ククライアントは「こうあるべき」「こうでなければならない」という硬い枠を持っている。
その枠に自分も他人も納まっていないといけない。
最初はこの枠が自分を縛り、生きにくくしていることに気付かない。
後にこの枠があるために生きにくいとわかるが、これがなかなか手離せない。
そもそもこんな枠など持たない方が楽だったと、枠を持たなくなったときにわかる。
と同時に、いかにこの枠に縛られ、自分を持てず無駄に生きてきたかを知る。
育ってくる間に親や周りからいろんな言葉を吹き込まれ、「~であるべきだ」「~でなければならない」の枠を持たされてしまった。
子ども時代、小さければ小さいほど、親たちの言動による枠を跳ね除けたり、否定することは難しい。
一生それを金科玉条のごとく思い生きていく人もいるだろう。
私の親は、私に25歳までに結婚しなければ、いいところにはお嫁にいけない、幸せになれないと吹き込んだ。
だから昔、友達のお姉さんが25歳を越えても結婚していないと聞くと、「えっ、まだ結婚してないの」と私は驚いていた(今から思えばなんと滑稽なことか)。
他にも、感謝しないといけない、女の子は早くから家のことができないといけない、結婚するまで婚前交渉をもってはいけない、先祖や親を尊ばなければいけない・・・ 日常の細かなことまで、ありとあらゆることに口やかましかった。
おかしいと思いながらも、それらを否定できず、私はそれらの言葉に従って生きていた。
「苦労は買ってでもするもの」と言われれば、楽をしてはいけない気になる。
我慢することが良いことで、自分の要求やわがままを出してはいけないと教えられたが、それらを出すことが大事だった。
子ども時代にはそれを親が受けとり、成長するごとに自分で我慢することや社会に適応することを学習し、しかし要求を全て抑えるのではなく、今の自分に出来る方法で満たす、置き換える。
抑えるのではなく、いかに満たすかが大事だった。
そうとは知らずに、出来る限り抑えることが正しいと思い生きてきた。
「真面目に生きなければ、神様は見ているから罰が当たる」と言われれば、怠けたり、人に悪意を持つことが出来なくなる。
人を憎んだり、恨んだり、怒りを抱いたり、人として当たり前の感情を抑えなければならなくなる。
人は真面目にだけ生きることが良いことだろうか。
真面目な自分と、羽目を外して不真面目な自分を適材適所使い分け、楽しむ事が大事と知った。
人を憎んだり怒ったりする、それも人間として当たり前の感情であり、それらをいけないものと思わなくなる。
それよりも、なぜ自分はこの人が嫌いなのか、腹が立つのか、何にひっかかっているのかを考えるようになる。
そこに自分のコンプレックスがあるはずだから。
そうなると、自分の感情に振り回されることがなくなっていく。
「人に出来ることは自分にもできる」と言われ、出来ないことに出会うと自分はダメだと落ち込む。
そもそも人に出来ることが全部自分に出来るわけがない。
人にも自分にも出来ること得意なことと、出来ないこと不得意なことがあって当たり前。
自分の特性や好きなことを知って、それを活かせば良い。
クライアントは様々な枠をはめられ、生きにくさを感じ苦しんでいる。
分析において語りながら、自分のからだに心に書き込まれた言葉、シナリオを解読し、書き換えていく。
親の価値観やものの見方で生きていくのではなく、自分の価値・見方で生きていく。
それには親との心理的分離が必要。
そこには愛と憎しみがあるため、これが厄介であるが、根気強く取り組めば自分を自分として感じ、生きている充実感が得られる。
悩み苦しみがあるから、病んでいるから分析を受けるのではない、分析は幸せを目指す人が取り組むのである。
ラカン精神科学研究所のホームページ
月刊精神分析2009年9月号 秋葉原無差別殺人事件