クライアントは、人から自分がどう見られるかを非常に気にし腐心する。
ある者は人の評価を得るために行動し、相手の求める自分になろうとする。
相手の期待する自分になれないと、自分が理想とする自己像の幻想が崩れる。
子どもの頃は、この相手は母であり、母の期待に応えようとする。
これが親の言うことをよく聞くいい子の正体である。
大きくなるにつれそれが母にとどまらず、他者一般へ広がる。
相手に主体を譲り渡せば自分は受身となるため、自己を相手に規定され、自己の存在を相手に意味づけられてしまう。
子ども時代、親の言葉は絶大である。
親に「お前はだめな子だ」「変わっている」「変だ」「不細工だ」「馬鹿だ」・・・とマイナスの言語で語られると、そのように自己をマイナスに規定してしまう。
これを大人になって、自ら書き換えるのは簡単ではない。
分析においてこの書き換えをする。
主体は常に自分の側に置く。
そうすれば、不安になることも、揺れることもない。
人が自分をどう思っているかなど気にならない。
しかし、主体性を持つことを許されず、相手(母)に預けてしまうように育ってしまうと、主体を常に自分の側に置くことができない。
鏡像段階の相互主体性の中で、主体を自分と相手の間で入れ替えてしまう。
だから自分は良いと思っても、相手から否定されると落ち込んだり、へこんだりと揺らぐ。
その時々、相手は勝手な自我で私を否定したり、規定しているだけである。
それに一々動揺していたのでは疲れる。
まずもって否定が成立すること自体、相手が主体であるということになる。
この相互主体性の罠から飛び出し、自分の側に主体を固定することである。
私はあるときから良い人をやめた。
人からみて良い人と言われるように振舞ってきた自分に主体性はない、と知った。