親と一緒に寝たり、お風呂に入りたいと言い出す子がいる。そこまで退行できるということは、母親が母親として子どもに認識された証しでもある。
踏み外した階段は、踏み外したままでは上がれない。もう一度欠けたところまで戻って、やり直すこと。
母親が元気でいるのならそれが一番早い、近道。
「すべては私たち夫婦の養育、教育の失敗」といわれているが、その事の本当の意味をわかっておられるのか。
「どうすれば立ち直らせることができるのか方法がわからず、夕べも一晩泣いてしまいました」と。
私のところに聞きにきてくれれば、彼の行動を説明し、対応法も全てお教えするのだが。

2007年10月16日

ボクシングのWBC世界タイトルマッチにおける亀田家の問題について

世界ボクシング評議会(WBC)フライ級の世界戦で反則を繰り返した亀田大毅はじめ、父、兄それぞれに処分が下された。
私自身ボクシングについては詳しくなく、ときどきテレビ画面で亀田家の人たちのことは、それとなく見ていた。
その印象は、対戦相手に対する挑発的な態度。その中で聞かれる、相手を馬鹿にしたような発言。
そして今回、度重なる反則行為と、それを助長するような父と兄の言葉が問題となった。
残念ながら、亀田家の父、史郎氏には父性がない。
社会とは組織である。それは社会を構成する各要素が結合して有機的な働き(多くの部分が集まって1個の物を作り、その各部分の間に緊密な統一があって、部分と全体とが必然的関係を有する)をする有する統一体である。そこには当然ルールが存在する。
父とは、この社会のルールを教える役目がある。して良いことと、悪いことを教えるべき立場の人が、一緒になってルールを犯してどうするのか。
一家のなかだけであれば許されても、対社会となったときそれは許されない。
そういった父の下で育った息子たちは、野放しとなり暴走するのは当然といえば当然。
また父は、その一家のなかで旗頭となり、一家が進む方向を指し示すのだが、それが反則を犯しても勝つことが優先されたということか。
父、司郎氏は、「大毅にとって、1年間のライセンス停止処分はあまりにも長いと思います」と言ったが、長い短いを言う前に、親子共々社会性、ルール、スポーツマンシップを学んでいただきたい。
亀田家の人たちが今回のことをどう考え、とらえ、反省し、今からどういう方向に向かうかである。

2007年10月03日

今話題の沢尻エリカさん

主演映画「クローズド・ノート」、初日舞台あいさつで、司会者が話を振っても「別に…」「特にないです」としか話さず、最後まで不機嫌さを隠そうともしなかった、その態度に批判と失望の声が相次いでいるという。
賛否両論様々あるようだが、本人が公式ホームページで謝罪のコメントを発表し、長ければ来年の1年間を謹慎する可能性もあるとか。
ネットの記事を読んだだけで、彼女についてこれ以上の詳しいことは知らないが、確かに舞台あいさつでの態度はバッシングの対象になるだろうとは思う。
21歳という若さもあるだろうが、過剰な自己愛のもと、自分だけは特別、何をやっても許されるという誇大自己を持ち、高を括っていたのではないか。それは甘えと依存のあらわれでもある。対社会に向かったとき、それは許されない。
健康な自己愛を持った人は、他者を愛することができる。(自分を愛するように、人は人を愛せる。自分を愛せないものは、他者をも愛せない)だから人をファンの気持ちを大事にし、不愉快な気持ちにさせるようなことはしないだろう。それがいくらキャラだとしても、そのときたまたま機嫌が悪かったとしても、冷静な判断をして、その場にあった態度をとる。
一方で、彼女のふてぶてしい態度をよしとする人もいる。その人たちは、自分もそのように社会で振舞いたいが、それはできない。本当は自分がやりたいことを代わってやっている彼女に、自分を重ねてみているところがあるだろう。

人は、現実の自分をしっかりみつめて、かくありたい自分になる努力をし、周りからも認められる、現実の裏づけをもっているか、肥大した自己イメージ、かくありたい自己イメージのみを見つめ、現実の等身大の自分が見えていないかの違いは大きい。後者を自己愛者という。

     コピーライト 天海有輝  ラカン精神科学研究所  http://lacan-msl.com/

2007年09月21日

京田辺市16歳二女、警察官の父殺害事件

16歳二女は、自分が魔女だという幻想を抱いていた。それは殺人を犯すとき、儀式化として黒いワンピースを着たことからもわかる。
魔女である彼女は、鎌の代わりに斧を持って、夫の女性関係に恨みを持ち、復讐するという母の欲望を達成した。うつ病になってしまっていた母の夫への殺意を、二女であり魔女である彼女は汲み取り、殺人を実行した。
それは、母の欲望ということだけではなく、もう一つには、彼女の象徴的去勢を、父に向かって成し遂げたのである。この父にはおそらく威厳も何もなかっただろう。だから彼女は自分の意味をつくりたかった。母が嫌う父を殺すことが、彼女の魔女狩り(異端分子と見なす人物に対して、権力者が不法の制裁を加える)であった。そうすることによって彼女は魔女として復活した。彼女は主体性を抹殺され人間でないものになっていたので、殺人を成就すれば魔女になりきれる、そのためには父を殺す必要があった。
このように自分の意味をつくることを去勢(=象徴化)するという。打つということは去勢である。だから父の首を斧を振り下ろして切った。「象徴的去勢は叩くという行為で表される」とフロイトは言っている。叩く=(斧を)振り下ろす⇒象徴的去勢を意味する。これを彼女は象徴界で出来ないために、現実界と想像界でやってしまった。彼女には象徴界がない。現実界と想像界しかないため、魔女という想像界と意味を使って、自分を魔女としてこの世に復活させた。想像界(自分は魔女であるという幻想)をさらに現実界で行為化してしまった。
これは典型的な病理である。
彼女は自分が魔女であるという幻想がなければ、殺人という行為は出来なかった。彼女がそう思う何かが、彼女の養育史上あったはずであるが、それは今の時点ではわからない。ただ、中学のとき劇で魔女役を演じている。
母は、夫に見棄てられ、うつ(1~2ヶ月ひきこもって外に出なかった)になっていた。その母の無念を晴らすというあだ討ちの意味も含まれているだろう。
いろんな意味を複合している。その中心にあるのは、魔女という概念である。
そこに、母は娘である16歳の二女に父親のことを相談していたとあるように、いろんなことを吹き込んだのだろう。魔女幻想を持った彼女にとっては、うってつけのストーリーだった。
魔女とは、自分の中に悪魔の力がある。それは成長する過程で自分の中に分けのわからない衝動(破壊衝動やエロスティックな衝動タナトス的な衝動など)がある。それらを意識化できないために、自分が奇妙な存在になる。それが彼女の場合には魔女という概念になった。

福島の母親殺人事件は、男子であったために、ファルスは1本化しており明解であったが、女性の場合いろんな要素(いろんな想いや価値観)が重なって複合してしまう。ここに一般的にも男性は単純、女性は複雑と言われる根拠がある。最終的に一本化するために使われたのが幻想であった。彼女には魔女というキャラクターがあったために一本化してしまった。それによって全てが現象化・結晶化してしまい、行為化できてしまう。この中心がなければ分散してしまい、どれも行為化できない。普通の人はそこに至らない。
中心に何を持つかで決まる。いいものを持てば、自己を成長発展させ、人にも喜ばれる。
彼女の場合は、魔女という想像界的ファルスが入ってしまった。人間特に女性には核となるある一つのイメージが入らないとまとまらない。

以上報道された情報からこの事件を分析してみた。

2007年05月26日

福島17歳母親殺害事件

神戸の少年Aの事件以来10年が過ぎ、今回起こったこの事件を、精神分析的視点から解説した。
世間一般の考えや見方とは違った視点であり、一部差別的偏見と思われる表現もあろうかと思う。しかしこれは決して、個人を攻撃・誹謗中傷するものではなく、一つの見方として理解していただきたい。
故人のご冥福をお祈りいたします。
 

まず三つのキーワードがある。
1. 母の生首を持って出頭した。(母をバラバラに寸断した)
2. 腕を切断し、植木鉢に刺した。
3. 「殺すのは誰でもいい」といった。
サブ
1  実家を離れてアパート暮らしをしていた。
2 母は保育士だった。
3 母の誕生日に殺した。
これら全体をコンテキスト(背景)という。このコンテキストから一つのテキストを作り出してみる。
彼は母を殺した。だから殺すのは誰でも良かったわけではない。母をバラバラに切断したということは、身体のバラバライメージがあった=鏡像段階を経ていない。鏡像段階を経ていない彼は、母を憎しみの対象としてみていた。これはどういう意味かといえば、母のまなざしを受けていない、彼は透明人間であったことを意味する。(神戸の少年Aと同じである。)そうすると、母の腕を切った=象徴的去勢(ペニスの設立を意味する)。彼の母は(彼にとっては) ペニスを持った母であり、男性的な母によって育てられた彼らは共感・共鳴によって優しく心を抱かれることがなかったと考えられる。ゆえに彼の母のイメージは冷たい母である。のみならず彼らは見棄てられ、母は他人の子どもを保育していた。彼が人間としてこの世に生まれ変わるためには、母をこの世から削除し抹殺する必要があった。母を去勢することで、 彼は自分が男としてこの世に生まれ出るのである。それは儀式にもなってしまった。そして母の削除は「殺すのは誰でも良かった」という言葉と矛盾するが、「誰でもいい」という言葉を「どうでもいい」という言葉に置き換えてみたらどうだろうか。すなわち母は彼にとってどうでもいい人であった。ゆえに彼にとっては抹殺の対象であり、だれでも良いは=母を指す言葉になる。その証明として、母を母の誕生日に殺害した。これは、コンピューターの削除には上書きという行為がある。彼は母の誕生日を命日という言葉に上書きしたのである。だから母の誕生日に殺さなければならなかった。(コンピューターの削除、前歴を消すためには上書きすることで消える。だから誕生日を消すにはそれを命日にすれば消える)そこまでしても母を削除したかった。それほど母は恨まれていた。実家を離れアパート暮らしをしていたとは、島流しを意味する。保育士になるとは適切に世話されなかった、育てられなったことの証し。彼は知性高かったために、こういう儀式化をする。彼は「戦争がなくなればいい」とか逆に「テロがおきればいい」と言っていたが、戦争とは殺されるのは誰でもいい。戦争が起きれば彼は殺すのは誰でもいいというのが実行できる。だから戦争という言葉が出てきた。彼は戦国時代の武将と同じ、主君の首を取った(=戦利品)。彼は自分が男になった、人間になった証明をしたかった、それにはどうしても母の生首が必要。彼は殺人の証拠に母の首を持ていったのではない。自分を支配した母を殺すことで、やっと自分は人間なったという証拠品として持ていった。それまでは主体性を抹殺されていた彼。だから母の腕を切り取って、白いペンキで塗り、植木鉢にさした。のこぎりも白いペンキも事前に用意したのであり、衝動的殺人などありえない。だから計画的殺人である。母の腕を切ったとは、母の偽りのペニスを切ったということであるし、白いペンキを塗ったとは、白い血=白血病の母=冷たい母、情も何もない母。(マリリン・マンソン)植木勝ちにさしたその植木鉢とは、くぼんだものは女性性、子宮をあらわす。それにペニスを刺す=SEXをあらわす=近親相姦願望をあらわす。彼の場合には母と一体化したかったということ。それを象徴的に表現した。あとペニスを持った母という象徴でもある。これを隠喩という。女性でありながらペニスを持っていた、しかも冷たい母であった。母を解体して、生きた人間の姿をしてたけど、本当の母あなたはこういう姿でしょう、これが一番ふさわしい形だいいたかった。
この母は(子どもである彼が望む)世話をしていなかった。しかし世間では、子どもを世話して働いて親の鏡だといわれている。世間の評価と子どもの評価は違う。彼には母を殺した罪意識もないし、むしろ人間としてよみがえった喜びのなかにいるだろう。自分のされて来たことを考えれば、何を反省し詫びる必要があるのかと思っているだろう。彼はこれら象徴的儀式をしない限り、人間としてこの世に生まれ出られない。しかし、この母は特別な母ではなく、世間一般に普通にいる。


 子どもの望むことと、親の思いは違う。親は親なりに子どものために良かれと思っていろんなことを、言ったりしたりする。しかしそれは子どもがして欲しいことと一致しないことが多い。子どものして欲しいことに親が応えてくれたとき、子どもは満足し、自分を受け入れられたと思える。そういう食い違いがこの親子の間にも多々あったのではないだろうか。
 自分の子育てを振り返っても、同じようなことをしてきてしまった。途中でそのことに気がつき、幸いにして軌道修正することが出来たので、私のところにはこういう事件は起こらなかったが、あのまま自分の無意識のままに行動していたら、私にも同じことが起こっても不思議ではなかったと思う。
 だからこそあえてこの事件を取り上げ、過激と思われる表現もしながら解説してみた。
 ならばどうすればよかったのか。子どもの主体性を活かす対応法「ALL OK」しかも「「敏速かつ的確」に子どもの要求に応えることと、「承認と賞賛」と与えること。「ALL OK}というと 多くの方からは「そんなにわがままにしていいんですか」と言われる。子どもがわがままでなく、自分の本当の気持ちを言えず、親の顔色を見、親に合わせた自我をつくることに問題がある。だから非行でも不登校でもひきこもりでも、子どもの問題でお見えになる親御さんには、説明したあと、とにかく3年だまされたと思って「ALL OK」してください。必ず良い結果が出ますからと伝える。それを信じて実行してもらった方から文句を言われたことは一度もない。もちろん最初からうまく対応出来るわけではなく、やろうとしても出来なかったり、迷いが出てきたりする。それを分析を受け、自分を振り返り、母親教室で学んだりしながら少しづつ出来るようになられる。子どもの幸せを願わない親はまず居ない。しかしその方向が違っていたら今回のようなことも起こりうる。原因があっての結果だるから、結果が母親殺害という不幸な結果であったということは、子どもを育てる家庭に間違いがあったと言わざるを得ない。また無智であったことの悲劇ともいえる。ならば人間の精神とはどのように発達するのか、子どもへの対応はどうしたらiいいのか、それを知った上で子育てしていけば、無限の可能性を持った子ども達は自分の個性を伸ばし、いきいきと生きていけるのである。

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