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分析家の独り言(コラム) アーカイブ

2011年7月 4日

分析家の独り言 400(インテグレーター名「安情共恵」へ変更)

インテグレーター(分析家)は、仕事をする上でインテグレーター名を自分で決め、自分で名付ける。

戸籍上の名前は、親の欲望が込められた親が決めた名前。

この戸籍上の名前とは別に、自己が自己を規定し、こういう人間になると決めた自我理想を名前にする。

一度付けた名前は、どんどん書き換えることになる。

名前を変えると決め、どうなりたいか、何を目指すかを考え、新しい名前を紙に書き毎日眺めあたためてきた。

そして、今「安情共恵」これで行こうと決めた。

安らぎ・安心を持って情緒豊かに人と共に生き、あたたかく慈しむ心、相手をあたたかく包む思いやりを持った人になる、という意味を込めた名前。

知を追求する「宣照真理」から、その対極にある情を重んじる事が必要と自覚した。

名前を変えて新しい自分に生まれ変わり、新たな自分を目指す。


分析家の独り言 392 (10月滋賀分析理論講座より:精神分析的姓名判断)

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2011年3月25日

分析家の独り言 399 (ラカン精神科学研究所HP7万件アクセス:月刊精神分析2009年9月号 秋葉原無差別殺人事件)

ラカン精神科学研究所のHP並びに各サイトへのアクセスが、昨日一日で3400ほどあり一気に7万を越えた。

昨日は、秋葉原連続殺傷事件の加藤智大被告の裁判で判決が言い渡される日であったため、秋葉原連続殺傷事件を検索する人達のアクセスが増えたと思われる。

月刊精神分析2009年9月号 秋葉原無差別殺人事件

昨日の裁判で、08年6月に東京・秋葉原で起きた無差別殺傷事件で、17人を殺傷したとして殺人などの罪に問われていた加藤智大被告(28)に対し、東京地裁は24日、死刑を言い渡した。

判決で東京地裁は、「犯行を思いついた発想の危険さ、残虐さ、冷酷さは被告人の人格に根差したものであり、更生は著しく困難である」と述べた。

被害者の皆さんにとっては当然の結果であり、望まれることだと思う。

しかし、彼が死刑になったとしても、第二、第三の加藤被告が現れないとは限らない。

可能なら、彼の養育史を丹念に聴き心の構造を分析し、今後同じような事件を予防するために私たちが知り考える事が出来ないかと思う。


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2010年12月31日

分析家の独り言 398 (2010年を振り返って;父の役割)

2010年もあとわずかとなりました。

今年一年を振り返り、公私共に様々な事があり、自分自身の課題も新たに見えました。

新しいクライアントとの出会いがあり、クライアント達に教えらることもたくさんあります。

クライアントの年齢は10歳代~60歳代までおられ、最近はお父さんのクライアントも増えました。

子どもの問題は、その母親と子どもののみならず、家族としての全体のシステムを見ていく必要があります。

そういう意味でも、家族の中心となり家族全体を公正で客観的に見、引っ張っていく父親の役目も大きいと言えます。

父親は仕事さえしていればいいというものではなく、家庭で父性性を発揮してもらわなければなりません。

子どもの事を母親だけに任せておくのではなく、積極的に関わってもらいたいと思います。

日常の子どもの世話は母親の役目ですが、家族をまとめここと言ったときの言葉や行動力、、社会のルールを教えるのは父親です。

お父さんに具体的に「これこれこうしてください」と言って実践してもらうと、子どもから「お父さんが変わった」という言葉が聞かれます。

家庭での父親不在(家族の一員ではあるが、父親が機能していない事)によって起こる問題も多いのです。

夫婦である子どもの両親が協力し力を合わせて問題に取り組んでおられます。

父親が仕事に逃げず、家庭、妻、子どもを想い関わり、問題を解決していこうとする姿勢が、家族システムを変え幸せへと導きます。


来年も更にクライアントの皆さんと共に成長・発展していきます。

それぞれにとって実りのある充実した良い年にしましょう。


明日1月1日、ラカン精神科学研究所のメルマガが発行されます。

興味関心のある方お読みください。


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2010年12月15日

分析家の独り言 397 (ラカン精神科学研究所HP6万件アクセス)

今日2010年12月15日、ラカン精神科学研究所のホームページのアクセスが6万件を越えた。

ホームページを作って3年半余りになる。

ブログ:宣照真理のセラピー日記メルマガ:子育て相談室便りオールOK!子育て法 や、不登校・ひきこもりに悩む方々へ非行・家庭内暴力に悩む方々へのサイトを読んで分析依頼や子育て相談室、各講座参加への連絡をいただく。

各々詳細をホームページやサイトで紹介しているため、それらを読んで電話等で分析の依頼の連絡が入る。

皆さんよく読んでいただいているようで、中には印刷して人に渡したということも聞いた。

子どもさんの問題や親子関係、ご自身の事、夫婦・パートナーとの関係など相談内容は様々ある。

公共機関や病院、各種療法様々ある中、日本ではまだあまり知られていない精神分析を受けてみようと思う方々がいる。

いくらホームページやサイトを読んだとは言え、精神分析や私という人間がどういうものかわからない中でよく分析を受けてみようと思われる。

藁にもすがる気持ちでパソコンを検索されたり、たまたまひかかったりという事があるのだろうが、人は出会いによって、人生が変わることがある。

最初は半信半疑の出会いであっても、そこに信頼という関係をつくっていくことが治療にもなる。

信頼があるから、頼ってもいいんだと思える。

そしてクライアントは、相談してみよう、これを聞いてみようとなり、誰にも話せなかった事を話してくれるようになる。

本当は親子の間で信頼関係を築き、そういう話が出来ればよかったのだが、話が通じないことが多々ある。

親子でもパートナーとでも出来なかった信頼関係を、インテグレーター(分析家)はクライアントと結んでいく。

また、私のホームページやサイトを見て、全く知らない者同士が信頼関係をつくっていける精神分析という仕事が出来ることを幸せに思う。

これから先どんな人達との出会いがあるのだろうと思うと楽しみである。


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2010年12月 3日

分析家の独り言 396(市川 海老蔵さん殴打事件)

歌舞伎俳優・市川海老蔵氏の今回の殴打事件。

最初は、一緒に飲んでいた相手を介抱してしていたらいきなり殴られたということだったが、調べが進むうち相手側は「最初に手を出したのは海老蔵。酔いつぶれた元リーダーの頭を揺さぶり、コップの酒をかけた。(海老蔵さんが元リーダーに)『何を酔っぱらっているんだ』などと怒鳴っていた」と主張している、という。

真相はまだはっきりしないし、出てきた言葉を鵜呑みにする訳にもいかないが、 もともと「酒癖はあまりよくない」(歌舞伎関係者)と言われる海老蔵氏。

相手を挑発するような言動があったのだろうか。

歌舞伎界にプリンスと言われ、人気も実力もあったと聞く。

しかし一方で、酒癖が悪く今回の事件が起きた時もかなり泥酔していたという。

なぜそこまで飲まなければならなかったのか。

精神分析ではお酒を飲んで酩酊状態になるということは、胎児・新生児に戻ったと見る。

酩酊ということは、自他の区別がなく、母と一体であった時代(胎児・新生児)の状態である。

今に満足し、今を本当に楽しんでいたなら、人は胎児や新生児に戻ろうとしないだろう。

彼は生まれた時から、歌舞伎役者になることが決まっていたはず。

小さい頃から歌舞伎の稽古をしたことだろう。

歌舞伎役者としての彼の生き方は最初から決まっていて、逆らうことは出来なかったのではないか。

生まれた時から、いや男の子であれば生まれる前から、進むべき人生が決まっているということは、精神分析からみればその子は最初から死んでいたということである。

常に主体性ということを重んじる。

自分の主(ぬし)は自分である。

自分が主体的に自分の人生の選択をその都度決めて進んでいく。

そこに自分というもの、アイデンティティ(自我同一性)、自分への誇りや自信価値観(自己愛)が確立していく。

しかし彼の場合、最初から自分の人生を選択する余地は無かっただろう。

そういう意味で彼は真に生きていたと言えるだろうか。

海老蔵氏はいずれ怪我が治れば歌舞伎役者に戻るのだろうが、自分というものを見つめ自分の生き方を問う時期かもしれない。

彼は相手の攻撃性(暴力・怒り)を挑発するということがあるとしたら、それは彼自身の攻撃性でもあると思われる。

この攻撃性はどこから来るものなのか、本来どこへ向けたいものなのか、それらを意識しておかなければ彼はまた同じ事を繰り返すだろう。


彼が特別ではない。

一般にもこういった、子どもが自分の人生を自分で選び決めていく生き方をしていない例はいくらもある。

そうして死んでいた自分をもう一度自分として生き返らせるために精神分析の戸を叩く人達もまた多い。


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2010年11月11日

分析家の独り言 395 (大阪子育て相談室より)

子どもに「オールOK」し、荒れる子どもが落ち着いてきた。

そうなるまでには、お母さんとしていろいろな努力があった。

私は、「子どもに対応するとき笑顔でお願いします」と言う。

子どもにとって、お母さんの普通の顔は怒っているように見える。

最初は引きつりながらでもいいので、笑顔で子どもに接する事。

しかし、お母さんからすれば、荒れて不機嫌であったり、お金の要求があったり、片付けないで、好きなときに食事の用意をさせられ、振り回される中で笑顔を作るのは、それだけでも大変な事。

だから「お母さんには女優になってください」と言う。

大女優になって、子どもの前ではどんなに腹がたっても、怒りたくても笑顔で対応してもらう。

このお母さんは、「鏡の前で笑顔の練習をした」と言う。

素晴らしい。

笑えない状況の中で、「笑顔でお願いします」と言った私の言葉をしっかり聴いてくれていた。

結果、「オールOK」で取り組んでほぼ2年、子どもは落ち着いていった。


このクライアントが、今子どもの事で悩む他のクライアントに、「この先生の言う事を聞けば、子どもは良くなりますよ」と言った。

私は、私が分析や理論を学ぶ中で知り得た事をそのままクライアントに伝えている。

それは我が師の言葉であり、そのまた先にいるフロイトやラカンの言葉や彼らが解いた理論である。

この理論の正しさを、精神分析という臨床を通していつも感じる。

私が特別であったり、えらいのではない。

この精神分析というものを理論体系づけ残してくれ、私にもわかるようにそれを噛み砕いて解説してもらえたからだ。

ただ一つ私にあったのは、継続する(根気)力・意志だったと思う。


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2010年11月 8日

大阪分析理論講座のお知らせ(平成22年11月)

大阪で分析理論講座を開きます。

日時 : 11月17日(水) 午前11:30-午後1:30
場所 : JR大阪駅周辺 (詳しくはお問い合わせください)
費用 : 3,000円 (プラス交通費500円、はじめての方はテキスト別途 1冊1,000円)

講座内容 : 『心の発達』 -肛門期の心の発達- 
          自律性の獲得(肛門期の発達課題)

「発達課題は、親の支配の許でどれだけ自らの自律性を持ち続けることが出来るかというところにある。もし親が威嚇と叱責、不承認、規制だけで接したなら、周囲に対する恥の感情や自分の能力に疑問を抱く・・・」(テキストから一部抜粋)


子育てする上で、また人間を理解するために役立つ理論です。

子育て中の方、結婚前の方、男女を問わず知っておいて欲しいことがたくさんあります。

テキスト途中から、お一人でも参加していただけます。

2名以上の参加があれば、新しく講座を始めます。

お一人で講座を始める場合は、1時間(3,000円)の講座になります。

興味・関心のある方、参加希望の方は下記へご連絡ください。(詳しくはお問い合わせください)

電話: 077-558-8766 または 050-3767-6283

携帯: 090-7357-4540

メアド:lacan.msl☆gmail.com ☆を@に変換したメールアドレスにメール送信願います(スパムメール対策)。


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2010年10月24日

分析家の独り言 394 (虐待:6か月次女「揺さぶり死」容疑、母親を逮捕)

生後6か月の次女を激しく揺さぶるなどして死なせたとして、滋賀県警甲賀署は23日、同県湖南市岩根、主婦窪恵美子容疑者(36)を傷害致死容疑で逮捕した。

 窪容疑者は「泣きやまないので、いらいらしていた」と述べ、容疑を認めているという。県警は、児童虐待の一例とされる「乳幼児揺さぶられ症候群」によって死亡した可能性があるとみている。

 発表によると、窪容疑者は21日午前8時45分頃、集合住宅2階の自宅で、双子で次女の由加李(ゆかり)ちゃんを両手で抱き上げて左右に数回、激しく揺さぶるなどして外傷性硬膜下出血を負わせ、同日午後11時25分に死亡させた疑い。

 乳幼児揺さぶられ症候群とは、体を激しく揺さぶられることで、未発達の脳が頭蓋(ずがい)骨の内側に打ち付けられて損傷する脳障害。子どもに腹を立てた親などが行い、死に至ることもある。

(10月23日Yahoo!ニュース http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101023-00000680-yom-soci より抜粋)
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最近「乳幼児揺さぶられ症候群」という事を耳にするようになった。

地元、滋賀湖南市で、乳児が泣き止まない事にイライラした母親が激しく身体を揺さぶる事により、乳児が死亡するという事件。

今回の場合も、犠牲になったのは生後6か月の乳児だった。

まだ言葉をしゃべれない乳児は、泣くことでしか自分をアピール出来ない。

おとなしくしていたのでは、忘れられ手をかけてもらえない。

乳児にとって泣く事は、コミュニケーション・言葉に相当する。

我々は泣く事=悲しいとか、悔しいという意味をそこにつけてしまう。

しかし赤ちゃんにはまだ大人が考えるような悲しみとか悔しさという概念はない。

不快であったり、母を呼ぶ行為であったりする。

この時期の赤ちゃんは泣く事によって母が来てくれる事で、泣けば母が来てくれ抱っこしてくれることを学んでいく。

もし、泣いても母が来てくれなければ、泣く事で母を呼ぶことが出来ない事を知り、泣かない子になっていく。

これがサイレント・ベイビーである。

また、子どもに泣かれると、母親は自分の育児が否定されたとか、抱っこしても泣き止まないと、この子は私を嫌っていると思う。

それが虐待につながる。

しかし赤ちゃんは母親を否定しているわけではない、嫌っているわけでもない。

赤ちゃんの泣くという行為をマイナスに受け取る母親の無知と、無意識がそこにある。

泣かれてイライラしている母親である自分と我が子の関係は、自分とその母との関係に移しかえられる。

問題は、今回の事件でいえば窪恵美子容疑者の養育史、親子関係である。

人は自分が育てられたように、我が子をまた育てる。

その過程が幸せなものであればいいが、そうでない場合は今回のような事件が起こりうる可能性がある。

だからこそ、赤ちゃんの心身の発達とはどういうものかを学んで、母親自身の無意識を知っておくことは大事である。

記事に「窪容疑者は子育てに悩んでいたといい、夫が自宅近くにある勤務先から昼休みなどに戻って育児を手伝っていたという。」とあった。

事前に防げなかったことが残念でならない。


子育てに悩んでいる方、当研究所で「子育て相談室」を開いています。

子どもの年齢に関係なく、参加お待ちしています。

後を絶たない、虐待事件が少しでも無くなることを願います。


詳しくは ラカン精神科学研究所のホームページをごらんください。

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2010年10月19日

分析家の独り言 393 (10月京都子育て相談室より)

子育て相談室に来る人。

分析を受け、子育て相談室にも来るクライアント。

その上理論も学ぶクライアント。

毎月必ず来る人もいれば、間隔が開く人もいる。

様々であるが、「オールOK」を実践されるお母さん方である。

その中の一人は、今月のメールマガジンにも書いた。
メルマガ:子育て相談室便りを参照ください。)

荒れる娘に対応し、娘が落ち着き可愛いと思える様になったと言われる。

「オールOK」の正しさをあらためて証明してくれる。

今、子どもに「オールOK」しているクライアントや、これから「オールOK」しようとするクライアントに、生きた症例として話してもらえ、大いに参考になる。

娘さんも落ち着き、お母さんにも笑顔が増えた。

今大変なクライアントが「子育て相談室」で話すことに、「うちもそうでした」と過去大変だった時のことを話してくれる。


例えば、荒れる子ども気持ちが理解出来ず、この子は頭がおかしいのではないかと親は思うことがある。

言葉が通じない。

「殺せ」、「殺してやる」、「刺す」、「出て行く」、「出て行け」などの言葉が飛び交う。

児童相談所や心療内科・精神科、カウンセリングなどに子どもを連れて行く。

そこで、発達障害だの、アスペルガーだの、人格障害、統合失調症などと言われることもある。

ほとんど分析に来るのは、そういった子どものお母さんで、子どもが分析に来ることは少ない。

しかし、子どもさんと面談すると、普通に話をする普通の子だった。

「問題なのは子どもではなく母親の方は?」と言いたくなる。

事実、母親が「オールOK」していくと子どもは変わっていく。

そして、母親も殺したい、死んで欲しいほどの子どもが可愛いと思える様になる。

「すごいことだ」と、あらためてまた思う。


それぞれに大変な中を子どもに「オールOK」して行く中で、迷いや疑問がでるのは当然で、それに対し理論面からまた様々症例を参考にアドバイスする。

さらに「オールOK」をして子どもが落ち着いてきた先輩お母さんの話や、他のお母さん達がどの様に子どもに接しているのか、失敗も含め話を聴き、共感したり、教えられたり、一緒に考えられる場であればと思い、現在京都と大阪で「子育て相談室」を開いている。


興味・関心のある方、参加希望の方は下記へご連絡ください。

電話: 077-558-8766 または 050-3767-6283

携帯: 090-7357-4540

メアド:lacan.msl☆gmail.com ☆を@に変換したメールアドレスにメール送信願います(スパムメール対策)。

ラカン精神科学研究所のホームページも参照ください
このサイトの 2、スケジュール(Googleカレンダー)に、「子育て相談室」の日時が載っています。

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2010年10月16日

分析家の独り言 392 (10月滋賀分析理論講座より:精神分析的姓名判断)

滋賀で約2週間ごとに分析理論講座を開く。

熱心に学ぶクライアントと共に、楽しく理論を解説していく。

テキストに沿って進めるが、質問が出るとそれに応えつつ、いろんな症例や私の事を入れながら話すためテキスト自体はあまり進まないことがある。

そんなことをしているとあっという間に2時間が過ぎる。

今、口唇期を終わり、肛門期の心を発達について話しているが、昨日もクライアントから名前の事について質問が出た。

精神分析的姓名判断というものがある。

私たちの名前は、ほとんど親が付ける。

名前は親の無意識、欲望によって付けられる。

その人に欠けたものが欲望になる。

愛されなかった人は、我が子が愛される子になるようにと願い、「愛子」と命名する。

もめ事が多かった親は、平和の「和」という字を使い、「和子」、「和夫」などと言う名が付けられる。

中には、人に頼んだり、占いに頼んだり、祖父母に孫の名前を付けてもらう人がいる。

それとて、その名前を了承したのだから、その親の無意識であり、またその名前を否定しなかった、主体性や欲望が欠如した名前がその子に付けられる。

いずれにせよ、名づけられたその子の欲望ではない。

他者の欲望を背負って生きる事になる。

だから我々インテグレーターは、それぞれが自我理想を掲げ、なりたい自分を漢字の意味に表し、自ら命名する。

わが師、惟能創理(いのうそうり)氏の著書『運命は名前で決まる』に詳しく書かれている。

サイト、月刊精神分析2009年01月号 運命は名前で決まるでも紹介している。

興味のある方は見てください。


精神分析の理論を知ることの面白さが伝わり、「そういう事だったのか」と知を得ることの楽しさをクライアントと共有出来ることは楽しい。

「もっと早くに知りたかった」と、この言葉をいつも聞く。


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2010年10月14日

分析家の独り言 391 (退行)

ある時、子どもが赤ちゃん返りすることがある。

これを「退行」という。

防衛法の一つでもあり、「現実からの逃避として、発達のより以前の状態や機能様式への逆戻り」である。

その年齢に相応しく出来ていた事をしなくなり、幼児のように甘えたり、身体的接触を求めたり、母親のそばを離れようとしなくなったりする。

一般によくあるのは、下の兄弟が生まれた事で、お兄ちゃんお姉ちゃんになった子どもが赤ちゃん返りし、哺乳瓶でミルクをに飲みだしたり、母親に纏わり付くなど。

これは、10歳代、20歳代、30歳代でも起こりうる。

精神分析では、クライアントが自ら退行する場合もある。

これは自己治療の試みと言える。

また、不登校・ひきこもり、うつなどの状態にあるクライアントに、その母親が世話することで退行した状態をつくることもある。

「オールOK」する事は、子どもが退行出来る環境をつくっているとも言える。

非行の子どもに「オールOK」する中で、10代後半の息子が、「僕ちゃんちゃい(3歳)」と言ったり、いきなり母親の膝に座ったり、またある時は、トイレの後母親に「うんこ見て」と言うことがあった。

不登校など何らかの問題に対応し「オールOK」するうち、母親に添い寝を求めたり、お風呂に一緒に入りたいと言う子もいる。

他にも、母親と一緒に小学校の時のドリルをやったり、御飯を作ったり、ゲームをしたり、常に母が視野の範囲にいて同じ空間に居る事を求めたり、抱っこや膝の上に座るなど、いろいるなケースがある。

肉体の年齢に相応しくない要求と行動に、周りの者は驚く。

しかしこれは、子どもの自我の取り返しの行為である。

欠けた乳幼児時代をそのものとして取り返す行為であるため、親ことに母親がしっかり世話をし応えていけば、子どもの心は満たされ成長していく。

親はこのままずっと、子どもの要求と甘えを聴き続けなければいけないと思うのだろう。

そのまま幼児的状態に留まり続ける事はない。

ところが精神的医療機関やカウンセラー、相談機関などで、子どもの退行をいけないという事があると聞いた。

子どもが退行するのは、親を頼り信頼して、「応えてくれるだろう」、「応えてくれるかもしれない」とういう期待のもとに出して来る事。

それを、子どもの単なる甘えとしか見ないのか、「退行させてはいけない」と言うとは・・・残念。

子どもなりに勇気を持って意を決して表現したのに、その要求を蹴られ否定されたとしたら、折角の機会を逃したことになる。

理論・真理を知らないと対応を謝り、こうしてチャンスを無駄にしてしまう。

世間一般に言われる事が必ずしも正しい事ではない。

真理を知る事であると、精神分析の世界を知って思う。

クライアント達も言う、「こんな事ならもっと早くに、精神分析をこの理論を知っておきたかった」と。

全く同感である。


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2010年10月 8日

分析家の独り言 390 (親が親らしくないと子どもはしっかりする)

インテグレーター養成講座の、性格論Ⅱ《躁うつ質》、性格形成の「劣等感と補償」の話の中での話。


その年齢にふさわしくなくしっかりしていたり、ませたことを言う子どもがいる。

中には、親子が逆転したかのように、子どもが親らしくしっかりした事を言う。

親が親らしくないと、子どもがしっかりして親らしくなる。

子どもがしっかりしているのは、親が親らしくなくだらしない証拠。

「しっかりした子」などと言われて、喜んでいてはいけない。

反対に、子どもが子どもらしく甘えん坊であるのは、親がしっかりしているという事である。

世間で言われる事と逆だろうが、子どもがませた口をきき、応対がしっかりし大人らしいのは、親が大人でないために、子どもが親を補うために大人になってしまった結果であるといえる。

講座に参加のクライアントが、「そう言えばママ友が、親は少し頼りない位の方がいいのよ。その方が子どもがしっかりすると言った」という。

これは親の手抜きであろう。

子どもの自我が育って、しっかりして行くのはいいが、親が手を抜き頼りないために、子どもがしっかりする事を喜んでいてどうするのか。

この子どもの自我を育てるために、まず母親は献身的に子どもの世話をし心を配る。

それをせずに、子どもが親のようになって、親に甘えず親に気を使い、子どもらしい子ども時代を過ごせなければいつかそのつけはまわる。

甘えや依存を子どもは諦め断ち切り、正常な心の発達を遂げられないで、いつか行き詰まる。

人は踏み外した階段(甘えや依存を充分体験出来ずに)を、そのまま登り続けることは出来ない。

後年、親が手抜きし子どもに欠けた事の請求書(お金であったり、世話であったりする)が回るか、本人が心身の病という形で表すか、事故怪我などを含む行動化で出すか、いずれにしても生きづらい人生となる。

子どもの言う事にしっかり耳を傾け、適切に世話をして情緒を育てることは、その子の一生の宝と成る。


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2010年10月 6日

分析家の独り言 389 (オールOKをして)

二人の子どものお母さんであるクライアント。

子どもが不登校になり、『オールOK』で対応をして来た。

これまで何年も母親として『オールOK』をして来たつもりだったが、どうも違っていた事に気づいたと言う。

『オールOK』をする母自身がそれとはほど遠い育ち方をし、頭では『オールOK』を理解しているつもりでも、実際子どもにどれくらい出来ていたかは危うい。

例えば、言葉では「いいよ」と言いながら、眉間にシワを寄せ、怒ったような不機嫌な顔でいた。

これでは子どもは本当にOKされたと思えない。

言葉で「OK」と言われても、顔が「NO」と言っている。

これをダブルバインドという。

「OK」と「NO」、この相反するメッセージを同時に出された子どもは、「OK」と「NO」のどちらをとればいいのか悩む。

クライアントもこれを子どもにして来たと言う。

それが、インテグレーター養成講座で理論を学ぶうち、子どもが「お母さん理論を勉強してくれてありがとう」と言ったという報告を受けた。

そして最近、「お母さんオールOKしてくれてありがとう。お母さんがしてくれなかったら、私は何も言えなくて苦しかった」と子どもが言ったそうだ。

迷いながら、悩みながら、失敗しながらもクライアントはよく頑張って諦めずに嫌にならずに子どもを想い『オールOK』をして来た。

講座を受け理論を学び、理論的理解もしつつ分析を受け、子どもにこう言われるまでになった。

熱心に理論を学ぶ姿。

苦しくても辛くても『オールOK』しようとする姿勢。

その努力が素晴らしく尊い。

子どもを想う母の力と意志、優しさ、それらが子どもに伝わり、母子共に成長していくんだなとあらためて思う。


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2010年9月22日

分析家の独り言 388 (オールOKして子どもが可愛くなる)

子どもの非行に悩むあるクライアントと出会ったのは2年前。

詳しい内容については、個人のプライバシーがあるため語れないが、最近このクライアントから送られたメールを載せていいと承諾をもらったので紹介する。


「娘の付き合う相手が変わった。落ち着いた。それより何より、何も考えず、ただ可愛い。そう思えた私が嬉しいです。」

「対応すれば私が変われました。素晴らしい娘です。娘がよく頑張ってくれました。感謝です。」というもの。


「よくやられたなぁ」、と私もメールを読んで嬉しかった。

私は2年では、このクライアンのように娘達が可愛いと感じられなかった。

またクライアントに教えられた、対応すればこうも変わるものだということを。

こういう時、この仕事をしていて良かったとつくづく思う。


この事については、メルマガ:子育て相談室便り 第7号(2010年10月1日発行予定)で、様々な方法から書く予定です。


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2010年9月17日

分析家の独り言 387 (田代まさし容疑者、コカイン所持で逮捕)

2010年9月16日午前2時10分頃、神奈川県横浜市中区新港1丁目赤れんがパークの駐車場内にてアジア太平洋経済協力会議(APEC)国際会議の応援警備に当たっていた福岡県警察本部の警察官に職務質問を受けた際、コカインをポリ袋に入れて所持していたことが発覚し、直ちに麻薬及び向精神薬取締法違反の容疑で神奈川県警察本部横浜水上警察署に現行犯逮捕された。また、この際一緒にいた一般人女性も覚醒剤を所持していたため、覚せい剤取締法違反の容疑で逮捕される。(ウィキペディアより引用)

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まずニュースをみて驚いたのは、コカイン所持で逮捕と共に、田代まさし容疑者の風貌だった。

髪の毛はボサボサで薄く、頬は痩せこけ、老けた印象と共に、普通ではない何か異様さを感じた。

薬物依存の人間は、あんなふうになるものなのか。


彼のこれまでの事件を振り返ると、

2000年9月に、女性の下着盗撮で、東京都迷惑防止条例違反で書類送検。

2001年12月には、近所の男性宅風呂を覗いたとして軽犯罪法違反容疑で現行犯逮捕。

 この時、自宅から覚醒剤が発見され、覚醒剤所持・使用容疑で再逮捕された。

2004年9月、夜に再び覚醒剤及び刃渡り8cmのバタフライナイフを所持していたとして銃刀法違反と覚せい剤取締法違反の現行犯で逮捕。

そして今回(2010年9月)、3回目の逮捕となった。


今年2010年8月に、清水健太郎が覚せい剤取締法違反(使用)容疑で逮捕。

更に、今裁判中の押尾学と、芸能界での不祥事が続く。


薬物依存は、なかなか治らない。

刑に服し反省したからといって、そう簡単に依存を断ち切れるものではない。

そこには無意識が関わる。

覚せい剤等の薬物は違法であることは知りながら手を出し、それに依存する心の構造が問題である。

この無意識と心の構造を見ることなく、ただ薬から一時期距離をおいても、一般社会に戻ればまた入手可能で再び手を出してしまう。

これを何度も繰り返す。

無意識が変わらなければ、その人の行動は変わらない。

インテグレーター(分析家)としては、彼らの養育しを聞きたい。

依存症の元には、必ず母性欠損がある。

小さい頃から母親にしっかり抱っこされ、世話され、愛されたといえない状況で育ったと思われる。

ウィキペディアに、田代まさし容疑者の簡単な生い立ちがあった。

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出生後まもなくしてキャバレーのチェーン店を経営していた父がほかの女性のもとへ走ったため両親は離婚、中学時まで母との母子家庭だった。母は夜の仕事をしながら政を育て、母が留守の間は大家に預けられていた。ミッション系の幼稚園に入園、その後小学校入学直前に東京都新宿区へ転居。転居先の百人町でも母との二人暮らしをする。
政が13歳の時、母が再婚。その後間もなくして父や父の再婚相手である女性と一緒に住む事となったが、その生活になじめず素行不良が目立つようになり、酒・煙草・シンナーに手を染める。また、新宿の映画館によく通っていた。

(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%BB%A3%E3%81%BE%E3%81%95%E3%81%97 ウィキペディアより引用)
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生後間もなく両親が離婚し、母一人の手で育てられる中、母が夜の仕事をする間は大家に預けられたのだろうか。

フロイトのいう口と唇の刺激を求める口唇期、田代容疑者はどれだけ母のおっぱいを心地良く飲んだだろう。

おそらくまともな授乳状況ではなかったのではないか。

それが中学生頃すでに酒・煙草・シンナーに手を染めるということで現象化している。

生後1~1.5歳の口唇期に母親が24時間そばにいて、子どもに関心を向け愛し世話をすることで、子どもの精神は発達する。

しかしそれが欠ければ、口唇による満足は得られず、母に十分に甘えることも頼ることも出来ない。

大人になっても、口唇の満足に固着し、甘えと依存に心はとどまり続ける。

本来、大人であればして良い事と悪い事の区別がつき、社会適応する形で心地良さ・快を追求する。

しかし精神が未熟な赤ん坊のままであれば、快・不快は母親の世話次第で、適切に世話されれば心地よい快を得られるが、不適切であれば、常に欲求不満にさらされ、心に欠損をつくる。

大人になってもこの甘えと依存が克服出来ず、覚せい剤等の薬物に頼らなければ、自分の快を得ることが出来ない。

それが例え違法であってもである。

だから、一度や二度覚せい剤等の薬物を使用したからと満足いくものではなく、反対に一旦手を出せば繰り返し繰り返し使用し続け無ければならない、つまり終わりがないのである。

この口唇期欠損者を「底なしの樽」という。

底がないため、入れても入れても溜まらない、詰まらない。

だからこの人達は、「何をしてもつまらない(詰まらない)」と言う。

多かれ少なかれ、我々も欠損している。

なぜなら100%満足のいく世話ができる母親はまずいないため。

その欠損の度合いによって、依存症にまで至る者とそうでない者がいる。

そういう意味では、どの親のものとに生まれるか、養育環境がどういったものであるかを子どもは選べない。

出来れば幸せな、まず母性ある母のいる家庭で育つことが望ましいが、現実は厳しいと言わざるをえない。

だからこそ、安易に子どもを産み育てることは避けたい。

親としての覚悟をしっかりと持って、結婚、更に出産を迎えて欲しいと願う。

また、人間の精神の発達とはどういうプロセスで進むのか(精神発達論)を知っておいて欲しいといつも思う。


私どもラカン精神科学研究所で、分析理論講座や、インテグレーター養成講座で、そういった理論をわかりやすく解説している。

興味のある方はホームページを参照し、ご連絡ください。

℡ 077-558-8766 または 050-3767-6283 (OCNドットフォン)

携帯℡  090-7357-4540

メアド:lacan.msl☆gmail.com☆を@に変換したメールアドレスにメール送信願います(スパムメール対策


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月刊精神分析2009年8月号 酒井法子覚せい剤所事件と分析理論

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2010年9月 7日

分析家の独り言 386 (症状;パニック障害、摂食障害等)

クライアントは様々な身体症状を表す。

ある人は、パニック障害による過呼吸であったり、内臓の病気であったり・・・。

身体の症状とは、言語化=象徴化され得なかった余りである、とラカンは言う。

小さい頃押入れに入れられたり、家の外に放り出されたりしたとする。

その時、まだ小さくてその時の寂しさ、心細さ、見捨てられた怒り、無力感等々様々な想いがあっただろうが、それが語りきれず、象徴化できずにこぼれ落ちた余りが、後に身体の症状として表れる。

摂食障害による過食・拒食症も同じである。

食=母であるため、母に甘えたかった、一緒にいたかったとか、逆に破壊したかった、拒否したかった事が言いきれず、過食・拒食という症状で表現される。

相反する気持ちが、過食と拒食を繰り返し一定しない。

それは身体にも置き換えられ、太ったり痩せたりする。

インテグレーター(分析家)はそれを言語として厳密に掬い上げる。

そこにあるのは母へのアンビがレンツ=愛と憎しみ。

それを言語化し、クライアントに戻す。

すると症状は消える。

分析はこの言語化していく作業である。

どこまでも的確に、こぼれ落ちたものも全て掬い上げ、根こそぎ拾いあげてクライアントに言語化し戻す。

少し前にやっていた「臨場」というドラマがあったが、その手法と同じである。

ひっかかったものをとことん考え、そこから真実が見えてくる。


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マイケル・J・フォックスとセラピー 月刊 精神分析 2010年09月号

2010年8月31日

分析家の独り言 385 (8月京都子育て相談室より:決して見捨てない)

昨日、『京都子育て相談室』を開いた。

いつものように、一人ずつ近況報告と子どもへの対応について質問を受けた。

それに答えつつ、症例や私自身の事を話していく。

いいタイミングで来てくれたと思うことはよくある。

参加のあるお母さんが、子どもと距離を取りたいと思っていたと言う。

しかし、どんなことがあってもそれは子どもを見捨てることになる。

子どもの行動、様子、症状を聞くとそれら全てが、母を求めている行為であることがわかる。

それを理論的に説明しながら、子どもの言葉や行動をインテグレーター(分析家)が言語に直し、お母さんに理解してもらう。

実際には子どもを見なくても、お母さんの報告からその子が何を思い何を訴えたいか、インテグレーター(分析家)にはわかる。

そのため、「それはこういう事です」と言うと、お母さんは「はい、子どもはそう言います」と言う。


確かに対応するお母さん方は大変で、子どもに文句を言われ、怒られ、不機嫌になられたりする。

それでも、にもかかわらず、子どもを見捨てず、閉ざされた子どもの心の扉をノックし続けていくのだから。

もういい加減、嫌になることもある。

世間からは、「そんな甘いことをしてるから、子どもがつけ上がってやりたい放題するんだ」と批判を受ける事もある。

世間をも敵に回し戦う事になる。

親にすれば踏んだり蹴ったりで、「や~めた」と言いたくもなる。

しかし、本当に戦うべき相手は親である自分自身であることに気づいていく。

そして、子どもの言動の意味を説明すると、「やっぱりオールOKするしかない」と思い直される。

最後には「来て良かった」の声。

私も「ああ、良かった」と思う。

これで子どもは立ち直り、成長の可能性がある。

ここで親が見放してしまえば、大阪の2幼児放置死体遺棄事件の村早苗容疑者に至る事もある。

参加のお母さん方は子育てする同じ親として、人の話も自分の身に置き換え納得し、気付くことがある。

「そうよね」「それわかる」の声が聞かれる。


世間で起きる様々な事件を食い止めるには、親が子どもへの正しい対応を知り、実践する事。

悲劇は未然に防げるのにと、事件が起きるたびに残念に思う。

一人でも多くの子どもが救われ、幸せな人生を歩んで欲しい。

母が対応すれば、子どもが自力で乗り越えるより、もっと短期間で、苦労も少なくいけるのだから。

ただ自力で乗り越えられず、事件や事故、心身の病等でつぶれていく場合もある。

そんなことを思いながら、毎月子育て相談室を開いている。


9月の京都子育て相談室は9月13日(月)の予定。


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2010年8月30日

分析家の独り言 384(滋賀インテグレーター養成講座より:関心は愛を育てる)

関心は後に愛を育てる。

クライアント達は、子どもに『オールOK』していく。

最初は迷いながら、失敗しながらも。

子どもの話を聞いているつもりだが、なかなか母親の心に入って来ない。

子どもは自分の言ったことが母に正しく伝わらず怒ったりする。

聞く母親が、その親に関心を向けられ、自分の言うことをしっかり受け止められていないため、無意識に子どもの言葉をスルーしてしまったり、外してしまったりして受け取れない。

また、子どもが言った言葉に、何かコメントを返すが、そのコメントが子どもを怒らせる事がある。

何かがズレていて、子どもはイライラするらしいが、母親はどこがどうズレているのかわからず困惑する。

それでもあきらめず子どもに関心を向け続け、子どもの言葉に耳を傾けていく。

そして、子どものストライクゾーンを探し、ど真ん中に当たる日が来る。

その努力が尊いと思う。


4~5日前、娘が「お腹が痛い」「お腹をさすって」と言った。

私は娘のお腹をさすり、娘が「もういい」と言うまで手を当てていた(これが手当てということ)。

一昨日、朝からバスケの試合に行き心身ともに疲れたのか、娘と晩ご飯を食べていた途中胃が痛くなり、たまらず横になって少し寝た。

心配して娘が「大丈夫?」と言いながら私のお腹をさすってくれた。

娘の温かい手が心地良かった。

「お腹をさすられるってこんな感じがするのか、いいもんだな」と私は思った。

私は娘にお腹をさすって欲しいと言ったわけではないが、したことはこうして返ってくるのか。

人の暖かさ、想いやり、関心をかけられた事が、情緒を育て愛を育てる。


そんな話を、性格論Ⅰ《パーソナリティー》を説明しながら、クライアント達と話し合った。


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2010年8月12日

分析家の独り言 383 (ラカン精神科学研究所HP5万件アクセス)

ラカン精神科学研究所のホームページのアクセスが5万件を越えた。

2007年春にホームページを立ち上げ3年余りになる。

私のクライアント達も、ラカン精神科学研究所のホームページ
のGoogleカレンダーの予定や、宣照真理のセラピー日記メルマガ:子育て相談室便りを読んでいると言う人達がいる。

分析依頼や、分析理論講座、子育て相談室への参加の問い合わせ・予約を連絡して来る新規のクライアントも、ラカン精神科学研究所のホームページや、オールOK!子育て法 など、各サイトを見ているらしい。

「オールOK!子育て法を読みました」という声はよく聞く。

非行やひきこもりで分析等に来られる方は、、オールOK!子育て法 や、不登校・ひきこもりに悩む方々へ非行・家庭内暴力に悩む方々へ のサイトを読まれているらしい。

ホームページや各サイトでは、私自身の経験や、仕事を通してクライアントの分析、講座、子育て相談室を通して感じたことや理論的な事を、ほぼスペースに制限なく書ける。

宣照真理のセラピー日記 では、出張予定や各講座・相談室の日程をお知らせしたり、『分析
家の独り言』と題してブログを書き綴っっている。


私は、17年前分析と出会った。

その頃の私は、子育てに悩んでいた。

もっと優しく子どもを育てたい、自分が育ったのとは違う子育てをしたかったが、それが出来ていない自分が見えた。

分析がどういうものかよくわからなかったが、とにかくこれしかないと飛び込んだ。

最初は子どものためと思って受けた分析だったが、結局は自分の問題だった。

自分を見続け、自分と戦ってきた。

気がつけば17年経っていた。

私は、あの17年前の夏、分析の戸を叩かずにいたら、今生きていなかっただろうと思う。

確かに分析によって救われた、私の命が今もある。

私のように悩んでいる人達に、精神分析というものがある事を知ってもらいたいと思い、日々ブログを書き綴っている。

精神分析を選ぶかどうかは、その人が決める事。

押し付けるつもりはない。

情報発信をして、それを見る人がいる。

その中の一握りの人が、分析を受けに来る。

これからもブツブツと独り言を書きながら、私の想いを伝えていく。

興味・関心のある方はお付き合いください。


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今年4月から月に1回発行し、今月で5号目となりました。
毎月購読者が増え、現在40名のメルマガ登録です。
ブログとはまた少し違った方向で書いています。


「子育て相談会 池袋コミュニティカレッジ」 月刊 精神分析 2010年08月号

2010年8月11日

分析家の独り言 382 (8月滋賀インテグレーター養成講座より:ペルソナ)

今回の8月1回目のインテグレーター養成講座は、『無意識論Ⅱ ユングの六つの元型(アーキタイプ)』を解説した。

六つの元型とは、シャドー(影の自分)、ペルソナ、アニマ、アニムス、老賢人、太母といわれるものである。

その中の一つペルソナとは、人が社会に対して見せている顔の事であり、人は社会に対して一定の役割をもち、それに相応しい性格をつくる。

それは本当の自分ではなく、人から見られたい自分を演出するための仮面でもある。

本当の自分は、羽目を外したい、しかし人からは良い人と見られたいので、良い人、真面目な人の仮面を被る。

時には、場所と時を考えて、羽目を外し不真面目にいきたいが、あまりにも真面目に良い人をやっていると、不真面目な自分は無意識に抑圧されたまま、現実で発揮される事がない。

良い人を演じすぎてしまうと、その良い人の仮面が自分の顔に張り付いてしまい肉化され、外れなくなる。

そうなるとこの人は良い人をやり続けるしかなくなる。

程良く、真面目と不真面目を使い分け、自分の中で統合していくのが健康な精神といえる。

また、ペルソナ(仮面)を100個も200個もいっぱい持っている人がいる。

Aさんにはこの仮面、Bさんにはあの仮面、Cさん、Dさん・・・と、人によって仮面を付け替え、しかも1個では壊れたら困るため、スペアーを数個持っている。

その仮面を首からぶら下げ、引きずって歩いているようなものだから、当然首・肩が凝る。

そのうちに背中が痛くなり、最後は腰に来る。

これが腰痛、椎間板ヘルニアにまで至る。

あるがままの自分で生きている人に腰痛はない。

と話していくと、講座を聞いていたクライアントが、「そう言えば、最近肩が凝らないのは、そういうことか」と言った。

以前は首・肩が懲り、体が重かった。

何か精神的にこたえることがあると、寝込む事もあった。

分析していくと、これまで引きずっていた仮面(ペルソナ)を捨てていく。

当然体は軽くなる。

心の軽さは、体の軽さになる。

仮面を捨てていったクライアントがいうセリフがある、それは「楽になった」である。

楽に生きる事は、楽しく生きる事。

心が行動を生み出す。

この心を扱うのが精神分析である。


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「子育て相談会 池袋コミュニティカレッジ」 月刊 精神分析 2010年08月号

2010年8月 7日

分析家の独り言381(虐待:ネグレクト)

朝のワイドショーで、母親自身が子ども時代にネグレクトの状態で育ち、その彼女が子どもを産んで育てる中で、我が子にまた同じようにネグレクトをしたという話を聞いた。

その人が言った、「自分の身に起きた事を、無意識に繰り返す」と。

その通り、人は自分が子ども時代嫌だったにも関わらず、その嫌なことを子どもに無意識に繰り返してしまう。

もちろん、良い事は良い事として繰り返す。

この無意識を意識に上げ、語り、しっかりと自覚しない限りマイナスは繰り返される。

精神分析で、根気よくこの作業をし、無意識に繰り返さないようにする。

人は誰も、無意識に操られて生きている。

育って来る過程で親に放っておかれた彼女は、子どもが自分のいうことを聞かず自分を無視すると、子ども時代親に無視された過去の事が思い出される。

当然、コンプレックスが刺激され、いきなり感情が出て子どもを怒るだろう。

そして、この彼女がいつも子どもに言うセリフが、「言う事をきかないなら、ママ出て行くからね」だったと言う。

子どもが自分の言う事をきかないと腹がたつ。

それは、その人が子ども時代に、おそらく親から言われた言葉だろう。

親の言うことをきかなければ、子どもを放って出ていくよとは、見捨て言葉である。

自分の力ではまだ生きていけない子どもにとって、母親の言う事をきかなければ、それは死に直結する。

すると、子どもはどんなに理不尽なことであっても、母親の言うことを聞かざるを得ない。

また、母親の機嫌をとったり、嫌われないように振舞う。

そうするうちに、子どもは自分の主体性を失っていく。

それは子どもの精神の死を意味する。

まして、今回の大阪の2幼児放置死体遺棄事件では、子どもは1歳と3歳だった。

母親の世話なしには生きていけない、それを無視し放置した。

下村容疑者もまた、親に見捨てられ、放置され、傷ついていただろう。

ただ刑に服すだけではなく、自分を見つめ、更生して欲しい。

まだやり直せる。

そのための援助者は必要だろうと思う。


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 虐待 月刊 精神分析 2010年06月号

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2010年8月 6日

分析家の独り言 380 (8月大阪子育て相談室より)

大阪で毎月1回『子育て相談室』を開いている。

子どものひきこもりや非行で悩むお母さん方が参加されている。

子どもへの『オールOK』を聞いて、実践しているお母さんの話し。

子どもに頼まれて、夜中にジュースや食べ物を買いに行くことがあるという。

非行の子ども達の行動に多いのは、友達を家に連れてくるケース。

いわゆる非行仲間が、夜中つるんで家でたむろする。

子どもの部屋で夜中に大きな声で話したり、騒ぐこともある。

当然、親は近所迷惑になるし、自分もゆっくり寝られず、できれば友達には来てほしくない。

お母さんの気持ちはよくわかる。

しかし、荒れ出した子ども達は、親の言う事はまずきかない。

そして『オールOK』だからそれも許容する。

思春期非行に走り出した子どもにとって友達は同じ寂しさや親への不満を持った仲間である。

子どもにとって、その友達を悪く言われたり否定されるのは、自分を否定されるようなもの。

だから、子どもの友達ごと世話する事になる。

子どもに欲しいと言われたものを、自転車で買いに走ると言う。

「子どもに言われた通り動きましょう」「子どもに振り回されてください」と私は言う。

なぜそうするか、理論的に『子育て相談室』の中で説明しているので、そのお母さんは子どもに言われた通りに動いている。

すると、荒れていた子どもから、そうして動く母親を想いやる言葉が出ることがある。

また、非行仲間の子ども達も、複雑な家庭環境や様々な問題を抱え、親にしっかり対応されていない寂しい子ども達である。

家にくれば、自分の子どもだけでなく、友達の分もご飯を用意する。

よくやっていると感心する。

話を聞いていた初めて参加の非行の子どもに悩むお母さんは、「自分は優しい方と思っていたが、違っていた」と言われた。

周りからは、「そんな甘い事をしているから子どもがつけ上がるんだ」とか、「もっと厳しくしないといけない」とか言われる。

ならば、子どもに厳しくして、叩いてでも言うことを聞かせればよくなるのか、いや良くはならない。

お母さん方は、世間の常識とも戦わなければならない。

そんなお母さん方の悩みを聴き、話し合い、また優しい気持ちで子どもに接っしてもらえるようにと願いながらこの日も2時間の相談室を終えた。


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2010年8月 4日

分析家の独り言 379 (オールOKするお母さん達にエールを送る)

クライアントは子どもの何らかの問題に悩み、ラカン精神科学研究所のホームページや各サイトを見たり、知人から紹介されて精神分析を受けに来られる。

子どもの問題であると、幼児・児童であろうが、十代・二十代・三十歳代であろうが、母親に子どもの状況を聴き、『オールOK』で子どもに対応してもらう。

なぜ『オールOK』するのか納得いくように説明し、具体的にアドバイスする。

しかし、、「オールOKし、子どもを受け入れ世話してください」と言っても、「私には私の人生があります」、「もう、子どもに振り回されるのは嫌です」とか、「それをしていたのでは、私は仕事を出来ません」などと言う人達がいる。

もう一方では、出来ればやりたくないが、どうやら『オールOK』するしかないらしいと思い、精神分析を受け、子どもに対応する母親達がいる。

人、様々である。

電話での問い合わせで、「先生は、どこの大学で、どういう先生のもとで勉強されたんですか」とか、「子どもにはちゃんとした精神科でカウンセリングを受けさせたい」と言われる方もいる。

有名大学を出たわけでもなく、社会的ネームバリューがあるわけでもない無名の私に、1時間1万円の分析料を払って、分析を受けにくるクライアント達がいることは奇跡かもしれない。

クライアントは、子どもに『オールOK』を実践していくが、日々子どもに接する中でいろいろな疑問や迷いが出てくる。

「本当にオールOKしていて良いのだろうか」、「いつまでオールOKをするのだろう」、「もしかすると、一生私は子どもの言いなりにならなければいけないのではないか」、「こんな事まで子どもに言われてオールOKをするのか」・・・など。

そういう疑問や迷いを個人の分析や、子育て相談室で質問される。

それに答え、説明していくと、クライアントである母親は皆さん言われる、「ここで聴くと、オールOKしようと思うが、また実際にやっていくと腹が立ったり、イライラしてしまい、失敗する」と。

そこには対応する母親の無意識(コンプレックス)が大きく関与するため、それは当然であり、仕方のない事。

「オールOKしてください」と言って、クライアントが「はい、わかりました」と言って何の抵抗もなくできるのなら誰も苦労しない。

そう出来るなら、もっと世の中に『オールOK!子育て法』が広まっているだろうし、対応する母親の分析も、子育て相談室も必要ない。

にもかかわらず、苦悩しながらも子どもに『オールOK』しようとするクライアントは素晴らしいと思うと共に、たまらなく愛しいと思う。

私も通って来た道であり、クライアントの苦悩は充分理解できる。

「何とか頑張って」と心の中で叫ぶ。

必ずその先には、子どもとの良好な関係を築き、苦労が報われる日がくる。

迷いながらも子どもに『オールOK』しようとするクライアント達をどうして支える事が出来るかを考える。

そして、私は無意識になど負けたくないと思う。


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「子育て相談会 池袋コミュニティカレッジ」 月刊 精神分析 2010年08月号

2010年8月 1日

分析家の独り言 378 (大阪2幼児放置死体遺棄事件)

大阪市西区のマンションの一室で、腐敗した幼い男児と女児の遺体が見つかった。
警察は30日午後、母親の風俗店従業員・下村早苗容疑者(23)を死体遺棄の疑いで逮捕した。

下村容疑者は「自分の時間が欲しかった。」
「風呂に入れたりすることが嫌になって、子供なんていなかったらよかったと思うようになった」
「ごはんや水も与えなければ、小さい子供は生きていくことはできないことはわかっていた」などと容疑を認めている。

下村容疑者は3姉妹の長女。
中学時代、非行に走り髪を茶色に染め、夜の街を徘徊(はいかい)した。
高校ラグビーの指導者として有名な父親(49)は、専修学校のラグビー部監督を務める知人の教諭に娘を託した。
下村容疑者は中学卒業後、この教諭の母親の家に下宿した。
卒業まで3年間、教諭のクラスで学び、放課後はラグビー部員の世話に汗を流した。

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思春期に非行に走る子どもに、なぜ親は直接関わらないのか。

この事件の下村早苗容疑者も、父親がラグビー部監督を務める知人の教諭に娘を託したとある。

また、母親はどう対応したのだろう。

子どもが非行に走り、親が手に負えないと自立支援施設に入れるケースがある。

残念ながらこれも、子どもを見捨てた事になる。

産んだ責任、産ませた責任において、親は子どもと向きあう事が大事である。

それを人任せにしてはいけない。

下村容疑者も、父親の知人の教諭に預けられ、高等専修学校で更生し、ラグビー部のマネジャーとして活躍していた。

卒業後は就職・結婚と順調に歩んでいたようにみえたという。

しかし、それは表面上のことではないか。

非行に走り、荒れなければならなかった彼女の心の闇が、人に託し預けたことで解消されたとは思えない。

どんなに子どもが荒れても親が抱え、時間はかかっても世話をし愛情をかけ育て直す。

彼女は「子供なんていなかったらよかったと思うようになった」と言っている。

非行に走った娘を、親は手に負えず、非行の娘などいなかったらよかったと思うことはなかっただろうか。

彼女が、自分の存在を大事にされ、必要とされたなら、自分の子どもを「いなかったらよかった」とは思わなかっただろう。

人は、自分が見られたように他者を見る。

彼女が自分の子どもに向けるまなざしは、彼女の親が彼女に向けたまなざしに重なる。

また、彼女はホストクラブにはまり、子どもを放って行っていたようだ。

ホストクラブは、お金さえ出せば、客である彼女を女王様のように大事に扱ってくれる。

これまで、そんな扱いを受けた事のなかった彼女がはまっていっただろうと想像出来る。

子ども時代に親から大事に扱われ満足していれば、風俗で働き、ホストクラブへ行くこともなかっただろう。


私も子どもの非行の問題で相談を受ける。

当然子どもへの対応法、『オールOK子育て法』をお話する。

最初は迷いながらも、疑問を持ちながらも、お母さんはお父さんの協力を得て子どもに『オールOK』をしていく。

すると、子どもによい変化が見える。

そうして、一生懸命対応している親御さん達がいる。


その一例を実際に非行の息子に対応したクライアントの協力を得て、非行・家庭内暴力に悩む方々へ で紹介している。


亡くなられた二人の子どもさんのご冥福を心よりお祈りいたします。


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 虐待 月刊 精神分析 2010年06月号

2010年7月28日

分析家の独り言 377 (第11回那須精神分析サミットより)

毎年この時期、那須でわが師、惟能創理(いのうそうり)氏の分析とイングレーター養成講座を受けた人達が集まり研修会が開かれる。

早いもので第11回目を迎えた。

今回のサミットのテーマは『診断』。

正しい診断、的確な診断により、治療方針が決まる。

診断とは、クライアントの何をミルのか、それは無意識を診る(調べる)のである。
厳密に言うならば、シニフィアンの軌跡を診るのである。
無意識は症状とパロール、ディスクールによって表現される。それをよく診て聴くのである、と。


インテグレーター同志の親睦をはかるため、今回は前泊し夜にも会合を持った。

この日(7月24日)の日中、惟能氏のインテグレーター養成講座第9期生の講座がスタートしたと聞いた。

私は惟能氏が養成講座として始めた、その第一期生になる。

当時のことを思い出す。

京都から東京に向かう新幹線に久しぶりに乗り、懐かしかった。

こうして月2回、埼玉ケ県熊谷まで3年間、雪の日も雨の日も、カンカン照りの日も通ったなぁ・・・と。

あの頃は、自分がインテグレーターとして仕事が出来ることを夢見ていた。

そして今、クライアントを抱えインテグレーターとして仕事をしている。

クライアントの様々な苦悩、問題に耳を傾け、共の成長を目指して、日々自分自身もまた磨かれる。

自我理想(自分が理想とする自分、目標)は、どんどん書き換えられる。

10年あまり前の私が目指した、自分のあるべき姿は実現した。

今の私は、更に洗練されたインテグレーターを目指す。

ただクライアントがいて、分析の仕事が出来ればいいというのではない。

クライアントの前に立つと、常に自分が試される。

自分自身に足りないところ、それを自覚し成長させていくための努力をする。

理論的に分かっていない事、曖昧な事はもう一度勉強しなおす。

時間がいくらあっても足りないくらいだ。


関東方面にクライアントがいる。

遠方であり、いつもは電話セラピーだが、年に1回は直接会って分析をする。

今回も会うことが出来た。


1年に1回仲間と会い、研修を通して意見を交換したり、それ以外の時間に談笑する中で刺激を受け、また私は私として頑張ろうと思う。

また来年、どんな話しが出来るか、どこまで自分が成長出来ているか楽しみである。

50を越えたこの歳になって自分の成長を目指し、それを目標とし生きられるとは、分析に関わる前の私は思ってもいなかった。


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2010年7月21日

分析家の独り 376 (無意識をみる)

分析場面でクライアントと向き合った時、クライアントの全てを情報として見る。

その日クライアントの来ている服にも意味がある。

クライアントはもちろん無意識であるが、心の状態やその日の気分を表す言葉の入ったTシャツを来てくることがある。

あるクライアントが着ていたのは、PARADOX PHILOSOPHER の文字が書かれたTシャツだった。

これは矛盾(した)哲学者、逆説(の)哲学者という意味。

確かにこのクライアントは逆転した世界に生きていた。

それは例えば、自分の喜びは相手の苦しみになり、相手の喜びが自分の苦しみになるとか、その人にとって快が不快、不快が快に換えられている。

自分が正しいと思っていることは間違っていて、間違っていることは正しいという逆転した世界に生きている。

これは非常にややこしく、疲れるはずである。

分析は、このクライアントの中の逆転を、快が=快に、気持ちいい事が=気持ちいい事に、喜びが=喜びにと、一致にするようにすることである。


また他のクライアントは、ETERNAL UNION という文字のTシャツを着て来た。

ETERNAL:永遠の  UNION:結合、合体、一致

永遠の結合、合体を求めているクライアントだとわかる。

人間が究極的に一体化を求めるのは母である。

このクライアントから、1時間の分析の間に「お母さん」という言葉が何度出たことだろう。


人は無意識に数ある服(Tシャツ)の中から、自分の好みの、自分にあったものを選び着ている。

それは偶然ではない、全ては必然である。

その無意識を読み取り、それに気付いてもらうこと。

人間は一人ではこの自分の無意識に気付くことはまず出来ない。

そのためにインテグレーター(分析家)がいる。

また、分析という場面ほど、自分に全身全霊を向けて関心を向けられる事はないだろう。

本来なら、親が子どもに常にこの関心を向けることが必要だった。

しかし、ほとんどの人が親から声もまなざしもスキンシップも充分に受けていない。

正確に反応してもらっていない。

その結果、逆転した世界に生き、肉体は大人の年齢になっても、結婚していても母親との永遠の一致を未だに願うことになる。

精神分析によって語り、クライアントは、自分に欠落したものに初めて気付き、変容し、成長していくのである。


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 いい子が危ない 月刊 精神分析 2010年07月号

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2010年7月20日

分析家の独り言 375 (7月インテグレーター養成講座より:コンプレックス、愛着)

7月2回目のインテグレーター養成講座は、『無意識論Ⅱ』コンプレックスとコンプレックスの形成を中心に解説した。

興味関心の高い項目の一つであったのか質問も多く、予定の六つの元型(アーキタイプ)と個性化と全体性は話し切れず、次回に持ち越しとなった。


人間が出会うもの、意識できるものは自分のコンプレックスである。

コンプレックスとは、自分にとって不快なものであり、嫌な自分である。

「あの人が気になる」、「あの人が嫌い」とは自分のコンプレックスをその人の中に見ている。

人間が外的世界に発見するものは、自分のコンプレックスであり、認識しないものは私ではない。

すると、何も外の世界に認識するものがないということは=外の世界に全く無関心であり、関わりを持たない=コミュニケーションを必要としない⇒孤立無縁、虚無の世界に生きることになる。

これが自分の事を『透明な存在』と言った、あの神戸の少年A、酒鬼薔薇聖斗である。

こういう意味で、「コミュニケーションは愛着の基本」と言える。


この話しをしたところ、参加しているクライアントの方々は、「愛着を知ってると思っていたけど、自分には無い」と言った。

まずまともなコミュニケーションをしているかが問題。

一方通行の言い放しや、かみ合わない会話を本当のコミュニケーションとは言わない。

クライアントは友人と話す時も、「お互いが自分の言いたいことを言っているだけで、相手の言っていることを殆ど聴いていない」と言う。

ましてや子どもと真のコミュニケーションをしていないし、自分の親とも出来ていない。

同じ日本語を話しているから、通じているつもりだが、どこまで理解しあっているかあやしくなる。

「会話ということがわからない」というクライアントもいる。

会話、コミュニケーションにより、人と人はつながる。

子育ての中で大事なのは、声、まなざし、スキンシップである。

それら全て、母親からの愛着を示す行動である。

母親が子どもに愛着を示さなければ、子どもは愛着を学べない。

「子どもに声をかける」事、それは子どもに関心がある証拠である。

過剰でもなく過少でもない、適切な関心を持って子どもに声をかけ、コミュニケーションしていくところに愛着が生まれる。


そんな話しをしながら、3時間の講座はあっという間に過ぎていった。


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2010年7月18日

分析家の独り言 374 (7月理論講座より:子どもの要求に敏速に応える)

理論を話しながら、、世間で起きた事件・ニュースなどにも触れ、分析的な見方から解説したりもする。

クライアントの個人的な質問などにも答えていく。

これまでひきこもりがちだった子どもが動き出す。

これまでになく外との関わりを持つとともに、母親への要求も増える。

非常に良い傾向である。

母親が『オールOK』しているのだろうとわかる。

しかし、子どもが動き出し、良い方向に向かうと、油断していしまわれるようだ。

『オールOK』には、更に「敏速かつ的確に継続して」行うという事が加わる。

敏速に応える事が大事だが、母親は自分のしたいことを優先して、子どもの要求を後回しにしてしまう。

母親は自分のしたいことではない事、得意でない事を要求されると、すぐに応えることが出来ないという理由をつける。

その元には、子どもの要求に応えたくない無意識がある。

子どもの要求に応える母親側が、その親に気持よく敏速に的確に自分の要求に応えてもらっていないため、それは起こりうることである。

しかしせっかく子どもが動き出したのだから、ここで気を抜かずしっかり応えきってもらいたい。

そこを解説し、納得してもらい、子どもの要求に敏速に応えてもらうようにする。

それはある程度、意識化することで可能であるが、また違う場面で、違う要求にしっかり応えられるかというと、それはあやしい。

人は無意識に引きずられる。

そう簡単に克服出来るものではない。

だから、個人分析でこの無意識を見ていく必要がある。

私は無意識に負けたくないと思うのである。


16年前、私自身もそうでした。
ラカン精神科学研究所ホームページ 「自分のことを振り返って」 の<分析との出会い>を参照して下さい。

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2010年7月16日

分析家の独り言 373 (7月京都子育て相談室より:お母さん方への支援)

子育て相談室では、何らかの子どもの問題に悩み、子育て相談室に来られ、『オールOK』を実践しているお母さん方がそれぞれの現状を話し、質問される。

それに私が(インテグレーター・分析者)が答えていく。

仕事の都合で来られなかった方の顔が久しぶりにあった。

『オールOK』を知ってもらい、家庭で実践してもらっていると、やはり子どもに変化が見られる。

お母さんがOKしても、周りの家族や人の理解が得られないこともある。

「ここ(子育て相談室)に来て、オールOKしている方達の話をきくとホッとする」とか、「他の方はどうしているのか聞きたかった」ということも言われる。

それぞれの状況は違っても、『オールOK』をし、その中で失敗したり迷ったり疑問に思うことを話し、それに私が答えることに共感されたり、納得される。

子どもに対応するお母さん方の苦労や想いは共通するものがあり、「それわかる」ということがたくさんある。

私も通ってきた道なので、お母さん方の気持ちはわかる。

例えば、頭では『オールOK』しようと思っていても、子どもにえらそうな口調で、「〇〇取れ」と言われると、言われた通り取りはするが、一言文句を言わずにはいられないという。

また、朝の忙しいときに、子どもに「あれして」「これして」と言われると、「忙しいのに、それくらい自分でやれるでしょう」とか「あんたの方が近いでしょう」と言ってしまう。

それを聞いていた他のお母さんも「そう、そう」とうなずく。

私も永い間そうだった。

どうせ、子どもの要求を聞くのだから、気持よく文句も言わずにきけばいいのだが、なぜかそれが腹立たしくて、釈然とせずに、いらない一言が止められない。

結果として、子どもの言うことをきくのだが、気持よくという訳にはなかなかいかないのだ。

その子どもの行為を、お母さんが子どもの甘えであり、自分への信頼と受け取るか、まるで自分を女中か家政婦かのようにこき使い、馬鹿にしているととるかによる。

母親である私たち自身が、その親に言いたい事を言っては来ていないし、子どもであった私たちが親にあわせて来た。

そういういい子でないと受け入れられないと感じ、無理をしてきたことがたくさんあった。

それを今度は、親が子どもに合わせようというのだから、当然抵抗する。

そこに、目の前の子どものように親に言いたいことを言えた、言うことを許された自分はほぼいない。

不本意ながら親に合わせ、親の言うことを聞いてきた子ども時代の自分の不快感や不満、悲しみ、悔しさなど様々な感情が出来事・事象とくっつきコンプレックスを形成している。

そのコンプレックスに触れるため、頭では子どもの言うことを聞いてやればいいとわかっていても、口をついて出る言葉は否定や拒否、文句となる。

なんで自分でもこれがコントロール出来ないのかと思うが、なかなか意識しても出来ない。

それでも、子どもに『オールOK』していくお母さん方にエールを送り、支援出来ればと思い、子育て相談室を開いている。

お母さんと共に、その向こう側にいる子ども達が自分らしさを活かし、活き活きと生きてくれるようにと願って。


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2010年7月13日

分析家の独り 372 (初めに心有りき)

精神分析は直接面談を基本にする。

例外として、遠方であったりして直接面談が不可能な場合は、電話やスカイプでの分析をしている。

インテグレーター(分析家)にとっては、クライアントとあった瞬間からクライアントの全てが情報となる。

その日の分析でクライアントのまず表情を見る。

クライアントのいかにも疲れたような顔であると、開口一番「ここのところ調子が悪くて・・・」いう言葉から始まる。

随分つらそうだなと思い、クライアントの語りに耳を傾ける。

分析は終わる頃には表情も明るくなり、クライアントからも「すっきりしました」という言葉が聞ける。

インテグレーター(分析家)として、ホッとする瞬間である。

分析はクライアントの利益のためにある。

また、明るい表情で来たクライアントは、自分の事であったり、子どもの事であったり、何か良い報告が聞ける。

変化進展があり、クライアントの語りを聞き、共に喜べるのはインテグレーターにとっても嬉しい事である。

不思議なもので、人の顔に心の状態は表れる。

笑う門には福来るというように、心の状態が顔の表情に表れるとしたら、暗い表情より明るい表情をすることである。

また、心の有り様が表情に出るのだから、心地良く楽しい気分でいると自然と表情は明るくなる。

やはり心が先ということになる。

初めに心有りきである。

クライアントの笑顔が増えるようにと願いつつ、分析に取り組む。


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2010年7月10日

分析家の独り言 371 (大阪子育て相談室より)

個人の分析や子育て相談室で『オールOK』の話をし、実際に家庭で子どもの対応してもらう。

しかし、実践していく中で迷いや疑問が出てくる。

本当にここまで何でもOKしていていいのかなど。

また、『オールOK!子育て法』は、世間一般にはそう簡単に理解されず、そういう人達からすれば批難の対象にさえなる。

「親が厳しく言わないから、子どもがつけあがっていつまでも学校に行かないんだ」などと言うのが、一般の人の意見である。

そのいわゆる多数派の世間からの声に負けず、母親が『オールOK』するのは至難の業である。

当然迷い、世間を気にして、世間体を重んじる方向に動く。

また、子どもに『オールOK』することが良い事と思いつつ、つい子どもを前にすると「ダメ」、「出来ない」の言葉や命令指示が出てしまうことも度々である。

最初から完璧に『オールOK』はなかなか出来ない。

それもよくわかる。

それを承知でお母さん方に『オールOK』してください、と言っているところはある。

失敗しながらでも、少しずつ『オールOK』してもらうと子どもに変化が見える。

実践して、その変化を感じたクライアント(母親)は、迷いながらも、失敗しつつも『オールOK』していく。

そのことが尊いと私は思う。

本当ならやりたくないが、そうすることが結局良い結果を生むだろうとわかるからしてくれるのだろう。

いわば、対応する母親は、自分の無意識に打ち勝ち、これまでの自分の価値観や世間体を捨てて、子どもを救い育てる方をとっていく。

それは母親が自分で自分を否定し、古いこれまでの自分を殺すことである。

これがまた辛い事である。

人間これまで生きてくる中で、自分は正しいと思わないと生きて来られなかった事がある。

そこにはプライドや信じた事があった。

それがあったから生きてこられたところがある、それを否定し壊すのは身を裂かれるような辛さが伴なうだろう。

それでも『オールOK』出来るのは、我が子を何とかしたい、幸せにしたいという気持ちがあるからだと思う。

母親の思いを何とかサポートして、いつの日か心から親子が笑い合える日が来ることを願う。

子育て相談室で、他のお母さん方はどのようにしているのか聞きたいという声がある。

既に実践してもらっているお母さんからのアドバイスや経験談も、『オールOK』を始めたばかりのお母さんの参考になる。

励ましあいながら、共に進んでいきましょう。


次回大阪での子育て相談室は8月5日(木)の予定。

参加お待ちしています。

詳しくはラカン精神科学研究所ホームページをごらんください。
               ↓
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2010年7月 8日

「いい子が危ない」月刊 精神分析 2010年07月号 発刊のお知らせ

『月刊精神分析2010年7月号』は、「いい子が危ない」というテーマです。

インテグレーター(分析家)の仲間である、東京精神療法研究所の立木歩実氏が語られています。

立木氏のお兄さんのことや、クライアントの例、ご自分の事を例あげています。

なぜ「いい子が危ない」のかを、考えさせられると思います。


世間一般にいう「いい子」とは、親や大人の言うことをよく聞き、おとなしい大人達にとって都合のイイ子です。

それは、自分の主体性を自分が持たず、それを他者に譲り渡した抜け殻のようなロボットです。

子ども時代は何とかこれでも生きていけますが、思春期頃になり自分で考えて行動することが多くなると動けなくなります。

そうすると不登校やひここもりになることがあります。

そうはならず、それなりに何とか生きてはいけても、本人は人生を楽しむとか、前向きに何かやりたいことを見つけて打ち込むということがないでしょう。

大人になって、生きていく中でいろいろな問題にぶつかり悩むことになるでしょう。

誰にもあることですが、それを乗り越えるのに大変なエネルギーがいり、へとへとになり、精神のバランスを崩すこともあるでしょう。

人に合わせたりすることは上手ですが、自分というものがないため、どこか空虚感や満たされない感じがつきまといます。

クライアント達から聞く言葉に、「自分の好きなことがわからない」、「自分の好きな色がわからなかった」、「私ほど自分を持っている人間はいないと思っていたが、違っていた」・・・などがあります。

気付いたところから、自分(自分の主体性)を取り戻すことです。

それには、どのようにして自分は自分を持てなかったのか、自分の主体を誰にどの様に譲っていたのかなどを振り返ることが大事です。

自分はこういう意味で「いい子」をしてこなかったか、振り返ってみるきっかけとなればと思います。

 「いい子が危ない」月刊 精神分析 2010年07月号
はこちらをクリックしてください。

『「いい子が危ない」月刊 精神分析 2010年07月号 』 目次

・ はじめに
・ プロフィール
・ 私の兄の事
・ B子さんの事
・ 良いこの構造:主体性のなさ
・ 自分を振り返って
・ 私の結婚生活
・ オールOK子育て法
・ 精神分析的幸福論
・ Webマガジン月刊精神分析&分析家ネットワーク


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2010年7月 6日

分析家の独り言 370 (子どもが主体性を持つためにすること)

分析で重要視するものの一つに『主体性』がある。

我々人間は、あまりにも未熟な状態でこの世に産み出される。

新生児はわずかに自我の芽生えらしきものはあっても、ほとんど全てを母に頼らなければ生きられない。

食事の供給(おっぱい)や排泄の世話が然りである。

精神的には母と一体であり、最初は自我が未熟であり、母親が子どもの自我を代行するようなもので、母親がこうすればきっと子どもは心地良いだろうと思い動く。

新生児から幼児へと成長すると共に、子どもの精神も成長していき、徐々に母はその子の主体の座から抜けて、本来あるべき子どもが自分の主体の座に座るよう変わらなければいけない。

もし母親がそのままその子の主体の場に居座り続けたら、この子は母の想いを満たすために生きることになる。

母の想いを満足させなければ、子どもは自分が自分でなくなってしまう。

この主体の交代を上手く出来る母親が少ない。

いつまでも子どもに主体を明け渡さず、自分の自我を主体性を子どもに押し付ける。

子どもは母親の操り人形か、ロボットと化していく。

ここで、子どもが自分の主体性を持つために、母を独占し振り回す体験が必須となる。

母が子どもに振り回されることで、それまで子どもの主体を代行し居座っていた母の主体が、子どもの主体と入れ替わる。

オールOKする中で、必ず「子どもに振り回されてください」という。

そうすることで、子どもは、私は私として存在し、母を満足させるために生きるのではなく、母は母として私は私として生きることになる。

そこで子どもにしっかりとした主体性が発生し、充実感が持てる。

それは途切れることなく自分で在り続ける意識である。

そしてこれが生命の充実感でもある。

反対に他者にその子の主体性を乗ったられたなら、そこにあるのは虚無感である。

子どもにオールOKし振り回されることは、子どもをわがままにするのではなく、子どもに主体性を持たせるためのものであった。


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2010年7月 4日

分析家の独り言 369 (滋賀分析理論講座より:リピドー)

滋賀分析理論講座は、前回の「口唇期の心の発達 リピドーとは」をもう一度振り返った。

クライアント達から質問があり、それに答えながら、エディプス期の男児と女児の心の発達を解説したり、症例を上げて話をした。

そのため、今回の講座はテキスト的にはほぼ進まなかった。


リピドーとは、対象を求め、対象に向かうエネルギーである。

外から備給されたエネルギー(リピドー)を、エスに貯蔵し、それを対象に向けて放出する。

この淀みなき流れが、生命感である。

ところが、この流れが育ってくる過程で滞ってしまう。

エスからせっかく対象に向かったリピドーが、親の「ダメ」、「わがままだ」、「贅沢だ」・・・などの言葉で、対象に行き着けなくなる。

「ダメ」が繰り返される、うちに子どもは「どうせ親に言っても無駄だ」と思うようになり、好奇心や対象への関心を失っていく。

これが更に積み重ねられると不登校、ひきこもりまたは非行になっていくことにもなる。

親が子どもに「ダメ」と言ったりして、否定するのは親自身がまた育ってくる過程で、同じように否定された再現であり、それはほとんど無意識的である。

そのため、親は当たり前に子どもを育て躾していると思っているだろうし、特別いけないことだとも思っていない。

本来は我慢させるのではなく、まず出すことである。

親がそのまた親に我慢させられてきたために、子どもにも我慢させる。

だから、ここで出すことがまず大事なことを親御さんに理解してもらい、子どもにオールOKしてもらう。

最初は失敗しながらも、これまで「ダメ」と言ってきたことを「OK」にする事が出てくる。

すると、何らかの子どもの変化が見える。

つり上がっっていた子どもの目が柔らかくなったり、「ありがとう」の言葉が聞こえたり、部屋の掃除をしたりと。

その報告を聞くと、親(クライアント)もしんどいながら何とか頑張ってオールOKしようとしていることがわかる。

クライアントも、頭ではオールOKすることが良い事と思いながら、それをすぐには出来きらず、またやる中で迷いも生じる。

それを分析で支え、同時に母親であるクライアント自身を振り返り見つめてもらう。

母親が変われば、子どもも変わる。

一緒に取り組み頑張りましょう。

ご自分と子どもの明るい未来のために。

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2010年6月29日

分析家の独り言 368 (7月メルマガNo,4発行によせて)

毎月1回、メールマガジンを発行している。

グログ、宣照真理のセラピー日記とはまた少し違ったエッセイ。

原稿を書き上げるのにも結構時間がかかる。

伝えたいことを文章にするのは簡単ではない。

2010年7月1日発行、NO,4のメルマガは、人間的交流について書いた。

書きながら、また自分を振り返る。

自分に欠けていた人間的交流ということに、そうとは知らずに16年前飛び込んでいた。

初めに知っていれば、精神分析の世界に入ることはなかったかもしれない。

私は自分に一番欠けていたものを、知り得ることを目指してしまっていた。

皮肉なものである。

「自分に無いもの、弱さと向き合う人は、強い人である」と言った人がいた。

クライアント達もまた、同じように自分に打ち勝ち、自分と向き合い、欠けたものを得ようとする人達である。

分析に入る動機は様々だが、結局は全て自分。

自分を活かし、人生を楽しみ幸せを目指す。


メルマガの登録は以下のサイトからできます。

興味のある方はみてください。

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2010年6月23日

分析家の独り言 367 (自分を見つめ 知る)

子どもの様々な問題で、そのお母さんが分析に来られる。

やはり多いのは、不登校、ひきこもり、非行の問題である。

ひきこもりも非行も、子どもの行動の違いはあるが、根っこは一緒といつも私は言う。

親は良かれ思って、子ども進む道を親の想いでレールを引く。

そこには、親の欲望があり、子どもは親の欲望で動かされる。

小さい頃はそれでいけるが、思春期あたりになると子どもも考える。

このまま親の言うとおりにしていて、自分はいいのだろうかと。

ふと立ち止まって考える。

親の言う事と、自分のしたい事がズレ、そうそう親の言いなりにはなれない。

こう子どもが感じることは正常である。

しかし親に言っても通じないと子どもが思えば、不登校や、服装の乱れ、帰宅時間が遅くなるなど
何かしら行動に出るしかない。

子どもも言葉で通じるなら、それにこしたことはないはずである。

しかし、それほどまでに子どもは親が自分を理解しないだろうとあきらめている。

コミュニケーションは大事である。

コミュニケーションが愛着を理解を生む。

また、親は自分の価値を欲望を子どもに押し付けたい無意識があることを知っておくこと。

自分と子どもはこの世に生まれた時から別個の存在であり、親が良いと思う事と、子どもが良いと思う事、したい事とは違い、それで当たり前であることをしっかり認識しておく。

子どもの問題で分析に来られ、子どもの話しをしながら親(母親)が自分自身の事を振り返り出す。

分析と分析の間に、自分で考えるクライアントがいる。

気付きが早く、子どもへのオールOKもそれなりにしてもらえるので、子どもの変化が見える。

小さな変化の積み重ねが大きな変化につながる。

大したものだと感心する。

やはり自分を見つめること、知ることが大切と思う。


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2010年6月20日

分析家の独り言 366 (6月滋賀分析理論講座より)

滋賀での分析理論講座を毎月2回開いている。

分析に来られ、理論に興味を持ったクライアンがの要請に応えたものである。

「理論が面白い」と言われる。

分析理論に引っかからないで、興味など持たない人もいる。

そんな中で、「面白い」と言って熱心に学ばれる。

知ることが楽しいと同時に、無知であった自分を知る。

心の構造を知っていくと、子どもや周りの人の言動がわかってくる。

なぜ、その人がそういう言動をするのか、その元にあるものは何なのか。

そしてまた、自分自身をも振り返る。

人が人を理解し、わかろうとし、興味・関心をもつことになる。

日常の中の人との関係が、より良いものなれば幸いである。

講座の中で理論を離れて、子どもへの対応や、分析者である私自身の事を質問されることもある。

参加するクライアントに応じて、話しを進める。

2時間があっという間に過ぎる。

来週は大阪でも分析理論講座を開くことになった。

どんな質問が出て、どういう展開になるか、ここでの理論講座も楽しみである。


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2010年6月19日

大阪分析理論講座のお知らせ(平成22年6月)

大阪で分析理論講座を開きます。

日時 : 6月24日(木) 午後2:00-4:00
場所 : JR大阪駅周辺 (詳しくはお問い合わせください)
費用 : 3,000円 (テキスト別途 1冊1,000円)

講座内容 : 『心の発達』 -口唇期の心の発達- 乳児の三つの発達段階

「生後1年間の最初の母との関係の発達過程三つの段階に分けてみてみよう。(1)対象の無い時代(微笑)・・・」(テキストから一部抜粋)

子育てする上で、また人間を理解するために役立つ理論です。

子育て中の方、結婚前の方、男女を問わず知っておいて欲しいことがたくさんあります。

テキスト途中から、お一人でも参加していただけます。

興味・関心のある方、参加希望の方は下記へご連絡ください。(詳しくはお問い合わせください)

電話: 077-558-8766 または 050-3767-6283

携帯: 090-7357-4540

メアド:lacan.msl☆gmail.com ☆を@に変換したメールアドレスにメール送信願います(スパムメール対
策)。


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2010年6月18日

分析家の独り言 365 (外向性と内向性)

ユングは自我の関心が外界に向いているものを「外向性」とし、内的世界への関心が高いものを「内向性」とした。

人は外の世界を安全か危険かで分ける。

外向性の人は、外の世界を安全だと思っており、自己の主張を他者に受け入れられるだろうという信頼と安心を持って外の世界を認識している。

そのもとは、育ってくる間に母親に受け入れられることが多かったはずである。

人にとっての最初の対象である母親との間で安全と安心を感じることができ、信頼ということを学んでいるため、この人にとって外の世界は安全と認識されている。

外の世界への関心が高く、積極的に外に働きかける。

反対に、拒否的タ態度や虐待を受けた人は、外の世界を危険と見なす。

すると外の世界から内的世界に撤退し、撤収する。

これがいわゆるひきこもりということになる。

外の世界への関心が低くなり、自分の心の内側にしか関心がなくなる。

すると、社会適応しにくい状況になる。

これを内向的態度という。

これも元は、最初の対象である母親との関係よる。

良い意味で、自分見つめるという内向性は大事なことではある。

ここでもバランスが大事で、外向性と内向性という相反することを、程よくバランスしていると良い。

相反することを自分の中で、統合するにはしっかりとした自我が育っている必要がある。

どちらか一方に偏ることなく、時と場合に応じて、外向性と内向性をバランスよく持ちたいものである。


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2010年6月16日

分析家の独り言 364 (自分を知る、幸せへの道)

クライアントは何度か分析で話すうちに、自分が忘れていたことをふと思いだす。

「ああそうだったんですね、気付きませんでした」と言う。

もう随分いろいろな事を話して、もう話すことはないのでは・・・と思っている。

ところが話しだすといくらでも出てくる。

そのことに驚く。

例えば、両親のことについて語ってもらい、クライアントはもう充分話したと思っている。

しかし、インテグレーター(分析者)からすれば、まだほんの入り口にすぎない。

これから分析を通して、語り尽くしていく。

それをもう充分話したと思うこと、これはクライアントの抵抗。

ほんの上辺を少し語っただけで、全てを語ったと思うことで、それ以上の語りを自分で止めている。

語れば、悪い母・父が出てくることを無意識に知っている。

対象関係論的に言えば、悪い母に対して悪い自我ができるため、それは見たくない。

悪い母・父、自分を見るのが辛いと分析から撤退していく。

それでも勇気を持って、自分と向き合っていこうとするクライアントは分析に来る。

そして自分と向き合い続け、自分を知っていく。

見捨てられた自分、悲しい自分、甘えたかった自分、我慢してきた自分・・・ いろいろな自分を知っていく。

甘えたかったのに甘えられず、我慢したかわいそうな自分を自ら救い上げる。

そのことが結果的に、その人の運命(無意識)を変え、人生が開かれていく。

それを私はホームページの「終わりに」で、「必ず道は開かれる。幸せへの道はそこにある」と記した。


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2010年6月13日

分析家の独り言 363 (インテグレーター養成講座より:肛門期)

昨日のインテグレーター養成講座は、発達論『肛門期』。

解説しながら、あらためてこの時期の大事さを思う。

ほぼ記憶の無いこの時期を、私はどんなふうに過ごしたのだろうと思う・・・ 予測はつくが。

肛門期 1.5歳~4歳くらいまでの時期、トイレット・トレーニングを通して、自律性を学んでいく。

同時に、相反する対立項を矛盾なく自分の裡に統合していく。

例えば、受身性対能動性。

受身性は、「~られる」「待つ」というもの。

能動性は、主体的に「私が~する」ということ。

消極性と積極性とも言える。

ただ待つだけでも、何でもかんでも積極的に能動的に動けばいいというものでもない。

時と場合に応じ臨機応変に、積極的に能動的に物事に関わる時と、少し引いて受身的になる時。

この程よさをいかに学習できるかである。

それを子どもは、養育者である親から学ぶ。

母親が程よく清潔好きで、几帳面で、積極的で・・・あると、子どもも程よい人になる。

多くは、程よさを知らず、極端にどちらかに偏ってしまう。

これを100か0か、白か黒か、×か◯かという偏った一面しか表現できず、偏執的行動化をしてしまう肛門期の関係障害という。


また、肛門期性格者は、秩序思考が強く、しっかりとしたある枠の中に入っている。

この枠の中で生きることを望み、この枠の中でしか生きられないと思っている。

秩序の枠内は、予測不能なハプニングが起きないため、心的エネルギーは最小限ですみ、安心していられる。

枠が強い秩序思考の人は、変化やハプニングを恐れている。

決まった日常の中で、環境や自分を変えることを拒み、同じことを繰り返し生きている。

これを頑固という。

これでは、人としての成長や発展は望めない。

以前の私はこういう生き方をしていたなと思う。

こういう生き方しか知らなかった。

冒険や挑戦をしてみようという勇気など持てなかった、動けなかった。

心が変わると、行動が変わり、前へ前へ進もうとする。

動けば当然、色々な刺激を受ける。

自我がしっかりしていれば、それらに振り回されることなく、取捨選択し、必要なものを自己に取り入れ変化成長を目指す。

すると自分の成長を楽しめ、生きることを楽しめるようになる。

講座で話しながら、そんなことを考えた。


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2010年6月10日

分析家の独り言 361 (大阪 子育て相談室開催によせて)

京都での子育て相談室はもう10年以上になると思うが、最近大阪へ出張することが増えたと共に、大阪での子育て相談室を今日開くことになった。

大阪のクライアントが増えたことで、個人分析に加え、子どもの問題で悩まれる方が子育て相談室を大阪で受けたいという依頼から始まった。

個人の分析の中でも、子どもさんへの対応法はお話する。

それとともに、その母親であるクライアントの養育史をたどりながら、クライアントの無意識を共に見ていく。

いつも言うが、私たちは自分たちが育てられたようにしか子どもを育てられない。

今子どもに何らかの問題が起きているとしたら、その元は母親であるクライアントとそのまた親との関係にある。

子どもだけを触って、何とかしよう変えようとしてもそれは出来ない。

クライアントの養育過程で形成されたコンプレックス(無意識)を意識化することである。

この個人分析と、一方で日常子どもさんへの具体的対応法(オールOK)を質疑応答し、なぜそうするのかを理論を含めて納得してもらえるようにお話する。

分析に加え、グループでの質疑応答、理論的説明によって、より子どもさんがまた親が落ち着き安心できるようにサポートしていく。

もちろん、個人分析を受けていない方の、子育て相談室への参加も歓迎しOKである。


関心のある方、参加希望の方、詳しくはホームページを見ていただくか、電話等にてお問い合わせください。

電話: 077-558-8766 または 050-3767-6283

携帯: 090-7357-4540

メアド:lacan.msl☆gmail.com ☆を@に変換したメールアドレスにメール送信願います(スパムメール対策)。


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2010年6月 8日

分析家の独り言 360 (親が変わる)

子育て相談室で、質問に答えながら子どもへの対応法 『オールOK』 を話す。

なぜそうするのか、理論的に説明もする。

それでも、 『オールOK!子育て法』 を聞けるのは、ほんの一部の人である。

ほとんどの人は、「子どもをそんなわがままにしていいんですか」と言う。

精神分析や子育て相談室等に来て、 『オールOK』 を実践しようと思う人はまれである。

しかも続けて参加し、取り組むクライアントはさらに少なく、奇跡に近い。

子どもの何らかの問題で悩み、苦悩し、道を探して分析や相談室に来られるが、取り組みだせば母親自身のコンプレックスに触れ、 『オールOK』 したくても、どうしてもできず、子どもと同レベルで感情的になり怒ってしまったり、拒否してしまう。

私も長い間そうだった。

頭でOKしようと思っていても、「ダメ」の言葉が口から飛び出す。

「ダメ」を言ってしまってから、また言ってしまったと後悔するが、その繰り返し。

それが辛かった。

また、自分では結構やれているつもりでも、子どもにすればまだまだということもある。

それでも分析によって、自分を見つめ知っていくと、変わっていく。

自分を理解した分、他者である子どもを理解出来るようになる。

最初は、要求を出す子どもを妬ましく、憎らしく思う、イライラする。

「私は親にそんなこと言ったことも、要求したこともないのに」と。

子どもにえらそうに激しい口調で言われると、同じように言い返す。

しかし、自分もその昔子どもと同じように、親に言いたいことをいい、要求を聞いてもらいたかった、甘えたかった。

それを認めれば、子どもの気持ちが理解出来るようになる。

また、親や大人から植え付けられた言葉・価値が邪魔をする。

勉強出来ることが価値有ること、人に迷惑をかけてはいけない、子どもは親の言う事をきくもの・・・ 親はいろんなことを言い、子どもを自分の思うようにしたい。

この枠が強いほど、子どもはその枠に押し込められ、つらく苦しい想いをする。

これでは、子どもは自分の良さ・個性を発揮出来ない。

いつも言うが、子どもを変えようではなく、まず親が変わること。

枠を壊し、子どもを命令指示することをやめ、子どもを尊重すること。

そのためのサポートと智を与えていくのが、子育て相談室や分析理論講座、そして個人の分析である。


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2010年5月31日

分析家の独り言 359 (トイレット・トレーニングと子どもの心)

フロイトの言った肛門期は、ちょうどトイレット・トレーニングの時期にあたる。

この排泄をめぐって、子どもは自律性、セルフコントロールを学ぶ。

つまり、自分の排泄したい生理的欲求をいかに自律的にコントロールするかである。

例えば、親は子どもに「今おしっこをしなさい」という。

子どもは、「今したくない」。

また、親は「ここでおしっこをしておきなさい」という。

子どもは「いや、ここではしたくない」という。

このように、いつ・どこで排泄するかを、自律的に自分で考え行動すること。

この排泄をする = "出す・出さない"ということが、あらゆることに関わってくる。

出すものは大小便に限らず、お金も出す出さない物の一つである。

肛門期のトイレット・トレーニングに失敗すると、お金のコントロールが上手く出来ず、ケチ・しぶちん(出し渋る)か、または浪費家(垂れ流し)かという両極端になる。

他にも"出す・出さない"に関わるものがあり、言葉、感情などもそうである。

言葉・声を出す・出さない → 言う・言わない となり、おしゃべりか無口になる。

言葉・声を出す事に障害があると、吃音にもなるだろう。

感情の表出が下手であったり不適切であると、無表情であったり、泣くべきとことで泣けないなどとなる。

これら肛門期に養育者とのトイレット・トレーニングのやり取りの中で子どもは学習する。

ケチな吝嗇家は、我慢させ、抑える事を教える。

だらしがない養育者は、おむつが濡れていようが汚れようが垂れ流しのままにする、これが浪費家を生む。

おむつを取り替える時期が不適切である。

反対に、排泄を厳しく管理しコントロールしたい人は汚れることを嫌うため、たびたびおむつの中を見る。

子どもは何度も見られると、自然にそこに意識が行く。

これがこだわりや執着心を生む。

ちょっとしたことにもこだわるようになり、それが何度も手を洗う行為や、人の言ったことが気になってこびり付いてしまう。

こうして養育者(母)の心が、子どもの心に影響を及ぼす。

たかが "トイレット・トレーニング"、されど "トイレット・トレーニング" である。


理論を振り返り学ぶたび、自分の無知を知る。

同時に、知ることの喜びも知った、精神分析の世界である。


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2010年5月29日

分析家の独り言 358 (5月滋賀インテグレーター養成講座より:口唇期から肛門期へ)

5月2回目のインテグレーター養成講座は、口唇期の途中から、肛門期の途中までを講義した。

0~1.5歳の口唇期の発達課題は基本的信頼。

母親に適切に世話され愛されることにより、母親との間で基本的信頼を学ぶ時期。

この母への信頼をもとに、周りの人と信頼の輪を広げていける。

しかし、母との信頼を学べなければ、その先の他者との間に信頼を持つことは難しく、人間関係を結んでいくことも難しくなる。

そういう意味で"ひきこもり"とは、この口唇期からの欠損と言える。

口唇期に欠損していても、1.5歳頃から肛門期に入る。

リピドーは口唇から肛門に移る。

ちょうどトイレット・トレーニングの時期である。

肛門期の発達課題は自律性の獲得(セルフ・コントロール)である。

排泄をめぐり、親子の間で支配と服従、権力闘争がくり広げられ、その親の支配のもとでどれだけ子どもは自らの自律性を持ち続けられるかである。

直立歩行と言葉を使い始めた幼児にとって、自律とは分離不安を伴ないながらも、母親に見捨てられるでもなく、飲み込まれるでもない、程よい距離を学習している。

この時母親が躾という名のもとに子どもを支配してしまうと、子どもの自律性は育たない。


講座参加のクライアントの質問を受けながら、3時間半の講義をした。

次回は6月12日(土)、肛門期の残りと、エディプス期を講義する。


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2010年5月26日

分析家の独り言 357 (育てなおし)

子どもの非行や不登校・ひきこもりの問題で、ラカン精神科学研究所へ相談や分析に来られる。

その方達は、これまでにいろいろな相談機関にも行かれていることが多い。

公的機関もあれば、私的機関もあり、それぞれがいろいろな対応法を言う。

そんな中で気になるのは、「もう子どもは18歳ですから、自分で自分の事はさせてください。突き離しなさい」、「一番してはいけないのは、母親が仕事をやめることです」などということである。

精神分析がいう発達論からいうと、どういう根拠のもとにそういうことを言われているのか。

例えば、「一番してはいけないのは、母親が仕事をやめることです」ということ。

それは、子どもに対してこれまで通りガミガミ小言を言ったりする、子どもにとってうっとうしい母親が仕事を辞めて子どもに傍にいたなら、それはマイナスだろう。

しかし私がいうのは、そういう子どもにとってうっとうしい母親だったから、子どもは非行にでも走らざるを得なかったのではないか。

そうではなく、オールOKする母親になり、子どもの傍にいて適切に世話をすること。

これを『育てなおし』という

出来ることなら、仕事を持っておられるお母さんには、仕事を辞めて子どもの傍にいてもらいたい。

初めからそれが無理でも、その方向で動かれると、子どもの状態が良くなる。

そうすることによって、子どもの自我を育て、家庭を居心地良くする。

そうすれば、わざわざ外に行って友達とつるみ、犯罪行為をすることもない。

しかしまた、ひきこもりの問題については、「親が子どもの言いなりになって、家を居心地良くするから出て行かないんだ」と言う機関もあると聞いた。

それなら居心地悪くして、追い出せというのか。

それも違うだろう。

子どもを受け入れ、理解し、子どもとの間に良好な関係を築くことである。

フロイトのいう口唇期(0~1.5歳)に、子どもが適切に世話され、愛されることによって、母親との間で基本的信頼を学ぶ。

この母への信頼を元に、他者との信頼をつくっていく。

子ども時代に母との信頼が築けなければ、その先の他者と信頼を築くことは難しい。

そうすると、ひきこもりの人達に多い、人との交流・関係を結ぶことが苦手となる。

非行で走り回る子ども達は、一見仲間がいていいかのように見えるが、その人間関係も良好かどうかはわからない。

寂しさをなめあい、おとしめ合ったり、上下や強者弱者の縦の関係が見られる。

対等で、互いを尊重する関係は、まず家庭の中で母親と学習し築くものである。

圧倒的に弱く、親の庇護を必要としてこの世に生み出された子どもには、まず親の世話と愛情が不可欠である。

先程の、「一番してはいけないのは、母親が仕事をやめることです」というのは、発達論を知らず,親の対応法を言わず、親の無意識を知らないための発言であろう。

親自身の欠損や傷つきなど、親のコンプレックス(無意識)知らずして、子どもへの対応は難しい。

子どもを変えたければ、先ず親が変わること。

そのために精神分析がある。


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2010年5月22日

分析家の独り言 356 (5月滋賀インテグレーター養成講座より:気付き)

私自身も個人分析と教育分析(スーパービジョン)と理論の講義を受けている。

その中で不思議だなと思うことが度々ある。

それは自分の夢分析の内容や現実がクライアントのスパービジョンとリンクしたり、その日学ぶ理論ともつながっている事。

個人分析で分析された私の無意識やテーマが、その日学ぶ理論でまた説明されるとは、まるで私の無意識がその日の理論を先読みしていたのかと思うくらいである。

しかもそこにクライアントの無意識やテーマまで共通点が見えると、ユングのいう普遍的無意識(集合的無意識)を思う。

(普遍的無意識:人間の無意識の深層に存在する、個人の経験を越えた先天的な構造領域がある)


クライアントの分析においても、インテグレーター養成講座で説明した内容が、クライアント心の構造を分析したと同じくらいにクライアントに理解される。

インテグレーター養成講座の後、クライアントから「この間の講座の内容のここが、全く自分のことだと思いました」という言葉が聞かれる。

理論的に心の構造を説明している内容を、自分に当てはめて「そうだ、私はこれだったんだ」、「こういうことだったのか」と思うことはよくある。

時期によって納得がいき、より自分を知ることになるときと、まだ受け入れることが出来ず、無意識を刺激され、辛いと感じるときがある。

これが分析場面でおこると、前者はタイミングよく解釈がクライアントに理解されたときであり、後者は解釈の時期が早かったということになるだろう。

分析においてはこのタイミンが難しい。

インテグレーター(分析家)の側に、クライアントを早くよくしてあげたい、治さなければという気持ちがあると、焦りが早すぎる解釈になり、それがクライアントの抵抗を生んでしまう。

理論を聞いてクライアントが自分で気付いてくれる分には、無意識を刺激され辛いと感じてもクライアントが自分で対処し処理出来る。

クライアントが達は、インテグレーター養成講座の内容を録音している。

私も昔学んだ時には同じように録音し、何度も聴き文章として保存している。


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2010年5月17日

分析家の独り言 355 (2010年5月子育て相談室より)

子どもの様々な問題で、子育て相談室に来られる。

その中でまた様々な質問を受ける。

子どもへの日常の対応の仕方。

具体的に「子どもが~と言った時、どう言えばいいか」「どう対応すればいいか」

暴力があったり、万引きなど犯罪に関わる質問・疑問もある。

子どもの問題をめぐって両親がぶつかることもある。

その時の母親または父親として、夫に妻にまた子どもにどういう態度をとればいいか等々。

これを聞きたいと質問を用意して来られる方もいる。

子どもに対応し、感じたことや子どもや自分の変化を報告される方もいる。

それらに、精神分析理論に基づいて質問に答え、アドバイスしコメントする。

何かしら思うとろがあって参加された人達なので、先ず話したいという方がおられればその人から聞く事が多い。

後は順番に一人ずつまわしていき、それぞれに話をしてもらう。

しかし無理強いはしない。

「今日は(話さなくて)いいです」という方もおられ、それは尊重する。

他の人の話を聞いて、その答えや理論的説明、アドバイスも参考にしてもらえると思う。

5月の子育て相談室も、こういう事が聞きたいということで来られた方の話を、参加の方々と共に聞きそれに答えていった。

参加の方同士で質問や、感じたこと意見が述べられた。

もちろん、他の参加の方の話・質問も聞いて答える。

そんなことをしながら、この子育て相談室、以前は母親教室よいう名称だったが、10年を越えた。

6月は7日(月)に子育て相談室開催。


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2010年5月16日

分析家の独り言 354 (5月1回目 滋賀分析理論講座より)

滋賀県大津市のラカン精神科学研究所で分析理論講座を開いている。

テキストを元に分析理論を解説していくが、症例などを入れ、私自身の育ち方や子育ての話しを入れながら進める。

クライアントからの質問や考えなどにも答える。

そのためテキスト自体はあまり進まない事もある。

クライアントに合わせて、最近の事件・ニュースを取り上げたり、それを分析的視点で取り上げもする。

2時間の講座時間もあっという間に過ぎる。

理論を語りながら、クライアント達といつも言う事がある。

「知らないということは恐い事ですね」、「精神分析の理論にもっと早く出会いたかった」と。


私も知らなかったために、娘が寝てくれるのを良い事に放っておいてしまった。

抱くことも少なく、出来るだけ自分のしなければならない家事や家業を優先してしまった。

子どもの心の発達など考えることがなかった。

クライアント達が言うように、食べて、寝させて、着せて、学校に行かせていればいいものくらいに思っていた。

精神分析を受け、理論を学ぶと全く違っていた。

無知であった自分を知った。

親が私に言った事、した事の多くも違っていた。

それなら本当の事が知りたいと思った。

精神分析分析理論もこれから学ぶ事がたくさんある。

自分にも向きあい、クライアントの分析を通して学ぶ事もある。

私の終わらない欲望である。


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子育てネットワーク

2010年5月14日

分析家の独り言 353 (言葉:迷子)

あるニュース番組で見た、潮干狩に来ていた父親と4~5歳の幼児。

父親は出かける前、その子に「迷子センターに行かないでね」と言った。

それは、「勝手に動きまわって迷子になり、迷子センターに行くような事にならないように気をつけて」という意味だろう。

ところが、子どもは迷子になった。

海の監視員が迷子センターに連れて行こうとしたが、その子は頑としてそれを拒んだ。

「迷子センターに行かないでね」と言った父の言葉通り、迷子センターに行ってはいけないと思ったのだ。

監視員は迷子センターに行くのを嫌がる子どもを説得し、連れて行くことが出来た。

そして迷子の放送をして、迎えに来た父親に子どもを引き渡すことが出来た。

言葉は大事。

幼い子どもが親に「迷子センターに行かないでね」と言われれば、「迷子センターに行ってはいけないんだ」と思う。

この子は父親の言いつけを守ろうとした良い子だ。

お父さん、しっかり子どもに話しましょう。

言葉を端折りすぎて、それでは子どもに伝わらない。

「迷子センターに行かないでね」の意味がしっかり伝わっていない。

ラカンは、「人は誤解から始まる」という。

人と人が理解しあうことは、そう簡単ではない。

だからこそ、まず自分の周りの大事な人達としっかり意志の疎通をはかりたいものである。


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2010年5月11日

分析家の独り言 352 (ラカン精神科学研究所HP4万件アクセス)

当ラカン精神科学研究所のホームページのアクセスが4万件を越えた。

2007年春にホームページを立ち上げ3年になる。

その後、
『天海有輝のセラピー日記(旧ブログ)』、 『宣照真理のセラピー日記』
『オールOK!子育て法』
『不登校・ひきこもりに悩む方々へ』
『非行・家庭内暴力に悩む方々へ』
『ラカン精神科学研究所 福岡支所』
『skype de stherapy(スカイプ セラピー)』
『子育てネットワーク』
『メルマガ:子育て相談室便り』
『月刊精神分析』などのサイトをつくってきた。

現在月に約2千件のアクセス、それを見たと精神分析の依頼を始め、各講座、子育て相談室への参加の連絡をいただく。

最近はパソコンの他、携帯からホームページ・サイトを見たと連絡が入ることが増えた。

心療内科・精神科、公的相談機関やカウンセリングを受けている方達もいる。

それぞれの悩み問題、病理を抱えどこへいけばいいのか、どういう所があるのか分からなかったり迷っているように思う。


私が精神分析を知ったのは16年前だった。

それまで精神分析など全く知らずに生きて来た。

分析を知らなくても生きられるが、知ってからの人生が変わった。

全く無知であったことに気付き、本当の事=真理を知りたいと思った。

このままの自分ではダメだと否定した。

そして少しずつ自分を知り、知った分だけ崩して新しく変えた。

自分を否定することは成長することだと知った。

散々否定されて生きてきた私が、自分で自分を否定することに抵抗があり苦痛が伴った。

私も味わったためクライアント達が抵抗するのもわかるが、それを乗り越えていかに自分を見つめ変容・成長に向けて歩みを進められるよう援助できるかを考える。

人はこの世に一人でも自分をわかってくれ理解してくれる人がいれば生きていける。

それが母であればいいが、インテグレーター(分析者)がクライアントの語りに理解と共感を持って耳を傾ける。

そうして信頼を築いていく。

人間にとって信頼と愛着が大事である。

不安、恐怖、不信が人の心を蝕む。

自分を振り返って、クライアントの分析を通してそう感じる。

私自身、私の中の不安・恐怖を安心に、不信を信頼に書き換えて来た。

2010年5月 6日

分析家の独り言 351 (継続は力なり)

この連休皆さんはどう過ごされたでしょう。

一人暮らしをはじめた娘も自分の巣へ帰っていき、また普段の生活が始まる。

3月半ばから働き出し、家を離れていって1ヶ月半程、その間も1~2度帰ってきていたが、娘のいない生活に慣れてきていた。

それでもこの連休買い物に付き合い、次の日また京都で買い物をすると言って出て行った娘を見送って、寂しさを感じた。

仕事に慣れてきて、会社の同期や先輩ともなんとかやっているみたいで安心した。

健康で頑張ってくれたら、それでいい。

もう親の手を離れた娘に、私から何かをすることはまずない。

言われた時に言われたことを正確にするだけ。

小さい頃からそうしておけばよかった。

それを自分の思い通りに動かそうと、怒ったり脅したり見捨て言葉を吐いたり・・・。

途中から「オールOK」に切り替えたが、果たして私がしてしまったことは償えるほどに、娘に負わせてしまったであろう傷を癒す程に出来ただろうか。

手元にいればしてやれることもあるが、離れてしまえばそれも叶わない。

過剰でもなく足りなくもなく、子どもが望むその要求に応えるのはやはり『オールOK』しかないと今はっきりわかる。

「子どもが親に要求を出すのは、信頼があるから。」

「皆さんは子どもの要求をそうとは取れないで、不快に思ったり、怒ったりしている」と講座や分析で散々いわれたが、それも今になればわかる。

前はそんなことを言っても、、お金も労力もいる、めんどくさいし、したくないと思っていた。

信頼、愛着というものがわからなかった。

やり続ければ得られるものがある。

コツコツ日々の積み重ねが大事。

継続は力なり。


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 婚活相談と結婚生活 月刊 精神分析 2010年05月号

2010年5月 5日

分析家の独り言 350 (人生を楽しむ)

連休中の二日間、この春就職し一人暮らしをはじめた娘が家に戻ってきた。

「初めての一人暮らしなので、家具にもこだわりたい」と言い、車で家具屋や雑貨を見たいと言った。

それに一日付き合った。


棚、カーテン、ラグ(カーペット)、布団カバー、トイレカバーなどを見て回った。

娘は「好きなものがありすぎて、決められない」と言い、結局これといったものは買えなかった。

ラグ(カーペット)を見に行った店員さんのアドバイスで、まず本を買ってもう一度、どういう感じの部屋にしたのか、コーディネートを考えるとことにした。

好きなものを寄せ集めてきたのでは、統一感がなくバラバラになってしまうということらしい。

そういえば、もう一人の娘もここ1~2ヶ月の間に、部屋の家具を全て買い換えた。

テレビボード、ベット、机、椅子、棚、鏡・・・と。

それに付き合って、神戸や大阪まで何度か出向いた。

自分の好みの気に入った家具に囲まれて暮らす、そんな考えは私の中にはなかった。

一度買ったものは出来るだけ大事に長く壊れるまで使うのが私。

それに比べれば、娘たちは健康だなと思った。

以前の私なら、自分の好みを主張し行動していく娘を、羨ましく妬ましく思っただろう。

しかし、私とは違う健康な精神を持ってくれて良かったと思えた私自身に、少し驚いたと同時に嬉しくもあった。

「私も少し成長したな」と思った。


私が自分の生活を人生を楽しもうとしなければ、娘達を縛ってしまう。

何で私はこんなに辛い思いをしているのに、あんた達は好き勝手をしてるのと言いたくなる、いやきっとそう言っていた。

娘達にまたあらためて教えられる、もっと私は人生を楽しめばいいんだと。

わたしは自分を解放し楽しむためにお金を使っただろうか。

人生楽しんだもの勝ち、同じ生きるなら楽しいに越したことはない。

知らず知らず自ら苦痛へ、不快へ無意識に向かって行っていなかったか。

我慢することは良い事と教えられ書き込まれ、自分を抑える方に向いていた。

破綻しない範囲で、目いっぱい楽しんでいる娘を見習おうと思う。

普通、母親である私にないものは娘達にもないはずだが、楽しむことを知っていた娘達は、途中から「オールOK」したことが良かったのだろう。

『愛とは自分のもっていないものを与えることである』とラカンはいう。


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 婚活相談と結婚生活 月刊 精神分析 2010年05月号

2010年5月 4日

分析家の独り言 349 (意味の病No,3)

人間は意味の病である、

だから何も意味を持たないのが幸せである。

例えその意味がプラスの意味であっても。

一切の意味を作らず、無意味を生きること。


インテグレーター(分析家)は、クライアントの分析をするとき、自分の意味生成作用であるシニフィアンを作動していけない。

私が私のシニフィアンを作動させてクライアントの語りを聴いたなら、クライアントの語りに私の意味付けをして勝手に納得してしまうからだ。

それではクライアントの無意識は見えない。

白紙の心でクライアントに向かえという。

インテグレーター(分析家)にも無意識(コンプレックス)はもちろんある。

だから、個人分析を受けて自分の無意識を出来るだけ意識化し、知っておくこと。


振り返れば、私はマイナスの意味のかたまりであった。

人が恐かったし、いつも不安を抱えていた。

人に嫌われているのではないか、何か失敗するのではないか、うまくいかないのではないか・・・果てしなくマイナス思考だった。

その私がよくここまで来られたなと思う。

「子どもの記号としての言葉を正確に聞き取りなさい」と言われても、それが出来ず、自分の意味を付けてしまう。

娘達が私に要求を出して来たときに必ず出てくるフレーズは、「あんた達はいいよね、私はそんなことは言うことさえ出来なかった」だった。

分析の世界に入り、オールOKを知り、それをしないわけにはいかなくなり、オールOKする事は良い事と頭ではわかりながら、言動がノーになってしまう。

自分との戦いだった。

それでも諦めずにコツコツやっていく事。

石の上にも3年どころか、私の場合はその5倍ほどの時間が必要だったか。

クライアント達にいつも言う、「この私に出来たのだから皆さん誰にでも出来ます」と。


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2010年5月 3日

分析家の独り言 348 (意味の病 No,2)

クライアントは、いや多くの人は意味の病のかたまりである。

秋葉原連続殺傷事件の加藤智大被告が、職場に行って自分のロッカーに作業着であるつなぎがなかった事を、「俺に(会社を)辞めろってか」と意味づけたように。

(以下のサイトを参照ください
 天海有輝のセラピー日記 分析家の独り言 112 (秋葉原通り魔事件)
月刊精神分析2009年9月号 秋葉原無差別殺人事件
 6、(B)促進要因 ③破滅的な喪失

分析において、クライアントの語りを聴きながら、なぜクライアントはこういう意味をつけるのかを探っていく。

これがシニフィアンの分析である。

否定によって最初にしまわれ原抑圧された言語、例えば「わたしは見捨てられた子」「嫌われた子」と意味付けた、このたった一個の文字「嫌」(嫌い)から全ては始まる。

何でも、どんなことでも自分は嫌われていると思ってしまい、様々な現象に対し、「自分は嫌われている」と意味付け、そう見えてしまう。

本来自分は「好かれる」はずだったのに、「好かれる私」が否定されて「嫌われる」に書き換えられてしまった。

また例えば、触れられることを求めたが、それが叶わず放っておかれたり、抱っこされなかった。

そして「触れられることは心地よい」ということが否定された。

それにより触れられることは「心地よい」が「不快」に書き換えられ、触れられると気持ち悪いになる。

本当は自分が一番欲望していることだが気持ち悪い。

この人にとって、触れられると気持ち悪いと感じるが、本当は触れられる事が一番欠如していて求めている事である、というように矛盾している。

実際に触れられると「気持ち悪い」という人がいる。

この人は、最も触れられることを求めている人だと言える。

否定されているにも関わらず、そこに否定されているものは何かを見出して、クライアントの無意識をクライアントと共に見ていく。

当然クライアントは抵抗する。

意識とは真逆の無意識を見てもすぐには受け入れられず、認めたくない。

それに付き合いながら、クライアントが受け入れていくのを待つ。

人間は意味を見ている。

それも自分で勝手に意味づけた世界を。

意味が作った病の中で、人は幻想を生きている。

何も現実を見てはいない。

自分の想像的言語で編み出した世界を見ている。

これを投影という。

その人の心にあるものが外に投影され、現象は全てその人の心の有り様を映し出す。

だから、「嫌われている」という意味・心の有り様が外に映し出され、全ての人・事が自分を嫌っているように見える。

外に出れば自分を言葉で力で攻撃してくると恐れている人は、自分が人をそのように攻撃したい。

それは自分が攻撃されて来たために報復として防衛手段として攻撃したい欲望、その無意識がある。

鏡像的に主体が入れ替われば、「(攻撃)する」が「される」になるだけで、その意味しか見いだせない。

自分で「人が自分を攻撃してくると思うのは、妄想ですね」と言いながらそこから離れられない。

そういう意味付けしか出来ない悲しさがクライアントにある。

その意味付けから解放し、現実を見るために分析はある。


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 婚活相談と結婚生活 月刊 精神分析 2010年05月号

2010年5月 2日

分析家の独り言 347(意味の病 No,1)

「人間は意味の病である」とラカンはいう。

様々な現象に人は意味をつけ病んでいる。

その意味のつけ方が人によって違う。

あるクライアントは「人が自分を攻撃してくる」と恐れ、外に出られなくなった。

私も永い間、子どもの言動にマイナスの意味をつけては怒りまくっていた。

娘達はだた、「お腹すいた」、「抱っこして」、「一緒に遊んで」、「あれが欲しい」などと自分の想いを母親である私に言っていただけだった。

それに私は、「また親をこき使うのか」、「あんた達の女中じゃない」、「馬鹿にしてる」、「私は我慢してきたのにわがままだ」、と勝手に意味を付けた。

それに気付いてからは、腹がたったとき、なぜ私はこの事に腹が立つのだろうと考えるようになった。


娘と食卓で食事をしていて私の電気ストーブを娘が我が物のように使うことが気になっていた。

それでもまあいいかと思っていた。

食事の後、私は電動歯ブラシで歯磨をするが、娘は「私のそばで歯磨をしないで」、「食卓の横の私の部屋洗面所で磨いて」と言う。

「どちらにしても寒い」と私が言うと、「自分の部屋でエアコンをつければいい」と言う。

電気ストーブまでは我慢出来たが、歯磨の場所まで指定されるのかと腹がたった。

なぜ私は腹が立つのだろうと考えた。

すぐにはわからなかったが、訳がわかり、自分のコンプレックスをしっかりと自覚してからは腹が立たなくなった。


子ども時代のエピソードを思い出した。

小学生高学年頃だったろうか、日曜日に自分の部屋を掃除していた私に、父親が「今日は会(宗教)の集まりがあるから、その部屋の掃除を手伝え」と言った。

私は「今自分の部屋を掃除しているから、それが終わってから」と言った。

そう言った私に父は「自分の事は後回しにして、まず手伝うものだ」と言った。

恐い父に逆らえず、私は自分の部屋の掃除は後回しにして、嫌々父の掃除を手伝うしかなかった。

こういったことは日常的にあっただろう。

こうして私は自分のしたいこと(欲望)は後回しにして、人に合わさなければいけなかった。

いつも自分を殺して、他者に譲るという構造が出来てしまった。

しかし、それに納得はしていなかった。

それがずっと私の中で燻り続け、娘に「譲れ」と言われ無意識を刺激され、腹を立てたとわかった。


"欲望はけして譲ってはいけない"

しかし、子ども時代の私は「親の言う事は聞くもの、親に譲れ」というメッセージを受け続けた。

そして親となった私は、娘達にも自分の欲望はだすな、私に譲れと言ってきたのだろう。

親は養育する中で子どもに譲ってやる、これが親の役目である。

それが心良く出来るのは、親が子ども時代にその親に親の欲望は一時置いて、子どもである自分に合わせ譲ってもらったからである。

親が子どもに譲るのは、子どもの自我を大事にし育てるためにすることである。

親の自我が育っていなければ、子どもの要求に合わせ譲ることに抵抗を示し、応えることが出来ない。

子どもの要求に「自分に合わせ、譲れ」と言われていると取り、「親をバカにしている」、「生意気な」と意味を付けてしまう。

子どもにオールOKしようとしても出来ないのは、こういう親のコンプレックス(無意識)があるためだ。

嫌いだ、嫌だ、引っかかる、腹が立つ事それら全て自分のコンプレックスである。

これを一つ一つ紐解いて自覚し解消(=分析)していくと、腹が立たなくなる。

そして生きやすくなる。


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 いじめ対策 イジメ 苛め 月刊 精神分析 2010年04月号

2010年4月26日

分析家の独り言 346 (分析理論を学ぶ、真理を知る)

分析家の独り言 346 (分析理論を学ぶ、真理を知る)

インテグレーター養成講座や分析理論講座で理論を学ぶクライアント達がいる。

個々それぞれに理論を学ぶことに意味を見出し、都合をつけて時間をつくり熱心に学んでいる。

振り返れば私も14年前そうだった。

京都から新幹線で東京まで行き、上野から高崎線に乗り換えて行田まで約1時間、それを日帰りで月2回3年間わが師、惟能創理(いのうそうり)氏のもとに通った。

インテグレーター(分析家)を目指し、精神分析理論を知りたい、その想いが私を突き動かせた。

私は本当のこと、真理が知りたかった。

親や大人、世間はいろんな事を言った。

子どもの頃は、大人の言うことだから正しいのだろうと思っていた、きっとそういうものなのだと。

ところが、どう考えても「それってどうなの?」と思う事や、「本当にそうなのか?」、自分のしたい事と大きくズレる事などが出てきた。

それでも親は「お前が間違っている。親の言う事を聞いていれば間違いない」というメッセージをいろんな形で押し付けてきた。

時には、暴力を使ってでも。

迷いながら、疑問を持ちながら、そこまでされる自分がやはりおかしいのか、間違っているのか?釈然としないまま、自己否定の世界で自分に自信を持てずに生きていた。

ところが分析を受け、更に理論を学んでいくと親の言った事、世間で言われている事さえ、違っていることがたくさんあると知った。

多数派である事が必ずしも正しいことではない。

自分をしっかり持って、自分で一つ一つ物事を判断していかなければ、これは大変な事になると気付いた。

これから私が生きていく上で、知っておく必要のある理論であり、これまで疑問であったことに納得がいき、知る事が楽しいと感じられた。

そして、いかにこれまで自分が無知であったかを知った。


子どもの問題で分析や理論を学ぶクライアントが言う。

何年も子どもの問題と向きあっていると、実際にオールOKをということの意味や理論を知らなくても、自然にオールOK的対応を子どもにすることになる。

ところが、様々な相談機関、公的機関でさえ、「そんなこと(子どもの言うように動くオールOK的対応)をしているからだめなんだ」と言われる。

そう言われると、子どもの要求に応えていてはいけないのかと母親は思ってしまう。

言われた通り、子どもの要求に応えないようにすると、子どもの状態はどうみても悪くなる。

どっちをとるか非常に迷ってしまう。

分析は、なぜオールOKをすることが子どもの自我を育てる事になり、子どもが活き活きとするのかを様々な方向から解説し弁証出来る。

真理を知れば迷ったとき、真理に照らして物事が判断出来る。

クライアント達は言う、「こんなことならもっと早くに知っておきたかった」、「せめて子どもを生む前に」「出来れば結婚する前に」と。

私も同感である。

しかし、知ったところから変えていけば良い、知ったところから人生の歩み方が変わる。

例え遅かったとしても、知らないまま生きていくよりはずっと幸せである。


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2010年4月23日

分析家の独り言 345 (2010年4月京都子育て相談室より:父親の協力)

4月の『子育て相談室』を昨日22日(木)、ひと・まち交流館で開いた。

こういった会に参加するのは初めてだが、「子どものある問題で勉強したい」、「ネットのホームページ等を見た」というお父さんの参加もあった。

家庭に置いて、子どもへの対応は母さんが主となるが、お父さんの協力を得られると更に良い。

子どもの問題でお母さんがまず分析に来られることが多い。

当然よく話を聴いて、「オールOK!子育て法」をお話する。

お母さんは、家庭で子どもに実践し始める。

しかし、お父さんの理解・協力を得られないこともある。

「オールOK」をすると、子どもはこれまで抑えていた要求を出すため、お金がかかることも増える。

お母さんとは直接話しているため、子どもからのお金・物の要求にも応えることと、その意味を納得してもらう。

しかし、お父さんの中には、何でも子どもの要求に応えるのは子どもをわがままにする、特にお金を子どもに言われるまま出すことには反対される。

そんな中でお母さんが子どもの要求に応えるのは容易ではない。

そこには両親である夫婦の関係が問題となる。

両親の普段の関係が良好であれば、互いの話し合いによって子どもへの対応法を一本に決められる。

しかしあまり会話のない両親であったりすると、子どもの事で両親が協力しなければならなくなっても、歩みを揃えて事に対処することが難しくなる。

積極的に協力するとまではいかなくても、母親が子どもに「オールOK」するのを父親が邪魔をしないでもらえると助かる。

中には、母親が分析に行くことを反対する父親もいて、こうなるとただでさえ子どもへ「オールOK」をすることは大変なことなのに、更に母親の負担は大きくなる。

そういう意味でも、お父さんの『子育て相談室』への参加はお母さんのみならず大歓迎である。

子育ては両親揃って行う一大事業である。

産んだ責任、産ませ責任においても、両親が協力して子育てに取り組んでいただきたい。

子どもは両親の愛情のものとに健康な心身を育んでいく。


また、『子育て相談室』に参加されたお母さんの声に、子どもの年齢は違っても同じ言葉を母親に言うことが、参加の方の話の中でわかり、「ホッとする」と言われる。

「ああそれわかる」とか、「うちの子も同じことを言う」など、子どもの年齢や問題は個々違うが、共通点もあり、それに対するインテグレーター(分析家)の答え、アドバイスが他の方の参考にもなる。

5月は14日(金)に、ひと・まち交流館 京都で『子育て相談室』を開きます、ご参加ください。

連絡先はこちらです

電話: 077-558-8766 または 050-3767-6283

携帯: 090-7357-4540

メアド:lacan.msl☆gmail.com ☆を@に変換したメールアドレスにメール送信願います(スパムメール対策)。


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2010年4月21日

分析家の独り言 343 (監禁から自由と平等と愛を求めて)

世間で起こる事件に、監禁というのがある。

クライアントの分析で、家庭内での監禁ということがある。

それは、親が言葉で子どもを縛る、「あれをしてはいけない」、「これをしてはいけない」と制限するもの。

また、箱入り娘と言えば聞こえはいいが、なんのことはない囚われの身である。

実際に押入れやお風呂場、蔵に閉じ込められた体験があるもの。

このように様々な形で、本来安全なはずの家庭内で監禁が行われる。


実は、私もこの家庭内で監禁された。

親の敷いたレールの上しか歩くことを許されず、「あれも、これも、それもダメ」と言われ、自由などなかった。

結婚するまでに変な虫が付いてはいけないと、門限を決められ親の監視下に置かれた。

言葉でも、女は結婚するまで他の男性と交渉をもってはいけないと教えられた。

小さい頃のかすかな記憶に、蔵に入れられたことがある。

私の分析は、監禁からの解放でもあった。

そうして私は自由を勝ち取ったが、過剰に自由を求めすぎるということが起こった。

人は欠けたものを取り返すが、それがあまりにも強烈であると、過大に補償してしまう。

何でも程々というのは案外難しい。

それも自分で気づいて、学習していけばよい。

まずは監禁されていたことにも気付かなければ、自由を求める運動は起こらない。

自由を求めて動けるようになったが、それが監禁の反動形成として過剰になっていることに気付かなければ、ただただ走り回り、落ち着くということがなく、いずれ疲弊していく。

気付けば、自由に動き回るところと、定住し落ち着くところの両方をほどよく使い分けられる。

これら全て、精神分析を通して自分を見つめて来た結果得られたことである。

分析と出会わなけば、私は今もなお心理的監禁者のままだった。

長い自分との戦いの末に自由を得た。

そして平等を。

分析を受けはじめた頃、「あなたの分析は自由と平等と愛を目指すフランス革命のようなものですね」と、分析者に言われた事を思い出す。

「愛」のテーマは深く、これからの課題の一つである。


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2010年4月20日

分析家の独り言 342 (生きる意味)

人が生きる意味を見出すには、未来への展望が自分で描けるからではないか。

ひきこもりや家庭内暴力の人達の中には、親に「死にたい」、「自分を殺せ」という言葉を吐く事がある。

無力感にとらわれ、これといってしたい事好きな事も見つからず、ただ漫然とその日を過ごすことに生きる意味を見いだせないだろう。

過去に囚われ、その傷や不快感、怒り、様々な過去の感情に固着し続ける。

心の時計は過去に固定され留まり続ける。

動けない。

多くのひとが未だ過去に生きている。


もしくは、そういった過去を含め自分について考えないようにしている。

考えないことによって、不安や悔みから防衛している。

こうして一応の安心と安全を得るが、今という時を失う。

今という時勢がなければ、過去と未来はつながり、その区別がない。

つまり過去=未来ということ、過去と未来は同じ。

過去とは絶対に書き換えられないもの、変わらないもの。

過去=未来ということは、未来もまたこの人にとっては決まっているということである。

もう既に決まっていて、自分の力ではどうにも変えられない未来に希望や理想や意欲を持てるだろうか。

どうあがいても、努力しても変わらないものに人は挑もうとはしないだろう。

ここに人は生きる意味を失う。

「どうでもいい」という言葉が聞かれるようになる。

だから人は考えないようにしている。

ところが、ある出来事がきっかけになったり、大きな問題に直面したりして、考えなければならなくなることがある。

そういう人達が分析の戸を叩く。

分析により、辛くとも自分を振り返り、「自分とは」、「生きるとは」と考え出す。

その結果、過去に整理をつけ、今ここに立つ。

今という時勢で過去と未来を区切り、過去は変えられないが、未来はこれから自分で好きなように描ける事を知る。

ここにその人の生きる意味が生まれる。

生きている実感が得られる。


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2010年4月18日

分析家の独り言 341 (4月2回目 滋賀分析理論講座より)

4月24日の分析理論講座に新しい参加者があった。

テキストに沿って解説しながら、子どもや自分、家族について質問され、テキストを離れ理論的に説明をした。

そのためテキストは数行しか進まなかったが、こういうこともある。

基本的にテキストを読み進め、症例などを入れながら解説していくが、参加した方にあわせて質問にも答えるようにしている。


子どもの何らかの問題は、家族の問題と関わる。

親子、夫婦、嫁姑舅などの関係に歪みが見える。

その中で子どもは様々なサインを出す。

そして不登校、非行、ひきこもりなどに至る。

親は一生懸命育ててきたつもりなのに、子どもが問題を表し慌てる。

しかし、そういうことがなければ、親は自分は正しいと思い振り返ったり反省する事がない。

大変ではあるが、それにどう取り組むかでその後が決まる。

情報が溢れる現代社会の中で、どの方法を選び実践していくのか。

それにも悩むだろう。

真理を知る事は難しい事かもしれない。

各講座を通して、迷いなく子どもに対応出来るように、納得行くように理論的に解説していきたい。


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2010年4月16日

分析家の独り言 340 (マゾヒズムからの脱出)

育ってくる過程で怒られ否定され続けると、最初は親に攻撃性を向けるが、そのうちに自分で自分を責める。

何を言っても親は受け入れず、要求を出せば「贅沢だ」「わがままだ」「ダメだ」と言われるうち、そういう要求を出す自分がおかしいのか・・・と思いだす。

その上、納得いかないことで怒られたのでは自分を肯定などできない。

親の方がおかしい間違っていると思っても、到底子どもが太刀打ち出来るわけはなく、つぶされていく。

それでも初めのうちはそういう親に向けていた怒りや憤りなどの攻撃性が、やがて自分に向いてしまう。

攻撃性は主体自身へ方向転換される。

マゾヒズムは自分に向けたサディズムである。

私自身がそうだった。

あまりに苦しみの中にいるとそれが普通になってしまう。

逆に安らかに安定していられるところが気持ち悪くなる。

優しさが恐い、幸せが恐いというクライアントは結構いる。

ああ、それわかると思う。

そういった逆転した世界からもう一度普通の当たり前の(安らぎや優しさ幸せを求め、心地よいと感じる)世界に戻らなければ、どんどん自分が壊れていく。

膨らみきった攻撃性はいつか暴発する可能性がある。

自分を攻撃し続け自己破壊へと向かうか、ある時一気に外に向かうか。

いずれにしても破壊にスイッチが入る。

そこまで行く前に、自分を立て直し、自分を活かす方向に転換してみてはどうか。

そのまま行ってもどうせ辛く苦しいのだから、先に希望を見出し、幸せな自分を目指していけばよい。

その昔、「このままでは終われない、一花咲かせる」と言った私に、娘は「蕾(つぼみ)のまま終わりなや」と言った。

「一花咲かせる」の内容が変わって、より具体的になっていき、喜びや楽しみが増えていく。

幸せになると決めれば誰にでも出来る、幸せになれる。


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2010年4月12日

分析家の独り言 339 (家庭に明るさを生むためにすること)

不登校・ひここもり・非行など何らかの問題を表す子どもの両親の関係に共通点がある。

それは、父、母が逆転しているという事。

父親は掟であり、ルール・規則であるから、子どもに威嚇や暴力を使わずに社会で生きていくためのルールを教える。

していい事と悪い事を子どもに諭す。

母親は子どもを配慮し思いやり優しく世話(オールOK)する。

ところが、この役目が逆転し、母が日常の細々とした事に命令指示を出し口うるさく、父は無口で子どもの事には余り口を出さず、優しい。

優しいといえば聞こえはいいが、そこに男性性や父性性がない。

言うべきところで言わず、小言をいう母親をたしなめる事もせず傍観者か逃げてしまう場合もある。

そうすると、そもそも夫婦の関係が問題である。

夫(父親)にすれば、「妻(母親)がうるさく言うから、俺まで言う事はないだろう」、と言い、妻(母親)からすれば「夫(父親)が何も言わないから私が言うしかないでしょう」、となる。

これを夫婦共謀というが、この共謀の連鎖は止まらず強化されて行く。

その中で、子どもは何らかの問題を表し、それは外に向かって「この家はおかしい!」とサインを出す。

そうして子どもが様々な形でサインを出す事によって、夫婦(両親)は互いが協力し子どもに対応する事になる。

それでも最初は、真面目に一生懸命生きて子育てしてきたのになぜ子どもはこんなふうに問題を起こしたのだろうと嘆き悩み苦しむ。

そしていろんなところに相談にいき、私どもラカン精神科学研究所にたどり着かれる方々がいる。

分析していくと、初めは子どもを責めたり、妻が夫を、夫が妻を責めていたが自分を見つめる。

相手が云々ではなく、まず自分の歪みを欠損を正していく。

当然、夫婦共謀は止まる。

自分を知りることが、自分を変えていく。

自分が変われば子どもが、相手が変わる。

本来あるべき家庭の明るさがそこに生まれる。


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2010年4月11日

分析家の独り言 338 (幸せになる)

自分自身が分析を受け、子どもに対応し、さらにインテグレーター養成講座で理論を学んでいるクライアント達がいる。

昨日の講座の内容は、ラカンの鏡像段階について。

基本編の講座内容でラカンの理論をするのは今回のこの項目だけである。

私もこの鏡像段階理論を学んだのは、13年ほど前になる。

講座で聞いた当初は、ほとんど理解出来ていなかったと思う。

その後ラカンを学び、自分やクライアントの分析、スーパビジョンを通して理解が深まっていった。

我が師惟能創理氏は言う、「ラカン理論なくして、分析はない」と。

ラカン理論は難解であるが、スーパーバイザー惟能氏の教えと、自分の学びによって、これからもより深く知っていきたいと思う。

そういえば私が分析家の仕事をし出して少したつ頃、あるきかっけで京都大学の大学院生でラカン理論を学んでいる学生と知り合った。

京都大学にラカン派の教授で、新宮一成氏がおられる。

その元で学んでいる学生に、ラカンの読書会を一緒にやらないかと誘いを受けた。

面白そうと思い、大学院生3人くらいだったか、その中に入った。

当時まだラカンがまだよく分かっていなかった。

一度大学内で新宮氏に会うことがあり、挨拶をし、新宮氏が発行するラカンの小冊子をもらった覚えがある。

あれから10年ほどたつだろうか。

分析も理論の勉強も長い道のりをコツコツ積み重ねること。

自分を知るために、分析と理論は役立つ。

講座を受けたクライアント達も、まず大枠を知って、これから分析や自分で本を読むなどして理解していける。

「対象a」「黄金数」「象徴界」「想像界」などの言葉を知っていれば、分析でそのテーマが出て来たときまた説明する。

さらにオールOKの話を聞ける人が少ない中、クライアントは本当ならしたくないだろうオールOKを聞き、さらに実践し努力している事が奇跡に近く素晴らしい。

必ずやって良かったと思い、幸せを実感できる。


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2010年4月 9日

分析家の独り言 337(母を語り母から分離する)

分析の最初,、クライアントの養育史を丹念に聴いていく。

当然、クライアントの母親父親のことに触れる。

「厳しい母でした」「怖い母でした」「よく怒られました」「父と母はしょっちゅう喧嘩してました」等とクライアントの口から語られる。

どんなふうに厳しかったのか、怖かったのか、怒られたのか、どんな喧嘩だったのか、詳細を聴いていく。

それらを少し語ってクライアントは、もう充分語ったと思っている。

これは抵抗。

これ以上語ることを無意識に拒んでいる。

語れば、それに伴ない悲しい自分が溢れ出てくることを察知し恐れている。

また、よく聞かれるのは、「今更母に文句を言ってもどうにもならない」というセリフ。

分析で問題なのは、今はもう年老いた目の前の母親ではなく、生まれてから育ってくる間に心の中に内在化した母のイメージである。

母親に文句を言って、悪しき母を改心させようというのではない。

厳しく、怖い、よく怒った母により、傷ついた自分がいる。

否定され、拒否され、見捨てられた悲しい自分が、大人になった今もそのままいる。

過去に整理がつかず、子ども時代を生きている。

この子ども時代を終わらせて、今ここに生きてはどうか。

こう言っても、そんな子ども時代のことなどもうこだわっていないとクライアントは思っている。

しかしこの世に生まれて最初の対象である母親は、我々にとって絶大な存在感と影響を与えている。

自分が親となったとき、子育てにも影響し、気がつけば自分の親と同じ事を子どもにしてはいないか。

自分の考えで生きていると思っているが、よくよくみれば母の親の考えをそのまま自分のものにしてはいないか。

心に焼き付いた母のイメージを語りながら、母から離れ、自分を確立していく事である。

これが分析による、自己の尊厳に気づいていく自分探しの旅である。


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2010年4月 8日

分析家の独り言 336 (コンプレックス、自分を知る)

子どもに対応する母親が、様々なコンプレックスを抱えている。

これを抱えながら子どもにオールOKするのは至難の業である。

私も娘達にオールOKする中で、失敗がたくさんある。

まだ小さかった娘が、「お母さん褒めて」と言ってきたことがあった。

その時私は、「お母さんも褒められたことがないから、褒められない」と言った。

それから娘は大きくなり、またある時「オカンが褒められたか褒められなかったなんか、私には関係ない」「褒めてっていってるんやから、褒めたらいいやん」と言われた。

私は私のことで精一杯で、娘のことを考える余裕がなかった。

私が母に褒めて欲しかったのだ。

しかし褒められたことのない私は、娘の「褒めて欲しい」という言葉を受け取ることが出来なかった。

それどころか、あんた達はいいよね、言いたいことが言えて。

私なんかそんなもんじゃなかった。

祖母と母の喧嘩や、したくもない宗教をやらされてやらなければ家に置いてもらえず、どれだけ辛い想いをしたか。

それに比べれば、ずっと幸せでしょ、それなのにまだ要求するの、と心の中で思っていた。

この私のコンプレックスに整理をつけるのに時間がかかった。

子どもの側からすれば、私がどういう育ち方をし、どれだけ嫌な想いをしたかなど関係ない。

それを言ったところで、子どもにとっては愚痴でしかない。

子どもはそんな母親の愚痴など聞きたくないのは当然である。

子どもにオールOKするには、対応する母親の無意識・コンプレックスを見て知ることである。

自分を知った分、子どもの気持ちがわかる。

自分を受け入れただけ、子どもを受け入れられる。

全ては自分。

自分を知ること。


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2010年4月 5日

分析家の独り言 335 (自分を解放し自分を生きる)

娘に「ベットを買い換えるから、ついて来て欲しい」と言われ、一緒に家具屋さんに出かけた。

あれこれ悩みながら、娘の希望にそうベットを注文し、届くのを楽しみに待っている。

娘が言った、「今のベット、小学生の時から使ってるから、もう10年になる」

「家具も10年使えばもういいでしょう」と。

私は、「ふーん、家具って10年使えばいいのか」と思った。

人によってその基準はちがうだろうが、娘はそう思っているらしい。

私は、戦中戦後の物のない時代を生きた両親に、「物は大事に使えるだけ使え」というメッセージを受けて来たために、娘のように「家具は10年使えばいい」という考えはなかった。

少々古くなっても、痛んでも、使えるうちは使う、私は親や祖母からそう教えられてきた。

特に明治生まれの祖母に育てられ、家は裕福でもなく、祖母も両親も質素倹約と言えば聞こえはいいが、その中で育った私でさえ、ケチな人達と思っていた。

子ども時代に染み付いたもの=親からのメッセージ、親の価値観などは、今も私の中にある。

私は壊れるまで使う、まだ使えるのに買い換えることはあまりしない。

それはものを大事にするというより、やはりケチなだけなのでは・・・。

それも程度もので、少しは生活を楽しむことも大事だと思う。

50年余り生きてきて、私の人生はどうだっただろう。

あまりにも節約・倹約に重きを置きすぎていなかったか。

自分を解放し、たまには羽目を外し、楽しんできただろうかと自分に問ってみた。

ほとんどしてきていないだろう。

根底にいつも不安を抱えて生きていた。

安心と安全の中で守られたという想いもなく、自分で自分を守るしかなかった子ども時代。

成人になってもその延長上を歩いていた。

そんな私がやっと自分の感覚を大事にし、自分として歩いている。

この間、大学時代の友人達と集まり、たわいのない話をする中で、ある一人が「昔、マコ(私のあだ名)によく、ご飯残して目つぶれるでと言われた」と言った。

言われてハッとした、それも私の親が私によく言っていたセリフだったろうと。

程度を越して、ひつこいくらいに言われていた気がする。

でも、もうそこにはいない、親の呪縛から逃れた私で良かった。

しかしまだ自分では気づいていない親のメッセージがあるだろう。

それに縛られて生きるのはやめて、私は私として生きる。


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2010年4月 1日

分析家の独り言 334 (子どもの成長、母の成長)

子どもの自我が育たなければ、いつまでも子どもは母との一体感を求める。

肉体の年齢はいくつになっても、例えば10代後半であったり、20歳代、30歳代であっても、「お母さん一緒に◯◯して」と言う。

これはいろんなバリエーションで表現される、「◯◯買いたいから一緒に来て」とか、「一緒に映画見に行こう」、「どこどこ行くからついて来て」・・・等々。

子どもへの「オールOK」の対応法を聞いてもらっている方々は、最初、子どもに要求されるから、とにかく子どもに言われるからそのように応える。

しかし、なかなか子どもの要求にOKをして心良く応えることは難しい。

初めはほとんど仕方なく応える。

子どもはその母の態度と心を敏感に感じている。

ここでお母さんに名女優になってもらう。

「あなた(子ども)と一緒にどこかへ出かけたり、一緒に何かをすることは、私(母親)も楽しみなことです。一緒に楽しみましょね」という事が子どもに伝わるように演技してもらう。

最初はぎこちなくてもこの演技を重ね、分析により母親自身の養育史を辿り無意識を見つつ、子どもに対応するうちにそれが本物になっていく。

子どもへのこの対応は、母親にとってある意味自分を殺して子どもに合わせるため苦痛を共なう。

母親は自分の母親にされたことのない事を、我が子にはしなければならない。

人間されたことは当たり前の事としてできるが、経験のないことをするには相当な努力が必要となる。

しかし、子どもは満足すると自分の力を試したくなり、いつまでも「お母さん一緒に◯◯して」とは言わなくなる。

自然に子どもが母親から距離をとり離れて行く、つまり自立していく。

子どもを可愛がる愛する愛着するということは当たり前のようであるが、それがそう簡単には出来ないのが現状であると自分を振り返って、クライアントを分析を通して痛感する。

母親が育った分、子ども成長できる。

母親は子どもに対応するうちに、子どもとの間で愛着とは何かを学べる。

子育ては自分育てと言う。

お母さん方頑張って!と心から願う。


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 月刊精神分析 2010年3月号 ひきこもり 不登校少年 

2010年3月31日

分析家の独り言 333 (待機児童をなくすことの危険性)

保育園に入れない待機児童が4万人以上にのぼり、お母さん達は子どもを保育園に預けられないために働けないという。

東京のある区では待機児童が零だったために、子どもを保育園に入れるために他の区から引越してくると聞いた。

朝の番組の司会者は、「国は待機児童をなくし、お母さん達が子どもを預け働けるための政策をしっかりやらないといけない」とコメントしていた。

世間一般の考えはそうなんだろうが、精神発達論から言えば、ますますお母さんに手をかけられないで、愛着や自我の育たない子ども達にする事になる。

分析はいつもいう、母親以外の世話では子どもは育たないと。

少なくともフロイトのいう口唇期にあたる0~1.5歳の間は、母が子どもを抱きそばにいること。

待機児童がなくなり、0歳児保育がこの日本に行き渡れば、この国の未来はない。

不登校・ひきこもり、非行はじめ、凶悪事件はますます増え、犯罪の低年齢化は進むだろう。

精神が育たなければ未熟な自我のまま、甘えと依存の中で自己価値を見いだせず、想像だけが膨らみ現実味のない世界を生きる。

自分が作り上げた想像的世界であるため、自分の好きなようにいかようにも出来る。

その限られた世界で赤ちゃん時代の万能感に浸りながら生きていく。

その中だけで生きられればいいが、現実がチラチラ見え、無力な本当の自分が見えたとき、現実と想像のギャップに苦しむだろう。

現実世界の中で自分を活かし、自我理想を掲げ、人とつながって生きていく人に育てたいと願う。


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月刊精神分析2009年8月号 酒井法子覚せい剤所事件と分析理論

月刊精神分析2009年9月号 秋葉原無差別殺人事件

2010年3月28日

分析家の独り言 332(滋賀インテグレーター養成講座第8回:自己愛パーソナリティーより)

病的自己愛者は、全ての人から愛されたいと願う。

一人でも自分のことを嫌う人がいると自己愛が傷つき、落ち込む。

このため人のうわさが気になる。

自分を「嫌いだ」と言う人がいないか、全ての人が自分に好意をもっているかを常に気にしているからである。

自分への評価を気にし、自分を好きだ、嫌いだという人のうわさを気にしていたら疲れる。

自分がしたいことをするのではなく、人から「あなたは素晴らしい」と評価され認められることをする。

自分の行動の基準は、人に褒められるか、評価を得られるかどうかになる。

これはまた、世間体を気にする事とも通じる。

世間体を気にする=他者を気にする事。

人の評価は様々であり、何をしても良いという人もあれば、批難する人もいる。

その評価に振り回される。

そもそも、全ての人の評価を得ようとも思う事が無理であり、そのことを目的にする事がおかしいことに気付く事である。

自分というものをしっかり持ち、自分は何を求め、どの方向に進むのかを自分の意志で決める。

分析が目指すのは、この生き方である。

これら全ての元は、母に好かれているか嫌われれているかを気にした子ども時代に始まる。

赤ちゃんは母の世話がなければ一瞬も生きられず、子どもは母親が大好きで、母に好かれ気に入られることを何より望む。

自己愛は親に承認と賞賛されることがその核をつくる。

褒められたことのない人は、この自己愛の核がなく、人に褒められることを求め続ける病的自己愛者になる。

子どもに常に関心を向け、声とまなざし、スキンシップをし、子どもが出来たことを正確に褒めることである。

そうすれば、健康な自己愛が子どもの中に根付いていく。


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2010年3月25日

分析家の独り言 331 (3月福岡出張より)

3月の福岡出張(3/20~3/23)の2~3日前に、電話とメールで福岡出張中に会いたいと連絡をいただいた。

ホームページのGoogleカレンダーのラカン精神科学研究所(滋賀県大津市)予定表 を見てもらったようだった。

日程を調整し、直接お会いして分析をした。

福岡県外からわざわざ天神へ出て来られた。

子どもさんの問題で、その対応法などに迷っておられたが、分析理論にそって答えていき、クライアントは「すっきりしました」と言われた。


子どもの様々な問題で悩んでおられる親御さん、正面から子どもに向きあってください。

そして、勝手に子どもが問題をおこしたのではない。

私はいつも言うのですが、母親のお腹から、「俺は(私は)非行するぞ」「ひきこもるぞ」と言って生まれてきた子はいないと。

そうなるにはそうなる原因があったはずである。

それには親(特に母親)の無意識(コンプレックス)が大きく影響している。

世間一般にも聞かれるが、相手を変えたければ、まず自分が変わること。

相手(子ども)を責めても、一向に問題は解決しない。

全ては我が心である。

こう言と、「何でもかんでも母親が悪いのか」と言われるかもしれないが、人がこの世に生まれて最初の対象は母であるから仕方がない。

母親との交流によって、子どもは自我を育てていくのだから。

しかしまた、わが子と良好な関係を持ったとき、母親でなければ味わえない何とも言えない幸せを感じることが出来る。


今回福岡で初めてお会いしたクライアントも、その辺のことを理解され、また来月分析予約を入れられた。


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2010年3月17日

分析家の独り言 330 (精神分析:無意識の書き換え)

分析を受けて行くと、頭が整理されてくる。

身近な家族との関係が、自分を見つめつつ、見えてくる。

分析において、これまで「何で?」と思う事に、理論的説明がなされ納得する。

人間わかる、納得することは大事である。

訳の分からない事が人を不安にし緊張させる。

例えば配偶者の言動に振り回され疲れる。

「何でいつもこの人こうなんだろう」と思う。

腹が立つ、イライラする、言っても通じない・・・。

相手の養育史を見、精神発達論などの理論に当てはめてみれば、その言動に合点がいく。

また、夫婦の場合には夫婦共謀と言って、互いが互いの無意識をひっかけあい、具現化しようとする無意識がはたらく。

この共謀の輪を止めること。

しかし、ほとんどの人達は、自分達が共謀していることにも気付かず、共謀の輪の中でもがいている。

この共謀はいずれ行き詰まる。

最悪の場合はどちらかが亡くなるという形で。

世間に起こる事件で、夫が妻を、妻が夫を殺したという話を聞くように。

相手が悪いと責めていても、問題は解決されない。

相手と共謀している自分、それは同じ無意識を持ったもの同士であることを自覚する。

相手を変えよう、変わってもらおうしてもそれはまず不可能である。

自分が自分を知り、変容していくこと。

全ては我が心である、とはこういう事である。

無意識を知り、書き換えれば、自分の運命・人生は変わる。

(『無意識論』、『夫婦共謀論』はインテグレーター養成講座で解説する項目です)


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2010年3月13日

分析家の独り言 329 (2010年3月京都子育て相談室より:幸せになる)

3月の子育て相談室は新しい方3名の参加があった。

子どもは周りの人達、親にさえ気を使い、本当の自分を出せない言えない。

例えば学校でいじめにあっても、学校でも家でも明るく振舞う。

しかし、いつまでも辛さを抱えながら明るく演じるのは心の大きな負担となる。

普段から、子どもが良いことも悪いことも何でも親に言えること。

何でも言えるためには、母子の間に信頼がなければ子どもは言えない。

言えない子どもは一人で辛さを抱え込む。

小さな胸を痛めて。

もちろんいじめる子ども、それを気づいているのかいないのか知らないが、対応しない学校や教師も悪い。

しかし、周りのせいにするのではなく、まず親は自分を振り返って欲しい。

子どもが健康な精神を持っていれば、どんなことも乗り越えられる。

子どもが強がらなくても、弱い自分もどんな自分でもありのままでいられる、それにはありのままの子どもを親が受け止め承認すること。

ここで親自身が育てられ方が問題となる。

親がその親にありのままの自分を受け入れられて来なかったら、子どもを受け入れることは出来ない。

親の意向に合わさせ、支配してしまう。

それが無意識になされるため、親に自覚はなく、それがまた厄介である。

あるクライアンが言った。

何でこんなにしんどい分析を何年もしてきたのかと考えた。

最初は、子どものためと思ったが、結局自分自身と向き合うことだった。

自分と向きあえば向きあうほど、親に受け入れられず醜い自分、悲しい自分が出てくる。

それでも分析受け、子育て相談室に通い、分析理論まで学ぶ自分は幸せになりからだとわかったっと言う。

自分を見つめるしんどさの中に、その先に幸せがある。

だからしんどさにも耐えられる。

幸せになりたい人が分析を受けに来る。

「自分は幸せになりたくて分析を受けて来たんだ」と言ったクライアントの気付きは素晴らしい。


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子育てネットワーク

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2010年3月 9日

分析家の独り言 328 (娘の引越しNo.2:娘の出立)

7日(日)、午前中京都での仕事を終え、レンタカー(ライトバン)を借りて、娘の残りの荷物を運んだ。

久しぶりの運転に少し緊張しながら高速道路を走り、途中ご飯を食べて、4時間かかった。

到着に合わせて、ガス器具や洗濯機を業者に取り付けてもらい、荷物を運び込んだだけの部屋を娘と二人片付けた。

新築の物件で、何もか新しく気持ちがいい。

娘の城なので、「トイレ使っていいい?」などとトイレやお風呂を使うのにも気を使う私がいた。

少し変な気分だった。

夜になって、足りない家電(掃除機や電気ポット)や雑貨(洗濯ざおなど)を一緒に買いにも回った。

私は翌日8日(月)午後から大阪で仕事があるため、朝7時前に向こうを出て、10時には家に戻った。

娘も学校へ行く用事があると、また一緒に車に乗って帰って来た。

部屋を借りるための諸費用、家電製品(一部は娘が買った)、2度の引越し費用、雑貨の一部は私が出した。

3月半ばから働き出すが、働いたその日から給料が出るわけはないため、給料が出るまでのお金のことを娘に聞いた。

もちろん言われた額を出すつもりで。

ところが、「以前におばあちゃん達からまとまったお金をもらったのがあるから、それで何とかする」という答えだった。

「もし足りなくなったら、振り込んで欲しい」と娘は言った。

私は「わかった、じゃあ足りなかったらいつでも言って、振り込むから」と言った。

私は娘がいくらいると言ってくるだろうと思った。

ところが自分でやりくりしてやっていこうと思っているようだった。

それを「いや、出してあげるから」と私が言ってしまうと、せっかくの娘の自分でやろうという気持ちを台なしにしてしまう。

余計なことはしない、言われた事だけ言われた通りにした。

そして娘は、今朝私が電話セラピーをしている間に自分の新しい家に出かけて行った。

私は仕事の合間に私の部屋に置いてある娘の服を片付けかけた。

ガランとした娘の部屋、「もうここであの子が暮らすことはないんだ」と思った。

買い物に行って、娘の好きなものを考えながら献立を考えることもない。

この娘の食事さえ作らなくてよくなった。

ほぼ毎朝4時半に起きて、娘のお弁当・朝食を準備することもない。

廊下にあふれ出した娘の荷物にけつまずくこともない。

私は娘が出ていけば、ホッとするだろうと思っていた。

ところが自分でも意外なほど何とも言えない寂しさがある。

晩ご飯の買い物をしながら、「あの子にとって私はいい母親だっただろうか」と思ったら涙がこぼれそうになった。

もっとしてやればよかった事、もっと声をかけてやれた事はなかったか、いろんな想いが娘がいなくなってから浮かぶ。

人は無くしてから、その存在の大きさや大切さに気付くのかもしれない。

テレビドラマのセリフにあった、「子どもと一緒にいられる時間はそう長くはない」と。

一緒にいる間にどれだけの事がしてやれるだろう、そして、してやれただろう。

2度の引越しに、少々無理をしても、嫌な顔をせず娘に付き合った自分は褒めてやりたい。

また、母親が分離不安を克服していないと、子どもの自立を無意識に阻む可能性は大きいと再認識した。

もう一人私のもとに下の娘がいる。

この娘との時間も大事にしていこうと思う。

いつまでもいるわけではない、いつかは自立して行くのだから。

そのとき後悔や想いを残さず、笑顔で送り出せるように。


分析家の独り言327(娘の引越し)

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2010年3月 2日

分析家の独り事 327 (娘の引越し)

昨日、自営業を営む兄に頼んで、この春就職する娘の引越しをした。

それが初めは、卒業式の二日後に引越ししたいというので、その予定で兄にも頼んでいた。

娘は21日の卒業式と卒コレ(自分達がチームを組んでデザインし作った服のファッションショー)の準備に忙しく、家に帰ってくる暇もなく、友達の下宿に泊めてもらうことが多かった。

卒コレの後は打ち上げで、帰りは次の日22日と言う。

引越しの準備などまだ一つもできていない。

それで23日に引越しが出来るのかと私は内心気を揉んでいた。

案の定、直前になって23日の引越しをキャンセルしようかと思うと言い出した。

いくら兄とはいえ、引越しのために仕事をあけていてくれるだろうに、えらい迷惑をかけることになる。

娘本人が兄に電話連絡を入れたが、私もわびの電話を入れた。

その時、娘にえらくキレて怒られた。

私が23日の引越しを前にメールや電話を入れたとき、「おっちゃん(兄)に連絡しろ連絡しろとひつこい」と言って。

私はまさか娘に怒られるとは思っていなかった。

私が入って仲介役をするより、直接詳しい打ち合わせをしてくれれば良いのにという思いと、兄は仕事をあけて引越しのつもりをしてくれているのに、キャンセルするならするで、相手にかかる迷惑を思い早めに連絡するのが常識でしょうと思った。

それをひつこいと怒るのか?

ふと考え、思い出した。

そう言えば祖母も母も口うるさかった。

「電気を消したか?」、「つけっ放しだった」、「あれをしたか」、「これをしたか」、「早くしなあかんやろ」等と。

自分ではそんなに言ったつもりはないが、娘はひつこいと感じたのか。

そこには、私の常識と娘の常識の差や、他人からいい加減と思われたくない私、育ってくる間に染み付いた強迫神経症的ひつこさがあったのか、いろいろ考えた。

娘はキレて怒った時には、ご飯もいらないと食べなかった。

昔の私なら、それ以後も食べたくないなら食べなくていいと放っておいただろう。

子ども時代に私が娘と同じ事を母にしたら、そうされていた。

やはりされたことを人はするんだなと思う。

無意識に刻まれたことを、また再生し再現するのが人間。

それはそれとして、もちろんご飯を食べるか聞いていつものように世話した。

そして昨日引越しをしたが、思っていたよりも荷物が多く、一回では運びきれなかった。

今度は精密機械(ミシンやパソコン等)を運ぶので、レンタカーを借りて私が片道3時間余りを運転して欲しいと言う。

それもまた、いきなりで仕事の予定もある中でである。

仕方なく、無理を言ってクライアントに分析日程を変更可能か聞いて変えてもらい、何とか時間をつくった。

もちろん娘の機嫌は良さそう。

これも子どもに振り回されるということか、何とかなったのだからこれで良かったのだと自分に言い聞かせ納得した。

分析をオールOKを知らなければとても出来なかったこと、また悪しき伝統は一つ書き換えられたかと苦笑いである。


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2010年2月26日

分析家の独り言 326 (無意識:子ども時代を再現する)

人は無意識に子ども時代を再現する。

例えば、怒られ叩かれて育った人は、配偶者との間でまたその子ども時代を繰り返す。

相手を怒らせ、自らまた叩かれるような場面を作り出す。

こういう無意識があることをほとんど人は知らない。

この無意識に気付き、本当なら避けたいはずの暴力を自ら相手から引き出しているとわかれば、この暴力を回避することは出来る。

ここに、人との間に『共謀』というものが起こる。

それは夫婦の間で顕著で、親子の間でも起こるし、ほとんどの二者関係において起こりうる。

無意識は意識できない意識であるため、それがあることさえわからない。

しかし、このあることにも気づかない無意識に人操られ生きているとしたら、何と虚しいことか。

そのために人は、なぜ自分はこんにも生き辛いのだろう、なぜ相手はいきなりキレて攻撃性を向けてくるのだろうと悩む。

まさかその悩みの原因を自分が作り出しているとは知らずに。

決して暴力を振るう側を擁護しているのではない。

暴力を行使する側もイライラしており、攻撃性を出したからといってそれでスッキリしているわけではない。

互いが嫌な想いをしながらも、この暴力は繰り返されることになる。

この両親を見て育った子は、また親と同じ争いあう夫婦関係をつくる可能性が非常に高い。

こうして攻撃性を向け合うという関係が、世代連鎖されていく。

この連鎖を止めるには、それぞれが自分の無意識に気付くことである。

少なくとも、夫婦のどちらか一方が気付ば、共謀は止まる。

これら無意識に焦点をあて、無意識、コンプレックスを解消していくのが精神分析である。

そうすると当然、マイナスの現象(暴力・イライラ・争い等)は治まり心は穏やかになり、人生を楽しめるようになる。


(無意識論は、インテグレーター養成講座 基本編第一巻 13,14番目に解説する)

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2010年2月23日

分析家の独り言 325 (2010年2月京都子育て相談室より:オールOKによる子どもの変化)

2月の『子育て相談室』に、2月初旬に子どもの非行のことで分析に来られたクライアントが新しく参加された。

ラカン精神科学研究所のホームページ、各サイトを見て電話連絡が入り、非行の子どもさんへの対応法、オールOKをお話し、あれから3週間がたった。

個人的なことなので、詳細はこの場で語れないが、分析後ご夫婦で話し合い、オールOKすることを決め実践したという。

わずか3週間ほどで、子どもの様子が変わってき、落ち着いてきたという。

参加した他のお母さん方から、「えらいね」、「すごいね」の言葉が聞かれた。

オールOKを実践された内容、子どもへの言葉がけ等聞くと、確かにやっておられることがわかる。

大したものと、私も感心した。

オールOKをすれば、やはり子どもに良い変化をもたらすことが顕著になる症例であり、私もまた学ばせてもらった。

もちろんこのお母さんも初めから、オールOKをすんなりできたわけではなく、2年ほど自分なりに試行錯誤し、苦悩し、泣いた末のことである。

この方いわく、「2年前の自分なら、オールOKをできなかっただろう」と。

最初は、子どもが悪いと、責めたり、すかしたり、言ってきかせるなどする。

それをしても子どもは聞く耳を持たず、ますます荒れていく。

大体非行の子どもは警察のお世話になるようなことをしており、親は学校や地域社会で肩身の狭い思いをする。

そのうちに、子どもやその友達責めていた親は、これはどうも違うと思いだし、自分の子どもへの対応の仕方を振り返りだす。

だんだんと親も折れて、子どもの言う事を聞かざるを得なくなる。

結果、子どもの意向に添うことになっていくが、私達のいうオールOKとはまだまだかけ離れているため、何とか落ち着いてはいくものの、根本的解決更には子どもや親の精神的発達までには行かない。

我々の言うオールOKは、中途半端な解決ではなく、親子のその後の人生を充実した有意義なものにしていける。

親子の間に信頼関係などの人間関係を構築していく基礎をつくり、子どもは親に受け入れられ、与えられ、認められて健康な自己愛・自尊心を持つ。

自信と自己への価値、肯定感を持ったなら、人は発展的に生きてくことが出来る。

それをした親もまた同時に学習し成長する。

取り組むだけの価値はあると自負している。


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2010年2月22日

分析家の独り言 324 (娘の卒業式)

私事だが、昨日娘の卒業式に行った。

「卒業コレクション」と言って、2~3人一組で服をデザインし縫い上げた服を、モデルが着てファッションショーが行われた。

娘がおばあちゃんも来て欲しいというので、80歳を超えた母と一緒にこの卒業コレクションと卒業式に出かけた。

高校を卒業して4年間働いたが、突然「デザイナーになる」と言い出し、服飾の専門学校に通った。

前の職場でお世話になった人たちも、わざわざ見に来てくれた。

この場を借りて、御礼申し上げます。

娘のために来ていただきありがとうございました。

3年間滋賀県から大阪まで通い、ボタン一つとれても付けたことのなかった子が服を縫った。

3年前入学した当時は、こんなに服が作れるようになるとは想像できなかった。

人間、好きなこと・したい事を見つけることは大事なこと。

3年の間には辛いことも苦しいこともあっただろうが、よくやり通した。

おかげ様である地方都市に就職も決まり、3月には引越し、また社会人となる。

卒業制作に忙しいからと、去年の10月に住む所も一緒に見に行って決めてある。

この娘が、「パリに留学したくなったらどうしよう」と言った。

卒業生たちの中には、いったん就職して海外に留学する人たちがいる。

私は、「行きたくなった、またその時考えればいいやん」と答えた。

ようやく専門学校を卒業し、就職も決まりホッとしたところだが、また留学したいと言えば、そのための費用は用意しておいてやらなければいけないと思った。

娘の「留学したくなったら・・・」という言葉に、「まあそれもいいでしょ」と思える。

私も好きな仕事をして、趣味のバスケットを楽しんでいる。

やりたい事がある、好きなことが出来ることは幸せなことである。

人生楽しんだ者勝ち(笑)。


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2010年2月18日

分析家の独り言 323 (オールOKする意味)

「オールOK!子育て法」について質問をいただく、何か子どもに問題が起きたらオールOKするのかと。

子どもに何か問題が起きてからオールOKするのではありません。

生まれたその日から、いえ母親のお腹の中にいる時から子どもを想い配慮します。

小さい頃からオールOKで育った子は、しっかりとした自我を形成し、主体性を持っていますから、何か困難なことにであったり、迷った時、自分で考え自分で最善の道を選択していきます。

もちろん親や周りの人に相談することはあります。

しかし最終的に決めるのは本人です。

また好奇心旺盛で様々な事に興味を持ち、自ら動くエネルギーがあります。

オールOKされ思いやりや配慮されているため、それをまた周りの人にすることができます。

それは人から良く思われたいからではなく、自然に人のことを思いやる行為としてです。

子どもにとって思春期(早い子は小学校高学年から中学・高校生あたり)は子どもから大人になる過渡期であり、精神的にも不安定になる大変な時期です。

この時期をある人は「疾風怒濤の中」と言ったり、また「気違い」と表現されることさえあります。

不登校や非行など子どもの問題行動がこの時期に多いのもこのためです。

子どもにとってこの大変な時期は、大きな荷物を背中にしょって険しい山道を延々と歩くようなものですから、出来るだけ楽に超えさせてあげたいものです。

それを「これはだめ、あれもだめ、こうしなさい・・・」と親や大人たちがうるさく言うと、さらに子どもの負担は大きくなり、大人の世界への移行が上手く進みません。

どの時期に限らず子どもにオールOKで対応し、親子の間に信頼や絆、親密感を築きましょう。

この親との関係性をその他の人間関係に広げていく基礎をつくのですから。


(上記の文章はオールOK!子育て法 のサイトに追記したものです。)

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2010年2月16日

分析家の独り言 322 (人生シナリオを書き換える)

交流分析の中に人生脚本(シナリオ)という理論がある。
インテグレーター養成講座 第一巻 No.25で解説)

クライアントの分析において、常に出てくるテーマの一つである。

我々は親から日常の細かなことから、生きていく上での指針に至るまで
様々なメッセージを書き込まれ、そのシナリオで生きている。

この量が膨大である。

これらのメッセージ・シナリオを一つ一つ検証し、書き換えること。

これらのシナリオを全て排除し、自分の価値と考えで作った自分のシナリオで生きていくこと。

分析の最初は、この作業に多くの時間を費やすことになる。

いつまでも親のシナリオで生きていたなら、真に自分を生きたいとは言えない。

しかしこれもほとんど無意識のレベルで行われているため、自分が親(他者)のシナリオで生きているとは思っていない。

他者のシナリオで生きていたなら、充実感や達成感が感じられないだろう。

いつもどこか違和感やズレ、虚しさが伴うだろう。

それが生きにくさや、精神的病理や様々な不適応を生むこともある。

育つ過程で、シナリオを書き込む側(親)の圧倒的な情報量と養育する側という立場の強さと、書き込まれる側(子ども)の象徴界(言語)の貧弱さと養育される側という立場の弱さ・未成熟という両者の不均衡がある。

対等で均衡が保たれていたなら、親のメッセージやシナリオを「これは取り入れよう、これは自分にはいらない」と取捨選択することも、「それはおかしい、間違っている」と非難の仕様もある。

ところがそもそも子どもは親に勝ち目はなく、両者の関係は破綻している。

だからこそ、親は子どもへの言葉がけに細心の注意を払うことが大事。

親にとっては良かったかもしれないが、それが子どもにそのまま当てはまるとは限らない。

親自身もその親から渡されたシナリオで生きていることが多い。

すると代々このシナリオが世代に受け継がれていく。

下の代になるほどその歪みやズレは大きくなり、悲鳴を上げドロップ・アウトすることになる。

それがひきこもり・ニート・非行といった問題にも出てくる。

親は絶対ではない。

間違うこともある。

上を行く者・先を生きる者が真理を知り、間違いを後続する者(子ども)に伝えないために、分析に取りくむ価値はある。

自分の間違いに気付き、正すことの勇気を持つことは、人間の強さの一つであろう。


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 月刊精神分析 2010年2月号 依存症とは(覚せい剤など)


2010年2月10日

分析家の独り言 321 (死んで生きる)

分析において、これまでの自分を否定してきた。

否定するとは殺すということでもある。

今更甘えたい、頼りたいなどということは無いと思っていた自分。

子ども時代に甘えることが出来ず、あきらめ抑圧していった。

しかし、甘えから満足して離れたわけではなく、あきらめたのだから無意識下には子ども時代のまま眠っていた。

親に命令指示され、支配され自分の意志で生きてこなかった自分を知った。

悲しく悔しいがそんな自分を認め、誰かに支配されて生きるのではなく、私は私の意志で主体性を持って生きていく方向にシフトした。

自分を知って否定することは、自分の成長であるとわかった。

否定なきところに成長は無い。

我が師、惟能創理氏は、自分で自分を否定する構造を名前(インテグレーター名)を変えるということで表現した。

これまでの自分の名前を否定するところから、新しい自分が生まれる。

どんどん名前を変えていく、これこそ自分の成長の姿であると。

それは、墓碑銘、墓石を建てていくようなものである。

死後に戒名をつけるのではなく、生きている間に自らを殺し(否定し)、新しく生まれ変わるとともに改名する=墓石を建てる。

そういう意味では、毎日死んで生まれての繰り返しである。

死んでから墓石を建てることに意味は無い。

歌にもある、「私のお墓の前で・・・そこに私はいません 眠ってなんかいません」と。

「主体にしてみれば、自らは否定されていくことによって逆に生きのびてゆくことができるといえるだろう」(ラカン)

殺されるから生きられる、殺されなければ生きられない。

このためフロイトは「子ども時代はもうない」と言って、クライアントを否定した。

否定されること=殺されることは、これまで自分が良しとしてきた考えや価値を捨てることでもあり、それはこれまで生きてきた自分の生命の死と感じられるため、そう簡単には殺せない。

子ども時代にしがみつき、精神の成長がとまっていた私も、分析家に否定され(殺され)、生まれ変わり自らの意志と足で歩み出した。

自らの力で生きていることの充実感を知った。


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月刊精神分析2009年01月号 運命は名前で決まる

 月刊精神分析 2010年2月号 依存症とは(覚せい剤など)

2010年2月 7日

分析家の独り言 320 (滋賀インテグレーター養成講座第回:母性より)

2月1回目のインテグレーター養成講座は、自我論Ⅳ(母性)の続きを講義した。

「母性とは」の中で、「母自身がその母との、母 - 娘葛藤を未解決のまま現在に持ち越し・・・」というのがある。

ほとんどの人が「母 - 娘葛藤」を未解決のまま現在に持ち越し」ている。

反対にこの葛藤を解決していたり、我が子の養育場面に持ち込まないことの方がまずまれである。

子どもを育てている母自身にも、その母との母 - 娘関係がある。

子育てしている母も、子ども時代には母に愛着行動を示し、母に甘え、ベタベタとくっつきまとわりついた。

いつも私を見て、私の話を聞いてと母の愛情を求めた。

しかし、母はいつもこれらの要求に応えてはくれなかった。

母にまとわりついたが母は今忙しいからとそれを拒絶し、子どもであった自分の要求は頓挫することがあった。

この要求拒絶が繰り替えされ、母への愛と憎しみが発生する。

要求を受け入れてくれたときには、母に愛を感じる

要求に応えてくれないときには、母に憎しみを感じる。

この愛と憎しみの葛藤を未解決なまま母親になると、子ども時代に自分の母に愛を感じた母と、憎しみを感じた母を、我が子に無意識にランダムに出してしまう。

この母は、子どもを食べてしまいたいくらい可愛く思うときと、殺してしまいたいくらい憎らしく思うときがある。

また、子どもが母に求めてきたときに応えるのではなく、母が子どもを可愛がりたいときに可愛がり、関わる。

これでは子どもはうっとおしいだけである。

子どもが「抱っこして」と言ったときには、「今忙しいからダメ」と言い、子どもが要求していないときに母の気分で抱っこする。

子どもへの対応がちぐはぐで、こうした矛盾した行為に母は気付かない。

母は自分が子どもを可愛がり、憎たらしいときに憎たらしいと思っているため、母の主観では一貫していて、矛盾しているとは思っていないのだ。

むしろ自分の子育てには間違いがないと確信していたりする。

この母は子どもの主観に立てず、子どもへの配慮が出来ない。

母自身がその母との葛藤に目を向けず、それを無意識に我が子の養育場面に出していることがわからない。

こういった対応を子どもにしていると、子どもは何らかのサインを出す。

それにも気付かずにいると、様々な問題行動として表面化してくる。

それが不登校、ひきこもり、非行などに至る。

母がその母親との関係を見直し、その葛藤を解決していくと、当然子どもへの対応が変わる。

ランダムに無意識に、いい母と悪い母を出すことがなくなり、子どもは安定してくる。

まず無意識に気付くこと。

それを精神分析を通して見、書き換えていく。

更に精神分析理論を学んで、自分を知り、子どもへの対応に活かそうとするお母さん方が居る。


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2010年2月 4日

分析家の独り言 319 (分析とは自分を知ること)

分析依頼と共に、様々な相談を受ける。

神経症、うつ病などの精神疾患はじめ、社会適応しながらも生きにくさを感じている人、子どもの不登校・ひきこもり・ニート・非行などの問題、夫婦間の問題等々。

子どもの問題に関して、親御さんが相談に来られる場合、子どもへの具体的対応法をお話しする。

同時にその子を育てた親(母親)を分析し、自分をしっかり見つめ、子どもは自分のコピーであること、何らかの問題が起きたその原因を知り、母親に変わってもらう。

その変わった母親が対応することで、子どもも変わる。

また親は分析を受けず、子どものみが分析を受けるケースもある。

親子共分析に取り組まれるクライアントもおられる。

精神疾患であれ、生きにいくさであれ、その他様々な問題も、分析により心の構造を見ていき、クライアントが自分を知って気付き、変容していく。

臨床をしていると、精神を病んでいるからとか、何らかの問題を解決したいから分析を受けるのではなく、結局のところそれらは単なるきっかけでしかないのではないか。

分析は知ることを楽しいと感じる人が受ける。

病んでいる人にも適応できるが、病んでいる病んでいないということより、人間として自分を知るという喜びを味わうものである。

自分のことを振り返って、私は月に一度分析家が京都に来られ、分析を受けるのを指折り数え楽しみに待った。

何も知らない私に分析は智を与えてくれた。


この分析家は言った、「分析を知れば人生のからくりがわかります」と。

この言葉に導かれて来た。


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 月刊精神分析 2010年1月号 心的遺伝子論 精神分析的産み分け法 

2010年2月 2日

分析家の独り言 318 (欲望の運動)

フロイトは「子ども時代はもうない」と言った。

クライアントは、様々な理由で楽しい子ども時代・学生時代を送れず、そのことを後悔し今も取り返したいと思っている。

しかしまた、そのものはもう無いということも知っている。

取り戻したい気持ちと、もうそこには帰れないもどかしさを抱え苦悶する。

そのままではいつまでもこの葛藤に執着し、動けない。

だからこそ過去を語り、整理をつけ、どういう自分だったか、なぜ納得のいく充実した子ども時代を送れなかったかをもう一度しっかり意識化した後、葬り去る。

人は無いとしっかり認識すれば、そのものを手に入れようと動き出す。

無いものを無いままにはできないから、今の自分として手に入れられる形で。

否定し、そこから生まれるものがある。

この無いと否定することにまず苦痛を伴う。

そこには、死んでいた(主体を抹殺された)悲しい自分がゴロゴロしており、それを見なければならない。

これを見ずに、「無い」と否定することは出来ないからだ。

無いと否定したものがファルスとなり、ファルスをもとに欲望の運動が始まる。

動き出した運動は止まることなく、動き続ける。

この運動が生きる充実感になる。


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月刊精神分析2009年4月号 なぜ分析で病が治るのか

月刊精神分析2009年5月号 精神分析家をえらびますか?

2010年1月31日

分析家の独り言 317 (信頼)

分析を受け子どもに対してオールOKをしていき、同時に自分の育ってきた過程を振り返る。

しんどいながらも子どもにオールOKすると、嫌でも親は自分の子ども時代を見ることになる。

そしてやがて親であるクライアントは自ら気づいていく。

本当は自分が親に甘えたかった、頼りたかった、可愛がられたかった、受け入れて欲しかったことに。

小さい頃はそれを親に求め、願ったが、とてもこの親は自分の願いに応えてくれそうにないと感じ、あきらめていった。

いつまでも甘えたいなどの気持ちを抱えながら、それが叶わないのは辛いことであるため、そんな気持ちは自分にはないと、抑圧したり自分から切り離してしまう。

しかし、我が子を育てる過程で、抑圧や分割し無意識に追いやった過去の欲望がよみがえる。

自分があきらめた甘えなどを、子どもが親である自分に求めてくる。

これは母親の無意識を刺激し、腹が立つ。

腹が立つこと、引っかかったことそれら全てその人のコンプレックスである。

このコンプレックス、腹立ちと闘いながらオールOKをするため葛藤し、しんどく苦痛を伴う。

しかし、このしんどさに打ち勝ちオールOKする母親であるクライアント達がいる。

それを支えるのがクライアントの子どものために自分がここで何とかしなければという想いと、分析、インテグレーター(分析家)である。

更に夫(子どもの父親)の支えがあればいいのだが・・・。

私は誰に対しても同じことを言う、「オールOKしてください」と。

しかし、オールOKする人としない人が居る。

辛いながらもオールOKしていくと、子どもの様子が変わってくる。

それを身近に肌で感じる母親は、やはりやってよかったと言う。

「なぜあなたはオールOKしたんですか?」とあるクライアントに聞いてみた。

すると分析家である私に言われたからだと言う。

分析家に言われてもやらない人はやらない。

私という人間と、分析をいかに信頼してもらえるかということである。

人間関係の基本にある信頼ということをあらためて考えさせられる。

子どもへのオールOKも、母と子の信頼をつくるためでもある。

子どもはこの母親なら、自分の言うこと要求を聞いてくれるだろうという信頼のもとに自分を出せる。

それに応え続けると、更に母と子の信頼は絆へとつながっていく。


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2010年1月30日

分析家の独り言 316 (心の成長、自立へ)

人間の精神とはいくつになっても成長しうる。

このことが理解されていないと、子どもにオールOKをしても、母親は一生自分が子どもにこき使われるのではないかと思う。

適切に世話をすれば必ず子どもの心は成長する。

心が成長していけば、いつまでも母親に頼りっきりで「あれして」「これして」とは言わない。

オールOKを始めると、子どもは最初、これまで欠けていたいた世話や我慢してきた要求を取り返すかのように、要求をどんどん出す。

しかしそれに付き合ううち、徐徐に要求は減ってくる。

子どもは満足いけば、今度は自分で出来ることの喜びを知り、「よくここまでしてくれた、もういいよありがとう」と言って、自立していく。

一生子どもの世話と要求に振り回されると思うと嫌になり、母親は「私はあんたの家政婦でも奴隷でもないわよ」と言いたくなる。

しっかり子どもの言うことを聞き取り、その通りに動けば子どもは満たされると共に成長していく。

反対に、子どもの言葉をいい加減に聞き、中途半端な対応しかしなければ、子どもは満足出来ず成長も進まず、母親は子どもに振り回され続けることになる。

それをみると、本当は子どもに自立して欲しくないのでは?と思うくらいである。

中途半端に対応して、子どもに文句を言われながらも、親は子どもを自分の下に居させたいのではと。

それは無意識のレベルの話ではあるが、親の分離不安が絡む。

人間自分を必要とされなくなることほど寂しいことはない。

それまで何だかんだと言っても「お母さん」「お母さん」と言って自分を頼り必要としてくる子どもが自立して自分から離れていくことを、親は子どもに見捨てられたと意味づけるのかもしれない。

オールOKをする母親に、成長・自立という概念が自分の辞書に登録されていないのではないか。

母親自身がその親に押さえつけられ、自分の成長を阻まれてきていたら、これらの文字の辞書への登録はないだろう。

オールOKして、散々子どもに振り回されれば、母親も充分やったという気持ちになり、子どもが自立していくことを心から感謝できる。

人間は親に依存して生きる時間が18年以上に渡り長いため、そのことが親と子の分離を難しくしている。

親子互いが納得し了解して、快く離れていくことを目指したい。


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2010年1月28日

分析家の独り言 315 (東京・秋葉原の無差別殺傷事件、加藤智大被告)

東京・秋葉原の無差別殺傷事件で殺人罪などに問われた元派遣社員、加藤智大(ともひろ)被告(27)の初公判が28日、東京地裁で開かれた。

加藤智大被告(27)が、事件で重傷を負った東京都江東区の元タクシー運転手、湯浅洋さん(55)に謝罪の手紙を送っていた。


加藤被告は、この手紙の中で、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 この度は本当に申し訳ございませんでした。
 言い訳できることは何もありません。
 私は小さい頃(ころ)から「いい子」を演じてきました。
 意識してやっているわけではなく、それが当たり前でした。
 そのことがあるので、取り調べを受けている時から「申し訳ない」と思っている自分は、はたして本当の自分なのか、という疑念がありました。
 形だけの謝罪文はいくらでも書けますが、それは皆様への冒涜(ぼうとく)でしかなく、これは本心なの か、いつもの「いい子」ではないのか、と常に自問しながら書いています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
と書かれている。

彼は、親に気に入るいい子を演じてきたのだろう。

おそらくそうしなければしかられる、家庭内での自分の待遇が悪くなったのだろう。

いい子を演じることは当たり前のことで、意識してやっているわけではないという。

いい子をするとは、自分の主体性や欲望を抹殺し、他者((親)に主体性を奪われていただろう。

だから、今謝罪している自分さえ、本当の自分の気持ちか、相変わらず小さい頃からしてきた「いい子」なのか、自分でもわからないのだ。

いい子いい人を演じていると、本当の自分が一体何なのかわからなくなる。

彼は自分を持たず、抜け殻のまま他者(親)の望むように生きてきた。

自分の感覚、考え、気持ちを持ち、それらを承認され肯定されないことは自我の死に等しい。

子育てをする親御さんたち、今一度子どもへの対応を振り返り反省して欲しい。


加藤被告は、次の様にも書いている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「皆様には夢があり、温かい家族、恋人、友人などに囲まれ、人生を満喫していたところを私がすべて壊してしまった。
 取り返しのつかないことをしてしまった」「私にはそういったものはなく、それらを理不尽に奪われる苦痛を自分のこととして想像できず、歯がゆい」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
彼には温かい家族、恋人、友人などに囲まれることも、人生を満喫することもなかった。

せめて誰か彼の言葉に耳を傾ける人がいたら、ここまでの事件を起こすことは避けられたかもしれない。

いい子ではなく、まず彼の言うことをしっかり聞ける親がいたならと思う。


更に、次の様な文章もある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 どうせ死刑だと開き直るのではなく、すべてを説明することが皆さまと社会に対する責任であり、義務だと考えています。
 真実を明らかにし、対策してもらうことで似たような事件が二度と起らないようにすることで償いたいと考えています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
是非その様にして欲しい。

彼の心の闇を解き明かすことで、今後同じような事件が起こらないようにしたいものである。


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2010年1月27日

分析家の独り言 314 (相互主体性)

クライアントは、人から自分がどう見られるかを非常に気にし腐心する。

ある者は人の評価を得るために行動し、相手の求める自分になろうとする。

相手の期待する自分になれないと、自分が理想とする自己像の幻想が崩れる。

子どもの頃は、この相手は母であり、母の期待に応えようとする。

これが親の言うことをよく聞くいい子の正体である。

大きくなるにつれそれが母にとどまらず、他者一般へ広がる。

相手に主体を譲り渡せば自分は受身となるため、自己を相手に規定され、自己の存在を相手に意味づけられてしまう。

子ども時代、親の言葉は絶大である。

親に「お前はだめな子だ」「変わっている」「変だ」「不細工だ」「馬鹿だ」・・・とマイナスの言語で語られると、そのように自己をマイナスに規定してしまう。

これを大人になって、自ら書き換えるのは簡単ではない。

分析においてこの書き換えをする。

主体は常に自分の側に置く。

そうすれば、不安になることも、揺れることもない。

人が自分をどう思っているかなど気にならない。

しかし、主体性を持つことを許されず、相手(母)に預けてしまうように育ってしまうと、主体を常に自分の側に置くことができない。

鏡像段階の相互主体性の中で、主体を自分と相手の間で入れ替えてしまう。

だから自分は良いと思っても、相手から否定されると落ち込んだり、へこんだりと揺らぐ。

その時々、相手は勝手な自我で私を否定したり、規定しているだけである。

それに一々動揺していたのでは疲れる。

まずもって否定が成立すること自体、相手が主体であるということになる。

この相互主体性の罠から飛び出し、自分の側に主体を固定することである。

私はあるときから良い人をやめた。

人からみて良い人と言われるように振舞ってきた自分に主体性はない、と知った。


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2010年1月24日

分析家の独り言 313 (滋賀インテグレーター養成講座第4回:母性より)

1月23日(土)、インテグレーター養成講座 自我論Ⅳ(母性)を開いた。

今回は新しい方の参加があり、受講者は5名となった。

講座内容が母性についてなので、是非お母さん方に聞いて欲しい内容である。

実際の子育てや自分の育ってきた過程を振り返るためか、質問があり、講義の内容全てを話しきれなかったため、次回に持ち越しとなった部分がある。

母性とは何か。

子どもを生んだから母性を持った母になるわけではない。

また全ての女性に、生まれながらに母性が備わっているものでもない。

結局、人は自分が育てられたようにしか自分の子どもを育てられない。

親となった自分が母性を持った母親に育てられたなら、自然と母性行動を子どもに示せるが、放っておかれたとか叩かれ怒られたなら、そのまま子どもの養育場面に再現される。

もちろん後者の対応を母性行動とは言わない。

何はともあれ、まずこの世に生み出された赤ちゃんにとって母親と共に過ごすことが第一である。

そのため母親と何らかの事情で分離されること自体が子どもに悪しき影響を及ぼす。

母以外の人に育てられることは後々子どもの心に影を落とす。

また母親が育てても、母性を持って育てなければ子どもの心は育たない。

それが今社会的に、不登校・ひきこもり・非行などの現象で表れている。

心が育てばそれらの現象は消えていく。

それには母性行動で子どもに接すること=オールOKすることである。

インテグレーター養成講座を受講しているクライアント達は、分析以上に応えると言う人がいる。

理論を聴くと自分の育ちと違うことに気づくため、分析されていると同じことになるためである。

それでも月1回の講座を2回にという要望があり、2月は2回インテグレーター養成講座を開催する。


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2010年1月21日

分析家の独り言 312 (オールOKし信頼を築く)

クライアント達は子どもにオールOKをしていく。

分析や子育て相談などで、子どもの様子を話される。

子どもの様子を聞けば、母親であるクライアントがオールOKをしているかどうかがわかる。

分析もオールOKも知らずにいたときは、親は子どもを思うように動かせた、子どもは親の言うことを聞くおとなしいいい子だった。

それがあるときから不登校になったり、非行に走り出したり、家庭内暴力が起こったりする。

親はこれまでいい子だったのが手におえなくなり、どうしていいかわからず助けを求めてくる。

そこでオールOKの対応法を話す。

実践してもらうと、親にとってさらに大変なことが起こる。

それは子どもの要求が増えるからだ。

お金であったり、世話であったり、どこかへ行きたいということであったり様々な要求である。

小さな子どものように、何気ないことを「見て」といったり、母親と一緒にテレビ・DVDをみることであったり料理をつくりたいということであったりする。

今度は親が子どもに動かされ、振り回される。

子どもに対応する親は、体やお金を使い子どもに付き合うことになる。

ところが親自身のコンプレックスが邪魔をし、「だめ」「できない」と言ってしまう。

それでも時には失敗しつつもオールOKしてもらう。

子どもの要求が出ているということは、お母さんが子どもに対応しているということである。

子どもは拒否され続ければ要求を出さなくなる。

母親を信頼できないからだ。

オールOKしていくと子どもは母親を信頼し始める。

子どもは親がこれまでと少し違うようだと思いだす。

おそらく要求を出す子どもも最初はおっかなびっくりであろう。

拒否され否定されてきたため、また「だめ」といわれるのではないかと恐いのである。

だから子どもが要求を出すということは、親への信頼の証となる。

そうして少しずつ自分のことを話し出すようになるとさらに良い。

20歳代よりは高校生、中学生、小学生、幼児、乳児というように子どもが小さいほど、母親の対応が子どもの言動に早く変化をもたらす。

重ねたマイナスが少なく、心が柔らかいのだろう。

子どもは何かしらサインを出してしるので、それにいち早く気づくことも大事である。

子どもから要求があまり出ないということは、まだ親を信頼していないし、まだいい子をしていたり、本当の自分を出せないでいる。

子どもが安心して親の懐に飛び込んでいける信頼を勝ち取るには時間もかかる。

根気強くやり続けることが大事。

どうかお母さん達頑張って、と願う。


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2010年1月18日

分析家の独り言 311 (子どもの好み・感覚を尊重する)

たまたま見たテレビで、ある女優さんが話していた。

「デパートの店員になりたかった」と言う。

彼女には9歳上に姉がいて、服など身の回りの物のほとんどが姉のお下がりだった。

9歳も上だと、例えば服の流行も子どもとはいえ古くなる。

小学校入学時のランドセルも姉のお下がりで、レンガ色に変色しぺっちゃんこだった。

だから彼女は、新しい物に触れたかった。

最新の流行のものが何でもそろうデパートの店員になれば、常に新しい物にかこまれていられると考えた。

「欠けたものが欲望になる」と言うが、まさにその通りなるほどと納得。

彼女は新しい、自分の好みの服や物を持ちたかっただろう。

また、親の好みを子どもに押し付けて、何でも買って着せてしまったのでは、子どもは着せ替え人形になる。

子ども自身の好きな色、形、デザイン、それらを尊重されるこも子どもにとっては大事なこと。

だから親が勝手に決めないで、子どもに聞いてほしい。

子どもも自我が出来てくると、親が買ってきた服を着なくなる。

それまでは親の好みで選んで着せられたが、良かれと思って買って来た服を着なくなり、それでは仕方ないと子どもに聞くようになる。

思春期を迎える子ども達には、服は対社会的仮面(ペルソナ)ともなり、他者にどう見られたいか、見せたいかなど、アイデンティティの問題も絡んでくる。

やたら鏡に自分を映して、服装などに気を使うのもこの時期である。

なかには、「誰もあんたなんか見てないよ(だから、何を着ても同じ)」と言う親がいる。

我が子の価値を親が引き下げることはないだろう。

自分が思い描く理想的自己像をつくり、外に出ていく。

娘達は出かけるときに、服が決まらず、「これとこれとどっちがいいと思う?」とか、「これでいいかな?」と聞いて来た時期があった。

こちらとしてはどちらでもいいと思うが、真剣に考えて答えないと怒る。

聞いてくる娘も自分の中では決まっているが、もう一押しして欲しいのだろう、どちらがいいか聞いておいて自分が思うのと違う方を言うと、「お母さんはセンスがない」とか、「いや、違う、こっちだ」とか言う。

「それなら聞かないでよ」と思うが、それにも付き合うことである。


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2010年1月17日

分析家の独り言 310 (1月京都分析理論講座参加者のメールより)

1月14日(木)の分析理論講座に参加された方から下記のようなメールをいただいたので紹介する。

ひきこもりの子どもを持つ親御さんからの相談を受けられている方からのメールである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
本日の理論講座はとても勉強になりました。

理論講座という名称ですが、実体験や実践をとおしてのお話でしたので、こちらも思い当たる引きこもりの実例が多くありました。

私が精神科医や精神分析に懐疑的だったのは、何でも病気と結びつけてしまう彼らの方法に疑問を持っていたからです。

「うつ病」か「統合失調症」でかたずけられると、逆に親は安心して投薬と治療で解決すると思ってしまうようです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

メールにあるように、うつ病や統合失調症という病名をつけられると、親は安心することがある。

非行の子どもたちもまた、多動性、アスペルガー、統合失調症といわれることがある。

その診断名を告げらると、だから小さい頃から育てにくかったのだと親は納得してしまう。

厳しい言い方になるが、親は自分の育て方が悪かったとか間違っていたと思いたくない。

どこかで自分が悪かったのかもしれないと思いつつも、病気・障害のせいにすれば自分を正当化できる。

すると、オールOKなどの子育て法を話しても聴く耳を持たなくなることがある。

人は皆自分が可愛い。

自分を守りたい、自分が悪いとは認めたくない。

しかし、非は非として認め正していき、本当のことは何なのかを知りその方向に進んでいかなければ本当の解決には至らない。

病気や障害があろうがなかろうが親がすることは同じであり、子どもへのオールOKによる世話・対応である。

ひきこもりや非行に効く薬はない。

親の暖かい愛情、思いやり、理解と共感である。

分析においては、その一部をインテグレーター(分析家)が担うことにもなる。

いずれにしても、薬を服用するだけでよくなることはない。

病院や施設に入れて治ることもない。

(それはまた、映画『彼女の名はサビーヌ』を紹介してコメントする予定)

クライアントが言った、「人のせいにしているうちは、真剣に子どもと向き合えない」と。

学校のせい、先生のせい、友達のせい...にしたい、それでも一番子どもに良くも悪くも影響を与えるのはやはり親である。

だからこそ親次第で子どもは変わっていく。

もしくは、ひきこもり等の本人が、自分を変えようと強い意志をもち、自分探しの旅(精神分析)に取り組むかである。

取り組めば道は開かれ、ひきこもり、非行等から脱していく。


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2010年1月15日

分析家の独り言 309 (1月京都理論講座より)

1月14日(木)、分析理論講座を開いた。

ひきこもり関係の参加者であったためその方向から症例を入れながら、分離個体化の過程の後半を解説した。

『分離』は、母から個体として肉体的・精神的に分化し、母と一定の距離をもち、母から自分を切り離してそれでも自分を維持できる自我境界を形成する過程。

『個体化』は、精神内界の自律性、知覚・認知・現実検討などの諸機能の発達過程。

自分の感覚、自分の見たもの(知覚)によって反応すること、それを自我の自律という。

これが成人であってもあやしい。

子どもが怪我をして「痛い」と訴える、体の調子が悪く「しんどい」と言う、友達ともめて「つらい、苦しい」と言う。

親は「大したことない」、「痛くない」、「大丈夫」、「それがどうした」...などと真剣に取り合わないことがある。

これでは、子どもは自分の感覚を自分のものとして肯定して感じられなくなる。

「痛い」と訴えて、「痛いね、大丈夫?」と気遣われ心配されるから、自分の痛みを感じた身体的感覚と、痛いと感じた自分が一致する。

体が「しんどい、きつい」と訴えて、「大したことない」「寝ていれば治る」と言われれば、自分の身体的苦痛がどれほどのもので、その感覚が正しいのかどうかわからなくなるだろう。

正しく親(母親)が反応しなければ、子どもの心は育たないことになる。

「痛い」、「苦しい」と子どもが言って、それに適切に反応すると、親は病院に連れて行ったり、世話をしなければならず、その手間がかかることを避けていないか。

言葉で「痛くない」、「それくらい大したことはない」と言えば、それで終われる。

参加されたお母さんは、「私もそうでした」と言われた。

適切に世話されていない私たちが親となって子どもを育てるとき、こうしてまた適切に子どもを世話し対応できない。

それを「子どもにオールOKし、言われた通り要求に応えましょう」と言って抵抗なく出来ることは奇跡に近い。

それでも、オールOKの話を聴き、それに取り組む人達がいる。

ある人は、「ひきこもりはエディプス・コンプレックス(父親との関係)が大きく関わっているかと思っていたが、それ以前の母親との問題があったんですね」と言われた。

父以前に、子どもにとって最初の対象である母でつまずいている。

ひきこもりの人達の高年齢化が進み、30歳代、40歳代、50歳代となってきている。

年齢を重ねるほど、ひきこもりから脱出することが難しくなる。

ひきこもり当事者と親に体力・精神力・経済力などがあるうちに取り組まれることを願う。

もっと言えば、ひきこもりや非行などの問題がおこらない子育てを知って実践することをおすすめしたい。

興味・関心のある方は各サイトをご覧ください。


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2010年1月10日

分析家の独り言 308 (精神分析に取り組む)

ラカン精神科学研究所のホームページに、Googleカレンダーを載せるようになってから、予定を見て分析や講座、子育て相談室への問い合わせや申し込みが増えた。


今の状況をなんとかしたいとクライアント達は救いを求めて分析の戸を叩く。

自分独りでは何とも出来そうにないと、意を決して。

しかし、我々インテグレーター(分析家)は救世主ではない。

自分の得た分析理論と分析能力を活かし、クライアントの問題に共に取り組む援助者である。

理論という地図をもとに、暗闇の世界(無意識)を共に旅する。

闇雲に突っ込んで、ブラックホールにでも入ってしまったら大変である、そういう危険な世界でもある。

安全に効率よく進むために理論を駆使する。

精神の世界は宇宙のそれに似ている。

ホームページやブログを読んでいる人たちがいることを頭に入れながら、また今年もいろいろなサイトやブログを書く。

生きにくさや今の自分を変えたいがどうしていいかわからない人達に、精神分析という道もあると知ってもらいたい。

15年前36歳の私は悩み、道を捜していた。

長い道程を経て、私は今幸せだと言える。

そして更に理想を掲げ、上を目指す。


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2010年1月 1日

分析家の独り言 307 (2010年を迎えて:分析理論を学ぶ)

2010年、明けましておめでとうございます。

滋賀県大津市唐崎辺りは、薄っすらと雪景色の元旦の朝でした。

ブログ(セラピー日記)を書き始めて2年半余り、300を超える独り言を書き綴って来ました。

今年もまた、ブツブツと分析家の独り言を書いていきますのでお付き合いください。


インテグレーター養成講座のために、テキストや本を読み直す。

私が埼玉県の惟能氏の所で養成講座を受けたころを思い出す。

あの当時、自己愛論が全くわからなかった。

質問したいが、どこをどのように質問していいかさえわからなかった。

それは自分に健康な自己愛がなったからだと一人納得した。

その後分析を通して自己愛を育てていった。

講座を聞く側から話す側になり、私も養成講座で何度か話してきたが読むたびに違った角度からまた考えさせられる。

あのクライアントの語りは、この理論通りだと思うこともよくある。

我が師惟能氏も言う、「7回も講座をやっていれば覚えてしまうが、それでもまだ新しい発見がある」と。

先生でもそうなのかと思う。

やはり、理論はしっかり自分のものにしておかないといけないとあらためて思う。

同じ本でも、時間を空けて久しぶりに読むと前とは違った気付きや解釈が出来る。

自分の関心のないところ、コンプレックスにひっかかるところは文字を追っていてもスルーしてしまい、心はそこに留まらない。

本当に人の心・精神とは不思議なものである。

以前は全くわからなかったり、曖昧だったことが理解できてくると、これほど嬉しいことはない。

まだまだ理解し極めていくことが沢山あり、楽しみである。


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2009年12月31日

分析家の独り言 306 (今年を振り返って:成長)

去年3月、ここ滋賀県大津市にラカン精神科学研究所とともに住まいを移し、約2年足らずが過ぎた。

人は生き方を変えるように住み替える。

確かに私にとって大きな転機であった。

おそらくまたここ何年かのうちに転居する。

自分の歳を考え、老後を視野にいれ終の棲家を探す。

今年1年、いろいろな人との出会いがあり勉強させてもらった。

「自分以外の人には出会わない」と言う。

来年また自分を知った分だけ、これまで出会えなかった人(自分)と出会えるだろう。

どういう人(自分)たちとの出会いがあるのか楽しみである。

自分を知り成長した分、程よい親との距離がとれる。

支配するされるでもなく、依存するでもなく、私は私として言うべきことは言い、助けてくれと言われれば私の出来る範囲でする。

決して無理はしないし、優先順位を見誤ることもない。

親に人にどう思われるかを気にし、好かれることを私のとる言動の基準にして動くことはない。

それらもクライアントの分析を通して考えさせられ学習した。

クライアントの語りを聴きながら、クライアントと自分は全く違うと思っていても必ずそうとは限らない。

本当に自分にクライアントと同一の部分はないか、違うならどこがどう違うか、それらを常に検証し自分を見つめ知っておくこと。

この視点がないと、自分の無意識を知らぬ間に刺激され、心身に影響がでる(逆転移する)ことがある。

クライアン達は私に、「よくこんなしんどい仕事をしますね」と言う。

自分を常に見張っておく必要があり、そこには未熟な自分や見捨てられ不安や恐怖を味わった悲しい自分がゴロゴロしている。

そういう自分と出会うことはしんどい大変なことかもしれない。

それでも楽しいと感じられ、やりがいがある。

クライアントと私自身の成長が楽しみだからだ。

我が師、惟能氏は言う、「分析が目指すのは精神の成長である」と。

個人の成長と日本社会の成長を願い、今年を心静かに送り、新しい年を迎えようと思う。


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2009年12月28日

分析家の独り言 305 (自分を振り返って1:対人恐怖だった私)

この世に生まれたばかりの赤ちゃんに書き込まれていくのは、その母親の情報、自我である。

すると、この母親のなかにどういったものがあるのかが問題となる。

例えば母が、人を恐がる=対人恐怖症であったとすると、我が子も一人の対象であるため、この子を恐れる。

対象と関わるときの基本的姿勢は、恐い恐れるとなり、当然人との交流を避ける。


インテグレーター養成講座のテキストの「自己愛」を読み返し、ふと思い出し考えた。

私はギリギリ社会適応してきたが、基本的には対人恐怖だったなぁと。

学生時代は授業で先生に当てられないように願いながら学校生活を送っていた。

人前で話すことは大の苦手だったし、友達も少ない方だったと思う。

中学から部活をしていたので、その仲間はいたがそれが友達といえるものだったかは今となれば疑問である。

ただ同じ部活での時間を過ごし、バスケをそれなりに楽しんだが、私は本心を語ることはなかった。

自分が抱えているしんどさは、同じ世代のこの人たちにはわかるまいと決めていた。

家で親に「ああしなさい、こうしなさい」「それをしてはいけない」と縛られ、したくもない宗教を強要され、いかにして家に居ないようにするかを考えていた。

登校拒否ならぬ帰宅拒否か(苦笑)。

その逃げ場が部活だった。

小さい頃から、度々ではないにしろ叩かれることもあった。

育つ過程で「人とは関わらないがよい」、「人は恐いもの」と学習した。

私にとってがんじがらめの家から出られた大学時代があったことは大きかった。

この時期になってやっと、友達と呼べる人たちができた。

それでも、それまで親に監視され、命令指示されてきたことは私の中に居座り続け、何かをしようとするとき、心の中に住み着いた両親にいつも見張られている感じが常にあった。

それと戦いながら、時には私が勝利し、また時には親に負け、一応の自由の中4年間を過ごした。

そのまま家に戻らず就職でもすればよかったのだが、親は大学を卒業したら私は家に帰るものと決めており、私はそれに逆らうこともできず帰るしかなかった。

まだ、自分の力で生活していくという自立心は私には育っていなかった。

親に呑み込まれ、そこから脱出するほどのエネルギーと自我は、大学時代の4年間では取り戻すこともつくることも出来なかった。

あの頃に分析と惟能創理氏に出会えていれば・・・ 私のその後も続く苦悩は随分軽減され、全く違った道が開けていただろうにと思う。

実際に出会えたのはそれから14年も後のことになる。

分析を受け、親のロボットだった自分を自覚し、自分を取り戻すために10年以上の時間がかかった。

それでもあのまま自分を持たずに、しかし持っているという錯覚の中でもがき苦しみ続けたかと思うとゾッとする。

あるクライアントは、「おまけの人生、二度目の人生」と言ったが、私にとっても今が「生きなおしの人生、取り返しの人生」である。

「自分が望んでもいないのにこれほどの苦悩を味あわなければならないのは理不尽だ」

だから私は、「自分の人生をこのままでは終われない」と思ってきた。

「いくつになっても生き直せるんですね」と言ったクライアントの言葉が心にしみる。


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2009年12月26日

分析家の独り言 304 (幸せになる:目標・理想をもつ)

クライアント達は、耳にたこができるくらい「オールOK」とともに「言われたことだけ(正確に)してください」と聞いている。

しかし、これを実行するのは簡単ではない。

最初私は「だまされたと思って、黙って三年オールOKしてください」と言う。

「しかも、敏速かつ的確に、継続して」

折に触れ、分析や講座、子育て相談室で説明していくため、クライアントは頭でなぜそうすることがいいことか理解していく。

しかし頭でわかったことと、実際に出来ることは違う。

そこには、オールOKする母親のその母との無意識の葛藤がある。

クライアントに、「子どもに言われたことだけする」という言葉が本当に理解されるまで10年かかる。

私は最初から同じことを言い続けている。

クライアントも言う、「何年も前から聞いています」と。

何度も言うが、言葉としてわかることと、実際に出来ることとは違うのである。

何年も分析を受け、子どもに対応しているあるクライアントは、「子どもに言われたことだけするという言葉が本当に理解されるまで10年かかる」と話したところ、「よかった、私だけじゃないんですね」と言った。

分析を受けても、講座などで理論を聞いても、なかなか「オールOK」や「言われたことだけする」ということが出来なくて、「何で出来ないんだろう」、「私がダメなのか」・・・ と自分が嫌になることがある。

それでも、知ってしまった限り、今更やめることも出来ない。

辛いながらも、「オールOK」することが真理であるとわかっているからだ。

そうでなければ、わざわざこんなしんどいことを誰もしようとは思わないだろう。

だから本当に子どもに「オールOK」をするには、母親が分析によって自分の無意識(親との愛と憎しみの葛藤)を知っていくことが必要になる。

子育ての場面で、母自身が育てられた養育状況が再現される。

母親自身の養育状況が幸せな(オールOKされた)ものならいいが、多くの人が自分の言いたいことが言えず、要求が受け入れられず、無視され、放っておかた、叱られた、叩かれた・・・ というものであれば、子どもに「オールOK]するのは葛藤に満ち満ちてしまう。

私も「オールOK」が身につくまで、何年かかったことか。

10年どころではなかったのではないかと思う。

やってもやっても、失敗してしてしまう。

自分で自分が嫌になる。

そんな中で思ったのは、多分私は人より欠損が大きいのだろう。

だから人が三年で出来ることが、その2倍3倍かかる。

悔しいけど仕方ない、そんな自分ならそれも受け入れてやるしかない。

それ以外に子どもと私の明るい未来はないとわかっていた。

そして、私にはインテグレーター(分析家)になるという目標があったため、人に「オールOKしてください」と言って、自分は出来ていませんでは通らない。

それではインテグレーターになる資格はないと思っていたから、この私にも努力し続けられたのだと思う。

目標・理想(なりたい自分という自我理想)を持つことは大事である。

この私に出来たのだから、やる気さえあれば誰にも出来る。

幸せになるために、取り組むだけの価値はある。

私は幸せになりたかったのだ。


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2009年12月22日

分析家の独り言 303 (分析により自分を知る、自分を生きる)

子どもの不登校、ニート、ひきこもり、非行等、その他何らかの問題で分析に来られる。

それは母親である場合が覆い。

今、目の前の子どもを何とかしたい。

様々なところへ行ったが、これといった変化・進展もなく、何年か経過した状態の場合も多い。

分析の初めは、クライアントから子どもの状態を聞き、その子どもへの具体的対応法や、なぜそういう状態になったかを理解してもらう。

子どものことを話す母親は、子どもの何らかの問題は子どもの問題ではなく、自分に何らかの問題があると薄々感じている人もいる。

分析的に表現すれば、母親がその親との葛藤(愛と憎しみ)に未解決で、そのことを無意識に抱えながら子育てした結果、今の子どもの問題を生んだということである。

分析を始めると、子どものことと共に自分の親のことが語られる。

そうして母親は自分と子どもの関係と、自分と自分の親との関係を見ていく。

そこに共通点が見えてくる。

母親自身も親に言いたいことが言えなかったり、親の顔色を見たり、親の愚痴を聞かされて来ていたり、自分を否定されていたり・・・ している。

そのことが母親自身嫌だったはずなのに、その嫌なことを我が子にしてきた、その結果が今の子どもの状態であると気付いていく。

そういう意味で、子どもの問題は、その子を生み育てた親の問題であると言える。

それに気付き、自分を見つめ、自分と親との葛藤を見るのは辛いものである。

せっかく気付きながら、分析から足が遠のくこともある。

気持ちはわかる。

それでも我が子のため自分の成長のためにと踏ん張るか、辛さに負けて自分と向き合うことを避けるか。

それはクライアントが決めるしかない。

取り組まなければ現状維持だが、子どもの年齢は上がり実質問題は大きくなっていく。

取り組めば、見たくない自分を見ることになりそれも辛い。

しかし、結果が違ってくる。

辛いながらも取り組めば、その先には子どもの幸せと自分の幸せが待っている。

主体性を取り戻し、自分らしく生きていける、人生を楽しめる。

しかしまた、その道程の遠さに人は尻込みするのだろう。

しかし、「千里の道も一歩」、「継続は力なり」である。

お金を払えば得られるというものではなく、ただひたすらこつこつ積み上げていく努力のみ。

この長い道程を越えた末に得られるものは、何ものにも代えがたいものである。

私の場合は、辛さもありながら例えマイナスの自分であっても、自分を知ることが楽しかった、嬉しかった。

謎解きのように、なぜ自分が生き難かったのか、その訳がわかっていった。

自分への智を得、そして自分を肯定し、自分を取り戻していった。


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月刊精神分析2009年4月号 なぜ分析で病が治るのか

月刊精神分析2009年5月号 精神分析家をえらびますか?

2009年12月17日

分析家の独り言 302 (自分の感覚を大事にする)

クライアントの分析を終えて、ふと思い出したことがある。

20歳の頃、神戸の大学の近くで下宿をしていた私は、赤いブレザーを着て実家に帰った。

母はその赤いブレザーを見て「派手すぎる」と言った。

言われた私は、「そうかな」と思った。

しかし、これと言った反論もせず、いつまでも「派手」といわれた言葉が残っていた。

しばらくして、「20歳の私に赤のブレザーが派手というなら、私は一体いつ赤を着るの?」と思った。

それまであまり明るい色は着なかったように思う。

家を離れた開放感からか、私には珍しい赤のブレザーだった。

母はどういう基準で20歳の私に赤いブレザーが派手すぎると言ったのだろうか。

根拠のない、自分の勝手な感覚で軽々しく子どもにものを言うものではない。

もし私が今娘達に同じ様なことを言ったとしたら、非難ごうごうだろう。

私も娘が着るものをとやかく言おうとは思わない。

どうぞ、好きな色の好きな服を着てください。

それが個性だし、50歳を過ぎた私の感覚と、20歳代の娘の感覚が違って当たり前。

だから、相手を尊重し、自分なりの好きを磨いて楽しんでくれればよい。

私は自分でも気付かない色々な親の言葉に縛られ、親の感覚や価値観で生きてきたことがたくさんあったのだろう。

その親の呪縛から解き放たれ、自分の感覚を自分のものとして感じて生きる世界は、私が子どもの頃見ていた世界と違っているはず。

充実感があり、判断に迷うことはあるが自分で考え決めていける。

また、あるクライアントは着られれば服は何でもよかったと言った。

何色のどういうのが着たいということがなく、もらった服でもよかった。

そのクライアントは徐々に自分の好みの服を買うようになった。

自分の感覚を大事にしよう。

それには自分への自信や肯定感が必要。

それがないと他者から否定的言語を言われると、自分はこうだと自己主張できない。

自分は自分でいいのだ。

この世に一人しかいない私。

その私を私が認め、受け入れていけばよい。

その元になるのが、母の承認と賞賛である。

自我がまだ確立されていない子どもにとっては、母の影響は大きく、母の対応と言動によって子どもの自我はつくられていくのだから。

分析では、インテグレーター(分析家)がクライアントに承認と賞賛を与え、気付きによってクライアントは自我を育てていく。

自分の感覚を大事にすること、あらためてクライアントの分析から考えさせられた。


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2009年12月16日

分析家の独り言 301 (インテグレーター養成講座;受講者の声)

今年10月にインテグレーター養成講座を新しくスタートして、3回の講座を終えた。

受講者の中に、「理論を聞くことが個人の分析以上にこたえる」と言う方々がいる。

特に精神発達論を話しているので、自分の育ち方や自分の子育てと比べ、あまりの違いを思い知らされる。

講座の朝になると何となく行く気がしないで、「お休みします」と電話したくなるという方。

これは抵抗。

理論を聴くことによって、見たくない自分を見ることになる。

それでも講座に来られるのだから大したもの。

そうかと思うと、「講座の後体がだるく、家に帰ってご飯がつくれなかった」という方。

講座の内容(理論)がクライアントの無意識を刺激する。

「生後わずかに間に、これほど複雑な精神の構造と発達があるとは知らなかった」という方。

皆さんが感じられることで、私も13年前同じことを思った。

「そういうことだったのか、それならもっと早くに教えて欲しかった、知っておきたかった」と。

だからこそ、これから結婚し子どもをもつだろう若い人達に聴いて欲しい。

もちろん子育て中の親御さんや、自分を知りたい方々にも。

精神発達論くらいは、中学か高校の授業で教えて欲しいくらいだ。

もっと言えば、オールOK子育て法が、社会の常識当たり前になればいいのだが。

今はまだ、世間の非常識くらいの扱いと感じる。

オールOK子育て法の話をすると、「そんなに子どもをわがままにしていいんですか」「とんでもない」と言われる。

インテグレーター養成講座や分析理論講座では、オールOK子育て法を折に触れ人間の心の発達や構造上から解説している。

クライアント達は言う、「オールOKは奥が深いですね」と。

理論的にあらゆる方向から考えてあみ出された子育て法だから、理論を学ぶほどそれしかないとわかるのだが、一般の人にはなかなか理解されないのが現状である。

受講したクライアントは講座の録音をとり、家でも聞いているとのこと。

私もそうだったと思い出す。

私は13年前講座を聴く側から、今話す側に立った。

この講座の中からまた話す側になる人が出てくれることを願う。

次回2010年1月の講座内容は、自我論Ⅳ《母性》である。

これは多くの人に聴いてもらいたい内容である。

詳しくは、滋賀インテグレーター養成講座開講日程のお知らせ(平成22年1月) をご覧ください。


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2009年12月14日

分析家の独り言 300 (後悔のない生き方を)

親は「子どものために良かれ」と思い様々な事を言う。

日常の些細な事から、進路や生き方についてまで...。

親自身が生きて来た過程でそれは良かったかもしれないが、その事がそのまま子どもに当てはまるとは限らない。

だから、子どもに話す時は慎重に言葉を選んで話さないといけない。

親は無意識に子どもを自分の思うように動かしたいと思っている。

そこには親の"分離不安"がある。

また、自分の親と精神的に切れていない為、自分の子どもとも適切な距離がとれない。

日々クライアントの分析をして感じる事がある。

親は子どもに「幾つかの選択肢を与えた」様に見せかけて、実は子どもが「親の選んで欲しい道」を選ぶしかないようにもっていく。

まだ未熟で人生経験も少ない子どもには、その親の"罠"を見抜くことはできない。

そうして子どもは親の敷いたレールの上を歩くしかなくなる、歩かされる。

分析を進めていくと、その事にクライアントは自分で気付いていく。

また、子どもに「失敗して欲しくない」と、親は先々を心配し子どもが聞いてもいないことを先走って言ったりする。

あるクライアントが言った。「転ばぬ先の杖はいらないとわかりました」...と。

その通り、よく気がつかれたと思う。

失敗の無い人生などありえない。

人は失敗するから反省して、次は「こうしよう」「ああしよう」と考え、工夫と努力を重ね達成感を得ていく。

転ばぬ先の杖=過保護過干渉という事であり、それは、その子どもの可能性と能力を親が自ら奪い取ってしまっている。

私事だが、私は「石橋を叩いても渡らない」性格だった。

慎重にも慎重を期し失敗の無いようにと、育つ過程で親からのメッセージを受け取った結果である。

慎重すぎると「新しい事に挑戦する」とか「変化」を好まない人間になる。

生きていく事は選択の連続である。

常に右か左か、するかしないか、選ばなければならないその時、できるだけリスクの少ない無難な方を選ぶ事になる。

生きていく中では一か八か勝負に出なければならない時もある。

それがこれまでの自分から脱皮して、新しい自分に生まれ変わる機会(チャンス)になるのだ。

よくよく考えれば、私は慎重というよりは臆病であった。

あの時自分を信じて、例え失敗したとしても自分のやりたいことに挑戦すればよかったと思うことが幾つかある。

その後悔があり、私は"たられば人生"を生きていた。

「もしあの時こうだったら、こうしていれば私の人生はもっと違ったものになっていたはずなのに」と。

分析により自分を見つめ知っていくと、あの時の臆病な私にはその選択しかできなかったのだから仕方がないと納得した。

しかし、今からは臆病な無難なだけの生き方はしない。

新しいことに挑戦し続けていく。


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2009年12月11日

分析家の独り言 299 (娘の買い物に付きあって:親とは)

娘が「買い物を楽しめない」と言ったことがあった。

「どうして?」と聞くと、

娘がレジに並んでいて、先に並んでいた人がかごを置いたまま商品を見に行って、自分が先にレジを通すところだった。

そこに前の人が帰ってきて、店員は娘のレジをするのをやめて帰ってきた客を先に精算しだした。

娘は「自分が先だろう」と言いたかったが言えなかった。

そうして言えなかった自分と、小さな事にこだわっている自分が嫌だったと言う。

また、買い物で店員から説明を受けたり、商品を勧められたとき、自分が納得していないのに「はい」と言ってしまったり、欲しくも無い物を買ってしまったりすることがあると言う。

私は自分の欲しい物を買いに行って、何にしようか、どんなものがあるかと楽しみで行く。

自分の気に入るものに出会えると嬉しいので、買い物は楽しいことだと思っていた。

なるほど誰もが買い物を楽しいと思うのではなく、その人なりのいろいろな想いがあるんだなと思った。

それで娘は買い物に行くとき私に付いてきて、一緒に行こうとよく言っていたのだ。

あるときコンポを買いたいと、大型家電量販店へ一緒に行った。

店員に説明を受け、娘は自分なりに質問をし納得したようで買うことに決めた。

精算もしたが、店員の言葉に納得のいかないことが出てきて、また悩み出した。

私もそばで聞いていておかしいなと思うことがあったので、結局その場でキャンセルした。

娘は今も分析を受けている。(親子・兄弟・夫婦は分析できないので、惟能氏に分析をお願いしている)

娘がそのことを惟能氏(分析者)に話たところ、 「今度の分析はコンポを買いに行くことにしましょう」と言われた。

そこでまた娘は悩んだ。

また自分の言いたいことが言えるだろうか、、また店員にも分析者にも自分の想いが言えず、いらないのに買ってしまうのではないかと。

私は店員はまだしも、分析者にも言いたいことが言えてないことがあるのかと少し驚いた。

分析者を信頼し頼っていると思っていたが、娘は本当に真から信用しきっているわけではなかった。

思わず私は、「先生に全部言いたいことが言えてるわけじゃないなの?」「まだ先生の前ではいい子でいたいの?」と娘に聞いた。

娘は「そうだ」と言った。

そして、「コンポを買いに行くときお母さんも付いてきて」「横にいて、本当に納得したか、それでいいか、買うときに聞いて」と言った。

結局、分析者である惟能氏と娘と私の三人で家電店に行きコンポを買うことになった。

店員を惟能氏が呼んでくれた。

私はそばにいて、娘は自分でどういう機能のものが欲しいかを話し、説明を受け店員とやり取りしていた。

惟能氏と私はほとんど話すことなく、そばにいただけで娘が聞いて決めていった。

私は言われていた通り、いざ買うとなったときに「それでいいやね。納得したんやね。」と娘に聞いてと言われていたことを娘に言った。

娘は「これでいい」と笑顔で言った。

先生も私も何をしたわけではない、しかし家に帰って娘は「二人がいてくれて安心だった」と言った。

そんなものかもしれない。

見守られている、そばにいてくれて何かの時には助けてもらえるそういう存在があるのと無いのでは気持ちが違う。

親とはそういうものなのだと、娘の買い物の分析に付き合って思った。

分析者の立場としては、クライアントの信頼を得るには時間がかかり、大変なことだと実感した。


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2009年12月 9日

分析家の独り言 298 (2009年12月京都子育て相談室より:ひきこもり)

12月の子育て相談室には、新しく名古屋から来られた方や、ボランティアでひきこもりの支援に当たっている方が参加された。

ひきこもりは社会の大きな問題の一つであり、ひきこもる人の高年齢化が見られる。

年齢を重ね30代・40代・50代となってきている。

当然親の年齢もあがり、子どもが50歳代であれば、親は70歳・80歳代となる。

親が生きているうちは何とかなるが、子どもを残して親が亡くなった後、子どもはどのようにして生きていくのか、という問題に行き当たる。

そこまでいってしまったものは国の政策で対策法を考えてもらうしかない。

我々インテグレーター(分析家)にできるのは、そこへいく前の段階、子どもが10代・20代、せめて45歳までの間に親が子どもを育てなおすと同時に、ひきこもりの本人を分析し社会に適応できる強い自我をつくること。

この厳しい雇用状況の中、まず人とのコミュニケーションがとれなければ仕事は無いと、企業で働くひきこもり支援をしている参加者は言われる。

社会の中で生きていくためには、当然のことである。

このコミュニケーションをまず家庭の中で子どもは学習する。

親に言いたいことを言い、受け入れられ、親の言うことも聞く。

互いの想いや考え気持ちを会話によって伝えあい、そこに信頼・絆・親密性が築かれていく。

こういうコミュニケーションがそもそも家庭に無いことがほとんどである。

親は子どもを自分の言う通りに動かせたい、それが子どもの幸せと信じ命令指示を一方的に出す。

子どもはどうせ親に何を言っても無駄だ、聞き入れられることはないとあきらめているから本当のことを言わない。

こうして子どもは、言えない→出せない(感情)→動けない、でひきこもっていく。

育てる親の側に、特に母親に様々なストレス(例えば嫁姑の関係による)があり、子どもに適切に対応できないこともある。

例え嫁姑の中であっても、母親は言うべきことは言い、その上で姑とも互いに理解しあえる良い関係を築ければいいが、嫁である母親が言いたいことが言えない人で、嫌なことも呑み込んでしまう。

私さえ我慢すれば上手くいくからと言うが、それは言いたいことを言ってしまうと喧嘩になり、それを避けたかったり、良い嫁で居たいということではないか。

事なかれ主義は一見平静を保っているように見えるが、水面下では悪感情などが蓄積されていく。

この言いたいことが言えない母が育てた子は、やはり言いたいことが言えない子になっていくだろう。

だからこそ、オールOKによって否定や命令指示することをやめ、言えなかった子を何でも言える子にするのである。


初めて参加された方から以下のようなメールをいただいた。

「本日、参加させていただいた○○です。
いつもとは違った角度から問題を考えることができました。
引きこもりの問題は家族や社会のありかたが複雑に絡み合っていますので、様々な角度からのアプローチが必要だとおもいました。
実は、精神分析というのをあまり信用していなかったのですが、母と子という関係に絞ってみると非常に明快になりますね。
全ての人間関係の根源になっているという問題の立て方は勉強になりました。」

いろいろな立場から、いろいろなアプローチが必要と思う。

いずれにしても早い対応が大事であり、放っておいて良くなるものではない。

年齢を重ねるほどひきこもりからの脱出は難しくなり、家庭だけで抱えられない問題へ発展していく。

分析はひきこもる人間の心の構造を理解することの視点を持ち、そこからアプローチする。


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2009年12月 7日

分析家の独り言 297 (ラカン精神科学研究所HP3万件アクセス)

当ラカン精神科学研究所のホームページのアクセスが3万件を越えた。

ホームページを立ち上げて、約2年半(2007年春開設)になる。

日本ではまだ知名度の低い精神分析を、いかにしてより多くの人に興味・関心を持ってもらえるかを考えてきた。

お蔭様で、「ホームページを見ました」「ブログを読んでいました」と言って、分析や各講座、子育て相談室へ参加の申し込みが入る。

私はどこか名だたる大学を出たとか、社会的資格があるわけではない。

精神科医であるとか、臨床心理士、カウンセラーでもない。

一般には、臨床心理士・カウンセラーを国家資格と思われているふしがあるが、この中で国家資格であるのは精神科医だけである。

そんな中で、私という人間を信頼して分析治療や講座などに来ることを決意できるものを提供したいという思いでホームページや各サイトを作ってきた。

権威主義的なクライアントから、「先生はどこの大学のどの先生の下で学ばれたのですか」と聞かれる。

そんなものは何もない。

いわゆる大学の教授などからみれば、我々インテグレーターは素人分析家ということになるだろう。

肩書きも資格もなく、信頼されるものをどう提供できるかと考える。

現代はパソコンというい便利なツールがあり、それを多くの人が使うようになったため、パソコンでいろいろな情報を発信している。

何かに悩み、検索キーワードを入れて、ラカン精神科学研究所にたどり着かれる方がいる。

クライアント達は、ホームページのGoogleカレンダーに書き込んだ予定表を見たり、宣照真理のセラピー日記(ブログ)を読んでいるらしい。

そんな状況の中、今回3万件のアクセスを超えたことは、私にとって意義のあることである。

更なるホームページ・各サイトの充実を図りつつ、分析を世にひろめていきたい。


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2009年12月 6日

分析家の独り言 296 (滋賀インテグレーター養成講座第三回:超自我の発達より)

昨日5日(土)、第三回インテグレーター養成講座、自我論Ⅲ《超自我の発達》を開いた。

自我の三審級(エス、自我、超自我)をバランスよくいかに構造化できるかが精神構造上大事である。

超自我は親からの禁止(親の「ダメ」)として子どもに取り入れられるが、超自我も発達していく。

しかし臨床上、超自我が親の禁止の段階で止まっていることが多い。

人が成長すると共に、様々な経験を通して社会適応しつつ、エスの解放をいかに上手くするかという問題になる。

エスの解放のみではやりたい放題で、人を傷つけても殺しても平気、欲しい物は人の物を取ってもよいということになる。

また、超自我が支配してしまえば、禁欲的な真面目人間となるが、躍動感や楽しむ事ができず抑圧されたエスは行き場を失い、最後には爆発することになるだろう。

これが何か事件が起きたときに、「あんな真面目な人が事件を起こすなど考えられない」というコメントになる。

痴漢行為をすれば職を失い、家族がいれば共に路頭に迷うことにも成りかねないのに、電車で女性のお尻を触るということにもなる。

程よい超自我を持つことは簡単ではない。

超自我は自分を律する自我であるが、自分の理想のために今自分は何をし、何を我慢しなければならないかという自我理想に向かうために働く。

ここまで超自我が発達すれば大したものである。

その前にまず、自我理想を描けないという人たちがいる。

親が理性的、論知的でしっかりした超自我をもっていなければ、子どもは超自我を学べない。

子どもは親以上の超自我を持つことはできない。

分析では、クライアントがどれくらいの超自我をもっているかを、クライアントの語りや行動からみていく。

また、犯罪や凶悪事件が増えるということは、超自我のない人間が増えているということである。

全ての人に正しく超自我が入っていれば、警察はいらないのだから。

して良い事と、悪い事の分別がつかないということは、やはり赤ちゃん(アダルト・チルドレンどころか、アダルト・ベイビー)ということになる。


インテグレーター養成講座に参加の方は、お母さん方が多く、毎回「子どもに申し訳ない、ごめんなさいです」と言われる。

子どもに命令指示し、禁止する超自我を植えつけてしまったという反省かと思う。


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2009年12月 1日

分析家の独り言 295 (変容、自己否定から肯定へ)

自己肯定感、自信を持つことは結構難しい。

クライアントにはほぼそれらがない。

そして分析を受ける前の私も全くなかった。

親から「お前はダメだ」「~ができない」「あれもダメ」「これもダメ」とダメだしの連発だったと記憶している。

そんな中で、自分を肯定し自信を持つことはまず不可能だった。

当然「良くできた」「がんばった」などの承認や賞賛はない。

そんな私は、自分でも「ああ、私は何もできない、ダメなんだ」と思っていた。

『他者の下で自我は構成される』、親の私のへの否定的な言葉が私をダメ人間と規定してしまっていた。

肯定感も自信もないから、何かを自ら積極的にすることもなく引っ込みじあんでおとなしい、失敗が恐い、人と関わることが苦手・・・どころか、言葉で攻撃を受け、さらに実際に叩かれることもあったために、私にとって人は恐い存在だった。

振り返ればそんな中で生きていた。

よく不登校も、ひきこもることも、精神的病理に罹患することもなく来たなぁと我ながら思う。

大学は何が何でも大嫌いな家を出るために遠くの大学を選んだ。

初めて家を離れて一人の人間として見られ、「頑張っている」「結構やってる」とプラスの評価を受けることがあった。

ダメだと思っていた自分を、いや良くやっていると評価されると非常に気持ちが悪かった。

散々ダメ出しをくらい、自分でもダメだと思っていたのに人は私を良いと言う。

どっちが本当の自分なのかわからなくなる。

あまり褒められると、本当の私を知らないくせにと腹が立ってくる。

そんな気持ち悪さを抱えながらいた。

これらPTSDを分析を通して癒すのに時間がかかった。

そしてあるときの分析で、自己イメージが近づいてきて、あともう少しというところまできたとわかった。

そうなるまでには、ひたすら語り続けた。

過去を再現し、何度も何度も思い出しては語り、私が悪かったのではない、ダメ出しされることで私は私をダメだと思うしかなったのだとわかった。

そうしていつの間にか、自己肯定感も自信もつくられていた。

今の自分にOKを出し、自分が目差すなりたい自分(自我理想)も明確にある。

今に立つと、昔が自分だどうダメだったのかあまり思い出せないくらいである。

謙虚さを忘れず、しかし自分への誇りと自信は失わず生きていける。

人は中庸、程よさを持つことが難しい。

多くの人が極端にどちらかに振れ、その間を行き来し疲れている、昔に私のように。

相反するものをいかに自分の中に統合するかが、人間が生きるうえでの課題の一つのように思う。


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2009年11月29日

分析家の独り言 294 (変容、母をあきらめる)

クライアントは分析を受け、自分でも気付いていく。

分析を受ける時間だけが分析ではなく、分析と分析の間、常に頭が思考が巡る。

自分で気付いたことを分析場面で報告し、それについてまた話しあったりもする。

「よく気付いたな」と感心することも多い。

分析の時間に気付くことと、日常生活の何気ない瞬間に突然「そうだ」とひらめいたり、子どもや人間関係を通してわかることもある。

私の場合、逆転移して円形脱毛ができたり体が動かなくなったことがあった。

自分でクライアントの何に刺激されたのがわかるときと、わからないときがある。

当然逆転移したときには自分で一生懸命それを探す。

それが私のまだ解消されないコンプレックスだからである。

わからないときは分析を受け、無意識を意識化する。

「あなたはまだ、母に甘えたいと思っている。それを今も望んでいる」と分析者に言われた。

それでもピンとこない、しっくり自分の中におさまらない。

分析を受けて親に甘えられるようになったクライアントを良かったなと思う一方で、自分はそんなこともできなったという思いが、分析中に一瞬だがよぎったことを覚えていた。

甘えらえなかった自分はこれまで散々語り、そんなことはもうわかっていることと思っていた。

しかし、そのとき甘えているクライアントを羨ましいと思った自分がいた。

それを自転車に乗って買い物に回っているときに思いついた。

そうか、甘えているクライアントを羨ましいと思ったということは、それを望んでいる自分がいるということ。

フロイトは「子ども時代はもうない」と言った。

私はまだ子どものまま、あの母が私を甘えさせてくれることを待っていると分析されたのか、それは当たってる、確かにそうだと自分の中にストンと落ちた。

子ども時代を象徴する言葉は、『競争と羨望』である。

羨ましいとは羨望だから、私は子ども時代が終わらずにいるということだ。

それならば「大人とは何か?」を考えた。

大人とは、自分に欠けている母に甘えることを他の事・人に置き換えて今の大人の自分として満たすことであるとわかった。

これが母から分離し母をあきらめることでもある。

「よしこれでいい」、すっきりした。

分析を受けて15年、こんなことを繰り返し自分を見つめ、子どもの自分を成長させてきた。

と同時に、母というものが我々に与える影響力の大きさを今更ながら思い知らされる。

分析の初期クライアントは言う、「もう母のことはいいんです」と。

本当にもういいで済むことではない。

分析によって整理をつけ、本当の意味で「母をもういい」と言えたときの開放感、充実感を味わえばわかる。

この母をあきらめることを=母殺しという。

この苦労しがいのある苦労はして来てよかったと思う。


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2009年11月24日

分析家の独り言 293 (非行、無意識に気付く)

子育て相談室などで必ず、「子どもの言っていることをしっかり聴いてください」

「子どもに言われたことだけしてください」と言う。

これがなかなか理解されない。

私もそうだったが、本当に実践できるようになるには何年もかかる。

まずしっかり聴くことが難しい。

その上に、言われたことだけではなく、余計なことまでしてしまう。

子どもが荒れていわゆる非行仲間の友達を家に連れてくる。

こういう話はよくあることだが、家がそういう子たちの溜まり場になる。

あるクライアントはこの子どもにオールOKをする。

子どもが友達を連れてくるために、自分の子どもだけご飯を食べさせるわけにもいかず、食べてない子にはご飯も出す。

今度は、子どもが友達とコンサートに行きたいと言う。

友達はお金がないので友達の分もチケットを買って欲しいと言った。

言われる通りチケットを買った。

ここまでは良かった。

コンサートにいく交通費や、途中でジュースくらいは飲みたいだろうと、そのお金まで聞かずに出した。

これが余計なことであり、「言われたことだけする」から外れている。

そのお母さんいわく、どうせお金がないだろうから万引きをするだろう。

それで警察に捕まったら、この不況の中、子どもが就職しようとしたときのマイナスになるのではないかと心配だと言う。

必ず万引きするとは限らないし、もし万引きで捕まっても、それは子どもがそこでして良いことと悪いことの学習をすることである。

いずれにしても心配するがあまり余計なことまでして、結局自分の首を絞めている。

これを続けたら、破産するまでするしかなく、家はますます溜まり場となる。

行動の結果からみると、子どもが友達を家に連れてくるので困ると言いながら、本当はお母さんが連れてきて欲しいのではないか。

ここが無意識である。

言葉はいくらでも反対のことや嘘を言えるが、行動は嘘をつけない。

だから、例えば「行きたい行きたい」と言っても、何かの理由をつけて行かなかったのは、本当は行きたくなかったのではないかとなる。

そのために病気や事故にまであう人がいる。

「変わりたい」と言いながら、変わろうとしないなのは、変わりたくないのであり、変わらないことに何かメリットがあるからである。

人は無意識に気付かず、行動している。

無意識に気付けば人は変わる。


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2009年11月20日

分析家の独り言 292 (無意識に気付く:価値を切り下げられていた私)

私はバーゲンが大好きだということに気付いたことがあった。

もっと正確に言うと、もともと高価なもの(価値のあるもの、値段が高いもの)がプライスダウンされているものにひかれる。

例えばコートなど、もとの値段は何万もしていたものが、5割引、7割引になっていて、それが自分の気に入るデザインで手に入れたときに無上の喜びを感じていた。

そしてあるときふと思った、そのものこそ私だと。

私は私を、もともとは価値があったが、それを値引きされ、安く見積もられているという自己規定だった。

値引きされたその物こそ私だから、私に出会うために買い物に行ったようなもの。

そこには、今は低い価値を付けられているが、本当の私はもっと価値があったんだぞという想いがあった。

育ってくる過程で親に「ダメだ」「出来ない」と価値を切り下げられたために、いや私は本当はすごいんだ、えらいんだと言いたかったということ。

本来は、自分が欲しいもの、必要なものを探し、その物の値段が納得いくものなら人は買う。

ところが、私はまず値段の下がっているものを探していた。

それも無意識のうちに。

意識上は少しでも安いものを探して、家計の負担を少なくしようにと思っていたが、よくよく考えれば違っていた。


また以前天海有輝のセラピー日記分析家の独り言167(こんにゃくだったクライアント
で書いたクライアントも同じだ。


切れ端のこんにゃくをビニール袋に入れて、ビニールテープで止め、「はい、100円です」と、こんにゃくを受け取るときモワモワっとした何とも言えない幸せな気持ちになったという。

普通なら捨てられてしまう商品価値のないこんにゃくに、(100円のこんにゃくとして)価値を与える人になりたかったというクライアント。


あるクライアントは、駅などに張られているポスターの端が少しめくれていると気になって、一駅一駅降りてはそのポスターが折れて見えない部分を直して見る。

この人にとって、このポスターの端が折れて見えないとことこそ自分自身なのだ。

そこに何が描かれいているのか、どんな色なのか見ずにはいられない。

そのために、一々電車を降りていたのでは、社会生活に支障がでる。


よくテレビなどで見る、ごみ屋敷というのも同じである。

ごみ屋敷の家主は、捨てられているごみが自分自身であるから放っておけず拾ってくる。

これらそれらその人の無意識による行動である。

それが、一般的には癖・傾向といわれる程度のものから、社会不適応に至るまである。

無意識に気付けば、自分で修正することができる。

私の場合でいえば、安く値踏みされ自己規定を書き換えて、自分の価値に対する自己イメージを一致させること。

それを分析を通してやってきた。

すると当然行動が変わる。

気付いて、受け入れれば一瞬のことである。

こんにゃくを買わずにはいられなかったクライアントは、不思議なくらいこんにゃくに気を止めることがなくなった。


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2009年11月16日

分析家の独り言 291 (子どもに適切な関心を向ける)

子どもの心を育てるために「まなざし」と「声」と「スキンシップ」が必要である。

親が子どもに適切な関心を向けるということ。

この子は何をしたのだろう、何か悪いことをしていないか、などの監視の目ではなく、あたたかく見守るというまなざし。

「ああしなさい」「こうしなさい」「あれをしちゃだめ」と命令指示したり、感情的に子どもを怒るのではなく、「あなたはどう思う?」と子どもの意向を聞くことや、「どうしたの?」と子どもを思う気持ちで声をかけ、子どもを理解しようとすること。

そして、抱っこをはじめ、手をつなぐ、頭を撫でる、体をさするなどのスキンシップ。

自分が育ってきた過程を振り返って、残念ながえらどれも得られなかった。

監視の目は向けられていた。

いつどこへ誰と何の用事で出かけるかと聞かれ、答えなければならなかった。

これは警察の調書と同じ。

これをされると嘘をつくのが上手くなっていった。

都合の悪いこと=親に怒られそうなことはうまくごまかすようになるからだ。

またこの監視の目が強いと、誰かにいつも見られている、見張られているような感じがすることがある。

とにかく「ああしない」「こうしなければだめ」と命令指示が多く、自由がない、窮屈。

親の意向にそった行動をするしかなく、自分で物事の善し悪しを判断できなくなっていく。

あるクライアントは、「あなたはどう思う?と聞かれたことがない」という。

はじめから自分がとる行動は決められいるようなもので、親の考えが何より正しく、それを聞かなければならないようになっている。

更に母親は生後7週間で仕事に復帰したため、祖母に育てられ、赤っちゃんの頃から抱っこされる機会は少なかった。

祖母が生きている頃、「あんたを連れてお母ちゃんの仕事場へ昼休みにオッパイをもらいに行った」とよく聞かされた。

小学校高学年か中学の頃だろうか、母に手をつなぎに行って「いい歳して、いやらしい」と言われたことがあった。

娘は二十歳を越えても、私が椅子に座っていると、何気なく膝の上に座ってくることがある。

ああ、これでいいんよねと思う。

「母と手をつないだことが無い」「母と買いものに行った記憶が無い」という人もいる。

母親である私たちが何かしら欠けている、適切な関心を向けられていない。

その自分が子どもを育てるのだから、さらに欠損は大きくなり、適切な関心を向けることはできない。

あらためて娘達には申し訳ないことをしたと思う。

遅ればせながら埋め合わせられてことと、まだ足りない部分があるだろう。

娘に声をかけ聞くことが、自分が親からされて嫌だった警察の調書のようになってはいけないと思うあまり、もしかすると聞いて欲しいと娘が思っていることまでスルーしてしまっているかもしれないと思うことがある。

そうかと思うと「お母さんは突っ込んで聞いてくれるから話せる」と言われることもある。

適切な関心というのは確かに難しい。

母親がその母親から適切な関心を向けられて育ったなら、当たり前のこととしてまた子どもにできるのだが。

親は子どもと接する(子育ての)なかで、子どもの反応を見ながら、学習することができる。

分析を通して理論を知って、子どもに適切な関心を向けられる母親になってもらう。


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2009年11月14日

分析家の独り言 290 (非行に悩む親の会「大文字の会」に参加して)

昨夜久しぶりに、京都教育センター内にある親と子の教育センターで月1回「大文字の会」という、非行の子どもに悩む親の会に参加してきた。

この会を主催されているのは、教職を退職された年配の男性。

私は9~10年前から参加し、これまで様々な非行に悩むお母さん方(お父さんも)の話をきかせてもらった。

自分の勉強として参加してきて、学ばせてもらったことも多かった。

ここで出会った人の一人が、『非行・家庭内暴力に悩む方々へ』のサイトで紹介した緒方さん(仮名)である。

昨夜の話の中で、地域性の影響を親が受けることがあるという。

その地域、近所の人からの評価・視線を気にいて必要以上に子どもに口やかましく言ってきたことがある。

古い町並みに古くから住む周りの人達の中で暮らすことの良い面と悪い面があり、悪い面が強調されてしまう。

例えば「近所の人にはきちんと挨拶しなさい」とか、「そんな格好で近所を歩くのやめて」など。

子どもの評価が即親である自分の評価となり、人から良い人と思われたい、「なんだあの親は」と非難されたくないなどがあり、結果子どもを追い詰めていった。

あるときからそれをやめて、子ども中心に考えるようになったら自分も楽になったと言う。

また、学校へ行けば勉強や校則をやかましく言われ、これでは子どもも大変だと思ったと。

そう、子どもも大変なストレスを抱えながら学校や地域、家庭で日々を過ごしている。

せめて家庭は家族がのんびりとリラックスできる団らんの場であって欲しい。

しかしその家族が、親がピリピリした雰囲気で、家族間の摩擦があったり、例えば母親(父親)が未成熟であったなら、その影響は子どもに降りかかる。

他人が気になるということは、主体は自分ではなく他者にあるということ。

私は私という視点がない。

吹けば飛ぶような薄っぺらな親が、子どもにああだこうだと言いまくる。

弱い犬ほど吠えたがる。

それは弱い自分を守るためかもしれない。

外からの刺激を時には受け止めたり、跳ね返したり、排除したり、時と場合によって対処することがおきる。

親は子どもの傘となり、降りかかる火の粉から守ってやらなければならないことがあるが、その親が子どもにとって火の粉となってはいないか。

世間体を気にして、常識を振り回して。

そんなことを思う昨夜の大文字の会だった。


「大文字の会」は毎月第二金曜日、夜6時半~9時まで
場所は、京都市左京区聖護院川原町4-13 京都教育文化センター内 1F 親と子の教育センター
電話 :075-771-1150(担当:勝見先生)
参加費:500円
来月は12月11日(金)の予定

興味・関心のある方は上記へ電話連絡するか、ラカン精神科学研究所へ連絡ください。

ラカン精神科学研究所 
電話:077-558-8766 または 050-3767-6283
携帯:090-7357-4540
メアド:lacan_msl☆yahoo.co.jp ☆を@に変換したメールアドレスにメール送信願います(スパムメール対策)。


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2009年11月13日

分析家の独り言 289 (結婚詐欺にみる心の発達停止)

近頃ニュースでよく耳にする、結婚詐欺事件。

自分の利益のために、人をだましてお金を出させ、自殺であるかのように見せて殺す。

これは精神の発達からいえば、22ヶ月以前の赤ちゃんの段階である

(ちょうどこのテーマは次回11月のインテグレーター養成講座で話す分離・個体化の過程で解説する。)

母がまだ乳房だけの存在である部分対象から母と一緒に遊ぶ、寝る、食べるなどの共生、共感、共有の体験を通して、母を全体対象として認識していくが、対象が全体対象に至らない段階で精神はストップいてしまった状態。

精神が赤ちゃんでも、肉体の成長とともにそれなりの知恵や知識は得るため、その年齢にふさわしいように外目からは見える、人からお金を騙し取ることも出来る。

対象である他者を部分対象としてしみるということは、他者を部分的に利用するということである。

だから、自分欲しいお金を得るために他者を利用出来る。

他者を一人の人間と思えば、痛みも喜びも感じる血の通った自分と同じ生きている人なのだから、相手の気持ちにつけ込んで、結婚するとだましてお金を取り、更に自殺に見せかけて殺すなどということは出来ない。

母親のオッパイを飲んでいるだけの部分対象の段階のまま止まっている。

母親が適切に愛着をもって子どもに接し世話したなら、部分対象から母は全体対象に至る。

生後八ヶ月において、母とそれ以外の人を認識し始め、世話し続けた母が子どもの精神内界に焼き付けられ(内在化され)、対象恒常性に至る。

それには母が自分を見続けた一対一のまなざし、その体験の積み重ねと記憶が必要である。

それを子どもを世話せず誰かに預けたのでは、母親のイメージが子どもの中に定着することも無く、母親との愛着や信頼・絆も形成できず、精神の成長はそれ以上発達する事は無い。

世話せずに成長するものは無い。

植物や動物がそうであるように、人間もまた同様である。

精神が未熟であることほど恐ろしい事は無い。

精神の発達と知能は全く別のものである。

人はやはり、精神の時と肉体の時の二つのときを生きている。

この精神の時がどこで止まっているのかを見、そこからもう一度時を刻み出し、成長・発展していくことを精神分析は目指す。


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月刊精神分析2009年10月号変容と変遷

2009年11月10日

分析家の独り言 288 (2009年11月京都子育て相談室より:子ども時代を終わらせる)

昨日9日いつものように京都で子育て相談室を開いた。

遠くは兵庫県や大阪からの参加やお父さんの参加もあり、子どもの不登校、ひきこもり、非行、家庭内暴力、子育ての悩みなどで、一人ずつ現状を話しながら質問され答えていった。

日々子どもと接しオールOKする中での成功や失敗、子どもの変化、悩み、親の気付きなどがあった。

それぞれが抱える問題は違っていても、子どもへの対応法オールOKは同じで、質問や答えが質問した以外の人たちの参考にもなると思う。

いつも私が言うことがある。

「子どもが何を言っているのか、まずよく聴いてください」ということ。

勝手に先回りして心配したり不安になったリしないで、言ってないことまでしようとしたり、聴く側の勝手な思い込みもしないで、正確に言葉を聴き正確に反応すること。

たったこれだけのことが案外お母さん達にはできないことが多い。

心配性のお母さんは、子どもが言ってないこと・やってないことまで先回りして心配する。

そのもとには、母親自身の問題がある。

安心と安全の中で母自身が育ってきて、自己肯定感や自信をもっているか。

それが無ければ、マイナスの思考に流れやすく、その母の言動は日常のなかでも子どもに伝わり、子どももまた心配性であったり、人の話を思い込みで聞くことになるだろう。

また、子どもの要求に応えるのはいいが、言葉で「いいよ」「はい、わかった」と言っても、眉間にしわを寄せて、顔が「ダメ」と表現していたのでは子どもは気持ちよくやってもらったとは思えず、満足度も低い。

言葉ではOK、表情でNO、この相反する二つのメッセージを出されたら子どもは困惑するだろう。

さらに子どもの要求に応えるが、言葉で「めんどくさいな」とか「もっと早くいってよ」などと言われるのも同じである。

どうせ応えるなら、子どもが心地よくやってもらってありがとうと思えるようにして欲しい。

そうでないとせっかく応えたことによる子どもの心を育てる効果が半減する。

それはもったいない。

しかしこういう私も、どうせ子どもに応えるなら、文句も愚痴も嫌な顔もせずに気持ちよくやってやればいいのに、なんで一言要らないことを言ってしまうのかと悩んだときがあった。

そのときには、私はこんなことも親には言わなかったし、言えなかった、してももらえなかった、なのにあんた達(子ども達)はいいよね、言えば応えてもらえてもらえるんだから、と思っていた。

この時点でまだ、私の子ども時代が終わっていなかった。

この私の子ども達を羨望する言葉は、親に対する子どもの視線に立った言葉である。

ところが子どもを育てる私は、子どもに対する親の立場に立たなければいけなかった。

それには親から心理的に分離し、自律することが必要だった。

過去の親への愛と憎しみ、してもらったことと、してもらえなくて心残りなことに対する恨み辛み憎しみを整理し、そこから離れること、解き放たれること。

そうすると、子どもへの羨ましさはいつの間にかなくなり、要求に応えてもらって喜ぶ子どもの顔をみて、これでいいんだと一緒に喜べる私がいた。


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2009年11月 6日

分析家の独り言 287 (会話の力)

クライアントから、「Yes」の裏の「No」を読み取りながら会話をするというのを幾例か聞く。

「~したいんだけど、どうかな」「いいかな」と聞いて、相手が「いいよ」と言っても、その裏には「ダメ」が含まれているのではないかと思うというのである。

この会話は非常にややこしく、会話が成立しにくく、互いの思惑が交錯し混乱する。

これとともに多いのは、察するという会話である。

言葉ではっきり「ダメ」とか、「~しなさい」とは言わないが、遠まわしにそれを言っていることを察するというもの。

兄弟が親に怒られているのを見聞きして、自分にもそれをするなと言っているんだと察する。

親が他人の行為に文句をつけて、子どもは親がそういうことを好まないんだ→してはいけないんだと察するなど。

言葉で「勉強しろ」とは言われないが、勉強していると親の機嫌がよければ、それは「勉強しなさい」と言われたのと同じことになる。

非言語的会話とでもいうべきこれらの会話は、病んだ家族に多い。

会話が何か、どういうものかわからないというクラインともいる。

正常な会話をしてきているか、非常に怪しくなる。

一方通行の命令指示も会話とは言わない。

会話とは言葉のキャッチボールであり、会話によって人と人が理解しあい、共感や合意が得られるものである。

自分の考えや意見を言うと同じように、相手の考えや意見も聞き、自分の主張をどこまで通し、相手にどこまで譲るか。

自分を主張するばかりで相手が自分に合わせることだけを望んだり、自分を殺して相手に譲るばかりでも良好な関係はつくれない。

どこまで出して、どこまで引っ込めるか、これを子ども時代から親との会話で学習していく。

まずは子どもは親に自分の言いたいことを言えること。

親はオールOKして、子どもの言うことをしっかり受け入れ聴く。

この聴いてもらうことがそもそもない。

しっかり聴いてもらうから、子どもは成長とともに、人の話を聞ける様になる。

親がろくに子どもの話も聞かないで、親の話を聞けというのは無理である。

人は基本的にしてもらったこと(体験したこと)は出来る。

またされたようにしか出来ない。

会話ないの夫婦、会話のない親子、会話のない家族、これらは互いの理解や思いやり、信頼、親密さ、愛着が育たない。

第三者が聞いていると、全く話しがかみ合っていないのに話が終わらず会話であるかのようにみえるものもある。

今一度、自分達がしている会話は、本当の意味で会話といえるかを見直してみてはどうか。

カウンセリングで話を聞いてもらい楽になる、癒されるというのは、理解と共感的態度で話を聞いてもらうからだろう。

分析はこのカウンセリング的理解と共感を持ってクライアントの話を聴き、さらに無意識や心の構造に踏み込む。

それらを薬や暗示、催眠などを使わず、会話によって行う。

この会話によって、理解され、癒され、気付き、変容し、成長していく。


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2009年11月 3日

分析家の独り言 286 (メール相談・スカイプセラピーより:今ここに生きる)

時代の流れなのか、最近パソコンによるメール相談や、電話セラピーに加えスカイプでのセラピーが増えてきた。

以前からホームページ上でスカイプは無料で電話機能が使えるので、それにカメラをプラスするとテレビ電話となり、遠方であるなどして直接面談できないクライアントに対応できると言ってきた。

メール相談についても、メール相談だけでやり取りをするケース、メールのやり取りをした後分析に入っていくケースや、、メール相談の後子育て相談室などに参加されるケースなどいろいろある。

日本ではまだあまり知られていな精神分析を、より多くの方々にまずは知ってもらいたいという思いからパソコンというツールを使ってホームページや各サイト、月刊精神分析を作ってきた。

ブログ『宣照真理のセラピー日記』は、私の分析を受けているクライアント達も読んでいるようで、分析や相談室・講座で話題にのぼる事がある。

これも精神分析というものをいろんな方向から表現し理解してもらえるように、また私という人間を知ってもらうことの参考になればと思って書いている。

分析とともに分析者がどういう人間かも、クライアントの立場に立てば気になるのは当然で、この分析家は信頼できるのかどうなのかをどこで判断するか。

分析関係に入れば、分析家はクライアントと信頼関係を築くことに注力するのは当然だが、そこに行く前段階で、どの治療者のもとに行くかをクライアントは決めなければなならない。

また子どもの不登校・ひきこもり、非行などで困ったとき、どこに相談しに行けばいいのか迷うだろう。

そんな時、「不登校」「ひきこもり」「非行」などの検索文字を入れて当ラカン精神科学研究所のホームページやサイトを見て、一度話を聞いてみたい、メールで相談してみたいと思う何かを提供できたらと思っている。

実際「ホームページを見ました。分析を受けたいのですが」と電話をいただく。

手前味噌ながら、分析やラカン精神科学研究所をいくらか信頼してもらってのことかと思う。

さらに、精神分析とは何かから説明しなくてもホームページなどを読んでもらっているため、時間や料金などについても了解した上での連絡のため非常に助かる。


分析は精神の病があるから受けるものとは限らない。

精神的病理の有無に関わらず、自分を見つめ、自分を知り、自分らしく活き活きと生きていくことができる、それを目指す人達が取り組むことといえる。

そういう意味では、全ての人が分析を受ける可能性がある。

分析により親との精神的分離を成し遂げ、精神的に成長していく。

過去にとらわれ執着せず、今を味わって「今ここに生きる」ことである。


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2009年11月 2日

分析家の独り言 285 (滋賀インテグレーター養成講座第一回より)

新しくインテグレーター養成講座を開き、第一回を終えた。

講座の内容は、『自我論Ⅰ』 胎児の世界、新生児の世界、乳幼児の自我と対象関係。

内容が濃く、3時間では話しきれないほどだった。

胎児がどのように胎内ですごしているのか、そのとき母親との関係がどうであるか、新生児の世界はどんなものかなど参考文献  

「胎児は見ている」   (祥伝社)
「赤ちゃんには世界がどうみえるか」  (草思社)

と、症例を入れながら解説した。

胎児も新生児も一般には、まだ全てにおいて未成熟で何もわかっていないだろうくらいにしか思われいていないだろうが、そうではない。

感覚器官が未発達ながらも、胎生六ヶ月以後には自我が芽生え始めており、胎生八ヶ月においては、胎児なりに考え、感じ、記憶しているといわれている。

ましてや新生児においては、肉体の成長とともに精神の発達・成長はいちじるしく、母親による世話が大事である。

乳幼児の自我と対象関係では、対象関係論(乳幼児の精神の構造)を解説した。

実際に今乳幼児が身近にいる方もおり、「そうそう、確かにそうだ」という声もきかれた。

分析理論講座ではやさしく理論を解説しており、また分析の中で一部理論的なことを話すこともあり、そのとき必ず「そんなことなら、もっと早くに知っておきたかった」という声を聞く。

私も、分析理論を学んだのは子どもがもう小学生になっており、せめて子どもを産む前に知っておきたかったと思った。

講座参加者の中には、これから結婚するだろう若い方もおり、是非こういう人たちに知っておいて欲しい。

子育て中の方には、これまでの子育てを見直し、子どもにどう接しどう世話するのが子どもの健全な精神を育てることになるのかが理論をもとにわかってもらえる。

智を得たとき、無知だった自分を知る。


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2009年10月30日

分析家の独り言 284 (自分らしく生きる)

クライアントの話から、子どもに「早く、早く」と追い立てたということを聞く。

おそらく私も私の親から同じように言われていたのだろうと思う。

私も子どもを育てる過程で子どもを「早く、早く」と追い立てていたからだ。

保育園に行く娘に「早く着替えなさい」、「早くご飯を食べなさい」「何やってんの、遅い」と。

急き立てる私に娘は「何でお母さんは早く、早くが好きなん?」と言った。

当時私は娘のそんな言葉に気を止めることもなく、相変わらず追い立て急き立てていた。

自分の内で常に「早く、早く」という声が回っている気がした。

長い間、それさえも気が付かなかったのだが、そんなことに気が付き始めたのもやはり分析を受けてからだったと思う。

「早く洗濯をして」、「早く家事を済ませて」、「早く仕事をして」・・・ 毎日毎日・・・ 疲れていた。

あるとき思った、そんなに急いで私は何をしたいのか?どこに向かっているのか?

早く、早くの先にあるもの、行き着く先は「速く棺桶に入ることじゃないか」と気が付いた。

そんなに私は死に急いでいたのか。

おかしいよね、私。

何でもっと、生きる過程を大事にして来なかったのか。

いろんな問いが自分の中に湧いてくる。

そして「早く、早く」と死に急ぐ生き方は辞めると決めた。

そこに何の意味もない。

では、なぜ私の中で「早く、早く」のレコードが回っていたのだろう。

多分、大家族の中で母は家事に仕事に忙しく追われ、子どもの私にも自分のことは自分でさっさとしてもらわなければ困ったのだろう。

その母が私に「早く、早く」と言っていたのだろう。

親の口癖は、くり返し聞くことになり、子どもの心に刻まれる、刻印される。

この無意識に刻印された言語に従って、人は生きていくことになる。

自分の意思とは関係なく。

他にもいろんな言葉を言われているはず。

まだ気付かないその言葉を見つけ、書き換えていくのも分析の仕事である。

あるクライアントは自分を縛っているものをしっかり見つめ、それを一つ一つ見ていくと決めたと言った。

絡まった糸を丁寧に解くように、薄皮を一枚一枚剥がすようにしていくと、自分を縛り生きにくくいていたことから解放される。

解放されたとき、以前自分がいかにどうでもよいことに縛られ生きにくかったかがわかる。

この開放感と自由な心を取り戻し、自分らしく生きていける。


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2009年10月26日

分析家の独り言 283 (2009年10月京都子育て相談室より)

新しい方の参加があり、子どもへの対応法の質問が相次いだ。

「オールOK子育て法」を話すが、世間では子ども要求に応えると、「わがままになる」「何でも子どもの言うなりになってはいけない」と言われるので、お母さんが迷ったり、悩んでしまう。

その方は、「オールOKしていいと言われると安心する」と言われた。

ただし、子どもに言われないこと、要求されないことまでしない。

それは過剰であり、逆に支配につながり、子どもは攻撃されたと感じてしまうからだ。

子どもが何を言っているのかまずよく聴くこと。

記号としての言葉をしっかり正確に受け取ること。

しかしそこに聴く側の母親のコンプレックスが入ると、思い込みなどにより勝手に解釈してしまう。

母親が甘えを抑圧し、親に言いたいことが言えなかったとしたら、子どもの甘えが受け入れられない。

子どもに「お母さん○○して」と言われると、「自分でしなさい」と言う。

これでは子どもの言葉を正確に受け取ったことにならない。

子どもは自分の言葉の真憑性が学べない。

母親が自分の言った通りに動いてくれるから、子どもは自分の言葉が正しかったと思える。

そうして言葉を覚えていく。

基本的に母親がその親にしっかり自分の言葉を聴いてもらってないために、子どもの言葉を聞きたくない。

これが母親のコンプレックス、無意識である。

子どもは自分の言葉を正確に受けとられ、言葉通り応えてくれる母親と信頼関係を築いていく。

この信頼をもとに、母親以外の人と関わっていける。

当然自分への肯定感や自信も持てる。

ある子どものクライアントは、「オール(OK)と言われると、安心する。オール=全てだから、気兼ねなくいける」と言った。

母親の胸に思いきって飛び込める安心感が子どもの心を育む。

質問に対し答え、対応法等を話し、なぜそうするのかを説明し納得してお母さん方に子どもにオールOKを実践してもらえるようにしている。


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2009年10月21日

分析家の独り言 282 (子どもの主体性を大切にする)

これまでも娘とケーキを何度も一緒に作ってきた。

今度は「料理を教えて、一緒に作ろう」と言う。

料理本をみて、材料を一緒に買いに行く。

ああだ、こうだと言いながら、時には「結構いける」と喜んだり、「これは今一つだったね」「まあ何事も経験」と言ってみたり。

とにかく娘のペースに合わせて進めるため、すごく時間がかかる。

でも子どもはこんな風に、自分のやりたいようにやって、自分に合わせてもらえれば楽しいだろうなと思う。

自分のときはどうだったかと振り返る。

時間のない母に手伝わされ、メインは母がして私は洗い物や雑用。

あれでは料理を作ったという感覚さえ持てなかっただろう。

料理を手伝うのは嫌いだった。

家族のためにご飯を作ることが母親としての役目と思い作ってはきたが、途中までとてもしんどかった。

家事の中でも、料理が一番苦手というか、苦痛だったと思う。

なぜだろうと考えた。

おそらく母に一番手伝わされ、嫌々だった事だからではないか。

例えば女性が、そこそこの歳になって自分で家事をするようになる。

そのとき、料理・洗濯・掃除・片付けなどが、楽しい思い出としてその人の中にあったなら、その楽しい思いと共に家事をするだろう。

しかし、やりたくないのに無理やりやらされたりなどして、家事をすることに良いイメージ・思い出がないと、家事をしようとしたときその嫌なイメージがでてきて面倒くさい、やりたくないとなるだろう。

人は何を体験し、どういうイメージ・記憶を自分に残したか。

もちろん良いものを重ねられた人は幸せである。

料理を作るとき、「ああ、あの時母とこうして作って楽しかった」「美味しかったなぁ」と思えれば、料理は楽しいことで好きになるだろう。

そうすると、子どもに物事の得て不得手、好き嫌いを決めさせているのは、多分に親の対応によるところがあるのではないか。

子どもが自らしたくてすることと、親に言われてさせられるのでは大きな違いがある。

つまり、子どもの主体性を重んじることが大事。

子育ての場は、母親自身が育てられたことの再演の場となるようだ。

合わせる、待つとういうことが苦手な私が自分を知り、娘によって鍛えられ、ゆっくりしたテンポの娘に付き合えるようになったのは奇跡かもしれない(笑)。


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2009年10月20日

分析家の独り言 281 (精神分析の意味:幸せを目指して)

ククライアントは「こうあるべき」「こうでなければならない」という硬い枠を持っている。

その枠に自分も他人も納まっていないといけない。

最初はこの枠が自分を縛り、生きにくくしていることに気付かない。

後にこの枠があるために生きにくいとわかるが、これがなかなか手離せない。

そもそもこんな枠など持たない方が楽だったと、枠を持たなくなったときにわかる。

と同時に、いかにこの枠に縛られ、自分を持てず無駄に生きてきたかを知る。

育ってくる間に親や周りからいろんな言葉を吹き込まれ、「~であるべきだ」「~でなければならない」の枠を持たされてしまった。

子ども時代、小さければ小さいほど、親たちの言動による枠を跳ね除けたり、否定することは難しい。

一生それを金科玉条のごとく思い生きていく人もいるだろう。

私の親は、私に25歳までに結婚しなければ、いいところにはお嫁にいけない、幸せになれないと吹き込んだ。

だから昔、友達のお姉さんが25歳を越えても結婚していないと聞くと、「えっ、まだ結婚してないの」と私は驚いていた(今から思えばなんと滑稽なことか)。

他にも、感謝しないといけない、女の子は早くから家のことができないといけない、結婚するまで婚前交渉をもってはいけない、先祖や親を尊ばなければいけない・・・ 日常の細かなことまで、ありとあらゆることに口やかましかった。

おかしいと思いながらも、それらを否定できず、私はそれらの言葉に従って生きていた。

「苦労は買ってでもするもの」と言われれば、楽をしてはいけない気になる。

我慢することが良いことで、自分の要求やわがままを出してはいけないと教えられたが、それらを出すことが大事だった。

子ども時代にはそれを親が受けとり、成長するごとに自分で我慢することや社会に適応することを学習し、しかし要求を全て抑えるのではなく、今の自分に出来る方法で満たす、置き換える。

抑えるのではなく、いかに満たすかが大事だった。

そうとは知らずに、出来る限り抑えることが正しいと思い生きてきた。

「真面目に生きなければ、神様は見ているから罰が当たる」と言われれば、怠けたり、人に悪意を持つことが出来なくなる。

人を憎んだり、恨んだり、怒りを抱いたり、人として当たり前の感情を抑えなければならなくなる。

人は真面目にだけ生きることが良いことだろうか。

真面目な自分と、羽目を外して不真面目な自分を適材適所使い分け、楽しむ事が大事と知った。

人を憎んだり怒ったりする、それも人間として当たり前の感情であり、それらをいけないものと思わなくなる。

それよりも、なぜ自分はこの人が嫌いなのか、腹が立つのか、何にひっかかっているのかを考えるようになる。

そこに自分のコンプレックスがあるはずだから。

そうなると、自分の感情に振り回されることがなくなっていく。

「人に出来ることは自分にもできる」と言われ、出来ないことに出会うと自分はダメだと落ち込む。

そもそも人に出来ることが全部自分に出来るわけがない。

人にも自分にも出来ること得意なことと、出来ないこと不得意なことがあって当たり前。

自分の特性や好きなことを知って、それを活かせば良い。

クライアントは様々な枠をはめられ、生きにくさを感じ苦しんでいる。

分析において語りながら、自分のからだに心に書き込まれた言葉、シナリオを解読し、書き換えていく。

親の価値観やものの見方で生きていくのではなく、自分の価値・見方で生きていく。

それには親との心理的分離が必要。

そこには愛と憎しみがあるため、これが厄介であるが、根気強く取り組めば自分を自分として感じ、生きている充実感が得られる。

悩み苦しみがあるから、病んでいるから分析を受けるのではない、分析は幸せを目指す人が取り組むのである。


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月刊精神分析2009年9月号 秋葉原無差別殺人事件

2009年10月16日

分析化の独り言 281 (クライアントの気付き:自己の成長)

分析はクライアントのコンプレックス・無意識に触れるため細心の注意が必要である。

それを「薄氷を踏む想い」と表現する。

文字通り薄い氷の上を歩くようなもので、いつどこで薄い氷が割れ、冷たい水の中に落ちるかわからない。

一気にコンプレックスに触れるとクライアントは悲鳴を上げる。

辛く苦しいことであるため触れたくなく、無意識に追いやったものに接近するのだから。

クライアントの反応を見ながら行くが、解釈が早すぎ、クライアントがそれを受け入れる準備が整っていなければ抵抗が起きる。

次回の予約を入れずに帰るクライアント。

様々な表現をして分析から撤退していく。

分析を辞める辞めないはクライアントの自由なので無理に引き止めたりはしない。

来るものは拒まず、去るものは追わずである。

やめていくクライアントはそれ以上自分を見つめることができず、治す(変容する)気がないか、自分という治療者には治せないクライアントだから絶対に追いかけてはいけない。

また、本来の分析というものが理解されていないと感じることもある。

コンサルティングを求めている人に多い。

クライアントなりの一段落がつき、やめていくが、その中で分析に復帰してくるクライアントがいる。

子どもの問題で分析に来られ、殆どその対応法(コンサルティング)を求められた。

子ども達は一応の落ち着きを得たが、今度は親である自分のメンタルケァを求めて来られた。

分析がないと、自分自身の成長がないと気付いたという。

その通りである。

素晴らしい気付きと、私は独り感動する。

表面上はそれなりに落ち着いてはいるが、根本的解決ではなく、自分の心も本当の平安を得たのではないことを知っている。

自分の母親から母らしい対応を受けなかったために、母性というものが何かわからない。

当然子ども達にも母性行動がとれない→子どもは何らかの問題を呈する、病む。

自分が変わることで、子どもの心が成長し社会に出て行けるようにまた取り組むという。

一度やめたクライアントが復帰してくることは少ないが、中にはこういうクライアントもいる。

「またお世話になります、よろしくお願いします」と言われた。

私の方こそ「よろしく」である。

また語り合い、共に学び成長していけるだろう。


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2009年10月13日

分析家の独り言 280 (分離不安、葛藤を乗り越えて自立へ)

10月の連休中に実家の地域のお祭りがあった。

親戚の人たちが集まる。

その席で皆が話している中、母が私のことを「この子は、そこまでせんでもいいやろと私が思うくらい、娘らの言うことをきいてる」

「私がこの子を育てるとき、あれダメ、これダメを切ってきたから・・・」と言った。

私は本当にこの人(母)わかって言ってるのかと思った。

少しは自分のしたこを反省したのか?

一方では相変わらず私に「娘をもっと躾けないといけない」とか、「手伝わして教えておけ」だのと言っている。

どれが本当の母なのか。

いずれにしても、私は私をしっかり持って、この考え方でこうするというものを持っていないと親に振り回される。

子ども時代には親や大人は絶対で正しいと思ってきた。

親もまた、自分たちの言うことは正しいから言うことを聞いておけばいいんだと、あるゆる場面で子どもである私に言ってきた。

それを途中まで信じてきたが、はたと自分を振り返ったとき、それは違っていた。

親の言う通りしていれば間違いは無い、幸せになれると信じ込まされてきたが、決して私は幸せではなかった。

これは大変なことだと気がつけたのは30歳半ばを過ぎていた。

ならばなぜ、親はそんなにも支配し、自分達の言うことを聞かせたかったのだろう。

もちろん親たち自身がその様に育てられたのではあるが、それくらい子どもを従わせたいというのは分離不安であろう。

自分と同じ考え、自分と同じ行動をとることを強要する、それは一体化を望んでいる姿。

いくら自分の子どもであっても、別の個体であり別人格であると認識していれば、親である自分はこう思い、考え、こうだったが、子どもはどうかわからないというところに立てる。

ところが、よく聞くのは、自分がこの学校に行ってよかったから子どもにも行かせたかったとか、親の職業を継がせたいとか・・・ という話である。

人間は親と分離していくことが一つの大きなテーマである。

自分は自分として一人で立っていられる(=自立)ということは、簡単なようで難しいことだった。

親が自立していなければ、子どもを取り込み、子どもの自立を無意識に阻んでしまう。

いつまでも自分のそばに子どもを置いておきたい。

子どもはいつまでも自分の足で自分の好きなところへ歩いて行くこともできない。

何もしないで、親の自我を越える自我を子どもは持てない。

真の自立とは、親が嫌だから、気にくわないから距離をとっている、会っていないということは違う。

親への愛と憎しみの葛藤をいかに克服しているかである。

今一度、自分が親からどれだけ自立しているかを見直してみてはどうか。

自分への問いかけでもある。

子どもを呑み込もうとする親の過剰な愛情と、してもらえなかったことへの執着と恨み憎しみの葛藤が不安と緊張を呼び起こす、自分を苛立たせる。

一般には、そんなことにも気付かず生き辛を感じていることもあるだろう。

自分と向き合い、自分を知れば自立に向かい幸せを感じられる。

その一つの方法が分析であった。


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2009年10月10日

分析家の独り言 279 (苦痛を乗り越えて自己改革へ)

子どもの何らかの問題で分析に来られるお母さんからよく聞くことがある。

子どもがボソボソ小さな声でしゃべるので聞き取り辛く、「もう一度言って」と聞き直すと、子どもは「もういい」と怒るという。

子どもはわざと小さい声で話すことがある。

そのときの母親の反応を見ている。

自分の言うことを聴く気があるか? どれくらい真剣に聴くか?

聴く側の母親は、常に準備して子どもが何時しゃべりかけてきても聴けるようにしておく、それくらいでないと聴き取れない。

子どもも、どうせこの親は自分の言うことなど聴く気もない、聴かないだろうと半分あきらめている。

このとき、いつもと同じ聴き方をしないで、お母さんにはしっかり子どもの言葉を聴くということを意識してもらう。

それだけでも子どもからすれば、「あれ?(いつもと違うな)」と、親の変化に気付くはずである。

子どもは親に自分を理解して欲しい、わかって欲しい、黙ってとにかく自分の話を聴いて欲しい。

どんなに荒れていても、口を閉ざしていても。

おかあさんに子どもへの関心を向けてもらうようにすると、これまでいかに自分が子どもの言うことをいい加減に受け取ってきたか、聴いてなかったかに気付いていく。

自分では聴いているつもりでも、無意識には「聴きたくない」がある。

聴けば子どもの要求通りに動かなければならなかったり、聴くこと事態が苦痛であったりする。

そこには、親自身のコンプレックス・無意識がある。

親である自分がまずその親に充分話を聴いてもらっただろうか、受け入れられただろうか。

基本的に親にされたことは出来るが、されなかったかこと、経験のないことは出来ない。

その出来ないことを、いろんな方向から説明して、お母さんに納得して、子どもにしてもらう。

お母さん自身の分析によって自分を振り返りつつ実践していくと、必ず子どもに変化が見られる。

「子ども(相手)を変えたければ、まず自分が変わること」、と何度も聞かれただろうが、自分の変え方がわからなかったのではないか。

自己変容、自己改革は非常に大変なこと、苦痛や痛みさえ伴う。

それでも子どものため、ひいては自分のために取り組む価値はあると思う。


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2009年10月 7日

分析家の独り言 278 (オールOKで欠けたものを取り返す)

子どもは親に自分を理解して欲しい、わかって欲しい、話しを聞いて欲しい。

あるクライアントが言う。

1歳半になる孫が、まだ言葉が話せないため、「ぎゃー」「ぎゃー」言うことで自分の想いを伝えようとする。

それでも伝わらないと、クライアントの手を持っていって、態度でこうしろと伝える。

子どもってこういうものだったんだと思う。

この孫の親(=クライアントの子ども)は、こんなときがあっただろうか。

おそらく無かっただろう、おとなしい子だった、確か。

その子が今は仕事で家に寄ると、母親であるクライアントにしゃべりまくる。

テレビで見たこと、自分の周りでおきたこと何でも話す。

これは孫の「ぎゃー、ぎゃー」と同じだなと思った。

口数が少なく、余りしゃべらなかった子が、オールOKして信頼関係が出来ると、言葉が増えてよくしゃべるようになった。

人間は取り返す。

踏み外した階段をそのままにしては登れない。

必ず欠けた所に戻って取り返さないと、あるところから先には進めない。

そして「人間は自分を表現し、理解され、相手がどう感じるかを受け取りたいものなんですね」と言う。

受け取り続けるから、しゃべり続け、しゃべりながらしゃべる子どもが気付いていく。

親子が信頼しあっている姿は美しい、オールOKして最後までやって幸せに行き着けた。

当たり前の幸せに行き着くのは大変なこと。

大変な労力と時間とお金も要したと語った。

より多くの人に、このクライアントのような幸せを感じてもらいたい。

どこかで手を抜けば、必ずそのしっぺ返しは来る。

それは子どもがいくつで、どういうかたち(例えば非行、不登校、ひきこもり等)でかはいろいろであるが。

しかし原因があっての結果であるから、子どもが欠けたところを埋め合わし取り返していけば良い。

そのための協力と努力つまりオールOKは親として惜しまずして欲しい。
 
やり方がわからなければ教えるので聞いてください。


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2009年9月30日

分析家の独り言 277 (不登校から突然の登校)

昨日、クライアントから電話があった。

「子どもが二人とも学校に行きました」という報告だった。

ここ何年か二人の子どもが不登校だったが、一人は先週の途中から、もう一人は昨日からそろって登校したという。

子どもたちの母親であるクライアントは分析を受け、オールOKをしてきた。

しかし、家で見ている限り子どもたちに変化は見られなかった。

おそらくクライアントの中では、オールOKするしかないと思ってはいても、どこかで本当に大丈夫だろうか? と疑問や迷いもあっただろう。

それでもクライアントはよく頑張った。

突然、「学校に行くと言って、ワクワクするような感じでした」「あんな子どもの様子は初めて見ました」と言う。

「だから、学校に行くときは突然行きだすといったでしょ」と私が言うと、「本当にその通りでした」と答える。

「これで少しは私の言うことを信用していただけましたか」と冗談半分に言うと、「いえ、信用はしていたのですが・・・」と言われた(笑)。

学校には行かないだろうと思っていた子どもたちが突然行ったので、クライアントは面食らった様子だった。

オールOKすれば必ず結果は出る。

子どもの自我が育てば動き出すが、ただそれが何時とはいえない。

だから突然行き出すケースが多い。

子どもを外側から見ていても何の変化も無いように見えるが、オールOKしていれば子どもの中で確実に心が育っている。

私が嬉しかったのは、子どもがワクワクするような感じだったということ。

誰かに言われたのでもない、子ども自らが行こうと思った、それも嫌々学校に行ったのではなく、ワクワクしながら行ったのだ。

オールOKで目指すのは、不登校の子どもを学校に戻すことではない。

その子が自分らしく活き活きと生きることである。

それが学校であるか、それとも他の場であるかは子どもが選んで決めることである。


オールOKの話をしても、聞く耳を持たない人が多い。

しかもそれを実践する人はさらに一握りの人たちである。

子どもにオールOKすることは、上辺だけの学校に行くか行かないかを問うのではない。

子どもの心を育てなおし、元気とやる気、主体性をもって動けるようにする、根本的な対応法である。


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2009年9月29日

分析家の独り言 276 (精神分析とコンサルティング)

精神分析は、基本的には分析家との会話により自分を見つめ、無意識を意識化し、コンプレックスを解消する洞察的気付き療法である。

クライアントは自分を知ることにより、足りないもの、欠けたもの、知らなかった物事を取り返していくことにもなる。

それが人として変容・成長することになっていく。

しかし、最初から「自分を見つめ知りたい」といって、分析に来る人はまずいない。

ほとんどは心の病(例えば神経症など)であったり、親子・夫婦・家族など対人の問題などで分析に来る。

その中でも多いのは、子どもの問題、不登校・ひきこもり・ニート・非行である。

例えば子どもがひきこもりで、その子どもをなんとか社会に出られるようにしたい、と分析に来る。

そのほとんどは、ひきこもりの子どもの母親である。

この母親に、「さあそれではあなたの無意識をみてみましょう。それにはまずお母さんあなたの養育史から話してください」とは言わない。

クライアントが話したいことを語ってもらい、子どもの様子、経過を聞き、どこに問題があるか、今日から子どもへの対応を変えてもらう部分を説明し、具体的にアドバイスする。

そこでは当然『オールOK』の話をする。(オールOK!子育て法 のページを参照)

なぜ、『オールOK』が必要なのか理由を説明し、今後子どもがとる可能性のある態度とその意味を理解してもらい、それでも『オールOK』できるか確認することもある。

『オールOK』をする気のない人、やらない人は次の予約をとって帰らない、がもちろんそれはクライアントの自由である。

私は自分の娘の不登校始め、多くの臨床例からも、『オールOK』以外に子どもが本当の意味で主体性を持ち、元気に活き活きと生き、自立していく方法に出会ったことがない。

『オールOK!子育て法』は私見や親の都合からいわれたものではなく、人間の心の発達の理論に基づいた子育て法である。

母親がこの子のために、自分の身を呈してもやると決めて実践してもらえば、子どもの変化・成長が見える。

そうなると、、『オールOK』するお母さんもしんどいながらも、これでいけると明るい光を見出してやっていく。

その中で、いくら、『オールOK』しようとしても出来ないことが出てくる。

そこに母親のコンプレックス・無意識が関与するので、少しずつそれにも触れながら、子どもへの対応法を話しさらに実践していけるようにサポートする。

これはほとんどコンサルティングである。

本来の意味での精神分析とは違うが、まず目の前の問題(ひきこもり)を解決するために必要なことである。

しかしまた、それに対応する中で自然、母親は自分を振り返り、いろんなことに気付いても行く。

そういう部分では精神分析としての意味合いがある。

『精神分析』というと、いきなり自分の心を分析される、または精神鑑定と間違う方がいるがそうではない。

精神分析が扱うのは、人が生きること全てに関することなので、まずはクライアントの話をよく聴き、何を求めているのかを見極めて治療方針を立てる。

分析はクライアントの利益のためになされるものである。


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2009年9月27日

分析家の独り言 275 (母は子どもの母港)

下の娘の体調が戻りかけホッとしていた昨夜。

電気をつけたままウトウトしていた私の部屋に、今度は上の娘が倒れ込むように入ってきた。

「どうしたん?」と私。

娘は手を差し出して、「もんで」と言う。

言われるままに、親指と人差し指の付け根の間をもんだ。

聞くと、「吐きそう、気持ちが悪い」と言う。

「えっ、また(この子も)」と思った。

しばらくもんでいると、娘はからだを引きずるようにしてトイレに行った。

私は外で心配しながら待っていた。

ドアが開いたので、「大丈夫?」「吐き気はどう?」と聞いた。

娘はポツリ、小さな声で、「多分、受け入れたくないことがあるからやと思う」と言った。

「ああ、それはきっとそうやと思う」と私。

背中をさするくらいしかできずにいると、娘は自分の思い当たることをひとしきり話し出した。

話終わった頃、もう一度「吐き気する?」「どう?」と聞くと、「もう大丈夫」と娘は答えた。

娘は悩んでいた、腹も立てていた。

それを言葉で吐き出して、吐き気はなくなったようだ。

母親とは、子どもの話を聴き続け、受け取り続ける存在。

しんどい時、辛いとき、悩んだとき、困った時、腹が立った時、また嬉しかった時にも、帰っていくところ=母港。

私にはそんな母港はなく生きてきたんだなと思うと同時に、娘にはなんとか出来ている自分がいることにホッとしている。


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2009年9月26日

分析家の独り言 274 (9月分析理論講座、子育て相談室より:人が生きるとは何か?)

9月24日(木)分析理論講座、25日(金)子育て相談室と続けて講座と教室を開いた。

両日とも参加したクライアントもいて、どちらも2時間理論を話したり、質問に答えた。

子どもと自分のことに取り組み、何とかしたい、このままではいられない・・・ 熱意が伝わる。

自分と向き合い、子どもにオールOKするのは大変なこと。

それでも取り組めば必ず道は開け、幸せを感じ楽しめる自分になる。

「空手形は出さない」「必ず幸せへの道である」「ネバーギブアップ」この言葉を私も何度言われたことだろう。

その言葉を信じさせてくれた先生(惟能創理 氏)は偉かった。

と同時に、それを信じて15年分析に取り組んだ自分がいる。

そして今、また様々な悩みや問題を抱えて分析を受けに来るクライアントに私も同じことを言う。

ある課題を乗り越えれば、また新しい課題が出てくる。

子どもの問題に取り組み、そのことが解決されたならそこで分析を終わりにしてもいい。

子どものことが解決した時点でやめていく人もいる。

しかし、今度は自分の問題に取り組むと言う人もいる。

その途中のどの段階で辞めるかはクライアント次第。

私の場合は、生きている限り課題に取り組み、人として成長できるところまで行くと決めた。

先生が生きていてくれる限り私は分析を受けるだろうし、仕事を通してクライアントから学ぶことも多い。

「分析によって人が生きていく、人生のからくりがわかりますよ」と言った先生の言葉に強く引かれた。

そしてそれを知りたい。

人間とは何か? 人が生きるとは何か? 自分とは何者か?

これを追求し、知っていくことに楽しみを感じらる自分は幸せだと思う。


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2009年9月25日

分析家の独り言 273 (母は力は偉大)

下の娘が体調を崩した。

生理の初日はいつもの多少体調の変化がある。

夜中に携帯電話がなり、娘が「しんどい」と言う。

「待ってて、すぐいくから」と、娘のもとに駆けつけた。

「吐きそうで気持ちが悪い。でも吐くのは恐いから吐きたくない」

冷や汗をかいていて、そのためにからだ冷たくなり、寒いと言う。

トイレの前に座り込み、吐いたり下したりしながらも私に話していた。

自分でも「これだけしゃべってたら、元気そうに思うやろ」などと言いながら・・・ 2時間ほど。

それにつきあった。

「少しましになったのでベットで寝る。一緒に横で寝て」というのでお腹に手を当てながら娘の横でウトウトした。

外が明るくなりだした頃、「もう帰ってもいい」と娘がいうので、自分の部屋に戻って、少し横になった。

朝9時頃だったろうか、パソコンに向かい仕事をしていたところに、また娘から電話。

「また、吐きそう。しんどい」

駆けつけると、便器を抱えるように座り込んでいる。

また、嘔吐と下痢をくり返し、トイレの前で倒れ込むように横になった。

「下痢止めの薬でも飲むか」と娘に聞くと、「飲む」というので持って来たが、「出すことを拒んだからこうなった。下痢止めを飲んだらまた出すことを止めることになるから、苦しくても薬は飲まない」と言う。

私はその背中をさすった。

すると、「安心する」「楽になった」

「私がして欲しかったのはこれや」と言う。

先生(惟能創理氏)の本の症例に、娘が病気になって、お母さんを呼び寄せ看病したら、たちどころによくなった、というのあったけど、まさにそれやな」と娘。

小一時間ほど背中をさすった後、娘は「母の力は偉大やな」、「そばにいていい?」と言い、私が電話セラピーをするそばで、横になって少し寝たようだった。


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2009年9月20日

分析家の独り言 272 (高相祐一・酒井紀子夫妻の保釈に寄せて)

16日夕方、酒井法子さんの夫 高相祐一氏が拘置先の警視庁渋谷署を出た際、かぶっていた帽子に「PUNK」と書かれていた。

「PUNK]とはくだらない人間、ちんぴらやくざという意味がある。

人はそのときの自分の状態、気持ちを表わすものを着る、身につける。

本人はおそらく無意識の裡に、自己規定した言葉である。

また、その帽子に「CASPPER」の文字がパッチワーク風に縫いつけられていた。

この「CASPPER」は高相被告がDJをする時のニックネーム。

コメディー映画に出てくるお化けのキャラクター「キャスパー」に息子が似ているとの理由で名付けたという。

ただ、キャスパーの正式な綴りは「CASPER」で、高相被告が綴りを間違えたのか、故意によるものなのかは不明という。

これらのことから、彼はくだらない人間、実体のないお化けのような存在だということになる。

人は本当の自分を知っている。

それは無意識に。

そしてその無意識の通りに行動し生きていく。

今回の事件で明らかになった高相氏のプロフィール等。

どうやらプロのサーファーではなく丘サーファーで、経営していた店はつぶれ、仕事はどうしていたのか。

覚せい剤に手を出し、妻にも覚せい剤をすすめ今回の逮捕に至った。

これではくだらない人間、ちんぴらやくざという表現になるのもわかる。

しかも、「CASPER」とは映画に出てくるおばけのキャラクター。

お化けは死んだ人=生きながら死んでいる。

人が生きるとは何か。

自我理想(なりたい自分、目標)をしっかり描き掲げ、努力していくこと。

ここに人としての成長・発展がある。

それがなければ、人が真に生きているとは言えないのではないか。

その日その時をこなすだけで、何となく過ぎれば良い、一時の快楽を求めて覚せい剤を使用していたのでは、そこに生きる意味はない。

しかも、身体には多数のタトゥーがあり、保釈時にはそれらを隠すかのように手袋をはめていたが、それでも隠し切れず見えていたという。

(タトゥーの意味については、天海有輝のセラピー日記 分析家の独り言179刺青の意味を参照) 


彼もまた、母に抱っこされなかった人=母性喪失者、愛着障害者であろう。

ここから彼らがどう立ち直っていくのか、いけるのか。

酒井法子さんのみならず、一人の人として夫として父として、これからが彼らの正念場。

ここから一念発起して自分を見つめ立て直すのか、さらに落ちていくのか、岐路に立つ。

立ち直りたい、このまま人生を終わりたくなければ生きなす道を求めること。

その方法がわからなければ分析の戸を叩いてみてはどうか。


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2009年9月18日

分析家の独り言 271 (2009年9月 京都子育て相談室より:家庭内暴力・ひきこもり)

昨日9月17日、京都で『子育て相談室』を開いた。

ラカン精神科学研究所のホームページをみたと、他県から新しい方の参加があった。

子ども性別・年齢、問題はそれぞれ違っていても、共通する子どもの行動やそれに対する親の悩みがあり参加された方の話が盛り上がった。

例えば、子どもの状態が悪い時に、その子がいるだけで家族の中に張り詰めた雰囲気になり、親や家族が楽しくしていると子どもが怒る。

それは、子どもの側からすると、「自分がこんなにしんどい思いをしているのにお前らよくそんな楽しそうにしていられるな」という想いがある。

それくらい荒れたりひきこもっている子は、自分自身がしんどさや不満不安を抱え、気持ちの持って行き場がなくもがいている。

と同時に、この自分のしんどさをわかって欲しい、がそれを親達は理解しようとせずに、のほほんと楽しんでいるように見えて腹が立つ。

親も他の兄弟がいて、問題の子どもだけのことをいつも考えているわけではない。

また、大変な状態だからと一日中落ち込んだり、暗い顔をしているわけにはいかない。

ただ、問題の子どもは、親が楽しそうにいていると自分のことを考えてくれていないと思う。

子どもは、人は自分を理解して欲しい、わかって欲しい。

それがない、またはそれが感じられないために、孤独感の中である者は怒り暴れ、またある者は絶望し自分の殻に閉じこもる。

荒れる子、心を閉ざして何も言わなくなった子の心をどう開くかである。

特にそこに暴力があると、それだけで親も恐さゆえ逃げの態勢に入りがちとなる。

その態度にまた子どもは怒る。

なぜなら、家庭内暴力などの行為は、子どものギリギリのサインであり、本当は自分に向かってきて欲しい、関心を向けて欲しい、わかって欲しい・・・ のだから。

そうなると、子どもに対応する親、特に母親の精神状態が問題となる。

子どもの心を開くためにオールOKすることだが、母親が暴れる子どもを恐がっていてはそれどころではない。

自分の身を捨ててでも、この子を何とかしたいというくらいの気概がないと取り組めないことかもしれない。

また、この母親を支え励まし、共に戦っていく夫(子どもの父親)の協力も不可欠であろう。

こういったことを『子育て相談室』で話し合った。

参加の親御さんたちは、いわゆる各地にある『不登校の親の会』などにも参加されたことがある。

ラカン精神科学研究所の『子育て相談室』に来られる方は、他によくある『不登校の親の会』は言いっ放しなので、時には人の話を聞いて、「うちもそうなったらどうしよう」と、かえって心配や不安になることがあったと言う。

「ここの子育て相談室は、先生がいてちゃんと答えてくれ、アドバイスしてもらえる」と言われる。

万人に合うわけではないが、そう思ってこの『子育て相談室』に価値を見出した人たちが来てくれているのだろう。

また、最初は子どもが大変で親も不安をいっぱい抱えてのスタートであるが、親が『子育て相談室』に参加し、親または子ども、もしくはその両方が分析を受けたり、『分析理論講座』を受ける人もいて、当然オールOKしていくと子どもも落ち着き変化が見えてくる。

子どもがどうにもならないのではないかというところから、光が見え始めこれで何とかなると思ってもらえると、『子育て相談室』に参加する親御さんの表情も明るくなってくる。

こういう変化や、話し合われる内容に明るいものが見えるのが、私にとっても喜びであり、やりがいを感じる。

同じ母親としても、またインテグレーター(分析家)としても、勉強になり、ありがたいと感じる時である。


何らかの子どもの問題で悩んでいる方、興味・関心のある方、参加お待ちしています。

下記へ電話はメールで連絡ください(当日でも参加できます)。

電話:077-558-8766 または 050-3767-6283

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2009年9月16日

分析家の独り言 270 (分析を通して人を育てる)

一か八か、もうこれしかなと荒れる子どもにオールOKをすると決めたクライアント。

分析を受け、母親教室(現在の子育て相談室)にも参加し続けた。

分析において、子どものことと共に自分のことも語る。

その途中で、「もしオールOKをして子どもが変わらなくてもいいと思った」と言う。

インテグレーターの私としては少々驚く、何でだろうと?

クライアントは言った、「もしここで自分が死んでも肯定できる」

「なぜなら、この自分を知ってくれている人(インテグレーター、分析家)が一人でもいるから」

「自分がどう考え、どう行動し、どう生きたかを知っていてくれる人がいるから死んでも悔しいということがない」

「ああ、○○さんはここまで頑張ったけど力尽きたのか、と自分の努力も苦悩も理解してもらっている」

「理解してくれる人に出会うことで安心して死ねる、それは安心して生きられることである」

「自分を知ってくれる人に出会う、それで生きた意味があった」と。

なるほどなぁ・・・ と私は思った。

そしてクライアントに教えられた。

クライアントは、母親として子どもを理解しようとしていった。

結果、子どもは社会適応し、母であるクライアントはこれほど人を好きになったことがないというほど子どもを好きになったという。

今後子どものさらなる成長が楽しみであり、子どもが要求するなら自分の命がある限り応え続けるともいう。

子どももまた母を気遣う。

母が困ったとき、出来ないことがある時、こちらからこうしてと言わなくても子どもは母を助ける。

こうして相互性が、互いを思いやる関係ができていった。

分析において理解と共感が大事である。

インテグレーター(分析家)から理解と共感をされたクライアントは、それらを今度オールOKする中で子どもにもできるようになっていった。

自分に経験・体験のないことは仕様がないが、分析によって理解と共感される心地よさを感じ知った者は、今度それを人(子ども)に出来る人になる。

人がこの世に生命を宿したその時から、自分を想い全てを受け入れ、理解し、共感してくれる、その人が母親であったなら、人はどんなに幸せだろう。

そうして育った子どもは、幸せな人生を保証されたようなものである。

分析において、クライアントが望めばそういう母親になれる。

インテグレーター(分析家)がクライアントの母親代わりとなって、クライアントを育てて行くことも分析の仕事の一つである。


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2009年9月14日

分析家の独り言 269 (オールOKと基本的信頼)

あるクライアント、分析を受け子どもにオールOKをしてきた。

子どもは不登校で、あまり外にでない。

不登校とは子どもが24時間体制(1.5歳未満の口唇期)に戻った状態なので、お母さんと一日中一緒に過ごす。

家にいると子どもの変化はほとんどわからない。

自分(母親)が分析を受け、子どもにオールOKしても目だって子どもの変化も見えず、本当にこれでいいのか?と迷いや疑問も出てくる。

分析もそろそろ辞めようかとも思い出した頃、ある催しに親子で参加した。

そこで子どもの成長した姿が見えた。

母親から離れ、同年代の見知らぬ子達と普通に話し、対等にやりあっている我が子を見た。

何の変化も成長もないと思っていた我が子が、オールOKすることで子どもは確かに成長していたと感じられたという。

毎日家でそれほど変化のない生活の中で子どもに対応して、このままこの子は家にいて、一生自分から離れずにいるのかなど、様々な不安が出てくるだろう。

私も下の娘が不登校していたときには、一体いつ動き出すのだろうと思った。

しかし、あるとき突然「学校に行く」と言い出した。

日常の中で子どもの変化は見えなかったが、オールOKすれば子どもは変化・成長していた。

やはり一貫してやる続けることである。

最初から100%出来なくても、諦めずに根気よく、継続は力なり。

子どもの変化・成長とはこのようになかなか表面いは見えにくいものであることを知っておくことも大事なこと。

自分の娘の経験からも、やはり信じるということが人間にとって大事なことであり、基本なのかとあらためて思う。

この基本的信頼を人が学ぶのは、わずか0~1.5歳の時期。

母親に適切に世話されることで、人は人・物・事を信頼することの基礎を学ぶ。

これを学べなかった人達が多く、その人たちが親となって子を産み育てる。

親が基本的信頼を学んでいなければ、当然それを子どもに伝い教えることは出来ない。

私も分析を受けるまでは、基本的信頼など全くないまま子どもを育てていた。

分析を受け、インテグレーター(分析家)との関係を通してやっと学ぶことが出来ていった。


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2009年9月13日

『月刊精神分析』 09年8月号酒井法子覚せい剤所事件と分析理論発刊のお知らせ

- 特集  酒井法子覚せい剤所事件と分析理論 -

今回は、今世間で話題の酒井法子さんの覚せい剤に関せする一連の事件についての概要と、精神分析の立場から解説しています。

酒井法子さんがタレントであったためにマスコミで報道され、彼女のプライバシーも詳しく出されることになりました。

このマスコミからの情報をもとに、彼女の生い立ち・養育史をから、彼女の心の構造(特に依存)をみています。

ただ、酒井法子さんに限らず、今の日本で覚せい剤は我々が想像する以上に蔓延している可能性があります。

これもマスコミからの情報ですが、覚せい剤を売っていたイラン人が「これほど薬(覚せい剤)が売れる日本はおかしい」と言っていると聞きました。

それくらい現代の日本人は、覚せい剤に依存しなければならない未熟で脆弱な心の構造しか形成できていないということです。

覚せい剤を使っていくと、幻聴など統合失調症(以前の精神分裂病)と似た症状を呈するといいます。

人間辞めますか?覚醒剤やめますか?(日本民間放送連盟の麻薬撲滅CM)のキャッチフレーズを思い出します方も多いと思います。

それほど危険で、法律でも禁止されている薬物を違法と知りながら使わなければならない人達が増えているのです。

そのことを今一度考え、人間とはいかに生きるべきかを問い直させてくれる事件でもあります。

もし私が酒井法子さんと同じような境遇で育ったとしたら、私も覚せい剤に手を出していたかもしれません。

精神分析で問題とする養育史、赤ちゃんの頃からの育てられ方を重視するのは、この時期から人間の心の構造が良くも悪くも形成されるからです。

原因があっての結果であり、それを紐解き、正常な心の状態に戻していかなければ、依存の構造から抜け出すことは難しい、いや出来ないと思います。

今後、酒井法子さんの更生へ道は平坦なものではなく苦悩と困難な道でしょうが、自分を大切にし残りの人生を有意義なものに書き換えていって欲しいと願います。


月刊精神分析2009年8月号 (こちらをご覧ください)

<目次>

1、はじめに
2、語り手プロフィール
3、酒井法子覚せい剤所持事件の概要
4、精神分析的視点
5、自己統制-時間編―
6、自己統制-お金編―
7、自己統制-健康編―
8、酒井法子というペルソナ(仮面)
9、酒井法子容疑者の経歴
10、名前の不思議 酒井家の場合
11、タレント酒井法子の死
12、精神分析的解釈とまとめ
13、精神分析家ネットワークの紹介

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月刊精神分析2008年11月号 私と精神分析 もご覧ください

月刊精神分析2008年12月号 心の栄養学講

月刊精神分析2009年01月号 運命は名前で決まる

月刊精神分析2009年02月号私と精神分析 2

月刊精神分析2009年03月号随筆 精神分析

月刊精神分析2009年4月号 なぜ分析で病が治るのか

月刊精神分析2009年5月号 精神分析家をえらびますか?

月刊精神分析2009年6月号 女性と仕事・結婚・出産

月刊精神分析2009年7月号 非行と家庭内暴力

2009年9月 2日

分析家の独り言 268 (分析によって自分を知る)

あるクライアントが言った。

世間に流されて生きてはいけない。

せめて自分と自分の家族は強固なものにしておかなければいけない。

嫌なことをよけてよけて生きて来ては、自分さえも受け取れない。

最初は子どもの問題で、分析を知りオールOKをした。

子どもの問題が解決した頃から、夫婦の問題が見えてきた。

子どもに問題があったときは、この子が悪い、おかしい、だから私はこんなに大変で苦しいと思った。

今度夫婦の問題が起きたとき、夫がこんな人だから私は不幸なんだと思った。

ところが結局、全てのことは自分に起因していた。

自分は正しいで、相手を人を責めているううちは自分と向き合えない。

嫌だけど自分を見つめ出し、自分を知っていくと人のせいにしなくなった。

ひたすら自分を振り返り、知っていくと自分の変化に驚くことがいっぱいあった。

そして気がつけば、穏やかな日々と心の安定、家族とのたわいない会話に喜びと幸せを感じられるようになった。

今まで生きて来たなかで、これほど幸せを感じられたことはなかったという。

そして、お金は自分を活かすために使わなければいけない。

病身や施設に入るようになってから使うお金より、自分を磨き成長するためにお金を使うこと。

期待するのは自分にする、それがベスト。

人や家族に期待するのは、自分に自信がなく不安が高いから。

これからも変わり続けていくと言う。


自分を知っていくと、ものの見方考え方が違ってきて、「なぜ自分は今この事に腹が立つのだろう、ひっかかるのだろう」と、冷静に自分を見つめられる。

そして自分の過去を辿り、今の状況と同じようなこと、その原因となりそうなことを探す。

すると、自分で気付くことがある。

また、自分でも気付かない変化がおきていて、今までとは違う反応・考え方をしている自分に気付いて驚くことがある。

最初に出会ったころは、生きるか死ぬかという大変なクライアントだっただけに、よくここまで変容し成長したと思う。

諦めずに取り組めば必ず道は開けると、あらためて教えられた。


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2009年8月31日

分析家の独り言 267 (ひきこもりとドライアイ:その心の構造)

あるひきこもりのクライアントが語った。

小さい頃から悲しかったり、悔しかったり、辛かったりして泣いた。

しかし、誰も自分の話を聴いてくれなかった。

なぐさめたり、共感されることがなかった。

泣いても何も変わらない、何もならない。

そうして泣くことが嫌いになった。

さらに感情を出すことを抑え、言いたいことが言えくなっていった。

後にそれがドライアイという症状に至った。

日常的に常に目が乾くため、目薬が手放せない。

泣きたいときに泣かない=涙を出すことを止めた⇒ドライアイという症状

心が全て身体のに影響する。

初めに心在りき。

泣きたいときに泣いて感情を表出し、言いたいことを言えるようになれば、ドライアイは治る。

クライアントの話しに耳を傾け、受け入れ、共感していけば、感情や言葉が表出できるようになる。

それを分析場面やクライアントの周りの人(特に母親)がしていくこと。

心が癒えれば、身体も癒され症状は消失し、言えるようにもなる。

しかし、分析がなければ自分が感情や涙を出さずにきたことなど気付きようもない。

否定されたり非難されることなくクライアントは自分の話を聴き続けられる安心感のなかで、心を開き語り出す。

精神分析がおしゃべり療法といわれる所以である。

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2009年8月28日

分析家に独り言 266 (8月京都子育て相談室より)

昨日京都で8月2回目の子育て相談室を開いた。

クライアントたちはそれぞれに子どもにオールOKする中で、その失敗やしんどさを語りつつも、オールOKすることによって子どもの変化や気付きがあった。

それらを話し合った。

夏休み、しんどいながらも子どもの要求に応え対応するうち、自分のことを自然と振り返り、自分はこんな風に世話されただろうか、大事にされただろうか、いや多分こんなことは無かった。

そう思ってから少し子どものことが、大事に思えたという。

自分の欠如を知れば、こうして子どもを思いやることもできる。

またあるクライアントは、子どもに問題があると思っていたが、子どもにオールOKで対応するうち、自分に問題があったと気付いた。

それから子どもへの対応が変わったという。

こうした気付きが大事である。(分析は洞察的気付き療法である)

最初大半のクライアントは、自分は愛されて育ったと思っている。

しかし子どもに対応し、自分を振り返れば自分も適切に世話されていないことに気付き、理想的自己イメージは崩れていく。

そうして足りたところと、足りないところを自覚して、本当の自分を知っていく。


子どもの問題に悩み、そのお母さんが分析を受ける。

当然分析でもオールOKの対応法を話す。

頭では何とか理解できても実践しようと思うとできなかったり、疑問や不信感が出てくる。

初期は特にオールOKしたくないが、それをするしかないのだろうとやり出す。

すると、子どもに少し変化が見えてくる。

やっぱりオールOKすることが良いことなんだと思う。

あるクライアントは言った。

「それでも毎週分析か子育て相談室・理論などでオールOKの話に触れていないと戻る(オールOKできなくなる)」と。

常に理論・理屈でオールOKの対応法にふれながら、確認し、疑問点を質問して解決していかないと、根気強く継続してやり続けることは難しい。

なぜなら母自身に世話されず、大事にされず、愛されなかった子ども時代の悲しい自分が無意識下にいるからである。

クライアントたちは、自分だけでなく同じようにオールOKする人たちの話を聴くことで、共感しあったり、意見を言ったりしながら刺激しあうことになる。

自分のことは見えないが、人の話を聴くと子どもにこうしたらいいのにと思ったり、他の人ができているところを認めたりもできる。

いつもの自分とは違う角度からまた自分や子どもとの関係を見つめることができる。

その中に、私の失敗談や経験したこと(娘の反抗や不登校)、症例などを交えながら話をしている。

一人で悩みながら迷いながらオールOKし頑張っているクライアントたちの役に立てればと願いながら、この子育て相談室を開いている。

そうして未来ある子どもや青年たちが自分を活かし、活き活きと自分の人生を歩んでいってくれることを目指していく。


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2009年8月25日

分析家の独り言 265 (9月京都分析理論講座より)

昨日京都で、いつものようにテキストを解説し、参加されたお母さん・お父さん方の質問に答えながら分析理論講座を進めた。

ひきこもりや不登校、非行などの子どもへの理解と対応を学ぼうという熱心なクライアントたちなので、質問されることが多い。

今回は、生後6~8ヶ月の乳児の発達について解説したが、この時期は「8ヶ月不安」と言われる時期で、乳児が適切に世話され、母を識別し内在化し始める時期である。

大事なのは、適切に世話されることであり、手を出しすぎても、抜きすぎてもいけない。

このころの子どもを育てるとき、先回りして手を出しすぎたという。

そうすると、乳児は自分で内部感覚(お腹が空いたなどの不快感)を感じ取り、それを泣くという形で表出する必要がない。

お腹が減る前に、オムツが濡れて気持ち悪いと感じる前に、おっぱいや乾いたオムツが勝手に来るからである。

放ったらかしもいけないが、過干渉・過保護も子どもにとっては適切な世話とは言えない。

次回の分析理論講座で分離・固体化の過程を解説するが、これは自分の感覚を自分のものとして感じ、母とは違う存在である自分に気付き、その母から距離をとって切り離し、それでも自分を維持できる自我境界をつくる過程である。

これだけのことを乳幼児期になすのである。

大人でさえ、この精神の発達をしている人は少ない。

自分と他人は別個の違う存在であると認識するだけでも、精神の発達から見れば大変なことである。

この認識がなければ、自分の思っていることは他人も思っているはず。

他人は自分の思う通りに動くはず、という思い込みからの言動となるため、当然軋轢や、誤解などが起きる。

また、子どもを育てる母親自身がその母と分離できずにいるため、子どもを取り込んでおり、子どもが自分から距離をとり離れていこうとすると、分離不安からそれを妨害してしまう。

母親の言動は無意識的なので、子どもの成長や自分からの分離を阻んでいることにも気付かない。

こうして精神の発達は阻止され、いつまでも赤ちゃんのまま留まる。

それでも体は、それなりに成長していくため、肉体の年齢と精神の年齢の差はどんどん開いていく。

その結果、学校に通う途中や、進路を決めるとき、社会に出る頃になって、精神が赤ちゃんでは学校という社会でまわりと対等に話すことも、関係を築くことも難しく、自分の進む道を自ら決定することもできず、撤退しひきこもることになる。

子どもがひきこもるにはひきこもる原因がありそれを理解し、対応法を知って育てなおしていけばよい。

こうして分析理論を知って、理屈から人間を理解していくことも意味のあることと思う。

分析理論講座に興味・関心のある方、連絡ください。


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2009年8月22日

分析家の独り言 264 (分析によって全てを肯定する生き方へ)

あるクライアントとその息子の会話。

息子の住まいは別だが、家業をともに営むため毎朝クライアントの家に来て、仕事場に出かけていく。

あるとき息子は、子どもの世話に追われる自分の妻を見ていて、夫である自分は子どものためならと我慢していることもあり、つい愚痴が出て、「嫁さんは子どものためにいるようなものや」「自分は辛抱と我慢ばっかりせなあかん」と言った。

母親であるクライアントは「そやから、あんたが家に来たときは、あれが食べたいて言うたら用意して、あんたの言う通りしてあげてるやん」と言った。

それをそばで聞いていた息子のお嫁さんが、「その通り」とひと言。

自分が生きている間は、いくつになっても息子が望むなら自分に出来ることはしてやるとクライアントは言う。

やる限りは邪魔くさいと思わないで、息子のいうことを大事に思ってしてやる。

子どもの側から言えば、誰かに自分の要求をきいてもらえ配慮される幸せ。

それを母親としてきいてやる、それが今は喜びとなった。

仕事から母親であるクライアントの家に戻ってきて、そのまま息子は自分の家に帰るときもあるが、わざわざ2階にいるクライアントの部屋まできて、「わっ、クーラーのきいた部屋で、お前はいいねぇ」などと、皮肉めいた冗談を言いながら、5分ほどしゃべって帰っていく息子。

そんなたわいの無い会話ができるようになり、それをが心地よい。

分析を受ける前も自分の人生、分析を知り分析を通して自分を知っていったその後は二度目の人生。

そのどちらをも冷静に、客観的に見ていられる。

いっぱい苦しんで耐えて、それでも生ききってきた。

女として生まれたが、歪められ生き難さを感じてきた。

前は、今度生まれて来る時は男として生まれ僧侶になりたいと思っていた。

今は、、もう一度生まれ変われるならやっぱり女が良いとクライアントは言う。

生命を生み出すことの素晴らしさを知ったから。

本当に大事なのは、生み出した後いかに育てるかであるとわかった。

生命力のある存在として子どもを育てるには、生命力を持った親にしかできない。

そのための知恵・知識を知らないと、共に生き、真の人間を育てることは出来ない。

人が人を理解しないと、人同士は生きられない。

そのためにも、生み出し育てるには全てのことをケチったらあかんとクライアントは言った。

全ては自分に必要で起こったこと、良い事も悪いことも全てを受け入れ肯定できるクライアントになった。

よくここまで来てくれたと私は思う。

人としてインテグレーター(分析者)として、クライアントから教えられるこもまた多い。


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2009年8月21日

分析家の独り言263(トラックバックに気をつけて)

「分析家の独り言」と題してブログをあげいて、それにトラックバックが来ることがある。

今回、酒井法子容疑者の事件について書いたブログにも幾つかのトラックバックが届いた。

どういうものかと、トラっクバック先のサイトの見に行った。

酒井法子容疑者について書かれていて、同じように興味・関心を持つ人のブログのように思えた。

その中に酒井容疑者の動画が貼り付けてあり、私は安易にそれを見ようと思ってしまった。

結局それは、いわゆるワンクリック詐欺というもののようで、この動画を見たことにより料金が発生するという画面が出た。

実際には動画は何も見てもいない。

クリックして出てきたのは、動画ではなくお金の請求の画面だからだ。

こういう手口があるのかと、驚くとともに、ある意味感心した。

こういう頭の回転・機転をもっと人や社会の役に立つ方向に使えないものか、といつも思う。

私のブログを見た人が、私と同じような嫌な想いをしないように、当然トラックバックは削除した。

皆さんも気をつけて欲しい。

いろんな手を使って、不正にお金を得ようとする一部の人たちがいる。

俺々詐欺しかり、振込み詐欺等、私達の周りのいろんな所に落とし穴があるようだ。

分析的にいうなら、超自我(良心)が機能していない。

お金が得ることが目的で、お金を人をだまして不正に得てもかまわないということ。

そこに自分への自負・尊厳などなく、他人への配慮・思いやりもない。

自分さえ良ければいい、人が泣こうが困ろうが知ったことではない、それより何よりお金が大事、得たい。

本当にそれで幸せを感じ、充実した人生を生きられるのか、人にとって真の幸せとは何かと考えさせられる。

こういう人間が増え、それが犯罪につながることも多い。

一方で、心を病む人も増えている。

この先この国はどこへ向かうのか。

それら全て、一人一人の心のあり方が問われるのではないか。

肉体はそれなりに成長し、やがて老いていく。

心の成長、あり方は肉体とは全く違う経路・過程をたどり、命のある限り成長し続けることが出来る。

なぜそれを目指さないのか、しようとしないのか。


また、ブログにコメント・メッセージが届くこともあるが、その中にも真面目なものから、いわゆるHな内容、卑猥な表現のものもある。

出会い系の迷惑メールも一日に山のように届く。

人は様々。

ネットの便利さの裏に、こういった危険があることを忘れてはいけない。


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2009年8月20日

分析家の独り言 262 (酒井法子容疑者:、「3人の母と家の秘密」 より)

覚せい剤取締法違反(所持)容疑で逮捕された女優の酒井法子容疑者(38)の毛髪から、覚醒(かくせい)剤成分が検出された。

ネットで、「3人の母と家の秘密」 と題した酒井容疑者の生い立ちを書いた記事を見た。
(http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20090817-00000002-aera-soci)

以下、記事より抜粋
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「1人目の母」つまり実母とは、両親が離婚したため2歳で離別している。
酒井容疑者はインタビューで「実の母の顔、全然覚えてないんです」と話している。

小学校時代には、埼玉県狭山市の親戚の家に里子に出された。
これが「2人目の母」である。

狭山での暮らしも突然、幕を引く。小学校卒業間際の6年生の3学期に、父が再婚したことで呼び戻された。その相手が、のりピーから見れば先の「3人目の母」にあたる。

中3の冬、友人に誘われてコンテストに出場。入賞を逃しかけたが、所属事務所サンミュージックが特別賞を受賞させ、芸能界入りが決まった。
3学期の卒業間際に東京に転校した。

小学校も中学校も、卒業式直前に「大人の都合」で転校させられる運命は、幸せを掴みかけるのに、あと一歩届かないのりピーの人生を暗示しているようでもある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2歳で両親が離婚し、実母の顔も知らない彼女。

分析上、これだけでも心の負担は大きく、それ以後の人生に大きな影を落とす。

子どもには親の都合はわからない。

ある日突然母親がいなくなる。

2歳といえば、まだフロイトのいう肛門期にあたり、トイレット・トレーニングの時期である。

マーラーの分離固体化の過程でいえば、第四期の個体化の強化と情緒的恒常性の出現の時期。

母の映像・イメージを内在化するが、普通に育っても、母とのいきなりの分離は不安を呼び起こす。

そのため母を何か物に置き換えて、この母との分離の不安と寂しさを子どもは一時的にしのぎ、和らげている。

この母の代理物が移行対象物といわれるもので、それには柔らかいもの、母の香りのするもの、例えば毛布・シーツ・タオル・ぬいぐるみなどである。

ところがこれは母が一日のうちの短い時間不在である場合のことで、彼女の場合は両親の離婚が決まったときから母と全くの分離状態に置かれた。

それはもう、移行対象物により母の代理物を持つだけで到底埋め合わせられることではない。

母にくっつきたくて母を呼んでも探しても、自分の前には現れない母を諦めるためにどれほどの心の負担を強いられただろう。

当然それ以後、精神の発達はその時点で停滞し、欠損を抱えながら生きていく。

またいつ、自分の大事な人が突然去って行くかもしれないという想いをどこかに抱えながら生きていくかもしれないし、何かにしがみつきたい、甘えたいと思いながらも、それをまた失うかもしれない不安や恐怖から、人を求めない生き方をするかもしれない。

さらに、小学校時代には里子に出され、また環境や母と呼ぶ人さえ変わる。

そしてまた、中学3年では彼女がどこまで自分の意思で動いたのかはわからないが、芸能界入りするために東京に転校した。

記事に「幸せを掴みかけるのに、あと一歩届かないのりピーの人生を暗示しているようでもある」とあるが、今回の覚せい剤取締法違反(所持)容疑もそうだが、一見幸せそうに見える彼女の心の闇、苦悩は深いのではないか。

覚せい剤を使用していたことは確かなようだし、それが何年前からだったのかははっきりしないが、彼女が覚せい剤にはまっていったにはそれだけの養育史があった。

原因なくして結果はありえない。

彼女は実の母に甘えたかっただろう、頼りたかっただろう、抱きついてしがみついて安心したかっただろう。

彼女の置かれた状況がそれを許さず、何年も後に子どもの頃から欠けたもの、欲望は、覚せい剤に依存するという形をとった。

38歳という年齢の彼女は、育ってきた環境がどうであれ、社会的責任を負い、罪は償わなければならない。

まして子どもさんはまだ10歳。

これから彼女がしなければいけないことはたくさんある。

まず、覚せい剤から距離を置き、抜けることだけでも大変なことだろうから、なんとか頑張って欲しい。

それには彼女を援護し、支える人、ことが必要であろう。

人は人によって支えられ癒される。


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2009年8月18日

分析家の独り言 261 (自分への智を得、知的享楽へ)

分析で問題になるのは、クライアントと親の関係である。

最初クライアントにとって、母親は優しい良い母であることが多い。

ところが、養育史を聞き母親について語りだすと、様々な母親が出てくる。

最初の語りとは違ってくる。

中には、母親の悪い面に触れようとすると抵抗し、明らかに不機嫌になったり、とても触れられそうにないこともある。

クライアントの反応を見ながら、それぞれのクライアントに合わせて進めていく。

良い母の下(無意識)には、悪い母がいる。

反対に、最初から「母は嫌いです」というクライアントもいる。

こういうクラアントの無意識には母への愛着が隠れている。

母を好きか嫌いかどちらか、一方だけを意識している。

そうしなければ、優しい好きな母と表現した場合、嫌いな悪い母が出てくると困るからだ。

反対に嫌いな悪い母を意識している人にとって母を求め母に愛着を持った自分が出てくると、母を憎みきれないのでこれも困る。

母も人間であるから、100%良い人でも悪い人でもない。

良いところもあれば悪いところもある、そのどちらも意識すること。

偏らず、真実を見て知ること。

対象関係論でいう、良い母にはそれに対応して良い自我が、悪い母に対して悪い自我が形成される。(詳しくは、分析理論講座またはインテグレーター養成講座で解説しています)

そうして自分を知っていくこと。

それが辛いことであるため、撤退していく人もいる。

私は自分の思い込みや、思い違いを分析によって知り訂正していけることが楽しかった、面白かった。

そうだったのかと納得できると、辛いことも受け入れられた。

私という人間は、結構理屈っぽい人間だったんだと思った。

自分への智を得ていくことから始まり、さらに真理・本質を求めるようになった。

まだ知らないこと、わからないことがたくさんある。

命が終わる瞬間まで、それらを追い求め、智を得て、知的享楽に浸りたい。


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2009年8月17日

分析家の独り言 260 (感情を取り戻し人間として生き返る)

健康な精神のためには、怒りたいときに怒り、泣きたいときに泣き、悲しいときに悲しむというように感情を出すことである。

これを子ども時代から経験し、最初は母親とその感情を共有する=共感する。

ところが多くのクライアントは言う、「泣いてはいけない気がした」「感情をだすことに抵抗がある」「自分の感情に自身がない」「自分に感情がない気がする」などと。

これでは、自分の感じた怒り・悲しみ・憎しみ・喜びなどの感情を自分のものとして肯定し、感情豊かに過ごすことはできない。

自分は冷たい人間かと思う。

感情を出すには、その感情を受け取ってくれる人がいるから出せる。

例えばつまづいて膝を擦りむいたときに、子どもは痛くて泣く。

そのときに「ああ痛かったのね」「大丈夫?」よしよしとされれば、痛くて泣いている自分の感じ方はOKとなる。

しかし、「痛くない、痛くない」「それくらい大したことじゃない」と言われてしまうと、私が今感じている痛みは痛みじゃないの、と?(ハテナ)がつく。

だんだん自分の感じ方の自信がなくなっていく、自分自身にも自信がなくなる。

言葉で自分の思うこと、考えを伝えることが出来ず、溜めに溜めて最後に泣くしかなくなる。

しかし、この精一杯の表現も「泣くな」のひと言で切られることがある。

こうなったらもう泣くことも出来ず、感情のないロボットのように生きていくしかないだろう。


私の子ども時代を思い出した。

母は教師で、私が目を覚ますとすでに母は仕事に出かけていなかった。

母のいない昼間は、一緒に住んでいた祖母と過ごした。

幼稚園に行く前頃だったろうか、母を思い出し寂しくなって母が着ていた服を抱きしめて、母の残り香を嗅ぎながら一人で泣いた。

そのとき私は泣いている自分を見られてはいけないと思った。

それは記憶にはないが、多分まだ小さかった私は、母を思い出して泣くことがあったのだろう。

それを見た祖母か、祖父か、それともそれを聞いた母かが、「泣くな」と言ったのだろう。

泣くなと言われても寂しい気持ちは抑えられず、見られないように一人こっそり泣いていたのだろう。

寂しい、母にずっとそばに居て欲しい、これが小さい私の願いだった。

しかし、忙しく働く母にそのことを言った覚えは無い。

寂しい気持ちも、母と一緒にいたい気持ちも小さな胸にしまい、封印していった。

そして私も感情のない冷たい人間になっていた。

私にとって分析は、感情のないロボットから血の通った感情をもった人間になることが治療目標の一つであった。

今クライアントたちの叫びが私に昔の私を思い出させ、「ああ、それは私だと」いえる。

分析は、情動とともに過去を語り、感情を再現し、もう一度人間として生き返る場である。


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2009年8月16日

分析家の独り言 259 (電話セラピー)

精神分析は直接面談によって行うのが普通であるが、遠方であったり、何らかの事情で直接面談が難しい場合のは電話によるセラピー(分析)を行う。

ラカン精神科学研究所ホームページの予定表(Googleカレンダー)を見るとわかるように、最近電話セラピーが増えてきた。

一番最初は、元の吉川精神科学研究所のホームページ(http://www.geocities.co.jp/Beautycare/6953/)をみた関東方面の神経症に悩むクライアントからメールが来て、分析で治るだろうか、治るなら分析を受けたいということだった。

遠方であるためクライアントが京都へ来ることも、私が関東へ行くこともままならず電話でのセラピーとなった。

1年に1回は那須で行われる分析サミットに参加するため東京を経由して那須へ行くため、そのときはクライアントと時間を調整し直接面談による分析をしている。

今年も7月、このクライアントに会って分析をした。

こういう形で、滋賀や京都へは来られないクライアントからホームページを見たとメールや電話が入り、分析希望のクライアントが増えてきたのである。

中には、月1回福岡に出張するが毎週分析を希望されるので、もちろん福岡に行ったときは直接面談による分析をし、後を電話セラピーで埋めるという形をとるクライアントもいる。

直接面談による分析は顔を見て行うため、ダイレクトにクライアントやインテグレーター(分析者)である私の反応が行き交いする。

そこでしか感じとれない雰囲気もあり、直接面談がより良いとは言えるが、物理的に困難な場合には電話セラピーも有効な手段と考えている。

クライアントの近くに仲間のインテグレーターがいて、希望されるなら紹介している。

分析によって無意識を知り人生が変わり、活き活きと生きることを味わって欲しいと願う。

暗いトンネルから抜けると、昔の悩んでいた自分が思い出せないくらい変わっている。

もう過去にはいない、心も身体も開放され今の自分が楽しめる。

分析は万能ではないが、自分の人生を諦めずに取り組んだ人たちがこれからの人生を行きなおしていることも事実である。


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2009年8月15日

分析家の独り言 258 ( 『月刊精神分析』 2009年6月号より)

クライアントの分析をいしいて、いつも行きつくテーマがある。

それは月刊精神分析2009年6月号 女性と仕事・結婚・出産にも書いたが、結婚動機である。

臨床上最も多く出会うのは、『家出結婚』。

生家(実家)での居心地が悪いく家を出て行きたいが、厳格な親であるため結婚という二文字以外に家を出る方法がなく結婚したとか、結婚以外に家を出て生活する方法がなかったなど。

人間の基本となる生家での人間関係(親子関係)が良好でないのに、その他の人間関係が上手くいくことはまずない。

何よりも口唇期における母親との基本的信頼を基礎に人は人とつながり、関係を築いてく。

残念ながらこの基本的信頼さえ学習してない人たちがほとんどである。

そういう私もその一人であった。

基本的信頼を学習していない母親が子どもを産み育てても、子どもとの間に基本的信頼を築くことは難しい。

人は幼少期どのように育てられたか、それによってその後の人生は決まってしまう。

だから分析において養育史を重視し、それをクライアントに聴く。

子どもであった自分たちには何の罪も落ち度もない。

ただ基本的信頼さえも知らない親であったために、または愛着や、本来の人間の精神の成長を知らないために、自己流の歪んだ子育てしたできない親だった。

しかしまた親も、その親に同じような育て方しかされていないために、そういった歪んだ育て方しか出来なかった。

気がついたものが修正するしかない。

自分と同じ子どこにはしたくない、悪しき連鎖は子どもに伝えたくないとクライアントたちは言う。

その通りである。

私も振り返れば、余りにも安易に結婚・出産をした。

みんながするから、親がうるさいから、そんなことで自分のまた子どもの大事な人生を進んでいいのか。

もっとそれらに関わることをよく知って、考えて行動すべきであった。

しかし、当時の私は余りにも無知であった。

気がついた時には、すでに子どもは小学生になっていた。

それでも気がついたときから修正していくこと。

出来れば早いほど良いが。

これから結婚・出産を経験する人達に月刊精神分析2009年6月号 女性と仕事・結婚・出産を読んでもらいたい。

昨今は婚活という言葉が流行っているようだが、幸せな結婚生活を送るためにしなければいけないことはパートナー選びだけではない。

結婚の意味、出産(親になること)の意味をしっかり考え、知って欲しいと願う。


月刊精神分析2008年11月号 私と精神分析 もご覧ください

月刊精神分析2008年12月号 心の栄養学講

月刊精神分析2009年01月号 運命は名前で決まる

月刊精神分析2009年02月号私と精神分析 2

月刊精神分析2009年03月号随筆 精神分析

月刊精神分析2009年4月号 なぜ分析で病が治るのか

月刊精神分析2009年5月号 精神分析家をえらびますか?

月刊精神分析2009年6月号 女性と仕事・結婚・出産

2009年8月13日

福岡出張のお知らせ(平成21年9月)

毎月1回、福岡出張セラピーを行っています。

平成21年9月の出張は以下の予定です。

日 時 : 9月10日(木)、11日(金)
   なお9月9日(水)は熊本出張

場 所 : 地下鉄天神駅周辺(詳しいことは電話等にてお問い合わせください)

分析料 : 10000円 (プラス交通費2000円)

9月は福岡近郊もしくは熊本で分析を希望される方、おられましたらご連絡ください。

ひきこもり等により、外出が困難な場合は、お宅への出張セラピーを行います。

遠方への出張であるため、福岡でのクライアントの方には分析料プラス2000円の交通費の負担をお願いしています。


子育て相談室インテグレター養成講座も開きます。

興味・関心のある方、参加希望の方は下記へお問い合わせください。

℡ 077-558-8766 または 050-3767-6283

携帯℡ 090-7357-4540

メアド:lacan_msl☆yahoo.co.jp ☆を@に変換したメールアドレスにメール送信願います(スパムメール対策)


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分析家の独り言 257 (自己分析による気付き)

分析家の独り言 256 (8月京都子育て相談室より:私のオールOK失敗談)を書き、気付いたことがあった。

なぜ私は娘にオールOKしきれなかったのか、なぜ自分の都合で仕事を優先してしまったのかを考えた。

娘に責められたとき浮かんだ「私が仕事をしなければ生活できないでしょ、それをあんたはわかっているの?」という想い。

私は娘を食べさせてやっている、養ってやっていると思っている。

意識上では、親が子どもを世話し、食べさせるのは当たり前と思いつつ、恩着せがましい気持ちがあるのではないか。

そしてハッとした。

それってもしかしたら、私が育ってくる間に嫌だ嫌だと思って来た私の親の意識と同じじゃないか。

もう忘れかけていたが、私の両親は事あるごとに、食べさせてやっている、学校へ行かせてやっていると恩きせがましい態度だった。

そして、親の言うことを聞かなければこの家には居られないと子ども心に思っていた。

そのために、無理やり親の信じる宗教をやらされた苦悩の日々。

自分でご飯を食べられない限り嫌でも親の言うことを聞くしかなかった。

それは脅しであり、それを否定した私が結局同じことを娘に思っていた、していた。

まだそこが払拭しきれてなかったかと愕然とした。

親の影響は大きく、恐い。

親が自分にした嫌なこと、間違いを、私は自分の子どもにはしまいと思いつつやってしまった、これが無意識であり、私のコンプレックスである。

それはクライアントを分析して、何度も出会い知っていたはずなのに、自分の事となると盲目になり、自分が見えなかった。

もう捨てよう。

恩着せがましい気持ち、食べさせてやっている、世話してやっている、あんた達のために働いているという想いは。

私がしたくて選んだ精神分析、そしてそれを仕事にしたのだから、誰かのためにやっているのではない。

安心と安全=安らぎの中で何かの時には守ってもらえるという安全感もなく暮らした時間が長かったために、私は精神のバランスを崩していった。

そのために心に傷を負い、それらを癒すのに時間がかかった。

しかし今の私は、自分で安心と安全もつくれる。

子ども時代に得られなかったものを、大人となった今の自分として置き換えたもので埋め合わせていける。

これが大人である。

これでいい。

苦労も辛さも自分の糧となり、自分の生きてきた道を肯定できる。

全て私の成長のために必要なことだった。

これでよかったんだ、よく頑張った。


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2009年8月12日

分析家の独り言 256 (8月京都子育て相談室より:私のオールOK失敗談)

昨日8月11日京都で子育て相談室を開いた。

いつものように参加のお母さん方の質問に答えながら進めていき、その中で私の失敗談をお話した。


去年(2008年)3月末に、京都から滋賀県大津市に引越し、琵琶湖の夏の風物詩である花火を人混みを避けて下の娘と二人楽しんだ。

その時、「また来年も一緒に花火見に行こうな」と娘は言った。

私は「うん」と答えた。

今年の8月7日琵琶湖の花火を娘は去年の約束通り、私と二人で見ることを楽しみにしていた。

ところが私は、そのことを忘れたわけではなかったが、自分の仕事を優先し福岡出張の仕事を入れた。

予定をくみ、交通手段の手配も済ませたところで、娘の方から「今年の花火行ける?」と聞かれ、私は「ごめん。どうしても花火とぶつかる日に予定をくむしかなくて、今年は行けない」と言った。

娘は私の予想以上に、烈火のごとく怒った。

「私のことを軽く見ている」

「一年前から約束いていたのに、それじゃあ何のための約束か」

「だからあんたは信用できないんや」

私は言い訳をし謝ったが通じない。

私の判断が甘かった。

仕事ならば仕方ないと許してくれると思っていたが、そうではなかった。

責められ続け、私も最初は悪かったなと思ったが、どこかで私が仕事をしなければ生活できないでしょ、それをあんたはわかっているの?と言いたくもなった。

しかしギリギリその言葉だけは飲み込んだ。

毎日責められた。

私はネットで、他に行けそうな花火大会はないかと探した。

ちょうど8月10日に宇治川の花火がある、この日なら私も行ける。

娘に話してみた。

しぶしぶながら、仕方なしに「それでもいい」となった。

私はこれでホッとした。

ところが、台風の影響で当日雨かもしれない、しかも娘もネットで宇治川の花火の情報をみたところ、雨が降った場合傘をさすと他の人の迷惑になるためレインコート等で観覧してくださいということが書いてあったという。

それを見て、面倒くさい、雨に濡れてまで見るのも嫌だとなり、娘は「行かない」と言い出した。

「私は琵琶湖の花火に行きたかったのに」と。

私もいい加減責められ続け嫌気が差してきていた。

その私の態度に、「あんたは本気で悪いと思っていない、それが伝わって来ない」

「何かで埋め合わせるとか、来年は必ず行くからとも言わないのか・・・」 また延々文句を言われた。

半分私ももう良いかと思い出した。

しかし、最後まであきらめないで誠意は示そうと思いなおした。

当日曇り空だが、雨は上がった。

YAFOO!の天気予報のピンポイントで宇治を見ると、弱い雨、降水量は0か1(mm/h)、これなら行けると私は思った。

晩ご飯を早めつくりだし、夕方からいつでも行けるようにしておいて、娘に「これは行ってみないとわからない賭けだけど、とりあえず行ってみようよ」と声をかけ続けた。

一度は「行かない」と言った娘だが、「行くだけ行って、ダメだったら帰ってくればいいやん」と言った言葉から誘いに乗ってきた。

「どうせ行くなら、早めに行った方がいいとネットに書いてあった」と娘が言うので、それもそうだと思い花火開始の1時間以上前に着くように出かけた。

雨は何とかもちそう、人出はそこそこある。

人の流れに乗って、花火が見えそうな場所に歩いていった。

民家の並ぶ道路沿いだが、たくさんの人がシートを広げていた。

この辺でも良いだろうと、私は持ってきた携帯用のいすを二つ並べ、娘と座った。

予想以上に近くで、頭の真上に近いところで迫力ある花火が見られ、花火の火の粉か、かすのようなものが落ちてくるくらいだった。

「来てよかった」「予想以上によく見えて楽しかった」と娘は言い、私もこれで何とか埋め合わせられたと思った。

子どもの喜ぶ満足した顔を見られることが、親としての喜び・幸せと思った。

そもそも、娘との約束をないがしろにし、仕事を優先した私がやはり間違っていた。

小さい頃からおとなしい子で、あまり言いたいことを言わないことを良いことに娘のことを私は良い加減に流してきたことが多かっただろう。

それと同時に、自分もそうやって親に対応されて来て、娘のように親に文句を言って食い下がったことはなかったと自分を振り返った。

本当は子どもはこれで良いのだろう。

子どもの文句でも何でも聞いて受け取るのが、本来親の仕事、役目だったと教えられた。

私もまだまだだなぁと反省した。


子育て相談室に参加のお母さん方からも、「それだけ(娘が私に)言えることが良いですね」という感想があった。

「そこまで親に文句を言って、子どもは悪いなと思っていないのだろうか」という質問もあった。

それぞれが自分のことと見比べたりしながら、また自分のお子さん達への対応を考えて欲しと、あえて失敗談を披露し、質問を受けながら話し合った。

おそらく世間一般では、ここまで子どもの言うことを聞くのかと驚かれるとこもあるだろう。

オールOKと言っただけで、そんなわがままにしていいのかと言われる。

私も今回失敗したが、子どもの側に立ち続け寄り添うことの大事さと親としてそれをすることの大変さを痛感した。


オールOKについては、オールOK!子育て法 のページを参照してください。

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2009年8月10日

分析家の独り言 255 (酒井法子覚せい剤取締法違反容疑で逮捕)

酒井法子容疑者は夫高相祐一容疑者の勧めで昨年の夏ごろ、一緒にあぶりをやったと供述しているという。

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覚醒剤(かくせいざい)とは、狭義には覚せい剤取締法で規制されている薬物であり、規制対象としての覚醒剤は「覚せい剤」と記載される。
広義には脳内を刺激させる中枢神経刺激薬である。
中枢神経刺激薬は、脳神経系に作用して心身の働きを一時的に活性化する働きを持つ広義の向精神薬の一種で、ドーパミン作動性に作用するため、中毒症状は統合失調症に酷似しており、嗜癖・依存に誘発された精神病は、重篤になりやすい。

一般に、数度の使用によって強い嗜好性が生じ、習慣性の依存状態となりやすい。日本では他の麻薬と区別され、所持、製造、摂取が厳しく規制されている。  (ウィキぺディアより)
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彼女にも覚せい剤を使用することがいい事か、悪いことかの判断は付くはず。

悪いこと、してはいけない事と知りながら、それを自分で止められず、やってしまうところにその人のコンプレックスがある。

リスクを背負ってまで覚せい剤を使用することで、彼女は得るものがあったということだ。

ネットの情報では、「初めてのシャブを静脈注射したときの快感。そりゃぁ日本中が中毒者だらけになるのが解る気がします」というのがあり、相当心地良いことなのだろう。

本来なら、心地良さは覚せい剤などの薬を頼らずに自分の努力で得るものだが、リスクを背負っても手軽にしかも即得たい。

そこに達成感だとか、自負心、自己への尊厳というものが伴うとは思えない。

それどころか、マイナス面が多く、現実にはありえないような妄想を抱くようになり、人や自分を傷つけることもあるという。

身体も精神も壊れていくことを覚悟で使うのか、そこまで考えず短絡的に手を出してしまうのか。

違う方向から言えば、それくらい日常の中に楽しみや、心地良さを見出し感じられないという事ではないか。

彼女もそうだったのか。

社会的にはそれなりに成功し経済的にも恵まれ、結婚し子どもを産み、幸せそうに見えていたが、彼女の心の中は満たされない何かがあったのではないか。

薬に「頼る」=依存、だから薬物依存といわれる。

依存は口唇期(生後0~1.5歳)の欠損による。

赤ちゃんは、母に抱かれ安心と安全の中で守られていることが心地良いことである。

しかし、3歳で両親が離婚となると、それまでの両親の夫婦仲や養育状況は良好で合った可能性は低い。

そうすると赤ちゃん以前の母の胎内に帰りたい(胎内回帰願望)と人は願う。

それは母と自分が全く未分化で母と一体で居られた時代である。

アルコールによる酩酊状態も、自分がわからなくなるくらい世界(母)と一体化することである。

こうして薬物依存、アルコール依存になっていく。

それら心の欠損から始まる。

人はお金や物、地位・名声があっても、心が満たされなければ本当の幸せを感じることはできない。

心を育てることを真に問い直し考えることが大事である。

依存症は人が言葉を持つ以前の欠損であるため、治療には時間も労力もかかるが、そこから脱したいという強い意志があれば可能である。

自分を知り、止まっている心の時計を動かし、何かに頼らないで自分で安心と安全・心地良さを作り出せる人間に、大人になることである。

今回の事件で彼女の人生が全てNGで、終わったわけではない。

むしろ、これからどう生きるかが大事。

酒井法子さんに、犯した罪は罪として反省し償い、今後の自分の人生をしっかり歩んで欲しい。

子どもさんのためにも、ご自身のためにも。


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2009年8月 3日

分析家の独り言 254 (見捨てられ不安)

無力なゆえに、甘えと依存を充分経験するはずの子ども時代に、我々は親の言うことを聞かなければ親に見捨てられてしまう、見捨てられる不安に脅かされる。

その脅しを親は子どもに使い、子どもを支配する。

自分で自分の身の回りのことさえまだおぼつかず、親の世話が必要である子ども時代。

街でも見かけるが、子どもがぐずると平気で「勝手にしなさい」と子どもを置いてさっさと歩いて行ってしまう1親がいる。

子どもは、置き去りにされたら生きてはいけないため泣きながら親の後を追う。

また親や家庭の事情で、保育園や祖父母・親戚に預けられるなどする。

その年齢が低いほど、心の負担も大きい。

見捨てられるかもしれない不安、恐怖、さみしさ、怒り様々な感情に押しつぶされそうになることもあるだろう。

人間の存在としては同等のはずが、養育する側とされる側に上下関係が生じる。

そんなに子どもに言うことをきかせたいのか。

子どもの上に立ちたいのか。

私も以前は子どもの上に立ちたかった。

子どもを自分の思う通りに動かしたかった。

そうならないと怒っていた。

なぜなら、自分もそうして育ったから、そうするものと思っていた、それ以外の方法を知らなかった。

ましてオールOなど・・・

親に反論すること、逆らうこと、言いたいことを言うことができない。

自分の感覚、考えを自分のものとして持つことさえも許されないことがある。

そんな中で子どもはどうやって自分を保つことができるだろう。

親である我々自身も傷付いているはずなのに、また同じように子どもを傷つけていく。

この連鎖に気付いて修正しなければ、不幸は連鎖し続け、最後に自己または他者を破壊するだろう。

そうして、悲惨な事件はこれからも多発する。

これをくい止めるのは、一人一人が自分を知り、無意識に気付いていくことである。


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2009年8月 2日

分析家の独り言 253 (会話、理解が人をつなぐ)

荒れる息子、常識から外れすぎていて、問題をおこし、この息子と向きあわぜるをえなくなたクライアント。

親子でありながら言葉が通じない。

当然、気持ちも通じない。

この息子にオールOKしていった。

人が本当のことをいうのは、簡単なことではない。

人は本当のことが言えなくて病んでいく。

クライアント達は言う、言っても受け取られず、理解されずどうせ言っても無駄と思い言わなくなったと。

息子が本当のことを言えるようになったとき終わる。

ただいつ終わるかはわからないが、少しでも早く終わらせると言って、オールOKに取組んだクライアント。

その過程で、息子の変化をまじかにみた。

そして人の見方が変わった。

これまで自分と合わない人とは出来るだけ関わらないように、避けてきたが、人って案外面白いものだと教えられた。

人は自分が思ってきたようなものとちがっていた、一体何を見てきたのか。

何も知らなかったのではないか、見ようともしなったのではないか。

これでは人生の半分以上を損したようなもの。

人と関わり、人から刺激をもらい、自分の中に変化が起こる。

自分が正しいと思ってきた考え方や価値をもう一度吟味しなおし、他の考えの方が良いと思えば入れ替える。

例えば、私は我慢することがいいことだと教えられ、そうして生きてきた。

出来るだけ自分を出さずに、人に合わせいい人を演じてきた。

ところが分析に出会い、自分を出すことが大事と知った。

我慢することが必ずしも良いことではなかった。

逆に自分を出して、人と良好な関係を持つことができる。

時と場所、相手等を考えて、出す事と控える事を適切に判断していくこと。

それにはしっかりとした自我構造がなければできない。

それが無いから、とにかく全て出さないのが安全と、我慢していただけだった。

あるときから私は良い人をやめた。

言うべきことは言い、相手の意見も聞く。

互いが話合いによって、合意点を持ち、納得すること。

本当は、そういう話し方、関係を親との間で学習し、さらにそれを周りの人たちと経験していくものだった。

会話が人と人をつなぐ。

その会話の仕方がわからないというクライアント達の話を聴き、会話を重ね、分析において信頼関係を築くことからつながっていく。

荒れる息子にオールOKしたクライアントは、息子を理解しようと努めてくなかで、人とつながることの面白さを知った。

オールOKは、それをされた子どもと、した親の両者を育てていった。


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2009年7月31日

分析家の独り言 252 (分析の回数と気付き、変容)

通常分析の回数は、理想的には1週間に1度のペースである。

ただし、クライアントの経済的・時間的なことを考慮し、無理なく分析を継続できる回数をクライアントに決めてもらっている。

中には、1週間に2度分析を受けるクライアントもいる。

クライアントの側の経済的な問題がなければ有効なことである。

分析である限り、最低月1回の分析は維持してもらう。

2週間に1度のクラインともいるし、10日に1度のクライアントもいる。

完全予約制なので、次回の分析の予約をして帰ってもらう。

しかし困ったときだけ電話を入れて、「いついつ空いてますか」と予約をとるクライアントもいる。

これは本来の分析とはいわず、相談・コンサルティングになる。

それでクラインとがいいと言うなら、それはそれでかまわない。

ただし、継続して分析することを契約する本来の分析とは一線を画する。

分析による気付き、変容というものが希薄になる。

月1回の分析が維持できず、「今月はお休みします」というクライアントもいる。

また次の分析までの間が1ヶ月以上空くクライアントもいる。

これは抵抗である場合が多い。

それくらい自分と向き合い、自分を知ることはしんどく、辛いことでもある。

ただ、それを乗り越えた向こうには、自己の変容と成長が待っている。

クライアントは分析と分析の間に、自分なりにいろいろなことを振り返り、考える。

この時間や思考がまた大事である。

分析で話していると、「ふと、昔のことを思い出してこういうことがありました」と話しだすこともある。

そのことが案外重要で、分析場面でそのことに付いて話し合ううち、また新たな気付きが生まれるなどする。

それをくり返しながら、クライアントは自分ついての知を得ていく。

そして、バラバラな点であったものが、だんだん線でつながれていき、最終的には一つの絵となる。

ここに至る過程でも人は変容していくが、ここに至ると更にこの先もっと変容していく。

ただこの変容の仕方は、ある日を境にガラッと変わったというより、気が付けば前は出来なかったことが、抵抗無く出来るようになったいたというようなものである。

これがクライアントの「生きるのが楽になった」という表現になるのだろう。

それまで苦しんでいた神経症などが消えている。

不安や緊張が薄らいでいくき、最終的には安心と安全を得ている。

周りが変わったのではない、自分が変わったのである、成長したのである。


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2009年7月29日

分析家の独り言 251 (千葉市の母娘殺害・連れ去り事件)

千葉市花見川区の団地で店員豊田愛子さん(61)が殺害され、次女智美さん(22)が連れ去られた事件で、仲田敬行容疑者(28)が逃亡先の沖縄で、智美さんと海水浴や水族館など観光地巡りをした詳細な足取りが26日、タクシー運転手の証言で分かった。

運転手は「2人は口数は少なかったが、カップルにしか見えなかった。でも、保護された直後、智美さんはほっとした笑顔を浮かべていた」と語った。

また、千葉北署捜査本部によると、栃木県内で見つかった逃走車両から、団地付近で見つかったものとは別の刃物が見つかった。智美さんは「脅された」と話しており、車内で仲田容疑者が刃物で智美さんを脅していたとみている。

(http://www.47news.jp/CN/200907/CN2009072601000506.html より抜粋)

保護された智美さんは、母親の殺害現場を目撃し「逃げたら危害を加えられると思った」と話している

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この事件を聞いて、智美さんは逃げようと思えば逃げられたはずなのに、なぜ仲田容疑者から逃げなかったのかと不思議に思った人たちもいるだろう。

人間の心理とは複雑なもので、知美さんは自分の母親が仲田容疑者に危害を加えられた現場を見ただろう。

母親が死に至たり、仲田容疑者に抵抗したり、逃げたなら自分に対しても同じことがおこるかもしれないという恐怖を抱いたはずである。

この恐怖は強烈なもので、見えない手錠で知美さんを縛る。

例え逃げても、自分を探し出し、今度は自分が殺されるかもしれない。

警察も自分を守ってくれる保障はない。

恐怖によって、人を奴隷化し自分の言うことを聞かせるとが出来る。

被害者(智美さん)その人に直接的に脅したり危害を加るのと同じくらい、別の人(母)への脅しや危害を見せ付けることは効力がある。

それはその暴力や危害がいつ自分に向かうかもしれないという恐怖である。

人はこれに縛られ、奴隷化されていく。

犯人の言いなりになり、動くしかない=これが智美さんが「逃げたら危害を加えられると思った」、「楽しそうにしていないといけないと思った」という言葉に表れている。

こうして被害者は犯人の心理的支配下に置かれる。

奴隷化とは、完全受身性にし、被害者が一切自ら考えて動くという能動性を許さない、全面降伏させること。

そこには被害者に絶対的無力感がともなう。

自らが何かを考え行動することが無くなり、言いなりとなる。

この状態に置かれたと感えられる。

だから逃げられる状況にあっても、逃げられないのである。

智美さんの受けた心の傷(PTSD)が今後心配される。

回復には、援助者と時間がかかるだろう。


これは家庭における虐待についても同じことが言える。

あからさまな虐待でなくても、日常的に親から子にそれとは気付かれないうちに起きていることがある。


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2009年7月27日

分析家の独り言 250 (2009 第10回那須サミットより)

7月25日(土)から東京に入り、いつもは電話セラピーをしている東京周辺のクライアントと一年ぶりに、直接面談による分析をした。

翌日26日(日)那須に向かい、分析サミットに参加してきた。

逆転移について症例レポートとして、私宣照真理と金谷氏が発表し、惟能氏が「転移と逆転移」について講義した。

MRI(mentor`s of rookie integrator:新人インテグレーターの支援者)の設置について惟能氏から提案があり、その後クループセッションとなり、3グループに分かれ、各グループで話し合いが持たれた。

私は第2グループの進行役となった。

サミット参加者は、惟能氏の分析とインテグレーター養成講座を受けた人たちで、実際にインテグレーター(分析家)として活動している人、これからやろうとしている人などである。

インテグレーターとして活動している者の中にも、経験を積み重ねた人や、やり始めた人など様々。

養成講座で理論を学んだが、そのあとインテグレーターになる、ならないは自由。

受講した人が全てインテグレーターになるとは限らない。

自分に必要ということで、理論を学ぶという人もいる。

中には、2度目のインテグレーター養成講座を今受けているという人もいた。

私も時間と経済的に許されるなら、もう一度養成講座を受けてみたい。

その彼いわく、1回目とまた全然違う形で聴けるという。

その感覚はわかる。

例えば同じ分析理論の本でも、1年前に読むのと、今読み返すのでは理解度が違う。

また新しい発見やより深い理解が得られ、日々勉強はかかせない。

また、私は13年前、京都から新幹線で東京まで行き、更に高崎線で1時間かけてインテグレーター養成講座に通った。

時間と共に、講座料とそれ以上に新幹線代が高く付いた。

そのため私はもとを取らなければ、これだけのお金をかけたのだからと、一言一句もらすまいと思った。

惟能氏の了解のもと、講座をテープにとり、さらに家でその録音テープを文章におこした。

膨大な量である。

ことあるごとにこのノートを開き、理論を読み返す。

時間を割き、自腹(お金)を払うことの意味がここにある。

分析においても受ける側の心次第で、千円払う人は千円の価値が、例えば百万円払う人には百万円の価値がある。

分析する側は同じように分析しても、受ける者の真剣さが違う。

お金払うからこそ真剣に取り組み、それだけのものをクライアントは得て帰る。

分析は時間と料金と場所を決め、その枠内で行われる。

1時間1万円が高いか安いかは、クラインとが決めること。

その価値を見出した人たちがクライアントとしてインテグレーターのもとに分析を受けに通って来る。

時として私はクライアントとして自分を分析され(教育分析、個人分析)、インテグレターとしてクライアントを分析する。

インテグレーターとして、クライアントより自分のコンプレックスを意識化していなければ、クライアントの無意識はわからない。

自分をより深く知り理論を極めていく、これが私のクライアントに対する誠意である。


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2009年7月25日

分析家の独り言 249 (7月京都分析理論講座より)

7月京都分析理論講座を昨日開いた。

自身が分析を受け、理論も学びたいといわれるクライアント達が参加した。

乳児の三つの発達段階の
(1)対象のない段階(微笑)
(2)前駆的対象の段階(無差別微笑)   まで解説した。

次回は
(3)対象関係の段階(8ヶ月不安)   からとなる。

理論を話しながら、実際に子どもさんたちにオールOKをしてもらっているクライアント達なので、症例を紹介したり、実際オールOKをしていく中での苦労、最近の子どもの様子などを話し合いながら進めた。

理論を話しながらも、参加されるクライアントの状況に合わせて話す内容を考えている。

また、クライアントから質問が来ることもあり、私の体験を話すこともある。


オールOKすることはたやすいことではない。

私も子どもにオールOKしたが葛藤の毎日だった。

頭ではわかっていても出来なくて、「ダメ」と言ってしまい、あとでしまったと思うその自分にまた落ち込むということが続いた。

それでも、オールOKしなかったら、自分と同じ子をつくるだけ。

同じ想いを子どもにさせることは絶対に避けたい、その一心だった。

先祖代々続いた悪しき心の伝統を書き換えるのが、なぜ私なのかと思った。

私の前の代の親が気付いてしてくれたら、私は子どもの立場でオールOKしてもらい楽だったのに。

または、子どもが気付いて子どもの代で書き直してくれたら、私は私の親のように自分が正しいと思い込み、子どもを思い通り動かしそれで生きていけた。

それが何の因果か、私が一番しんどい役をすることになった、間違いに気付いてしまったがゆえに。

どこかで改革しなければこのままでは行けない、それが私に与えられた使命なら甘んじて受けるしかないと覚悟を決めるしかなった。

それでもここまでくれば、やってよかったと思える。

逆に取り込まなかったなら、今の自分は居ないし、命もなかっただろう。

自殺か、事故死か、病死か・・・いずれにしても自己破壊のスイッチが入っていただろう。

子どもにお金や物としての財産を残すより、健康な心を残したいと思った。

お金や物は一瞬で無くしてしまう。

しかし、健康な精神=自己肯定感、価値、自信、信頼、絆、安心と安全、好きなことを見つけ突き進むこと、自立・・・等等 は失いようが無い。

それはお金では買えない親が残せる財産であると思った。

私はどんなにきつくても、途中で分析をやめようと思ったことはなかった。

なりたい自分、自我理想を描き続けられたからだ。

気がつけば分析に入って、まる15年が過ぎた。


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2009年7月21日

分析家の独り言 248 (7月福岡出張より)

ラカン精神科学研究所のホームページや各サイト、ブログを見たと電話連絡いただき、分析の予約をとられるケースが増えている。

クライアントとなる人たちは、子育て(不登校・ひきこもり・ニート・非行等)の悩みや、自分自身、夫婦、家族の悩み問題をどこに相談し治療していけばいいのかがわからないように思う。

そんな中、ホームページを見られたのだろう福岡出張を知って、福岡での分析依頼があった。

福岡のベットタウン的存在と言われる、前原のクライアントのお宅へ出張した。

福岡天神から、JR筑紫線に乗り30分余りで着いた。

以前には太刀洗に行ったこともあり、福岡にも詳しくなってきた。


クライアントはみなそうだが、今の悩みや問題を解決したい。

しかし、本当に解決し治るのか半信半疑である。

分析にたどり着くまでに、クライアントなりにいろいろなところへ足を運び、治療を受けてきた人もいる。

そこではクライアントが望んだような効果・結果が得られなかったため、ネットで検索し、当研究所のホームページ等を見て連絡をいただく。

精神分析とはどういうもので、私が何者で、信頼にたるかどうかは、私がホームページ等で情報を発信し表現したもので、クライアントが判断してくれているのだろうと思う。

そのためにも、月刊精神分析やオールOK子育て法などのサイトをこれからも充実させ、ブログ(宣照真理のセラピー日記)を書き続けていく。

クライアントの中にも、「ブログ(セラピー日記)を読んでいます」という人たちがいて、「楽しみにしています」という声も聞かれる。

分析を受けながら、分析と分析の間、クライアントは自分なりに様々なことを振り返り、考える。

そんなとき、私の体験やクライアントの分析する中で感じたことを書くことが、また何かの参考になるのなら、それはそれで意義のあることと思う。


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2009年7月16日

分析家の独り言 247 (人として成長し続ける)

クライアントは子どもの問題からオールOKをして、自分と向き合っていく。

そして自分の変化に気付く。

駅や電車の中でアベックを見る。

この暑いのに人前でそんなにくっついて、何を考えてる。

以前は怒鳴りつけてやっりたい気分になったという。

ところが分析により、自分を見つめるうち、自分は人に甘えるということが無かった。

悲しいかな、人に甘えるということがわからない。

きっと人前でくっついているアベックは、自分にはわからない甘えるということが出来た人たちなんだろうと思う。

そう、親に甘えたいのが子どもである。

子どもは親に甘えと依存を充分満たされて、自立していく。

ところが、親に子どもの甘えを受け入れ、子どもを甘えさせることが出来なければ、子どもは自分の甘えたい気持ちをあきらめ、無意識下に押し込めるしかない。

そして自分には甘えたいなどという気持ちはないと思って生きていく。

しかし、自分があきらめ抑圧した欲望を他者(甘え合うアベック)に見たとき、心は冷静ではいられない。

甘え合うアベックに出会うと、自分もそうして母に甘えたかった理想的自分と、そうは出来なった悲しい自分の二つが同時に浮かび上がる。

そこに羨望と攻撃性がある。

自分に甘えるということが体験できず、それが欠けたものだという自覚ができると、ものの見方が変わる。

以前のように攻撃性だけが露になり、怒鳴りつけてやりたくなるのではなく、それが自分にはなかった、だからこそ今からでもそれを得ようと動き出す。

それを「自分にないものを自分の要素として加えようと思った」と表現した。

そして、一番理解すべきはパートナーである夫かもしれないに至った。

この相手を理解し成長させることが出来れば、自分が人間になれるかもしれない。

この相手を幸せにするとこが出来たなら、かなりの人と関わりを持てるだろうと。

相手がどうであれ、自分が変化し続けることクライアントは言う。

その通りである。

相手のせいにするのではなく、自分を変化させ成長させる。

そして、自分に足りないものを知って、それを体験し得ていくこと。

これを死が訪れるその瞬間まで追い続け、獲得していくと私は決めた。

どこまで行けるか、私に残された時間はそう多くはない。

10年後、20年後、30年後の自分が楽しみである。

クライアントとともに互いの成長を喜べることは幸せである。


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2009年7月13日

分析家の独り言 246 (オールOKの難しさ)

子育て相談室で、「自分の子どもが不登校をしてるい間も母親教室(当時の子育て相談室の名称)をしていて、教室に来るお母さん達にオールOKしてくださいというのは辛くなかったか」と質問された。

「当然当時は辛かったです」と答えると、「そうは見えなかった」と言われた。

内心、人にはオールOKしてくださいと言いながら、自分の子どもが不登校をしている。

「オールOK出来てないから不登校になったんでしょ、自分も出来てないのに人にそれを言うのか」と言われそうな気がした。

実際に、我が師惟能氏に「自分の子どもが不登校で、私がまだオールOKをできていないのに、教室や分析で子どもにオールOKしてくださいと言っていいんでしょうか」と聞いた事があった。

惟能氏はひと言「いいんです」と言った。

今から思うと、オールOKを言い続けたことは辛かったが、そのことで自分が鍛えられ、励まされ、支えられたと思う。

子どもの非行で大変なお母さん達の話を聞きながら、オールOKの話をするのだが、そのときの私は私以上に大変な非行の子どもに対応しているお母さん達がなんとかオールOKしようと頑張っているのだから、私がしなくてどうするのと思った。

それが私の励みとなった。

分析という仕事があったお陰である。

えらそうに人に言うのだから、まず自分がしっかり子どもにオールOKしなとダメだと。

ただ、オールOKするのは私にとっては至難の業だった。

頭では「いいよ」と言い、子どものいう通り動こう、それを理論的にも理解しているはず。

それでもいざ子どもを目の前にすると「ダメ」と言ってしまい、子どもが何か要求してくると「またか」と顔が歪んでいただろう。

この葛藤に何年悩んだことだろう。

自分に欠けたものの大きさを思う。

クライアント達に、「オールOKしてください」と言っても、なかなか出来ないのもわかる。

それでもあきらめずにオールOKするか、やりたくないとオールOKをしないのでは大きく道が別れる。

子育てに悩み分析にまで来ていても、撤退していく人はいる。

やっと今から自分と向き合ってこれからというときに辞めていくクライアントもいる。

ここまで来たのに残念と思うが、無理に引きとめはしない。

中には一旦休んだり辞めても、復帰してくる人もいる。

動機のないところに分析はありえないし、分析を受けるかどうかはクライアントが自分の意思で決めること。

子育てに限らず、分析によって自分と向き合い、自分を知っていくとこが健康な精神を得、幸せへの道であることは確かである。


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分析家の独り言 246 (オールOKの難しさ)

子育て相談室で、「自分の子どもが不登校をしてるい間も母親教室(当時の子育て相談室の名称)をしていて、教室に来るお母さん達にオールOKしてくださいというのは辛くなかったか」と質問された。

「当然当時は辛かったです」と答えると、「そうは見えなかった」と言われた。

内心、人にはオールOKしてくださいと言いながら、自分の子どもが不登校をしている。

「オールOK出来てないから不登校になったんでしょ、自分も出来てないのに人にそれを言うのか」と言われそうな気がした。

実際に、我が師惟能氏に「自分の子どもが不登校で、私がまだオールOKをできていないのに、教室や分析で子どもにオールOKしてくださいと言っていいんでしょうか」と聞いた事があった。

惟能氏はひと言「いいんです」と言った。

今から思うと、オールOKを言い続けたことは辛かったが、そのことで自分が鍛えられ、励まされ、支えられたと思う。

子どもの非行で大変なお母さん達の話を聞きながら、オールOKの話をするのだが、そのときの私は私以上に大変な非行の子どもに対応しているお母さん達がなんとかオールOKしようと頑張っているのだから、私がしなくてどうするのと思った。

それが私の励みとなった。

分析という仕事があったお陰である。

えらそうに人に言うのだから、まず自分がしっかり子どもにオールOKしなとダメだと。

ただ、オールOKするのは私にとっては至難の業だった。

頭では「いいよ」と言い、子どものいう通り動こう、それを理論的にも理解しているはず。

それでもいざ子どもを目の前にすると「ダメ」と言ってしまい、子どもが何か要求してくると「またか」と顔が歪んでいただろう。

この葛藤に何年悩んだことだろう。

自分に欠けたものの大きさを思う。

クライアント達に、「オールOKしてください」と言っても、なかなか出来ないのもわかる。

それでもあきらめずにオールOKするか、やりたくないとオールOKをしないのでは大きく道が別れる。

子育てに悩み分析にまで来ていても、撤退していく人はいる。

やっと今から自分と向き合ってこれからというときに辞めていくクライアントもいる。

ここまで来たのに残念と思うが、無理に引きとめはしない。

中には一旦休んだり辞めても、復帰してくる人もいる。

動機のないところに分析はありえないし、分析を受けるかどうかはクライアントが自分の意思で決めること。

子育てに限らず、分析によって自分と向き合い、自分を知っていくとこが健康な精神を得、幸せへの道であることは確かである。


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2009年7月11日

分析家の独り言 245 (子どもにオールOKすることは親が育つこと)

娘に「日傘が欲しいので買いにいく、一緒に来て」と言われ、仕事帰りに京都で待ち合わせて付き合った。

四条を回り、最後に立ち寄った京都伊勢丹で、やっと娘が気に入った日傘があった。

しかし困った。

折りたたみ式のは黒、そうでないほ方は紺色。

娘が使いやすいのは折りたたみ式ではない方だが、色は黒がいいと言う。

もう売れてしまって、これ以外にはない言われた。

そこで娘は悩み出した。

黒と紺の日傘を私に差させて見る。

今度は娘が自分で差して鏡に映して見る。

これを延々と繰り返す。

店員さんが入れ替わり立ち代り、「いかがですか」と聞きに来る。

そのうちに店員さんも来なくなった。

小一時間ほど迷っただろうか。

正直言えば、「どっちでもいいんじゃない」と思うが、それは絶対に口にはできない。

娘は真剣だから。

とにかく娘は迷いに迷い、それに付き合った結果、娘が使いやすいと思う折りたたみ式でない紺色の日傘を買い求めた。

帰ったらご飯の準備をしなければならないし、できれば早く切り上げたかったが、娘に付き合ってよかった。

家に帰って「付き合ってくれてありがとう。納得がいった」と娘が言った。

もし私がひと言でも要らないことを言って、娘が充分迷えず妥協することになっていたら、家に帰ってきてもまだ「あっちがよかったんじゃないか」と言っていただろうと思う。

クライアントの中にも、子どもと買い物にいくとどれを選ぶか決められず迷う、それに付き合うのがしんどい、嫌だという人がいる。

ああ、そのクライアントの気持ちわかる。

そこには、親である自分自身が、その親にこれほど付き合ってもらったことがない。

子どもである自分が親に付き合わされたことは山のようにあっても。

子どものためにお金を使い、子どものために自分の時間を使い、子どもが喜ぶ顔を我が喜びとし、幸せを感じられたとき、親もまた成長している。

そこに過去子ども時代に叶えられなかった欲望と、今目の前で満足した子ども=自分の二つを冷静にみている私がいる。

オールOKして子どもを育てることは、親が自分を育てることになる。


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2009年7月 9日

分析家の独り言 244 (2009,7月 京都子育て相談室より)

昨日京都での子育て相談室に、生後7ヶ月の赤ちゃんを連れて若いお母さんも参加された。

無条件にかわいいこの時期、自分達の子どもがもう10代、20代になっているお母さん方からは、思わず「かわいい」という声が聞かれた。

と同時に「この頃から我が子を育て直したい」という声もあった(同感)。

何も知らないがために、手探りで一生懸命子育てしたが違っていた。

子どもがどういうふうに発達していくのか、その中で大事なことは何かを知っていたら、親子共にこんなに苦労することはなかっただろうと思う。


そろそろ8ヶ月不安が出てくる頃なので聞いてみたところ、最近になって母親以外の人に抱かれると泣くようになったという。

生まれた頃は、まだ自他未分化で自分も母も世界も渾然一体となった世界に赤ちゃんはいる。

そこから母に世話され、抱っこされることによって、だんだん自分以外の対象がいることに気付き始める。

そして生後8ヶ月前後になると、いつも自分を世話してくれる母を認識し、母以外の人が抱こうとしたり、近づくと泣く。

これが正常な発達である。

しかし、母以外の人が世話したり、抱っこすることが多いと8ヶ月不安はおこらない。

誰に抱かれても平気でいる、こういう赤ちゃんを見て一般の人は「誰に抱かれても笑顔で、いい子ね」というが、精神発達論から言えばとんでもないことである。

それは母がその子に専心し世話していないため、赤ちゃんに良い母が内在化されていないことがわかる。

この赤ちゃんのおばあちゃんが子育て相談室や、分析理論講座で学んだことを、娘である赤ちゃんのお母さんに話をされているので理解されているようだった。

ただ、来春から仕事に復帰することになっていて、どうしようかということだった。

もちろん分析的立場から、仕事より子育てを優先しないと子どもの心は成長しないといえる。

子どもにすれば、母親は自分より仕事を取ったということになり、結果、後になって欠けた時間とそのために失った子どもの心の成長を埋め合わすには大変な時間と労力がかかる。

お母さんも、「我が子がかわいく仕事に復帰して手放すのは辛い」と言われるので、子育てをとる方向で行くと言われた。

お金や物に変えられない子育ての重要性を理解される方が少ない中、良かった思うとともに嬉しかった。

働くこと、お金をもうけることそれはそれで必要なことでもあろうが、子育てより優先することではない。

働くお母さん方には怒られるだろうが、母とは何か、母親の重要性、本来の役割をこれからも私は訴えていく。

今の日本の社会の在り方とは逆行するだろうが、本当のことは何なのか、何を人として親として母親として大事にしなければならないのかを伝えていく。


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2009年7月 8日

分析家の独り言 243 (オールOK:次の世代につなぐ)

あるクライアントの息子夫婦が孫を連れて家に来た。

4歳の女の子と1歳の男の子。

4歳のAちゃんは弟が生まれてから、お母さんを弟にとられいつも我慢している。

Aちゃんのお父さんとお母さんが近くのスーパーに買い物に行ったその間、おばあちゃんであるクライアントと遊んで待っていた。

最初は機嫌よく遊んでいたが、そのうちにぐずり出した。

そんなところにAちゃんのお父さんとお母さんが帰って来た。

そこでクライアントはAちゃんの気持ちを代弁して、「Aちゃんは本当はお母さんに抱っこして欲しいんやろ。でもいつも弟にとられるんやな」と言った。

するとAちゃんは「うん」とうなずく。

「それならほら抱っこしてあげよう、おいで」とお母さんは言ったが、Aちゃんは「いや、いらん」と言う。

本当はお母さんに抱っこしてもらいたい。

でも、自分の気持ちをちゃんと理解してくれてないお母さんに素直に飛び込んでいけない。

4歳にしてこんなに複雑な感情を持ち、反応をするのかとクライアントは思った。

Aちゃんのお父さんとお母さんは、「おばあちゃんはなんでもわかってくれて、甘えられていいな」とAちゃんに言うが、そうではない。

クライアントは子どもの思いと親の思いのズレを、子どもの立場になって修正し、親に子どもを理解するようになってもらいたいと言う。

そしてクライアントは自分のことを思う。

自分は理解してくれる人もなく、いっぱいいっぱいで生きてきた。

自分の生き辛さはどこから来るのか。

自分自身の育ちと、自分がしてきた子育てを振り返る。

答えは自分の中にある。

人を正しくとらえることをして来なかった。

親に「ああしろ、こうしろ」と様々なことを吹き込まれた。

と同時に、自分もまた子どもに吹き込んでしまったことがたくさんある。

それらを修正するためにオールOKする、それは親である自分が変わり続けることでもある。

自分の次の世代が安定して、人として成長するのをみられることは幸せであり、喜びである。

人を育てることは難しい。

子どもが自分の核をつくるには、家庭で両親にどれだけ肯定されるか。

無我夢中でやったオールOKだったが、今つくづくやって良かったとクライアントは言う。

Aちゃんのお父さん(クライアントの息子)が荒れ出したのは12年前、それから4年後分析に出会いオールOKをし始めた。


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2009年7月 7日

分析家の独り言 242 (子どもの成長を喜べる親になる)

親自身が成長し、成長を楽しみにできることが大事である。

そうでないと子どもの成長を喜べない。

子どもが成長すると、これまでできなかったことができるようになり、だんだん生意気になっていく。

これまで子どもにとって親は絶対的存在で、親の言うこともきいていた。

ところが子どもが思春期になると、親をこけにし、馬鹿にし、母親に対して「くそばばあ死ね」くらいのことは言う。

これを子どもの成長ととらえるか、「なにを生意気な誰のおかげで大きくなってきたと思っているの」と、力で押さえつけてしまうか。

この子どもの生意気な態度に対する親の反応で、これから子どもを成長させられるかどうかが決まる。

子どもが親に反抗するということは、子どもの自我と親の自我がぶつかりあうことである。

したがって子どもの側に自我が育っていなければ、思春期になっても反抗期は来ない。

後に何かしら問題が露呈する子どもの場合、この反抗期がなかったというケースがみられる。

親は子どもに反抗期がなく、いくつになっても親の言うことをよく聞いて、やりやすいいい子だと喜んでいてはいけない。

それは「その子は死んでいます」ということと同じである。

自分を持たず、出さず、親の言いなりなっていて、そのまま社会に出ていけるはずはない。

自分で考え、自分で動けなければ、簡単に自分が他者に乗っ取られペシャンコになってしまう。

人はいくつになっても成長していける存在であると知った。

肉体は老いていく、これは仕方がない。

しかし精神は成長し続ける。

親が成長し続けていれば、子どもの成長を共に喜べる。

親が成長をやめてしまったら、子どもが成長し親である自分を追い越していく恐怖を感じ、子どもの成長を阻むだろう。

こういう親にとって子どもは親を追い越していってはいけないのである。

成長をやめたときから、人は石化していく。

こういう人を頑固という。

本当の親孝行は、親を越える精神の成長を遂げることである。


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2009年7月 4日

分析家の独り言 241 (<青少年白書>ニート2万人増の64万人に 高年齢化の傾向)

YAHOO!ニュース http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090703-00000020-mai-pol より

 小渕優子少子化担当相は3日午前の閣議で09年版青少年白書を報告した。仕事も職業訓練もしていない若者(ニート)が、08年は前年比2万人増の64万人となった。中学、高校時代に不登校だったり中退した人がニートになる傾向が強いことも判明した。白書は「さまざまな支援が必要とされているにもかかわらず(現在の支援が)ニート状態からの脱却に必ずしもつながっていない」と施策見直しの必要性に言及した。

 ニートの年齢別内訳は、15~24歳(低年齢層)が26万人、25~34歳(高年齢層)が38万人。総数は02年以降、62万~64万人で推移しているが、低年齢層は02年比で3万人減ったのに対し高年齢層は3万人増え、いったんニートとなった人が社会復帰できず高年齢化している現状がうかがえる。

 今回は不登校や中退した人の調査を初めて実施。今年2~3月、04年度に高校を中退した人1595人(回答168人)と、中学で不登校だった人480人(同109人)を対象とした。現在ニート状態にある人は高校中退者の20.8%(同年代平均5.9%)、中学不登校者の16.5%(同2.3%)と、いずれも同年代平均を大きく上回った。

 白書は「学校段階でのつまずきが、ニートへつながっている」と分析している。【横田愛】

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ひきこもり、ニートは社会的にも大きな問題と考えられる。

少子化の上に、若者が働かずにいることは、国家財政にとっても見逃せないことであろう。

その対策として、京都府などでは「京都府青少年社会的ひきこもり支援年とワーク」をつくり、府と民間支援団体が協力してひきこもりの問題に取り組んでいる。

京都府ひきこもり支援情報ポータルサイトで京都府の取り組みや各民間支援団体の紹介をしている。

ここにラカン精神科学研究所も支援団体として参加している。


白書は「学校段階でのつまずきが、ニートへつながっている」と分析している、とある。

確かに小・中・高校の不登校からそのまま社会と関わりを持たず、ニートやひきこもりになっていくケースが多い。

ただ、学校でのつまずきのもとには、家庭でのつまずき=養育上のつまずき、つまりは親がどう育てたかに行き着く。

ここから見直していかなければ根本解決にはならないが、国はそこまでわかっているのだろうか。

それとも、わかっていても取り組むには壮大すぎて、どうしていけばいいのかがわからないのか。

小手先の対策をいくらやったところでどうにもならない、ニートもひきこもりも減るどころか、これからますます増加する。

今一度、人間のあり方、心身の成長とはどういうプロセスをたどるのかなど知って、しっかり子育てができる環境を国も協力してつくっていって欲しいものである。


また、不登校に悩む親御さんが集う会は、全国各地にある。

クライアントの中でもそういう会に参加した人がいるし、自分の子どもの問題は解決し、自分の勉強として不登校の親の会に参加しているクライアントもいる。

参加した会でオールOKの話をするが、なかなかお母さん達の耳に届かないという。

そんなに子どものことで苦しいのなら、オールOKという対応法があり、これを実践すれば子どもも親も救われるのにそれが理解されないもどかしさを感じるともいう。

そのまま子どもが学校に行かない、家にひきこもると嘆き苦しい思いをするのか。

それともオールOKすることは母親にとってまた大変で苦しいことではあるが、同じ苦しく辛い思いをするのなら、良い結果に至る方を取るのかは、その人が選択するしかない。

ただ、私としては子どもも親も共に喜び、成長できる理論に基づいた子育て法があることをより多くの方に知ってもらいたいと思い、ここブログでぶつぶつと独り言を書き綴っている(苦笑)。


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2009年7月 2日

分析家の独り言 240 (不登校・ひきこもり:主体性をもつ)

不登校・ひきこもりの問題で分析や相談室に来られる中で、高校へ行ったが休みがちでこのままでは出席日数が足りなくなり、いずれ留年か退学かになる、どうしたらいいかということがよくある。

こういうとき私が必ず聞くのは、「その高校は子どもさん本人が選んだ学校ですか」ということ。

すると、「いや親がいいと思って勧めました」とか、「私が行かせたかった学校です」という答えが返ってくる。

また「子どもと相談しながら決めました」という方もおられる。

しかしこれもよくよく聞いていくと、子どもと話はしているが、親の意向に子どもを沿わせるような話し方でしかない。

これでは本当の意味で子どもと相談した、話し合ったとは言えない。

特に高校選択は、子どもにとって将来を左右するかもしれない大事な岐路である。

小学校・中学校は義務教育で、公立の学校であれば何も考えなくもみんなが行くからということで行ける。

ところが、高校は本人の成績によって行ける高校が限られたりし、いやでも自分の進路について考えなければならない。

そこで子どもの主体性が問われる。

自分はこれから何がしたいのか、どういう方向に行きたいのか、行くのかなど。

このとき明確な子どもの意思・主体性がないと、簡単に親や周りに流されてしまう。

すると、高校には入学したが行き渋ったり、行かなくなってしまう。

その頃になって親は慌て出す。

何で学校に行かないのか、行けないのか、原因を探し学校や先生・友達、子ども本人のせいだと思う。

好きなこと、したいことがわからず、積極性や好奇心も持てない子どもに育ててしまった自分(親)に目が向くのは最後となるようだ。

それでもそこに気付く人はいいが、どこまでも他人のせいにして自分を振り返らない人もいる。

子どもはそれまで長い年月をかけて、主体性を抹殺され、脆弱な自我しかつくれなかった。

それら日々親の子どもへの対応によるのである。

そのもとには、親自身の養育史上形成された無意識がある。

親もまたその親に自分の意思を尊重され、主体性をもてる育てられ方をしていない。

そこから見直して、子どもが主体性・自我をもてるようになるためのオールOKできる親になってもらう。

自分が戦うべき最大の敵は自分であると気付いていく。

これはカウンセリングとは全く違う無意識を扱う精神分析だからできることである。


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2009年6月30日

分析家の独り言 239 (マイケル・ジャクソン)

この度のマイケル・ジャクソンの突然の死亡報道には驚いた方々が多かったことだろう。

私が気になっていたのは、整形手術を繰り返しマイケル氏の顔、特に鼻の変容ぶりだった。

整形をし始めたきっかけは1979年のステージの床に鼻をぶつけ骨折するという事故であると聞いた。

更に気になる記事があった。

幼少時、父親がマイケルの顔を見ては「なんだそのでかい鼻は。俺の家系(遺伝子)からではない」と散々罵倒された劣等感の反動からくる補償行為だとも言われている。
(ウィキペディア:マイケル・ジャクソンの外観 より)

あれだけ鼻の形が変わっていくには何か理由があるはずと思っていた。

しかも繰り返される整形手術の度に、どんどん鼻が崩れていくように感じた。

子どもにとって、身体に関する親の言葉は非常な影響力がある。

褒め言葉ならいいが、けなしたり、否定した言語は絶対に言ってはいけない。

親に否定された身体部分は、その人から抹消されることもある。

それは例えば、後に切断という形でその身体部位を失うというように。

また、天然パーマの髪の毛を、親に「なんだ、そのクルクルの髪は」と言われた女性は自分の髪に関心を持てず、年頃になっても気を使わずボサボサのままだった。

あからさまに、自分の子どもに「ぶさいく」だとか、「デブ」だとか言う親もいる。

親は何気なく言ったつもりでも、子どもを深く傷つけてしまう。

マイケル氏も、父親の「なんだそのでかい鼻は。俺の家系(遺伝子)からではない」の言葉がなければ、あれほど鼻の手術をしなくて済んだだろう。

自己イメージに歪みが生じ、何度手術しても父親に否定された言語を自分で消し書き換えないかぎり、マイケル氏はもうこれでいいと納得できなかっただろう。

「俺の家系(遺伝子)からではない」ということは、自分の子どもではないと言っているのと同じ。

じゃあ、自分はどこの誰の子どもなんだ、本当の親はどこにいるのかと思うだろう。

自分を支える根底が揺らぐ。

人は、自分を支え、見守り、どんなときも見方となって理解してくれる、そんな人がいてくれたらと願う。

それができるのは、まず親である。

その親に否定され認められないで、悲鳴をあげる、暴れる、自分か他人を傷つける。

いつも思う、この世に一人でも自分の話しに耳を傾け、自分を理解してくれる人がいたら、人は生きていける。

あるクライアントとも話した、秋葉原の加藤被告に、一人でもそういう人がいたら彼はあそこまでの事件を起こさずに済んだだろうと。

分析において、インテグレーター(分析家)は、クライアントの理解者となる。


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2009年6月23日

分析家の独り言 238 (ひきこもり・ニートへの理解)

ひきこもりやニートと呼ばれる人達は、家でゲームをしたりパソコンでネットの画面を見るくらいで、特にこれといったことをしないで家の中で過ごすのが殆どである。

親や家族は、何もしないで遊んでいると見る。

ところが本人は、何かしたい事もなく、興味を持てるものもなく、何をしていいかもわからない。

傍目からは、遊んでいるようにみえても、これが結構つらく苦しくもがいているのである。

仕事をもっていたりして忙しい母親は、どうせ暇なんだからと、「夕飯のご飯を炊いておいて」と家事を手伝わせたり、買い物を頼んだりする。

子どもも何もしていない引け目があるので、いやとは言えず指示通りに動く。

これは、子どもの主体性の育てる行為ではないので、好ましくない。

まずこのような子どもにお手伝いをさせる指示は止める。

何もしないで遊んでいるように見えるひきこもり・ニートである子どもの今の状態を認めるのである。

更に、家族にはひきこもっている本人のしんどさや苦しさを理解して欲しい。

ところが「真面目に一生懸命頑張ってきた」親は、子どものその状態を認めることが難しい。

なんで私はこんなに頑張ってきたのに、あなたはそんなに何もしないで遊んでいられるのと言いたくなる。

だとすると、今度は親のそのが問題になる。

親が、自分が好きな事を自らの意思で「真面目に一生懸命頑張ってきた」のなら、そうしてきた事に納得しているわけだから、子どもにも頑張る事を強要したり、頑張らない子どもを責める事はしない。

ところが親の「真面目に一生懸命頑張ってきた事の内容」が、親自身にとって不本意で、嫌々そうするしかなかったり、自己犠牲を伴うものであったりすると、子育て自体が子どもに対して恩着せがましくなり、子どもにも頑張れと言いたくなり、子どものしんどさを理解する事ができない。

子ども時代に自分が好きでそれをしたくて頑張った事と、親に嫌われるのを恐れて、仕方なく頑張ったのでは、自ずと取り組む姿勢・想いが違う。

嫌々するというところには「主体性が欠如」しているのである。

そうするしかなったと思うかもしれないが、本当にそうだろうか?

自分の言いたいことを言う勇気がなかったか?人からの評価を気にしたということはなかったか?

結局親自身のあり方が問われる。

ひきこもりやニートの子どものために、自分を見つめ、自分が変わらなければと母親自身が分析を受ける方々がいる。

自分の養育史を辿り、自分と向き合いながら、子どもへの理解が生まれてくる。

当然子どもへの想いや接し方が変わり、子どもに少しずつ変化が見られる。

子どもを持つと、子どもから色々な問題が提示される。

それとどう向き合うかで、その人の生き方が問われるのである。


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2009年6月22日

分析家の独り言 237 (子どもを呑み込む親)

母親は自分が親にして欲しかったことを、自分の子どもにする。

それは母がして欲しかったことで、子どもがして欲しいこととはずれる、違う。

例えば、私は子どもの頃あまりおもちゃというものを買ってもらえなかった。

友達が当時流行った、バービー人形やリカちゃん人形の着せ替えをいくつも持っているのがうらやましかった。

それを買って欲しいと言ってもおそらく買ってももらえないだろうと思い、親にそれをねだることはなかっただろう。

女の子が生まれて、まだ小さい我が子に、私はリカちゃん人形を買った。

あれは私が欲しかったのだ。

私の母は私の嫁入りのために、箪笥に溢れるほどの着物を詰めて持たせた。

結婚後その着物は仕付け糸がついたまま眠っていた。

あれだけの着物をお金に換算すると相当なものになるだろう。

しかし私にはそれほど必要ではなかった。

それなら、もっと子どもの頃から欲しいものを欲しいときに買ってもらった方がどれだけありがたかったことか。

あれは、私の母がその親にして欲しかったことではなかったか。

同じことを言ったクライアントがいた。

彼女もまた、かつての私と同じように母の欲望で生きた人だった。

自立した母でないと、我が子を分身と思い、子どもに自分の夢を託す。

親の自己愛を満たす道具にしてしまう。

子どもの意思や主体性は無視され、不適応を起こす。

それが不登校やひこもり、非行、精神的病理であったり、生きにくさとなって表れる。

親自身の欠損を子どもで補おうとする。

それこそ母の分離不安であり、子どもを一個人としてみていない証拠である。

親自身が自分を振り返り、本当の自分に気付き知らないと、いつまでも子どもを取り込んでしまう、呑み込んでしまう。

そして子どもはいつまでも自立できないで、病んでいく。


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月刊精神分析2009年4月号 なぜ分析で病が治るのか

2009年6月19日

分析家の独り言 236 (意味の病)

ラカンは人間は意味の病であるという。

もう何年も前、外から帰ってきて家に入ろうとしたら、玄関のドアの前に水の入ったバケツが置いてあった。

当時住んでいた地域では、ゴミ収集車が行った後を水で流すことを当番制でしていた。

そのための水を家人が置いたものだった。

それを見たとき、私の中で「嫌がらせか」という言葉が出た。

その心の声を聞いたとき、ハッとした。

このバケツは何も言っていない、ただそこにあるだけ。

それなのに私は嫌がらせという声を聞いた。

玄関の前に置かれたバケツに「嫌がらせ」という意味をつけた。

何で?

自分が家に入ることを邪魔されているように私は感じたということ。

排除されている、心良く思われていない、そんな想いがあったのだ。

このとき気が付いてハッとしたが、もしかすると私はこれまでも、自分の裡に内在化したマイナスイメージがあり、こういう声を聞いていたかもしれない。

人の言葉を正確に聞かず、自分の無意識に彩られた聞き方をしてきたかもしれないと思った。

そのためにマイナスの意味をつけ、勝手に怒ったり不機嫌になったいたこともあるかもしれない。

これは大変なことだと思った。

病理になると、心の声としてではなくこのバケツがしゃべりだす。

それが幻聴といわれるものでもある。

クライアントも、同じように意味の病を語る。

人の何気ない言動に、クライアントは意味を見出す。

嫌われた、排除されたと感じたり、人が恐いという対人恐怖のクライアントは外に出ると、自分の悪口を言われるとか、攻撃される気がするという。

それでも何とかそのマイナスのイメージに打ち勝とうと、クライアントは葛藤し、心的エネルギーを使い、疲れ果てる。

または外に出られないクライアントもいる。

こういうクライアントにとって外に出ることは大変なことである。

それを一般の人や家族にも理解されず、孤立し、ますます追い詰められていく。

まずこのクライアントの語りに耳を傾け、理解者となる。

そしてどの言葉のまたは行動の何と何をチョイスしたのか、そのチョイスの仕方、どういう意味をつけたかを分析していき、クライアントの無意識に迫る。

ある意味謎解きのようなものである。

しかしそれによって、クライアントがこの無意識の構造に気付けば、そのマイナスの感じ方は修正されていく。


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2009年6月18日

分析家の独り言 235 (自分の人生を生きる)

人は自分の意思で、自分として生きていると思っている。

ところがほとんどは、私という皮を被って入るが、中身は親である。

多くは母、父の価値観や考え方で動き、それが自分だと思っている。

それでも何とか動けるが、そもそも親と自分は別の存在であるから、他人(親)の価値観や考え方で物事を判断し行動するには無理がある。

生きるということは、常に変化し続けることで、止まることは死を意味する。

自分のあり方をとっても、昨日の自分と今日の自分は全く同じではない。

分析によって、自分を取り返す。

それにはまず、自分のほとんどを占めている親を追い出すこと。

子どもの頃から、親はいいろんなことを子どもである私達に吹き込む。

おとなしくしなさい、お行儀よく、我慢しなさい、勉強しなさい・・・

いろんなメッセージを、まだ物事を判断できない時代に書き込まれてしまう。

それがおかしいと感じ排除できず、そういうものなんだと思い込まされる。

そのことが本当に正しいことなのか、自分に今必要なことなのかを、遅ればせながら今からでも一つ一つ現実吟味し検証しなければ自分の人生は歩けない。

主体性をもつということが非常に難しい。

自分の主は自分である。

自分の中から親を追い出し、一旦空っぽして、そこから自分を築いていく、、欲望の運動を起こす。

自分を持たない親が子どもを育てれば、自分を持てない子どもしか育てられない。

自分を持たなければ、動けなくなる、ひきこもる、ただ動き回る。

私が分析でわかったことは、親の言うとおりにしていれば間違いがない、安全だからと親の言うことを聞かされた。

親の認める道以外は歩くことを許されなかった。

そう思い込まされて生きてきたが、違和感があり、生きづらかった。

自分のしたいこと、好きなことがわからなかった。

何かを真に楽しむということがなかった。

その親の呪縛から離れたとき、見える世界が変わった。

自分の足で自分の人生を歩く充実感。

そこには責任も伴うが、それを自分で引き受け背負う覚悟もできた。

なんと自由で風通しのいいことか。

生きるとは本当はこういうことを言うのだろう。

またなんと死んでいた時間の長かったことか。

人は無意識に気付いて真に目覚めない限り、夢遊病者と同じいう 惟能創理(いのうそうり) 氏の言葉が思い出される。


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2009年6月16日

分析家の独り言 234 (ひきこもりからの脱出)

人間関係がスムーズにいけば、ほとんどの問題は解決するように思う。

親子、夫婦、兄弟、嫁姑、親戚、友人、隣人・・・。

人は他者から自分がどう見られているかを気にする。

変だと思われないだろうか、嫌われないだろうか・・・と腐心する。

排除され、否定され、非難され、拒絶せれ、攻撃されるのではないかと恐れる。

これら見捨てられ不安につながる。

こうなると生きづらく、人と関わるのがおっくうになり、ひきこもりがちとなる。

現実とは関係なく、このマイナスの想像がその人の中でぐるぐるまわる。

ならば、なぜ他人に対してそのようなイメージを持ったのか。

そうなるにはそうなる理由がある。

人を友好的に見るのではなく、敵対視し恐れるイメージを心に内在化する何らかの現実を積み重ねたのだろう。

その最初が、人として生まれて最初の対象である母との関係にある。

後に父、そして家族、それが地域社会との関係に広がっていく。

最初の母との関係につまずくと、それから先がうまくいかないのは当然である。

学校に行くようになると、友達との関係がうまく築けない。

いじめを経験する可能性が高い。

友達がいっぱいいるひきこもりの人を見たこと聞いたことがない。

友達がいないで、孤独で、孤立している。

この人との関係を学習しなおすこと。

それのための第一歩として、分析は養育史を聴いていく。

そこに親子関係や、家族のあり方がみえてくる。

残念ながら我々は、育つ過程の家族のなかで傷ついて来ている。

それは意図的というより、無意識であるケースが多い。

子どもを産み育てる母自身が、またその母から傷を受けていて、それがどんどん下の代にコピーされ連鎖していく。

そうされるほどに傷は大きく深くなり動けなくなる。

分析によって、心的外傷(PTSD)といってもよいこの心の状態を癒し、他者と再結合することをめざすのである。


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2009年6月14日

分析家の独り言 233 (愛と自由と平和を勝ち取る自己革命)

少し前まで、私の横で話をしていた娘が自分の部屋に戻っていった。

仕事をする私の傍らの、網戸にした窓からレースのカーテンを揺らして時おり風が入る。

窓際に植えたムクゲを、今年も大きくなったなどと思いながら眺めた。

何気ないことにホッとし、幸せを感じる。

穏やかな時がここにある。

この歳になってやっとこういう時間をもてるようになったかと、一人想う。

振り返れば、さみしく悲しい子ども時代。

言いたいことが言えず、イライラを抱えながらどうしていいかわからなかった。

本当は人と関わりたいのに、人が恐く、独りが楽と思い込んでいた。

親から言われたああせい、こうあるべきの言葉にがんじがらめで、不安の塊だった。

分析を受け始めた頃、先生(インテグレーター)から「あなたは愛と自由と平和を勝ち取る、まるでフランス革命にこれから取り組むんですね」といわれたことを想い出す。

その通りだった。

それは自分との戦いだった。

まだまだ私には知らないこと、足りないものがある。

それを知り、埋めるために、私に残された時間はそう多くない。

しかし命がある限り、それらを知り、埋めていき、なりたい自分を目指して行けるところまで行く。

36歳の夏、まだ分析が何かよくわからないまま飛び込んだが、自己革命に乗り出していた。

そしてまる15年目の夏がもうすぐ来る。

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2009年6月13日

分析家の独り言 232 (ラカン精神科学研究所HP2万件アクセス)

今朝、当ラカン精神科学研究所ホームページのアクセスが2万件を超えました。

一昨年(2007年)春からホームページの作成にかかり、去年(2008年)10月にアクセス1万件となり、それから8ヶ月。

ブログ『セラピー日記』や『オールOK!子育て法』、『不登校・引きこもりに悩む方々へ』、『月刊精神分析』等のサイトをつくり、精神分析というものを何らかの問題を抱え悩んでおられる方や、一般の方々に知ってもらいたいと思い、日々書き綴ってきました。

クライアントから、「各サイトや、セラピー日記を毎回楽しみに読んでいます」と言われることや、ホームページ等を見たと直接電話をいただき、分析や子育て相談室、分析理論講座に来られる方が増えています。

私としては、どうように表現すれば、精神分析というものが皆さんに理解されやすいかと考えています。

分析を通してクライアントの語りに耳を傾け理解し、クライアントの変化・成長が見え、それを共に喜べる充実感、それは子育ての喜びと共通するものがあります。

毎回何らかの気づきがあるクライアント。

あまり変わらないと思っていた人が、子どもの言動によってこれでよかったんだと思えたというクライアント。

話すだけ話して、「ああ、すっきりした」というクライアント。

とにかく、言いたいこと、聴きたいことをしゃべってそれに答えて欲しいというクライアント。

それぞれ違うクライアントの様々な悩み、歪み、それを理論を基に心の構造を見、紐解いていくオーダーメイドの精神分析。

自分自身が悩み、苦しみ、もがいて辿りついた精神分析でした。

それによって自分を見つめ知っていくことが、こんなに自分を変え、今を楽しめ、更に目標をもって生きていくようになるとは思っていなかったのです。

ただ目の前の問題や悩みを解決するだけでなく、心身ともに解放され、自分らしく生きられ道があります。


あらためて、各サイトを紹介します。

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天海雄輝野セラピー日記(旧ブログ)

オールOK!子育て法 のページ

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月刊精神分析2008年11月号 私と精神分析

月刊精神分析2009年01月号 運命は名前で決まる

月刊精神分析2009年02月号 私と精神分析 2

月刊精神分析2009年03月号 随筆 精神分析

月刊精神分析2009年4月号 なぜ分析で病が治るのか

月刊精神分析2009年5月号 精神分析家をえらびますか?

2009年6月11日

分析家の独り言 231 (インテグレーター・分析家の仕事)

ラカン精神科学研究所のホームページや、オールOK!子育て法等のサイトを見て分析や子育て相談室、分析論講座に来られる方々がいる。

子どもの不登校やひきこもり、非行など何らかの悩みや問題を抱えながら、ネットで何か対策法なり、改善する方法はないかと検索し探す。

例えば子どもが不登校になった。

その子どもにどう接していいのかわからない。

最初は、学校が悪い、先生が悪い、友だちが・・・と人のせいにしたり、何かきっかけがあればまた動き出せる、学校にも行くのではないかと思う。

ところが、月日がたつうち、親もこのままでは子どもは変わらない、動かないのではないかと思い始める。

と同時に、これまでの自分の育て方、子どもへの接し方に何かまずいことはなかったかと考える。

そしてまた、これまで蓋をしてきた自分自身のことをも振り返り出す。

実際に電話等で連絡をして、分析や教室・講座に参加すると行動を起こすまでに、いろいろ悩み、苦しみ、焦っておられたことと思う。

しかし、分析に来るクライアントの語りを聴いていると、ある覚悟が見える。

子どものことと同時に、自分自身を見つめようという覚悟。

こういうクライアントの中には、自然と「自分とは何者か?」という問いかけがすでにある。

私はインテグレーターとして、他の誰でもない、自らこの問いかけをした素晴らしさに一人感動する。

自分と向き合うことはおそらく辛いことで、これまで見ないようにしてきた。

辛いからとそれを無視して、今の悩みや問題が根本的に解決しないことを知っているように思える。

しかし、ただ辛いだけではない。

辛いながらも知っていくことに意義を見出し、自分が変容していく。

そして子どもの心が成長していく。

生きるのが楽になり、今を楽しめるようになる。

子どもと良好な関係を築き、人間関係がスムーズにいき、そこにも楽しみを見い出せる。

そこまで求めないクライアントもいる。

子どもへの対応を具体的に聞きたい。

とにかく子どもが社会適応してくれればいいというのなら、それはそれでいいのである。

クライアントが何を求めているか、どこまで行きたいかであって、それに確実に応えるのが私のインテグレーターとしての仕事である。


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2009年6月10日

分析家の独り言 230 (両親の喧嘩は子どもを傷つける)

子どもは育ってくる家庭の中で、様々に傷ついている。

その中で、両親の喧嘩を見聞きすることが、後の子どもの人生に大きな影を落とす。

クライアントの中には、「自分の両親がいつも喧嘩していた」「父親はDV(ドメスティック・バイオレンス)だった」という話を少なからず聞く。

様々な状況の中で、包丁が飛ぶようながあったり、酒乱で暴れることも・・・ ドア一つ向こうの家の中では何が起こっているかわからない。

子どもにとって、父母は一番身近で、愛着をもつ愛すべき人達である。

その二人が、いがみ合い、喧嘩し、大声で罵倒しあう。

しかも暴力まで振るうことがある。

小さな子どもの心は恐怖と、悲しさ、さみしさ、心細さ等々で傷つく。

そうして喧嘩する両親を見て育った子どもは、自分が大きくなって結婚したら絶対喧嘩をしないで仲良くしようと決める。

しかし、本当仲の良い両親を見たことがないため、ただ相手を無条件に受け入れ、自分の意見は言わず相手に合わせているだけというのが関の山である。

上辺はいさかいがなく、平穏そうには見えるが、それが本当に仲の良いことかというと違う。

本来は、互いが言いたいこと言った上で、歩み寄り、合意点を探して、ことを進めていくことであろう。

その過程で、どれだけ自分を出して主張し、またどれだけ相手を尊重し譲ることができるか、これを程よく互いに学習していき、そこに親密さ、絆、信頼が形成され、仲のよい関係が自然とできていく。

またある人は、言葉を交わすから喧嘩になるのだと思い、何も話さないこと決めた。

結果、全く会話のない夫婦となった。

これでは、親密さも絆も信頼も育たない。

夫婦の間でそれが無ければ、子どもともそれを育てることは難しい。

人と人との関係をつくっていくコミュニケーション能力が問われる。

コミュニケーションには、相手の話を正確に聴くことと自分の思いを話し伝えること。

この基礎は、まず子ども時代に父母といかにこの学習を積み重ねられるか。

だから養育場面で、親は子どもの言うことをよく聴くこと。

そこに親や世間の価値観を入れず、正確に聴き取ること、これだけでもかなり難しい。

人は言葉によってつながっていく。

そのつながり方が、争い・対立・喧嘩か、友好的か、もしくはつながろうとしなければ会話もない。

言葉の使い方、会話の仕方から分析場面で学習してもらうことになる。

夫婦喧嘩は子どもの前で、聞こえるところでしないことである。

せめてこれくらいの配慮はあってしかるべきである。


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2009年6月 8日

分析家の独り言 229 (秋葉原通り魔事件から1年)

事件の概要(ウィキぺディアより)
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2008年6月8日午後0時30分過ぎ、東京都千代田区外神田4丁目の神田明神通りと中央通りが交差する交差点で、2トントラックが、西側の神田明神下交差点方面から赤信号を突っ切り、横断中の歩行者5人を撥ね飛ばした。
このトラックは交差点を過ぎて対向車線で信号待ちをしていたタクシーと接触して停車。トラックを運転していた男性は車を降りた後、撥ねられて道路に倒れこむ被害者や救護にかけつけた通行人・警察官ら14人を、所持していた両刃のダガーナイフで立て続けに殺傷した。
さらにこの男性は奇声を上げながら周囲の通行人を次々に刺して逃走。事件発生後数分して万世橋警察署秋葉原交番から駆けつけた警察官が男性を追跡し警棒で応戦、最後には拳銃を抜いてナイフを捨てるように警告し、それに応じナイフを捨てた男性を非番でたまたま居合わせた蔵前警察署の警察官とともに取り押さえた。これらはおよそ5〜10分間ほどの間の出来事だった。
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まだ記憶に新しい、世間を震撼させた秋葉原通り魔事件から1年が経った。

分析に来られる親御さんの中には、「うちでも世間で起きている事件がいつ起こるかわからない」、「第二の秋葉原事件が起こるかもしれない」と言う方がいる。

同世代のクライアント達は、「加藤被告の気持ちがわかる」とか、「共感できる」と言う。

しかし、実際に行動化するとしないでは、大きな違いである。

加藤被告の心の闇を解明することはできるだろうか。

思い起こされるのは、神戸連続児童殺傷事件の自称酒鬼薔薇聖斗や、すでに平成16年9月14日死刑執行(享年40歳)されている、大阪池田小学校で児童を殺傷した宅間守。

原因があっての結果なのだから、無差別殺人を起こすに至った原因を徹底的に探ってみたいものである。

事件を起こした彼らの中にあった攻撃性、憎しみ、不満、寂しさ、孤独・・・

彼らに、一人でも彼らの話に耳を傾け、理解しようとする人間がいたら、事件を起こさずに済んだかもしれないと分析の中で語りあうことがある。

やはり会話と理解、それらを育ってくる過程で、まず親といかに体験し学習できたか。

ネット等で彼らの生い立ちを読む限り、そういうものがあったどころか、反対に寒い中薄着で外に締め出されたなど、世間では躾の範囲か?といわれるが、分析的に言えば明らかな虐待があった。

やられた子はやり返す。

親にやり返せば家庭内暴力。

それ(親)を超えて社会が悪いとなり、無差別化すれば事件となる。

おそらく、親御さんの中には自分の子どもにそういった不安を持っておられる方もいるだろう。

残念ながら事件一歩手前の予備軍は、少なくないと思う。

私は事件となる前に、なんとか未然に防ぎたいと切に願い、日々分析を通してクライアントと接している。


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2009年6月 6日

分析家の独り言 228 (会話の大切さ)

子どもの不登校・ひきこもり・非行などに悩み来所されるクライアントに共通するのは、親子の会話がないか、かみ合っていないこと。

逆にいえば、親子でしっかり会話できれば、ほとんどの問題は解決できるし、そもそもその問題や悩みは起きないだろう。

ならば、親は子どもの言うことをしっかり聴くこと。

一見簡単に聞こえる、『子どもの話しを聞く』ということが、案外難しい。

子どもが何かを言ってきたとき、親は「それはこうしたらいい」と対処法を言うことが多い。

子どもは対処法を聞きたいのではなく、自分がそのことをどう思い、どう考えたか気持ちを話して聴いて欲しい、受け取って欲しいのだ。

このとき親はただ聴き続ければよい。

それが良いとか、悪いとかの判断しないで、子どもの気持ちに共感しながら理解しようと努める。

聴き続けていると、子どもが「お母さん(お父さん)はどう思う」と聴いてくる、このとき初めて親は自分が感じたこと、考えを言う。

会話により理解が生まれる。

理解が惚れ込みに至る。

人と会話をしていって、その人を好きなるということがあることを知らなかったと言う人もいる。

また、真面目に一生面に生きてきたクライアントは、荒れて人に迷惑をかけたり、お金を要求する子どもが理解できなかった。

しかし、この子を理解し、この子が本当のことを母である自分に言うようになろうと決めオールOKしていった。

子どもの要求に応えながら、会話ができるようになり、子どもを理解しようとしていった結果、子どもが好きになったと言う。

そこまでいったときに子どもの非行はとうに終わり、立派に働き家庭をもっていた。

家庭で子どもが育つ中で、こういった会話と理解があればいいのだが。

それでもこうして、後から取り返すことはできる。

この〔会話→理解→惚れ込み〕ができる親になれるように分析はサポートする。

この経験のない人に、それでは〔会話→理解→惚れ込み〕をしてくださいと言ってもいきなりできない。

これを分析場面で、クライアントとインテグレーター(分析家)とで経験して、それをクライアントが親である場合は子どもとの関係に応用してもらう。

クライアントが子どもの立場である場合は、インテグレーター(分析家)が親代わりとなり、分析を通して体験してもらうことになる。

だからインテグレーター(分析家)は、クライアントの語りに耳を傾け聴き続ける。

「会話ということがわからない」、「人を好きになるということがわからない」と言うクライアントがいる。

会話をするとき、インテグレーター(分析家)の真似をしているというクライアントもいる。

そのようにして、インテグレーター(分析家)がモデルとなり会話を学習してもらうことも大事なこと。

会話により人とつながり、理解と共感、惚れ込む(人を好きになる)ことの障害が、少なからずある。

人は分析を通して人間として駆け落ちたものを、学習しなおす。

インテグレーター(分析家)もまた、クライアントと関わり鍛えられていく。


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2009年6月 3日

分析家の独り言 227 (笑えなかった私)

テレビを見ていて、「お母さんって、お笑い見て笑うんや」と娘が言ったことがあった。

「ん?どういうこと」と聞くと、娘いわく、以前、私はお笑いなんか見ませんって感じで、家族が笑ってても一人さめていたと言う。

お笑い全部が嫌いで見ないわけではない。

漫才やお笑いのトークショーのようなものは好きだが、どうしてもダメなものがあった。

それは『志村けんのバカ殿様』の類。

あの中で、布団が水浸しになったり、着物が汚れたり、着物のまま池に入っていったり・・・そういうシーンが私には不快感となる。

あれを笑い、ジョーク、ギャグとして見られないのである。

あんなに布団や着物がぬれて汚れて、その後どうするのだろう、スタッフが片付けるのだろうが、大変だろうなと思う。

そんなことを思いながら見ているのだからとても笑えない。

さらに、娘が小学生と中学生の頃だったか、上の娘が友達と見に行って面白かったからもう一度見たいと言って、家族でミスター・ビーンの映画を見に行った。

題名は忘れたが、ビーンが美術館の警備員で、大事な絵の前でくしゃみをし鼻水が絵に付いてしまい、それを拭き取ろうとするとますます絵がボロボロになっていくというお話。

周りは皆ドカンドカン笑う、私はどんどん不快感が増し気分が悪くなり、劇場から出て行きたくなった。

もし私が映画の中のビーンだったら、こんなに失敗したら、こっぴどく親に怒られる。

先程のお笑い番組でさえ、布団や着物をぬらしたり汚したら、これまたどんなに責められ怒られることかと、そういう視点と思いで見てしまう。

よほど私は育ってくる過程で怒られてきたのだろう。

祖父母からも父・母からも。

しかも私は誰からもかばってもらったことはおそらく一度もない。

具体的に思い出せない無いこともあるが、自分がひっかかるところから予測がつく。

そして、何で皆が笑うことが、私には不快感となって笑えないのかがよくわかる。

そんな私は小さい頃から、人が恐くてたまらなかった。

人は自分を怒ってくるもの、攻撃するものと私の無意識に書き込まれていただろう。

振り返れば、それでも何とかひきこもらずに、人の中でかろうじて生きてきたのが不思議なくらい。

失敗を責められ怒られ、親の言うことを聞かなければまた怒られ、見捨てられないように必死に親にあわせた子ども時代。

そうするために、私は私自身を捨てていった、自分を殺して生きた。

そして親のロボットとなった。

そんな惨めで悲しく無力な自分を、分析を通して見続け、知った。

そんな自分をしっかり意識化・言語化して受け入れたところから、私は私を取り戻していった。


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2009年6月 2日

分析家の独り言 226 (事件 京都教育大<集団準強姦>周囲の学生数人、見ていて止めず より)

YAHOO!ニュース http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090602-00000011-mai-soci より抜粋
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京都教育大の男子学生6人が女子学生への集団準強姦(ごうかん)容疑で逮捕された事件で、他にも数人の学生が事件当時、現場に出入りしていた。
6容疑者は当時、教員養成課程の3、4年生で体育教育を専攻し、それぞれ、陸上▽アメリカンフットボール▽サッカー▽ハンドボールの体育会系クラブに所属。
2月下旬に同専攻卒業生の送別コンパがあった京都市内の居酒屋で、めいてい状態の女子学生を店内の空き部屋に連れ込み、集団で性的暴行を加えたとして逮捕された。
ほかにも数人の学生が現場に出入りしていた。こうした学生の存在は大学の内部調査でも浮上。
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京都教育大は国立大学で、教師の卵を育てる大学。

滋賀県に引越す前に住んでいた家から割りに近く、子どもたちと学園祭に行ったことも何度かあった。

国立大学なので学力は高い学生が集まっているはずだが、やはりここでも心がどれだけ育っていたのだろうと思う。

いくら酒に酔った場とはいえ、して良いことと、悪いことの判断はしなくてはいけない。

酩酊状態で無抵抗の女子大生を集団で強姦、しかもそれを見て知っていた他の学生で止める者がいなかったという、これが二十歳を過ぎた成人のすることか。

いつも思うが、学歴偏重の社会、勉強さえ出来ればいいのか。

その先には、いい会社に就職し(いい職につき)、より多くのお金を得ることが目的であり、それが人間の幸せという構図。

あまりにも心の成長をないがしろにしてはいないか。

相手を思いやるという気持ちが欠けている。

集団強姦された女性の気持ち、心の傷を考えないのか。

考えないからできるのか、もともと考えられる力が無いのか。

そうだとしたら、あまりにも人間として大事なものが欠け落ちている。

学力は学校へ行ってそれなりに身につけることができる。

心を育てるのは親の役目である。

親の心の成長度によって、子どものそれも決まる。

親に思いやりをかけられて育った子は、人に思いやりをかけることができる。

一方的に命令指示され、親に自分の気持ちを汲み取ってもらったことのない子は、人の気持ちを考えることは無理である。

こどもに勉強を教える塾は山のようにあるのに、心を育てる親の教育をするところがない。

昔日本にも、あたたかい気持ち、情緒、感情というものが人の中にあった時代があったはず。

戦争・敗戦が日本人に残した傷が、今このような形で人を社会を蝕んでいるのか。

放っておいて育つものは何も無い。

親となった以上、心の育て方を知らないで済ませられることではない。

知らないなら、なぜ人は道を捜し求めないのか。

末期的状況の中で、子ども達は叫んでいる、不登校・ひきこもり・非行・事件を起こすという形で。

大人もまた傷つき、生きる意味を見失っている。

あなたの生きる意味はなんですか? お金と物ですか。


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月刊精神分析2009年4月号 なぜ分析で病が治るのか

2009年5月31日

分析家の独り言 225 (褒める、育てる)

クライアント達は、親に褒められたことがないと言う。

個として認められず、親に呑み込まれ、自分というものを持たない。

すると、自我境界がなく、自分と他者の区別がつきにくくなる。

自我境界とは他者と自分を区別する境であり、これがしっかりしていないと自分の思っていることは、他人も同じように思っているはずと思い込む。

自分の感覚や考え、価値を相手に押し付けたくなる。

これが家庭においては、親から子になされることが多い。

それをしてしまう親にもしっかりした自我境界はない。

自我境界があれば、自分と例え我が子であっても相手との違いを認識していて、個として尊重し、自分を押し付けたりはしない。

子どもの側は、簡単に他者に侵入され、自分を乗っ取られてしまう、傷つきやすい。

こういう子はまたいじめられやすい。

暑いか寒いか、空腹か満腹か、好きか嫌いかの感覚さえ、真に自分のものとして感じ、認められているか怪しい。

「自分と他者の区別がつかない」と表現するクライアント、「自分の価値が自分でわからないため、他者から認められ褒められないと自分の存在が危うい」というクライアントもいる。

当然自我も脆弱である。

脆く弱いために、何かあると落ち込む、気分の浮き沈みが激しい。

不登校・ひきこもりの人達はほとんどこうである。

自我境界をつくり、しっかりした自我をつくるには、本来育つ過程で親が子どもに承認と賞賛を与えることである。

承認とは、あなたの言うことは正しいことで、正常なことですと言うこと=オールOKすること。

賞賛とは、できたことを正確に褒めること。

承認と賞賛によって人は自我境界をつくり、成長していく。

今からでも遅くない、子どもを承認・賞賛することである。


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2009年5月30日

分析家の独り言 224 (非行を止める)

人は人と会話によってつながっていく。

しかし親は非行に荒れる息子が理解できない。

口を開けば「うるさいんじゃ」「放っとけや」「あっちいけ」「金」としか言わない息子。

この息子が自分のことを語りだし、母親である自分と会話ができるようになったとき非行は終わると思ったというクライアント。

しかし親は親で、子どもが迷惑をかけ、犯罪を起こし、警察や裁判所などに行って頭を下げなければならないことが起こる。

そこで「親が甘いから子どもが調子に乗ってこうなるんや」と言われる。

言うことは言ってきた、それでも子どもは変わらず荒れる。

これ以上厳しくしたら、もっと荒れる。

「そんなに言うなら、あんたうちの家に来て子どもに言ってみ」と言いたくなる。

親もまた、自分の苦しさしんどさを理解されず、どうしていいかわからない。

精神的に追い詰められて、子どもに「あんたが事件起こすから、私が頭下げんなんやんか。何考えてんの」「親の気持ちがわからへんの」と言ってしまう。

ますます親子の関係は悪くなる、子どもは荒れる、親は嘆く。

この悪循環が止まらない。

一番分かり合えればいい親子が、分かり合えない。

そんな中でオールOKを聞いたクライアント。

今までと全然違う対応法だった。

最初は迷いながら、本当にこんなので子どもがよくなるのか?と思ったこともあった。

しかし、せめて自分が産んだ子くらい幸せにしないといけないと頑張ったという。

自分が死んだ後、子どもがあの時母親はこうもしてくれた、ああもしてくれたと幸せを感じられ、温かい気持ちになれるような自分と子どもでいたい。

残念ながら、自分が思い出す母親との関係は、怒られ、なじられ、否定されたことしか出てこない。

そうなってはいけない、それでは自分も子もまた不幸。

親は死んでも子どもの心の中で生き続ける。

オールOKをしていった結果、息子は自分の想いや考えを母親に話すようになった。

同時に非行は止まっていた。

言葉が会話が人を癒していく。

それは自分の気持ちを受け取られ、理解されることで。

親が自分の私見を離れ、いかに子どもの寄り添えるか、子どもに側にも立てるか。

自分は正しいとだけ主張していたのでは難しい。

不登校・ひきこもりにも同じことが言える。


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2009年5月29日

分析家の独り言 223 (母の存在の大きさ)

子どもの不登校・ひきこもり・非行等の問題で当ラカン精神科学研究所に来られる。

その最初に来られるのは、親である場合が多い。

例えば非行で走り回っている子どもが、そんな自分をなんとかしたいと来ることはまずない。

親が来ているうちに、後から子どもが来ることはあるが。

それに比べてひきこもりの場合は、ホームページや各サイトを見たと、ひきこもり本人が来ることもある。

取り組み方は人それぞれで、子どもに対応(オールOK)する親が分析を受けるケース、子どもが受けるケース、親・子両方が受けるケース、あと各講座や相談室に通われて子どもへ理解や対応法を学ばれるなどである。

その中でも親が分析を受け、母親教室(今の名称は子育て相談室)に通い、非行の子どもに対応してもらったAさん。

セラピー日記やホームページの症例にも書いたが、多額のお金を要求し、家庭内暴力もあった。

「オールOKを黙って三年してください」と言って、見事三年過ぎたころから子どもは変わっていき、今は真面目に働き家庭を築き、最近家を買うまでになった息子。

この非行に走った息子と私は一度も会ったことが無い。

もちろん顔さえも知らない。

いつもどんな息子なんだろうと想像をめぐらすのが精々である。

直接問題の息子と話さなくても、顔も見なくても、そこまでの変化を起すことができる。

私は間接的に関わっただけである。

一重に母親であるAさんの努力である。

子どもへの対応法オールOKを話し教え、それをする母親を分析し、母親自身にも目を向けてもらいながら、よりオールOKをできるようにするが、実際に子どもに対応するのは他ならない母親である。

その途中では、悩み苦しみ、オールOKするのを止めたくもなる。

それを分析者が支え励ましはできるが、やり続けるかどうかはクライアントが決めること。

母親が変化し続けると、子どもも変わってくる。

母親という存在の大きさを思う。

人は皆、母親から生まれる。


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2009年5月26日

分析家の独り言 222 (子どもに残す心の財産)

あるクライアントが言う。

自分は正しい、真面目に一生懸命生きてきた。

ところが、息子が荒れた。なんで?

いろんなところへ足を運んだが、これというものに出会えず行き着いたのがオールOKだった。

オールOKするということは、ある意味子どもの無理をきくことである。

その要求が正しいとか正しくないとか言っていたのではオールOKはできない。

クライアントは、暴れて多額のお金を要求する息子を正しいとは言えない。

しかし、それを要求されたら応えるしかないと思い、お金を出した。

それまで、物事を判断する基準は正しいか正しくないかだった。

正しくないと思ったことには、とことん異議を唱えた。

そのクライアントがオールOKをするには、まずこの正誤の基準を外さなければならなかった。

そうしてオールOKし気が付けば、自分を殺して(自分の考えや価値を否定して)でも人(子ども)を生かし続けることが大事だと気が付いた。

オールOKは子どもをわがままにするなどというレベルの話しではなく、オールOKする親の自分との戦いである。

親自身が自分と親との関係、養育状況にまで溯り、自分を見つめなおすことになる。

そこには惨めな自分、汚い自分、悲しい自分、かわいそうな自分、怒りを抱えた自分など、見たくない自分が浮かび上がる。

オールOKは、それから逃げないで向き合える人のみが越えられる壁のように思う。

この先には、子どものとの良好な関係と、親子共々の成長がある。

親として子どもとの信頼・絆・親密さを築けることは、この上ない幸せであろう。

こうして育った子どもは、人と信頼・絆・親密さを築いていける。

親は子どもに、お金では得られない心の財産を伝えたことになる。


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2009年5月24日

分析家の独り言 221 (甘えと依存:子どものやる気を育てる)

子ども時代とは依存と甘えの時代であり、これをいかにして脱し自立した大人になっていくかが人間の大きなテーマの一つであろう。

いつも言うが、精神の年齢と肉体の年齢は一致しないため、成人である二十歳をはるかに超えた年齢であっても、心は赤ちゃんというのはいくらでもいる。

いわゆるアダルトチルドレン、いやアダルトベイビーである。

子どもに充分甘えさせ依存させてやる=オールOKすることで、子どもは満足し、自我をつくっていく。

そうするといかに子どもとはいえ、いつまでも「お母さんあれして、これして」とは言わなくなる。

心身の発達と共に、自分で出来ることは自分でやってみたい。

そしてうまくい出来たことが自分の自信や、自尊心になる。

うまくいかなかったなら、どうすればいいかを考え、努力や工夫をする。

この思考錯誤を繰り返しつつ、子どもは成長していく。

その最初が、2~3歳のころの第一反抗期とよばれるもの。

それまで着替えや身の回りのことは母がしてくれ、母の手を借りていたが、この頃になると「ぼく(わたし)自分でやる」と言い出し、おぼつかない小さな手で、服のボタンを留めたり外したりする。

それを親は見守り、出来たことを褒める。

それがまた子どもの好奇心とやる気を生み、新しいことに挑戦していく。

それを「ほらみてごらん、お母さんがやってあげるっていったのに、自分でするって言ってもできないでしょ」などと言って、子どものやる気をつぶしてしまってはいないだろうか。


年齢的には大人になっても、私も甘えたい、依存したい人だった。

振り返れば36歳、二児の母で分析を受け始めた頃もである。

私が自分で、甘えと依存を抜けたと思えたときがあった。

親は何を思ったか、突然「車を買ってやろう」と言い出した。

車に乗れる経済的余裕がないことを不憫に思う、親心のつもりだったのか。

「ガソリン代もお父さんに持ってもらってあげるから」と母が言った。

即座に私は断った、「今、車はいらない」と。

以前の私なら、ラッキーと思いそれならと親に車を買ってもらっただろう。

しかしこのとき、自分の力で買えるようになったとき車が必要なら自分の甲斐性で買おうと思った。

今親に買ってもらっても嬉しくとも何ともない、と。

かえって親に車を買ってもらうことが、自分には恥と感じた。

私には私の理想自我(なりたい自分)がある。

それは親に車を買ってもらう私ではなく、車が必要かどうか自分で判断し、必要であれば自分で買うことのできる経済力を持った私になることである。

こう思ったときが、遅ればせながら、ああ私もやっと大人になったなあと思った瞬間であった。

子どもも同じで、与え続け自我が育てば、与えられることより自分で出来ることの喜びを知り、自分で何かを得るためにはどうすればいいかを考え、自ら動き出す。

親はそういう子どもに育てること。

そうすれば、安心して子離れ出来る。

それまでに、人間のこどもは長い長い甘えと依存の時期を送る。

この子ども時代を適切に対応していく親の賢さが必要である。


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2009年5月16日

分析家の独り言 220 (オールOKの末に見えたもの:その2「人間とは何か」)

(以下の文章は、クライアントの了解を得て掲載しています)

分析を知ると、それまで何も知らなかった自分を知る。

人間として、親として、母として、父として、男として、女として。

本来知らなければいけなかったことがどれだけあるのか?

無知であった自分と向き合えるのか?


以前は、一般の人は自分より恵まれていて、幸せそうに見えた。

それでも仕方がない、問題は目の前の荒れる息子。

この息子を変えるためにやるしかないと思ったから、オールOKできたのだろう。

荒れる息子にオールOKを始めた頃は、自分が死ぬまでに息子がまともになってくれたらいいと思った。

思っていたより短い期間でそれができて、自分の歪み足りなさを知り、今度はそれと向き合わざるをえなくなった。

起こるべくして起こった子どもの問題であり、自分のなかに想像もしなかったことがあった。

それでも、何でこんな人生を生きなければいけなかったのかがわかって良かったと言うクライアント。

ここまできて自分をみたとき、不幸でもなんでもない。
 
これだけの期間で人(息子を含めて)を理解できるようになったのはすごいこと。

自分が今生まれた人みたいで、こんな感覚になったことがない。

慣れてないと同時に、以前の自分が思い出せない、「私って、前はこういうときどう思ったんやろう・・・?」と思うことがよくある。

迷路をでたら、あんなに苦しい生き方をしなくてよくなっていた。

あれが本当に人の生き方か? いや、親が自分に求め言い続けた生き方だった。

それを跳ね除けて生きてきたつもりが、結局親に捕まって、からめとられた人生を生きた。

今見ている景色が以前とは違う、なんと自由。

前と比べると幸せだが、人としてここで止まっていいのか。

本当の人間とは何か、を目指さないといけないのではないか。

必要に迫られてやったこと(=オールOK)とは言え、まさかこんなところに出て来るとは思わなかったと言う。

分析は、人間とは何か?生きるとは?男とは?女とは?と問いかけ、それに自分なりの答えを出していくこと。

この問いかけを自らする人が健康な人であり、この問いかけが本人の意思ではなく、突然外からやってくるのが病理(分裂病)である。

クライアントは、息子が多額のお金を要求し、暴言を吐き、暴れるというあの悲惨な状況のなか、誰も血を流すことなく終われたことが奇跡だったと言った。

一般には奇跡と思われることが、理論的に説明できるところがまた分析のすごさだと私は感じる。


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2009年5月11日

分析家の独り言 219 (心を育てる)

クライアントAさんが、歯医者に行ったときのこと。

診察を待つ間に、そばにいた母親と、4歳くらいの女子がいた。

女の子は、待合室にある絵本を母親のところに持ってきて、「読んで」という。

その母親は、大人が聞いていてもわからないくらの早口で、絵本を読み上げた。

女の子は、次々絵本を持ってくるが、母親は同じように早口で読み上げ、そばで聞いていても何を言っているかわからない。

Aさんは「それ、日本語ちがうで」と思った。

母親は、週刊誌が読みたかったらしく、早口で絵本を読み上げては、週刊誌を読んだ。

このとき、Aさんは「あんた、そんなことしてたら私みたいになるで」

「この子が思春期になったとき、きっと暴れだすか、ひきこもるか・・・」と思ったという。

Aさんも、分析を知るまでは、子どもは食べさせて、着させて、寝させて、学校に行かせてたら育つと思っていた。

私は真面目に一生懸命仕事も、家事も、子育てもしたのに、何で子どもが荒れるのかと思った。

多くのクライアントが同じことを言う。

子どもに食べさせて、着させて、寝させて・・・は親が子どもにする最低限、基本的なこと。

この母親には、子どもの顔をみながら、子どもにもわかる速さと口調で、子どもの反応を見ながら、共にというのが無い。

子どもにせがまれるから、仕方なく読んだというだけ。

これでは、子どもの心、情緒が育たない。

Aさんも今になってそのことがわかるという。

粗雑に、いい加減に扱われた子は、自分も人も粗雑に扱い、大事にしない。

大切に、丁寧に扱われれば、自分も人も大切にする、当然のことである。

成長する過程で、どう接しられ、どう扱われ、何を経験したかで人は心の中に良いものと悪しきものを蓄積する。

ならば当然、良いものを子どもの心に積み上げていくことである。

しっかり反応され、聴きいれられ、適切な関心と世話をされ、大切に、愛され・・・それらを一言でいったのが、子どもへの『オールOK』である。


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2009年5月 6日

分析家の独り言 218 (母を超え、更に進む私の人生)

数年前になるだろうか。

娘が投げた鍵が、書院作りの床の間のすりガラスに当たり割れた。

確か寒い時期だったの、すぐにもガラスを入れないと、それでなくても隙間風の入る日本家屋であるため寒かった。

当時娘は社会人だった。

娘が投げた鍵が当たり割れたので、ガラス代は払ってくれるのかなと思っていた。

しかし、いっこうに払ってくれる様子がない。

こちらから請求しようかとも思ったが、娘が言い出さない限り、こちらからは何も言うまいと決めた。

そのことを、実家の母に何気なく話した。

母は、「何でガラスを割った本人に払わせないのか」と言った。

私は、「払う気があれば自分から言ってくる。言わないということは払う意思がないということだから、私が払っておけばいい。それだけのこと」と答えた。

そのとき母から出た言葉に私は驚いた。

「優しいお母さんやな。私の母もそんな母だったらよかったのに」と。

母の口から、母の母(私からいう祖母)は恐い人だったと聞いていた。

この母の言葉を聴いた瞬間、私は母を確かに超えたと思った。

と同時に、母もまた傷ついて育ったことが様々あったのだと。

子どもころはいろんな意味で、母親は大きな存在であった。

普通女児は自分の母のような女性に、母親になりたいと思い、母に同一化し、真似ていくのだが、残念ながら私は、母のような母にはなりたくないと思って育った。

その母を確かに超えたと思えたとき、これでマイナスの世代連鎖を一つ切れたと感じた。

母を超えるだけではまだまだ、真の母性を持った人間になること。

まだ私の無意識のなかに、母の亡霊が巣を作っている部分があるだろう。

そこに徹底的に光を当て、母の呪縛から解き放たれることが、私が私を生きることになる。

インテグレーター養成講座のテキストの一説に、「人は言語により親の信念や行動を引き継いでいく。それに対して何の疑問のなく行動する限りにおいて、それは催眠にかかったか暗示に基づいた行動になってしまう。すなわち暗示は、信念や行動に対する申し出を完全な自己決定が不在のまま受け入れることである。」とある。

この言葉が身にしみる。

私は私の意志と主体性で、私の人生を生き抜こう。


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2009年5月 1日

分析家の独り言 217 (虐待の連鎖を止める)

ここのところ、虐待による子どもの死亡事件が続く。

冷蔵庫に男児遺体「縛って箱に入れたら死んだ」http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090429-00000538-yom-sociという事件。

その少し前には、大阪西淀川小4女児遺棄事件http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/090429/crm0904292249023-n1.htm

無力な子どもは自分のおかれている環境が劣悪であっても、自らの力で変えることも、逃げることさえ難しい。

泣き声がうるさいからと紐で縛られ、衣装ケースに入れられ死亡した男児。

子どもは泣くことでしか訴えようがなかったのだろう。

4歳であれば言葉が話せただろうが、言葉を発することと、それを正確に受け取って理解されることとは違う。

紐で縛られ、狭い衣装ケースに入れられたときの男児の気持ちは、どんなに心細かっただろうか。

大阪西淀川の事件では、ベランダに放置されたり叩かれることがあったという。

どちらのケースでも子どもは、もうこの親の元では自分は生きていけないと、自ら生きることをやめたのかもしれない。

クライアントの養育史を聞く中でも、家を閉め出され、外に放り出されたというのが多々ある。

親は一定の時間放りだ出し、またすぐに家に入れてやるのだからと軽い気持ちでいるかもしれないが、自分の力で生きていけない子どもにとっては、例えそれが短時間であっても、死の恐怖である。

親自身が子ども時代に、そのまた親から同じようjに虐待(叩かれる、家から閉め出される、縛られる、ご飯をたべさせてもらえない等々)を受け、それは辛いことのはずなのに、同じことを我が子に繰り返してしまう。

虐待、見捨て言葉や行為は子どもの心に大きな傷を残す。

それが癒されないまま親になった人は、その傷をまた次の世代である子どもに引き継がせてしまっている。

こうして不幸な連鎖は繰り返され、事件という形、子どもの死を持ってしか終結しないのか。

それではあまりにも人間は愚かな存在としかいいようがない。

自分を振り返り、自分を知っていくと、傷ついた悲しい自分が出てくるが、それをしっかり意識し自覚すれば、無意識にマイナスの言動を垂れ流すことを止められる。

この無意識を書き換え、負の連鎖を事件が起こる前にくい止めたいと願う。


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2009年4月25日

分析家の独り言 216 (オールOKの末にみえたもの)

荒れる息子にオールOKをし対応したあるクライアントの話。

その息子が最近家を建て、その引越しの最中に母であるクライアントに電話をかけてきた。

息子は、「変なこと聞くけど、おまえ(=クライアントのこと)何か怒ってることない?」と言った。

クライアントは「ない」と答えたが、息子は「いや、あるわ」と言う。

クライアントはそう言われ、一生懸命考えた。

あるといえば、家の電話やパソコンを置いている棚を買って、物を整理し納めたいとここずっと思っていたこと。

サイズを測り、これならいいと思う棚を通販で見つけ、夫に話したが反応がない。

今までなら夫にやいやい言って、なんらかの行動を起こしていたが、反応しない、動かない夫がどう動くのかみようと思った。

しかし、いっこうに夫は動く気配がなく、そのことにイライラはしていた。

このことを息子に話すと、「思うようにしたらええ」「そのことなら、知り合いの大工さんにもう話してあるし、おまえが気に入るようなのを作ってもらったらいいわ」と息子は言った。

クライアントは「そうか」と言って電話を切って、なんでまた息子は一番忙しいはずの引越しの最中に、私が怒っていることがないかなどと聞いてきたのだろうと思った。

いつもなら家の仕事を夫と一緒にしているので、1日に2~3度は家に寄り、顔をあわせていた息子。

ここしばらくは、息子は自分の家にかかりきりで、顔をみることもなかった。

その息子がいきなり、「変なこと聞くけど、おまえ何か怒ってることない?」と聞いてきた。

しかも棚を巡って夫とは話をしたが、息子にその事に付いて詳しく話したことはない。

クライアントは、自分のイライラや腹立ちを息子はわかっていたのか、見透かされていると思った。

そのとき、まるで息子がまだ自分のお腹の中にいるような感覚になった。

人の意識とはすごいもの、親子とはこうも以心伝心するものなのかと思ったと言う。

息子が非行で荒れ狂い、仕方なしに始めたオールOK。

次々と問題を起こす息子のことがわかない、理解できない。

その息子を理解したいと思うようになって、以前は話をしても、言って通じなった息子が、言わなくても母親のことがわかる息子になった。

子どもが親に反抗したり、荒れたりするのは、自分のことを理解してくれないことへの怒りの表現。

その子どもの裏には、自分を理解してほしい、受け入れてほしいがある。

それをわかろうとし、受け取り続けたとき、今度は子どもが親を受け取り始めるのかと思った。

親と子は、互いを写しあう鏡のよう。

親が「あんた、何考えてんの!」と子どもを非難すれば、子どもからは「ボケ、死ね」と返ってくる。

反対に親が「あんたは何が気に入らんの?何がしたいの?」と語りかければ、子どもから「おまえ何か怒ってることない?」と思いやりの言葉が返ってきた。

息子を見ていて、子どもが独立し家を出て行っても、人は永遠に自分を理解されたいと願うものなのだと思う。

その想いに応え、利害を持ち込まず、子どもをしっかり受け止められるのは母であり、その役割の大きさに驚く。

それがしっかりできたときから、子どもは母親に意識を向けるのか(気になるとは=そこに意識がいくこと)。

母親に受け取り続けられると子どもは成長していき、母親を理解しようとする気持ちが芽生えてくるのか。

オールOKすると、母親は与え続けるだけ、子どもに取られるばかりで損をすると思うかもしれないが、与えきったときにはこういう事になるのかと思った。

クライアントとその母との間にはできなかった親子の関係が、クライアントとその息子との間ではできた。

人は自分が満たされないと、人の欠点ばかりをみる。

自分が満たされると、人への思いやりがでてくる。

これを分析者は、無条件に与えられた人間は、今度は人に与えられる人間になると言ってきた。

クライアントは、「息子が私を思いやるのは、私が亡くなってからだと思っていたが、生きている間に私に意識を飛ばし、私を思いやるようになるとは思っていなかった」

「息子にオールOKするうちに、訳のわからない宇宙人のような、一時は死んでほしいとまで思った息子を好きになっていった。これほど人好きになったことはなかった」と言う。

子育ての中で、親が子どもに惚れ込むこと。

私はこの語りを聞いて、ただただ感動した。


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2009年4月24日

分析家の独り言 215 (SMAP草なぎ剛 公然わいせつ容疑で逮捕)

アイドルグループ「SMAP」のメンバー、草なぎ剛容疑者(34)が23日、東京都港区赤坂の公園で全裸になったとして、公然わいせつの疑いで警視庁赤坂署に現行犯逮捕された。草なぎ容疑者は泥酔状態で、全裸で奇声を発していたため通報された。

YAHOO!ニュース 草なぎ容疑者 全裸で奇声!異例の家宅捜索も  http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090424-00000045-spn-ent より抜粋

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世間一般には、真面目な好青年というイメージがあるだろう彼が、夜中酒に酔ったうえとはいえ、公園で全裸となり奇声を上げていたとはどういうことか。

人間いつも真面目だけではないはず。

不真面目な自分、エッチな自分、サボりたかったり、羽目をはずして騒ぎたい自分、いろいろな自分がいる。

それをまわりから「いい人」「真面目な人」と見られ、そういうレッテルを貼られると、それに合わせていかなければならなくなる。

あまりにいい人をやりすぎると、本当の自分がわからなくなる。

しかしどんなに不真面目な自分を抑圧しても、なくなったわけではなく、お酒を飲み酩酊状態となれば箍(たが)が外れ出て来る。

何か事件がおきたとき、いつもは真面目ないい人がまさかこんな事件をおこすとは思っていなかったというのはよくあること。

それが今回の事件のような形(全裸で公園で騒ぐ)で現象化してしまったのだろう。

真面目な人ほど危ない。(ついでに言うが、良い子も危ない)

それはいい人を演じ、不真面目な部分を抑圧しているからである。

普段から、精神の構造として適度に攻撃性や不満・鬱憤を出す水路を持っておくことが大事。

それが草なぎ容疑者にとっては、お酒を飲むことだったのかもしれないが、それがまた仇になったということか。

普段からお酒が好きで、よく飲む方だったと聞いた。

お酒は母のおっぱいの置き換えであり、裸でいるのは=赤ちゃん ⇒ 彼は1.5歳未満の赤ちゃんということになる。

フロイトのいう口唇期欠損者である。

酩酊状態になるまで飲んだとは、酩酊状態とは自分も他者もなく融合した状態になりたいということであり、この状態は胎児が母のお腹の中にいるのと同じ。

すると、彼は赤ちゃんどころか胎児であるといえる。

母のお腹の中にいた胎児の時代から何らかの欠損があったと考えられる。

例えば、母親が彼を妊娠中に何か大きな不安・心配・悩みを抱えていたとしたら、母体は胎児を思いやることが出来ず、それだけで胎児は傷付く。

胎教が大事というのは、こういうことがあるからである。

どういう気持ちで母体が十月十日(とつきとおか)をすごしたか。

母体がお腹の子どもをいたわり、気づかい、安定した気持ちで過ごすことが胎児の幸せにつながる。

これらは無意識のレベルの話であるから、一般の人には理解しがたいかもしれない。

しかし、臨床場面ではこういうことに出会う。

自分の無意識を知ってしっかり意識化しておかないと、またバリエーションをかえて同じようなことを繰り返す可能性は大きい。

覚せい剤で逮捕された人が、こりたずなのに何度も繰り返すことをみてもわかるだろう。

無意識は止めようがないし、コントロールの仕様がないのである。


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2009年4月21日

分析家の独り言 214 (4月分析理論講座より)

昨日京都駅周辺で、分析理論講座を開いた。

分析の理論に興味がある方。

自身が分析を受けて、理論も学びたいという方。

子どもが分析を受け、その親御さんが理論を知りたいと来られる方など、様々ある。

テキストに沿いながら解説していくが、、症例や経験談を織り交ぜていくうち脱線することもしばしば。

受講者の方々も質問したり、自分のことを話しながら進めていく。

個人の分析とはまた違い、例えばオールOKを理論的に理解してもらえるいい機会でもある。

いろんな理論を話す中で、発達論から、心の構造的にといろんな角度からオールOKの必要性を説明できる。

人間の精神はどのような過程で、どの様に発達するのかを初め、無意識やライフサイクル、家族、心と体の関係、性格・人格に関すること等々。

伝えたいこと、知っておいてほしいことがたくさんある。

知っていれば、もう少し工夫できたり、適切に対応できることもあるのではないか。

自分を振り返り、自分や他者を理解するのに役立つこともたくさんある。

こんなことは今まで生きてくるうちに誰からも聞かなかった、教えてもらわなかった。

もっと早くに知っておきたかったというのが、私や多くのクライアントの感じることである。

折にふれ、ここブログなどでも理論的な解説を今後掲載していく予定である。

ただ文章として書いたものと、講座等でしゃべるものは相手が不特定多数であるか顔の見える人か、一方的に書くのか質疑応答してより深い理解に至れるかなどの違いがある。

理論など必要ないという人に無やり聞かせようなどとは思わないが、何かを求め探している人がいるなら、分析やその理論に出会ってほしいと思う。

講座や教室をしてそれに興味がある、おもしろいという声が聞かれると、なおやりがいを感じる。

2009年4月18日

分析家の独り言 213 (子どもの非行に悩んだクライアントからのメッセージ)

以下の文章は、息子の非行にオールOKで対応したクライアントAさんに書いてもらったものです。

もっと詳しく聞きたい事や質問等があれば、Aさんが答えますということなので、ラカン精神科学研究所 宣照宛てにメールを送信ください。

メアド:lacan_msl☆yahoo.co.jp ☆を@に変換したメールアドレスにメール送信願います(スパムメール対策)

なお、件名に 「Aさんへの質問」 と入れてください。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私の子ども(男子)が、非行という状態から抜け出せて5~6年になるでしょうか。

現在26歳、二人の子どもを持ち家庭を築き、仕事に励む日々を送っています。

14歳から突然非行に走りはじめて6~7年間、私はどのように日々を送ってきたのかあまり記憶が定かではありません。

今思い出すと、よく自分が耐えて生きてこられたなぁと思います。

子どもが中学生の頃は、まだどこかで反抗期思春期という思いがあり、知人からは「いつまでもつづかへんて、いづれ高校へ行くことを考えはじめるし」等という言葉に、「そうかもしれん」と思って自分を慰めていたりしていました。

今思うと親である私が変わらずに時間だけ過ぎても、子どもは変化する筈がない事をよく知っています。

次から次に問題をおこし「俺が高校行ったら、先生困りよる」と自分で言う始末。

言葉通り高校へは行かず、年と共に非行はエスカレートし、私は追い詰められました。

子どもが18歳になる頃、ラカン精神科学研究所の宣照氏と出会い、オールOKの子育て法を知りました。

しかし私は、殆ど聞く耳をもっていませんでした。

今まで警察や家庭裁判所、保護士、学校の先生などさまざまな人から色々話をきき、私なりに出来ること気付く事は子どもの非行を止めたい一心でやってきましたが、どれも何の成果も無かったからです。

でもこのままでは、何れ親子共倒れの日は目の前に迫っている藁をも掴む思いで、オールOKを始めたのです。

しかし私が、思い描いていたオールOKとは、かなり違っていました。

それは子どもを甘やかすのではなく、自分が親である事の意味の確認の連続でした。

今までに自分が良いと思い常識と思っていたことが、子どもにとってはどうだったのか。

私は、私が思い込んだように対応してきただけだった事に気付きました。

子どもを育てるという事は、親が自分自身を知らなければ、良い子どもとの関係を築く事が出来ないと考えるようになりました。

3~4年がかりで私自身を宣照氏に受け止めてもらいながら、子どもとの向き合い方を教えてもらい、子どもの事が少しずつ理解できるようになりました。

「うるさい」「ぼけ!」「死ね」「金」という言葉しか言葉を知らないような子どもとの数年を越え、私は自分こそが子どもに育てられたように思っています。

今、子どもの非行で悩んでおられる方の苦しみや悲しみ絶望を、私も少しは受け止められる様になったと思っています。

私の経験から子どもの非行の原因を外に(学校、先生、友達)求めている間は、解決は程遠いと思います。

自分が産み育てた子どもが何を考えているのかわからない・・・・・。

でも、その様に育てたのは私なのだと思った時から、何故こんな親子になってしまったのか答が欲しいと願うようになりました。

その答こそがオールOKの中にありました。

私は今、人を自分をより理解する為に宣照氏のもとで学んでいます。

いつかだれかの苦しみを共有できる人になる為に。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

治療者側である私が、Aさんと関わりながら教えられることがたくさんありました。

Aさんが過去の自分と同じように子どもの非行で悩んでおられる方々のために、自分の経験したことが何か役に立てばと、今回私のブログに文章を寄せてくれました。

どうぞ、質問等お寄せください。

息子さんとまたAさん自身との壮絶な戦いの末に、幸福を感じられる今にたどり着かれたAさんをそばで見られたことが、私の財産の一つです。

                      ラカン精神科学研究所  宣照 真理


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2009年4月14日

分析家の独り言 212 (4月京都子育て相談室より)

昨日の子育て相談室は、子どもの年齢が20歳代から小学生低学年までの開きはあるものの、子育ての基本はかわらないため、他の人の話を聞いて気づく事があったと言うクライアントの声があった。

子どもが現す問題も、非行や不登校・ひきこもりなどいわば正反対であるが、根本は同じである。

また、宣照真理のセラピー日記 分析家の独り言 205 (子どもの気持ちをくむ)http://lacan-msl.com/diary2/2009/03/_205.htmを読んで、これでいこうと、子どもに対応したという。

子どもにえらそうに言われたり、お金を要求されたり・・・で対応する母親も内心は心穏やかではいられないことが特に初期は多い。

それで口から飛び出しそうになる子どもを否定したり、子どもへの文句の言葉をこらえて、まさに修行のよう日々。

言葉を呑み込んでも、今度は顔が態度が言葉と同じように「嫌だ」「ダメだ」と表現してしまう。

それをまた子どもは、敏感に読み取る。

それでも実践していくうち、子どもへの怒りや不満の気持ちが、しまったまたやってしまったと反省の気持ちに変わっていく。

オールOKを実践していくお母さん方に、この変化が見られる。

と同時に、子どもの言動が少しずつ柔らかくなって、言葉のなかに「ごめんな」などが入ってくる。

ここまでやってくれるお母さんが少ないのも現実。

我が師は言う、「オールOKの話を聞けるのは百人に一人」と。

世間一般にオールOKを言っても、その奥の理論的裏付けまでは詳しく語りきれないために、オールOKの言葉だけが一人歩きし、否定されたり非難される。

だから「だまされたと思って、三年黙ってオールOKしてください」と言うしかない。

「オールOKしない人からは、そんなわがままにしてどうするなどと散々文句を言われるが、三年やってなんて事を指導したんだ、子どもがとんでもないことになったなどのクレームをつけた人いません」と言う。

それは、私自身も自分の娘たちで実証したし、分析家仲間の症例からも、言えることだからだ。

最近も『オールOK!子育て法』のサイトを見たと言われ、連絡をいただく方々がいる。

クライアントたちがHPやブログを読んで、参考にしてくれていることもあるようで、これからも、いろんなかたちで情報を発信していく所存である。

近じか、『非行』についてのサイトをつくる予定である。


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2009年4月11日

分析家の独言 211 (今を生きる:その3)

フロイトが「否定」と題する論文のなかで、

「・・・分析を受けている患者が、『そんなことを考えたことはありません』とか、『そういうことは考えたことがありません』というような言い回しで分析に反応を示すときほど、無意識的なものの見事な発見を証明するものはない」といっている。

「考えた事もない」とは、考える対象としてクライアントはそれ知っていたのではないか、あえてそのことを不問にしていたということ、考えないようにしていたということである。

その事を考えないということで、否定してきた。

クライアントは考えようとしない。

それは現実直視、直面を避けているからである。

考えなければ未来がどうなるか予想しなくていいし、不安にならなくていい。

未来の展望の不安を防衛するためには考えないことなのだ。

考えなければ過去の悔やみも発生しない。

あのときああすればよかった、こうすればよかったという過去の悔やみからも、未来の不安のどちらからも逃れ、安全なところにいるには考えない事。

この防衛が唯一の事となる。

考えない事でえられたのは、安全と安心。

ところがうしなうものがある、それが今。

考える、思考するとは今する事。

考えない人たちには今という時間がない。

だから生きている実感がなくなる。

あるのは過去と未来。

時勢を区切る今がなければ、過去も未来も同じ。

未来と過去の区別がなければ未来も過去になる。

過去にあるのは、絶対に書き換えられないという事実。

それを未来に持ってくれば、未来も書き換えられない、すなわち、未来はもうすでに決まっているということになる。

すると何かをやる意味がない、判断する意味もない。

「未来は決まっていない、自分で好きなように描く」、といえる人は、過去・今・未来の三つの時勢の区切りがあり、時間機能が正常に働いているからるからそう言える。

今を抜いてしまえば過去も未来も一つ。

過去はすでに決まっている事、ということは未来も同じ性質を帯びる。

決まっている未来に対して何か意欲が出るだろうか。

未来を書き直しできないとなれば、その人にとって生きる意味はない、つまらないものとなる。

過去と未来が折り重なっている、だから「考えたこともない」=考えないようにしている。

その事については考えたこともないと、しっかり封印し、しまわれてある。

だから分析は無意識の再認である。再び見いだすこと、認めること。

それと知っていなければ隠しようがない。

知っているから、それについて考えてこなかったのである。 

分析において、その封印された無意識に光を当て、意識化する。

すると当然、今という時間ができ、未来は決まったものではなく、希望や理想を持って取り組める意味のあるものとなる。

こうして人は今を生きる事が出来る、生き返る事が出来る。


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2009年4月 9日

分析家の独り事 210 (安心と安全そして信頼)

クライアントは皆、自分をありのまま受け入れ、理解してほしいと望んいる。

ところがある人は学歴が大事と言われ、勉強させられ、成績がよければ承認されたが、そうでなければ自己の存在を認められなかった。

親が叶えられなかった理想や夢を子どもに託し、子どもは自分の意思とは関係なく親の意思を継がされる。

またある人は、親の言う通りにすることを求められ、ただ反発するしかなかった。

多かれ少なかれ、親は自分の意に沿うように子どもを動かしたいと思う。

そうならないとただ親であるというだけで、威嚇し怒り子どもに言うことをきかせる。

子どもは自分を失っていく。

自分は何が好きで、何を欲し、どういう人間なのかわからなくなってしまう。

そうして育った子が親になったとき、また自分がされたと同じ事(=自己の存在を認められず、親の言うことをきかされる)を子どもにしてしまう。

それが下の代になるほどマイナスが重なり、いろんな形で問題がでてくる。

それが、不登校やひきこもり、非行、神経症等の心の病などである。

自分が嫌いという。

自分が自分を受け入れられなくなる。

どんな自分も自分として受け入れるには、生まれてから親に自分がどれだけありのままの自分を受け入れられたかが大事。

何かが出来るから・・・と条件をつけるのではなく。

安心と安全のなかで人は健康な精神を育てていける。

病んだ心も安心と安全な人との関わり、癒され快復していく。

それがオールOK!で子どもを育てることを推奨する所以でもある。

分析家はあるときにはそのクライアントの母親父親となり、支持し心を育てていく。

分析を通してクライアントとの信頼を築くことを重視する。


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2009年4月 7日

分析家の独り事 209 (今を生きる:その2)

自分のことを振り返って、今まで生きたなかでいくつも悔いることがあった。

例えば、中学・高校の部活動でバスケットボールをしてきた。

中学で全国大会に行き、高校ではインターハイにも出た。

大学は体育大学へ行って、将来は中学か高校で体育の教師をしながら、またバスケを教えたいと思っていた。

ところが、高校の練習でしぼられ、この上また大学で4年間体がもつだろうかと思い始め、ギリギリになって進路を変更した。

結局、文系の大学でまた4年間バスケをすることになった。

しかしここでは、コーチに「おまえの好きなようにやれ」と言われ、バスケを楽しめたときではあった。

大学1年のときは関西リーグ4部だったが、3年・4年のときには、2部で1位となり、1部リーグで試合をした。

1部リーグにいた薫英短大のバスケ部がよくうちの大学に合宿に来て、そこの監督はよく知っていた。

大学を卒業して大阪でOLをし、実家のある滋賀県のクラブチームに入ってまたバスケを楽しんでいた。

OL1年目の夏頃だっただろうか、その頃まだバブルがはじける前の好景気で、三洋電機貿易(株)にバスケットボールの実業団チームができることになった。

そこの監督に薫英短大の監督がなるということで、私はそこに誘われた。

年齢も私が一番上ということで、キャプテンとしてチームをまとめる役をしてほしいと言われた。

普通、男子は大学を出てからでも実業団に入るが、女子は高校卒業して実業団でプレーし、24歳くらいで引退すると聞いていた。

私は選手としてピークを過ている23歳からはじめる事になる。

また、自分はチームをまとめるキャプテンとしての器があるだろうかとも思った。

親からは(親たちの都合で)、クリスマス・ケーキと同じで、25を過ぎたらもう遅い、売れない、早く結婚してくれと常に言われていた。

一度は三洋電機貿易に行くと返事をしたものの、自分の体力、能力、気力への自信のなさや、親のプレッシャーに負け、結局は辞退してしまった。

それから25歳でお見合い結婚をした後も、あの時バスケの道を選択していたなら、また違った人生があったはず。

なぜあのときやめてしまったのかと後悔した。

私も『たられば人生』を生きていた。

過去を悔いるということは、今に納得していない、楽しめてない、好きな事をできていない、幸せを感じられていないからだと思った。

今の自分が幸せであれば過去がどうであれ、今を楽しみ活き活きといられるはず。

現実が辛くなると、あのときバスケをしていたら・・・が出てきて、ああなっていたかも、こうなっていたかもと想像する。

しかしそれは所詮想像の世界であり現実ではなく、虚しいだけで終わる。

過去に囚われ、過去に生きていると、現実への適応や問題解決に取り組めない。

あの頃の脆弱な自我のまま実業団でバスケをしても、自分が納得行くような生き方が出来たかはわからない。

遠回りをしたかもしれないが、今はこの道が自分にとって最良の道だったと思う。

今私は好きな事をして、生きる意味・目標があり、遅ればせながら自立心を持てたことが自信や有力感となり、いつの間にかあのときバスケをしていたいら・・・とは思わなくなっている。

この前の日曜日、自分の娘より若い高校生と練習試合をした。

今の自分としてバスケを楽しみ、50歳を越えた今でも、まだ上手くなりたいと思えていることが「やるなぁ、私」と思う。

体力の衰えが悲しいが(苦笑)


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2009年4月 5日

分析家の独り言 208(今を生きる)

子どもの非行や、ひきこもりなど、様々な問題を乗り越えたクライアントたちは言う。

その問題の最中では、もうどうしようもないと絶望することもあったが、自分を見つめながら長く暗いトンネルを抜けると、どんなに大変なことも、自分に必要なことだった。

人生に失敗はない、と。

分析によって過去に整理をつけ、今を肯定できるようになる。

様々な過去のマイナス面も今の自分に至るために必要だったことになる。

クライアントに多いのは、「たられば」で過去を生きている。

あの時、「もしこうだったら」「ああだったら」「そうしてたら」「ああしてたら」・・・「自分はこうなってなかったのに」「もっと幸せだったかもしれない」と、今に立てずに過去を悔いながら生きている。

これを「たられば人生」という。

今が上手くいかなくなると、すぐに過去に逃げてしまう。

もしあの時ちがう道を選択していたら、こうもなっていた、ああもなっていたかもしれないと、想像や空想、イメージの世界に逃げ込んで遊ぶ。

しかし、それは所詮イメージであって現実ではない。

過去は過ぎ去った時であり、もう変えようがない事実である。

それに囚われている限り現実への対応・解決能力はほぼない。

だから、現実は変えようがなく、相変わらず過去を見続けている(=過去を生きる)

分析は常に「今ここに」が大事だと言う。

そして今ここにたって、今を味うこと、楽しむこと。

そういう意味では、分析とは過去に生きている死者たちを、今に生き返らせるとも言えるのではないか。


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2009年3月31日

分析家の独り言 207 (非行の息子にオールOKして)

(以下の文章は、クライアントの了解を得て、掲載しています)

ラカン精神科学研究所のホームぺージにも書いた、非行の息子にオールOKで対応したクライアントが言う。

非行がエスカレートしていく中で、大きなお金を家から持ち出して行った息子。

月に100万円を超えるときもあったという。

一度に80万円を要求したときも、分析者である私に、「オールOKしてください」と言われた。

このときクライアントは、この人(分析者)はわかって言っているのか。

8千円じゃないんよ、80万円よ。それでもOKするのかと思ったという。

しかし今から思うと、クライアントは、分析者が常にぶれなかったことが良かったと言う。

あの時もし分析者が、「80万はいくらなんでも高額だから、それはOKしないでください」と言ったら、逆にまた大丈夫かと疑問を持っただろうと。

オールOKに例外はないと、私は次々出される高額な要求にも応えてくださいと言い続けた。

親がボロボロになってでも、お金を出し続けることで、子どもが自分を見つめ、考え出したのだろう。

おそらく子どもは、40万円を要求しても、80万円を要求してもこの親はなんとかして出してくる。

しかし、このまま自分が要求し続ければ、いつか親もつぶれ、自分もまた立ち行かなくなることもわかったのだろう。

命をかけて出し続けたことが、息子を変えた。

最初は他に方法もなく、本当ならやりたくないが、やるしかなくてオールOKをしていった。

正直はじめは、お金ばかりか日常の些細な要求に応えながらも、今度この息子は何を言い出すのだろうとビクビクしていた。

しかし、オールOKで対応し、お金も言われるままに出すうち、息子から「おかん、買い物行くんやろ。○○買って来て。どうせスーパーにも寄るんなら、ついででええわ。急がんでもええし」

という言葉が聞かれるようになった。

それまでは、言ったらすぐ買って来いだったのがである。

そういう言葉が聞かれるようになってから、母であるクライアントは息子を愛しいと思うようになっていったという。

これほど高額な要求を出されるのは特殊なケースかもしれないが、それでもオールOKすることで子どもは変わっていった。

息子さんは、今は家庭を持ち、社会のなかで立派に真面目に働いている。

当時高額なお金の要求と共に家庭内暴力もあり、子どもが社会適応し、もう何の問題もないように思われるようになっても、クライアントには、辛く恐怖に彩られた過去を振り返ることがなかなかできなかった。

今ようやく、大変だったときのことを思い返せる余裕ができたという。

よくクライアントはあの状況のなかで、オールOKし続けたと思う。

頭が下がる思いである。

並々ならぬ苦労の末に、今は穏やかな日々と幸せを手にした。


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月刊精神分析2009年03月号随筆 精神分析

2009年3月30日

分析家の独り言 206 (娘と共に)

最近下の娘が私と一緒にケーキを作りたいという。

昨日、日曜日の午後娘と二入、「ああでもない、こうでもない」「ほら、見て」等といいながら作った。

娘は、母親である私と一緒に作りたいという。

ふと、思い出した。

そう言えば、2~3年前だろうか、娘に「私は小さい頃もっと、お母さんに遊んでもらいたかったのに、すぐお昼寝させた」

「ままごととかしたかったのに、お昼寝させられて目が覚めたらいつもお母さんはいなかった」

「あの時もっと遊んでくれたらよかったのに」と言われたことがあった。

そう確かに昔、小さい娘ををお昼寝させて、その間に家事や家業の仕事をしていた。

子どもが起きていたのでは仕事がはかどらず、寝てくれている間に済ませていた。

今一緒にケーキを作りたいというのは、その取り返しなのかと思った。

二十歳を過ぎた今からままごとをするわけにもいかず、それをケーキ作りに置き換えたのだろう。

ただ作ればいいというのではなく、一緒に作って楽しみたい、それを一緒に食べるのがまた楽しみと娘は言う。

これは心して、しっかり応えていかなければいけないと思った。

「しっかり応えていかなければ」というところに、私の欠損が自分でわかる。

そうしなければ、「ただやればいいんでしょう」、どうかすれば、「忙しいのにめんどくさいな」がでてきそうだからだ。

私も母と一緒に遊んでもらったことも、何かを一緒に作って楽しかったという経験もない。

それのことに母に文句を言ったりしたこともない、あきらめていたのだろう。

そんなことをできる母ではないと。

しかし、娘は母である私を求めている、それはすごく健康的で普通のこと。

私も娘と一緒に楽しみながら、ケーキを作って食べよう。

これが共にということ。

共有、共生、共感が大事と言葉だけでなく、体や気持ちで再確認しよう。

私の子ども時代にあったのは、共生ではなく強制だったなと一人苦笑する。


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月刊精神分析2009年03月号随筆 精神分析

2009年3月28日

分析家の独り言 205 (子どもの気持ちをくむ)

(以下の文章は、クライアントの了解を得て、掲載しています)

あるクライアントの子どもが、朝「保育園に行きたくない」という。

休むのなら園に電話しなければと、電話をかけよいとすると、「やっぱり行こうかな」という。

かけかけた電話の受話器を置く。

子どもが「お母さん、どうしたらいいと思う」と聞いてくる。

「○○ちゃんが行きたくないなら休んでいいし、行きたいなら行けばいいやん」と母であるクライアントは答える。

それでも子どもは行く・行かないを繰り返す。

これまではクライアントはこの子どもの言葉に疲れてしまっていた。

「行くの、行かないのどっちなの」「行かないなら行かないでもいいから、はっきりして」と心の中で 思っていた。

それが、子どもの迷う様子を見ていて、「○○ちゃんは、行きたいけど、行きたくないんやね」「行きたくないけど、行きたいと思ってるんやね」と言った。

その時、子どもがニコッとしたという。

そして、これでいいんだと思った。

今まで、クライアントは子どもに何か聞かれたらしっかり答えを言わなければいけないと思い込んでいた。

ところが子どもは必ずしも答えを求めているのではなく、迷っている、悩んでいる気持ちをくんで欲しいんだということがわかったと言った。

そして、「それを私は(母に)されたことがない」とも言った。

悩みながら、迷いながらも子どもにオールOKし、対応していくと、こうして子どもに教えられとこがある。

自分に経験のないことは基本的には理解できないし、やりようもないのだが、それがあるとき「これか」ということに出会い、気付くことがある。

これを宗教の言葉で言えば、『悟り』というのだろう。

クライアントはこれまでの子どもへの対応のまずさに自ら気付き、「これでは子どもは満たされませんね、だめですね」と言った。

しかし母親がこうして気付けば、これから子どもへの対応が変わってきて、子どもの表情や言動も変ってくるだろう。

分析家として、うれしい気分になれるひと時だった。


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2009年3月22日

分析家の独り言 204 (オールOKと分析)

不登校・ひきこもり、非行の子どもに悩む親たちの会が各地にある。

そこで聞かれることで、気になることがある。

全てがそうだというわけではないだろうが、と前置きしておくが、
 
子どもが20歳になったら、社会的にも成人だから、子ども自身の責任。

親はいつまでも子どもに振り回されず、親は親の人生を生き、楽しめばいい、というもの。

オールOK子育て法とは正反対である。

いつも言うが、人間の精神の年齢と肉体の年齢は異なる、一致しない。

子どもがいくつであれ、親の対応次第で子どもは変わり、自分らしく活き活きと生きていけるようになる。

私のところに来て、オールOKの話を聞き、それに取り組むクライアントとやめる人がいる。

オールOKや分析に取り組む人に共通するのは、本来ならオールOKなどしたくはないが、それで子どもが活き活きと生きていけるのなら、自分のことはさておき、(中には自分の命に代えてでも)やる、という意識がある。

オールOKをするお母さんから質問されることがある、「母である自分の人生はないのか」と。

母である私個人の人生を最優先するなら、子どもへのオールOKはできないだろう。

ある意味(したくないことをするのだから)自分を殺して、自分の意思を曲げてすることになる。

この自分を殺すことに抵抗が生じるだろう。

それは、これまで母自身が育ってくる過程で、散々自分の主体性を抹殺され、親の意思にあわせて生きてきたために、また自分が親となった今、子どものためとはいえ自分を殺さなければならないのかと思うと嫌気がさす。

「なんで私が子どもに合わせなければいけないのよ。私はこの子を生んだのよ」と言いたくもなる。

しかし、子どもを生み母となるということは、無上の愛情を子どもに注ぎ続けること。

例えこの世の人全てが、あなた(我が子)をダメだといっても、母である私はどこまでも受け入れ味方であると、子どもに伝えること。

そういう存在がこの世に一人いてくれたら、人は生きていける。

そういう存在でいられる人は母以外にないだろう。

オールOKすることは、それを子どもに伝えることにもなる。

そして母親として、子どもと信頼感や絆をつくり良好な関係を結べたとき、この上なく幸せな気持ちになれる。

オールOKや分析が目指すのは、上辺の解決(単に学校に行かなかった子が学校に行くようななったとか、非行がおさまったなど)ではなく、根本的に個人や親子関係をみなおし修復・改善する。

私が10年ほど通った非行の子どもに悩む親御さんたちの会で、根本的解決をし、真の幸福感にまで至ったケースは、オールOKをした一人しか知らない。

その会の中でも私はオールOKの話をしたが、実際に実践されたのは一人だったということだ。

わが師は言う、オールOKの話を聞けるのは百人に一人と。

百人に一人でもオールOKをする人に出会えるなら、私は生きている限り語り続ける。

分析に取り組み、幸せに生きていかれる姿を一人でも多く見たい。

ただし、オールOKするしない、分析を受ける受けないも個人の意思、自由である。


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2009年3月19日

分析家の独り言 203 (闇サイト殺人事件から)

電車の中でのこと。

20歳代の青年二人が大きな声で会話していた。

青年A : 「健康保険証つくったんや」

青年B : 「金いるやろ」

青年A : 「そんなもん払うかいや。金借りるためや。」

青年B : 「取りに来よるやろ」

青年A : 「たまに1万円ほど払って、あとはないって言うたらええねん。」

どうやらこの二人は、前後の会話からパチンコかスロットに、はまっている様子。

一見普通の、どこにでもいそうな若者だが、会話の内容は「えっ、なにそれ」と思うものだった。

しかも、まわりを気にする風でもなく、堂々と言ってのける二人。

最近の事件で気になるのは、30歳代、40歳代の犯人、容疑者の無職という報道。

30歳、40歳になっても無職でどうやって生活しているのかと、不思議に思う。

ニートなのかパラサイトなのか、はたまた・・・ 社会の病(闇)を感じる。

名古屋市の契約社員、磯谷(いそがい)利恵さん(当時31歳)が2007年8月、インターネットの「闇サイト」で知り合った3人組の男に拉致、殺害された事件。

このうちの一人は、ばれなければ悪いことをしてもいいと思っていると聞いた。

安易にお金を得る手段として、人を殺してもかまわないという意識。

この3被告が出会うきっかけとなった「闇サイト」を利用した犯罪は、今回の事件以降も後を絶たないという。

一部の人間であれ、こういうことがこの国で起きていることは事実。

そこには、していいことと、悪いことの判断ができない赤ちゃんの自我しかない。

母親が子どもにしっかり関わって、世話しないかぎり、人の心は育たないのである。

一人一人がこのことを知って、対応しなければこういった事件は今後増え、いずれこの国は残念ながら滅びていくだろうと危惧する。

いつ自分たちの身近な人が、同じように事件に巻き込まれるかもしれないのだ。

闇サイト事件の犠牲となられた磯谷利恵さんのご冥福を心よりお祈りします。


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2009年3月15日

分析家の独り言 202 (真に生きる、生きなおす)

あるクライアントの語りである。

分析により自分を見つめ、自分を知ろうとしてきた。

そして「命に代えてあんたを守ってあげる、生かせてあげる」と言ってくれる人を求めてきたことに気付いた。

しかし自分が生きてくるなかで、そんなことを言ってくれる人に出会えなかった。

今でもそんな人に出会いたいが・・・

だからせめて自分の子どもたちには、母親である自分がそういう存在になろう。

そう思える人たちが分析の戸を叩くのだろう。

その時点で意識はしていなくても。

人は物やお金があるからといって、必ずしも幸せになれるとは限らない。

しかし、人はせめてお金を得て安心を得たいと思う。

人が自立していくには、膨大な愛情が必要だった。

母の胸に抱かれ、絶対的な安心と安全の中で守られ、母の乳房を口に含くんだ、そんな幸せなときを充分過ごすこともなかった。

それがないから、自分を守ろうとして、子どもを自分の思うように動かして安心したい。

やたらめったら動き回ったり、真面目に一生懸命、正しく生きる。

それら、不安と恐怖を回避するための生きかたではないか。

その不安と恐怖に捕まる恐怖に、また追い立てられる。

そういう生きかたをして、自分は真に生きたといえるのだろうか。

自分は何が欲しかったのか、何がしたかったのか、どう生きたかったのか?

自然とそういう問いが自分のなかに生まれる。

それを問いかけたときから、自分を生きなおせる。

遅ればせながらもここにたどり着けたことがうれしい、幸せという。

私にも命に代えて私を守ってあげると言ってくれる人はいなかったが、子どもにとってはそういう存在であり続けよう。

子どもが悩んだとき、困ったとき帰ってこられる母港でいよう。

この想いは、分析場面でクライアントにもいかせることがあるだろうと思う。

きっと分析に出会うまでの私は、冷たい孤独な人間だったと思うが、こんなことを思うようになったかと、一人物思う。


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2009年3月11日

分析家の独り言 201 (不登校・ひきこもり:オールOKで母も子も成長)

最近、私どものラカン精神科学研究所のホームページや各サイトを見たと、分析依頼の電話をいただくなかで、不登校・ひきこもり等の子どもさんが「ここの考え方は自分に近い」などと言ったと、その親御さんから言われることがよくある。

おそらく『オールOK!子育て法』や、『ひきこもりに悩む方々へ』のサイトを読まれたのだと思う。

子どもさん達には絶賛されるのだが、オールOKをしてもらう親御さん、特にお母さんには受け入れがたいことなのだろう。

子育て法としてお話をするとき『オールOK』のことを言うと、だいたい「子どもをそんなにあまやかして、わがままさせていいんですか」と言われる。

それでも、他の相談機関やカウンセリングを受けるなかでも、子どもへの対応法としてオールOKと同じ様なことを言われたというお母さん方がおられる。

私はお子さんの状態、日常の様子を聴いて、具体的な場面での対応法を話し、オールOKを徹底してもらう。

そしてそのことがなぜ子どもにとって良いことなのかを、実行するお母さんに納得してもらえるようにする。

不登校やひきこもりに至るまでの子どもさんへの接し方を聴くと、いろんな問題点がみえてくる。

例えば
・ 「ああしなさい」「こうしなさい」「それはいけません」と、命令指示が多い。
・ 親の価値観(良いと思うこと)を子どもに押し付ける。
・ 子どもの話をよく聴かない。
・ 子どもの気持ちを汲まないで、すぐ対策法を言う。
・ 子どもを親のストレス、愚痴のはけ口にしてしまう。
・ 甘やかせてはいけないと厳しく育てた。
・ 失敗を責める。

等など、これでは子ども達は主体性や自己肯定感、自信を持てず、自我が育たない。

自己否定や自信のない脆弱な自我で人と接しようとしても、上手くいかないのは当然。

人から自分がどう見られているかが気になり、それに腐心する。

言いたいことが言えず、自分を出せず、人に合わせているだけにも疲れる

自然と、友達はできにくく、そんな自分にまた落ち込む。

人一倍友達が欲しいと思っているにもかかわらず。(ただしこれは、無意識下に抑圧されていることもある)
 
学校や社会の中で、人と関わらずに生きていくことはまず不可能である。

すると人と関わる場所から撤退する、つまり不登校・ひきこもりとなる。

そこでオールOKして、もう一度育てなおしをする。

そこでまた問題となるのは、オールOKをするお母さんの無意識と養育史である。

頭や理屈でオールOKをすることが子どもの自我を育て、子どもを活き活きさせることになることはわかるが、実践しようとすると、母親自身の育ち方と、それによってつくられた無意識が邪魔をする。

オールOKしたくても、できないのである。

そこで、お母さんの無意識を分析し、なぜできないのかを見ていくことになる。

そこには母親自身の育つ中での傷付きや、親に対する愛と憎しみのアンビバレンツ等がある。

母親自身の無意識を意識化し、子どもへのオールOKをすることにより、子どもとの良好な関係が築かれ、子どもと共に母もまた人として成長する。


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2009年3月 6日

分析家の独り言 200 (母の存在)

荒れる子どもに対応したあるクライアントが言う。

子どもの持っている可能性が開花することは、自分が開花することと同じくらいうれしいと。

人はあたたかい環境の中でしか開花できないことを知った。

そう、それが親ことに母親がするオールOKという環境。

子どもは傷付き、歪んだ自分をこの中で癒し、快復し、元気になっていく。

このクライアントの息子は、あるトラブルを抱えヘトヘトになっていた。

荒れていた頃なら、相手に自分の言い分が通らないとキレて暴れていただろうが、息子がじっと耐えて冷静に対処している。

世の中、話の通じる人ばかりではない。

しかしもう、相手を殴って解決はしない。

詰まりきって、母であるクライアントにこれこれこうでとしんどい心情を話し、どうしたいいと思うと聞いてきた。

息子は自分で、「俺も大人になったわ。自分でもようキレンようになったと思う」と言ったという。

思わずうなづく、本当に大人になったなぁと・・・

クライアントは自分の経験から、こういう場合はまず弁護士に相談してみてはどうかと息子にアドバイスした。

早速息子は次の日、弁護士のところへ行ったらしい。

その帰りに電話をしてきて、「行ってよかった。すっきりした」と明るい声で報告があった。

人は泣き言や、愚痴、悩みを言える相手がいることがいかに大事であるか。

相手(子ども)の気持ちを汲み取って、共感して、話しを聴き続ける。

そしてクライアントはしみじみ思う、自分にはこんな風に自分を受け取ってくれる人(母)が居なかったなぁと。

それでもひねくれないでおこう。

「よく頑張った、よくここまで来たな」と自分を励まし、自分をなぐさめる、もう一人の自分が言う。

自分で自分を受け取るしかない。

どんなに悲しい自分も、みじめな自分も、嫌な自分も、それも自分と認めて、そんな自分とも手を携えて生きていきましょう、と私は言った。

マイナスの自分を自分が見捨ててしまったら、誰がその自分をすくい上げてくれるのか。

それをするのは自分しかない。

もう亡くなってしまった母や、年老いた母にそれを望んでも叶えられない。

しかしまだ、母親としてそれが自分にできるなら、子どもにしてやれば子どもはより楽に越えて行ける。

そのためにやはりオールOKである。

母の存在の大きさを思う、と同時に自分と向き合うことの大変さと大事さを思う。


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2009年3月 5日

分析家の独り言 199 (ひきこもり:ある症例)

去年の夏過ぎくらいに、当研究所のホームページ等を見たといって電話が入り、分析を始めた。

ひきこもりの10代後半の子どもさんのお母さんだった。

詳しい内容については書けないが、お母さんが来られたので子どもへのオールOKの対応法をお話し、実行してもらった。

母親は「できれば子どもに分析を受けてもらいたが、子どもは嫌がる」ということなので、「無理強いはしないでください。お母さんがしっかり対応されれば、それだけでも子どもは変わっていきますから」と私は言った。

子どもの様子を聞きながら、なぜオールOKをするのか、具体的に日常の中での対応を話していった。

お父さんも一緒に両親そろって来られたこともあった。

父親にも、今の子どもの心の状態を説明し、協力してもらえるようにした。

家庭環境に問題があり、可能であるか確認したところ、できるということなのでそれを実行してもらった。

すると間もなく、子どもは知り合いの会社の面接行くと言い出し働き出した。

この間初給料をもらい、そのお金で家族=両親と兄弟(一人)にそれぞれプレゼントを買ってくれたという。

一人で買い物には行かなかった子が、あれこれ考えながら店を回り、プレゼントのラッピングまでしてもらって。

両親は驚いておられた。

こういう報告を聞けると、分析家冥利に尽きる。

お母さんが子どもへのオールOKを頑張られたことと、父親の協力があったこと、環境を変えたことが良かったのだと思う。

分析と分析の間に、母親が不安になったのか電話が入ることもあったが、よくやられたと感心した。

全てのケースが順調に進むとは限らないが、やる限り良い結果は出て行く。


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2009年3月 3日

分析家の独り言 198 (毎日新聞ニュース ひきこもり)

ネットの毎日新聞ニュースで以下のような記事があった。

記者の目:引きこもり問題と、派遣切り社会は連関=市川明代(東京社会部)
◇「善意と鍛錬」だけでは限界 雇用・企業理念、見つめ直せ
http://mainichi.jp/select/opinion/eye/news/20090220ddm004070156000c.html?inb=yt

以下記事より一部抜粋

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引きこもりは民間推計で100万人規模。最近は長期化や高年齢化が問題になっている。
神経症や精神疾患を伴うこともあり、将来を悲観した自殺や心中も後を絶たない。

社会との接点を持とうと苦悩する男性や、引きこもりの長男を支える父親の思いを描いた。
ある母親は「33歳の長男は同じ屋根の下で全く会話がなく、夜半に食べるものがないと暴れています。
夫も病気で、少しの蓄えがなくなれば……」と悲痛な声をファクスで寄せた。
父の年金に生計を頼る東京都内の女性(35)は「父が死んだらどうすればよいのでしょう」とはがきに記した。

いったん引きこもるとなかなか社会に戻れないという構図は共通している。
大学を休学した後に中退し、一時家から出られなくなった千葉県の男性(36)は「レールを外れた時点で僕の人生は終わったと思った」と打ち明けた。
埼玉県の男性(36)は「35歳を境に就職も結婚もあきらめた」と言った。
あまりにも早い見切りに思えるが、この男性には社会の壁が、それほど高く見えるということだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私のところでも、いくつかの不登校、ひきこもりのクライアントのケースがある。

下は小学生から、30歳代の成人までおられる。

守秘義務があるため、個々について詳しいことは書けないが、神経症や精神疾患を伴う方が多い。

精神科で統合失調症の疑いと言われた人や、人格障害、対人恐怖症などなど、医者の薬を飲みながら分析を受けている。

この中で私が感じるのは、ひきこもり本人と親の関係である。

ひきこもり本人は分析に来ないで母親が分析を受け、ひきこもる子どもへの対応(オールOK)をしながら、母親が自分を見つめていくことで、ひきこもる子どもが変わっていくケースもある。

また、ひきこもり本人が分析を受け自分を見つめ、プラス親ことに母親の協力があるほど、子どもの快復は良い。

ひきこもる子どもとその母親の両者が分析を受けるケース。

これは子どもは子どもで自分を見つめ、お母さんには日々の子どもへの対応法をアドバイスしながら、お母さん自身の養育史や自分自身等を振り返りながら、よりオールOKをスムーズにしてもらえるようにする。
 
ひきこもる子どもは分析を受け、母親が分析理論を学ぶとか、子育て教室に参加するケース。

こうすることで、お母さんに子どもへの理解を深めてもらう。
 
中には、お金は出すが、ほとんど子どもへの関心を示さない親御さんもおられる。

この場合は、分析者がひきこもるクライアントの母親代わりをすることになる、当然時間がかかる。

母親の協力が得られ、家庭においてひきこもる子どもにオールOKをしてもらえれば、それにこしたことはない。

分析と分析の間に何度もメールや電話入ることも度々。

子どもから「死にたい」とか、泣きながら電話をかけてくることもある。

また対応するお母さんから、「これでいいんでしょうか」と迷いや疑問をなげかけられる。

それらにも、できるだけ応える。

しかし、あまり依存させすぎてもいけないし、かといって全く信頼されないようでもいけない。

個々のクライアントの自我状態、発達の過程によっても違う。

分析家がクライアントに振り回されることもある。

そんなことをしながらも、分析を通して自我を育て主体性を育てていく。

記事にあるように、ひきこもりの長期化や高年齢化が問題となっている。

もちろん取り組むなら早い方がよいが、自分の人生をあきらめないで欲しい。

それから、今小学校や中学、高校で不登校をしている子どもの親御さん、しっかり対応すれば必ず子どもは元気になるので、その対応法オールOKをしてください。

学校や社会参入の話は今置いておいて、子どもの心に寄り添いましょう。

子どもの立場に立って、配慮と思いやり、適切な関心を向けること。

そうすれば必ず子どもは生き返り、元気になって出ていく。

ただ、このことが親御さんになかなか理解されず、実行されないことが残念でならない。


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2009年3月 1日

分析家の独り言 197 (納得すること、させること)

私事だが、治療してあった歯の詰め物が取れた。

放っておくわけにはいかず、歯医者へ治療に行った。

ただ単に欠けたか、取れただけと持っていったが、詰めてある金属の一部が欠けていた。

詰めてある他の金属も一度取ることになった。

開けてみると、中で虫歯が広がっていた。

歯科医が、鏡で見せてくれた。

真っ黒な歯。

こんなことがあるのか・・・

もともと虫歯が深く治療してあり、神経を取り、上から金属をかぶせる治療法を取るしかないと説明された。

納得し、その治療をお願いした。

20年ほど前にも、奥歯を同じ方法で治療している。

しかし、そのときは今ほど丁寧に説明された覚えがない。

そのために最近まで、あの治療法しかなかったのか、疑問に思っていた。

人間納得することが大事とあらためて思った。

今通っている歯科医は、治療時誰もがおそらく苦手な、歯を削るときに言葉をがけ、患者に気を配っている。

治療を受ける側の痛みの心配や、不安を少しでも少なくしようとする行為だろう。

私たちが育ってくる中で、納得できないことがたくさんあるのではないか。

なぜあの時自分は怒られたのか、だめと言われたのか、したいことを断念しなければならなかったのか・・・などなど。

「ああしなさい」「こうしなさい」「こうでなければいけません」と言われたが、本当にそうだったのか。

そんなことがいっぱい自分の中にある。

当時は、親に大人にいわれるまま、そういうものかと思うしかなかったが、今一度検証し、違うものは訂正する必要がある。

そして相手(子ども)の立場に立ち、相手を思いやり、配慮する言葉をかける。

そんなことの積み重ねが、良好な人間関係をつくっていく。

金属の詰め物が取れたことで、その奥の虫歯がわかり、歯医者が苦手な私には治療は大変だが結果よかったと思っている。


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2009年2月21日

分析家の独り言 196 (「無期懲役」うつろな星島被告、遺族は失望あらわ)

YAHOO!ニュース 「無期懲役」うつろな星島被告、遺族は失望あらわ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090218-00000034-yom-soci (記事より一部抜粋)

 「犯行は極めて卑劣で、戦慄(せんりつ)すら覚える」--。同じマンションに住む東城瑠理香さん(当時23歳)を拉致し、殺害後は遺体を細かく切断して捨てた元派遣社員・星島貴徳被告(34)。東京地裁で18日に開かれた判決公判で、平出喜一裁判長は、東城さんを自分の思い通りにできる「奴隷」にしようとしたという独善的な犯行を厳しく非難しながら、死刑は選択しなかった。

 「無期懲役」の宣告に星島被告はうつろなままで、死刑を訴えていた母親は、失望をあらわにして思わず顔を背けた。

主文言い渡しの後、約1時間にわたった判決理由の朗読では、犯行の卑劣さを指弾する言葉が並んだ。
「身勝手な保身のみを求め、被害者を物のように扱った」「性的欲望の充足を求めた自己中心的な犯行で、酌量の余地は皆無だ」

一方、遺影を胸に抱いた東城さんの母親は、判決が殺害の具体的な場面に差し掛かると下を向き、耐えるように聞き入った。その後、平出裁判長が「死体損壊・遺棄を過大に評価することはできない」と死刑を回避した理由を述べると、最前列に座った他の遺族らはうなだれたり、顔を手で覆ったりした。
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この事件をニュースで聞いたとき、なんという残酷な事件がまたおきたのかと思った。

そのなかでも、星島被告が東城さんを自分の思い通りにできる「奴隷」にしようとしたというくだりに驚いた。

強姦し快楽を与えれば、女性を自らの思い通りになる性奴隷にできると思っていた星島被告。

星島被告は幼少期、足に負った大やけどの跡にコンプレックスを感じ、女性との交際をあきらめていたという。

女性と実際に交際した経験がなかったが、女性と交際したり性交したりすることを望んでおり
そのための手段として女性を拉致して強姦し続けることで性の快楽の虜(とりこ)にし、自分の言うことを聞く「性奴隷」にしようと考えた。

人間としての心の成長・発達が歪んでいる。

性による快楽を一方的に与えることで、愛情関係にない女性を自分の思い通りにできると思った、いやしたかったのだろう。

そこに相手(対象)が存在しない、まるで星島被告の一人がてんの世界、思い込みもはなはだしい。

しかし、それくらい自分を愛し、奴隷のごとく自分の言うことを聞いてくれる人が欲しかった。

それは子ども時代でいえば、母の役目である。

子どもに関心と愛情を注ぎ、オールOKをして、何でも言うことを聞く母、それういう体験を育ってくる中で星島被告はできなかったのだろう。

それは彼に限った事ではなく、残念ながら世の中の多くの人たちも経験してはいないだろう。

しかし、その割合や様々な負の要素が重なると、今回の事件が起こりうるということである。

互いが心を通わせる、思いやりなどの互交流の学習も彼にはない。

これもまた、子ども時代に母や父、家族、周りの人たちと関わりながら経験を積み重ねていくことである。

1歳11カ月の時に熱湯の入った浴槽に落ちて両足に大きなやけどを負った。やけどのあとが残ったことで、小学生のころから継続的にいじめに遭った。
しかし、両親に相談に乗ってもらえなかったと感じ、やけどを負ったのは両親のせいだと恨みを募らせ、やがて殺害したいと思うまでに両親を憎むようになっていった、という。

本当に彼が愛と憎しみを向ける対象は親であったはず。

それが向けられないと、その対象を置き換えた他者が犠牲となることは多々ある。

犯罪者の中ではこれは意識されず、無意識におこなわれる。

だからこそ、自分(無意識)を知ることである。

そうすれば、犯罪や事件は防げる。

分析に来られる方の中に、「うちの家でも、世間で起きているような事件がいつ起こってもおかしくない」といわれる。

この事件の犠牲者となってしまわれた東城瑠理香さんのご冥福を心よりお祈りします。


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2009年2月12日

分析家の独り言 195 (性格、血液型占い)

Yahoo!ニュ-スで、『日本の「血液型性格診断」ブーム、米国でも強い関心を集める』
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090209-00000000-sh_mon-bus_all という記事を見つけた。

(以下、掲載文の抜粋)

記事は「日本では、人は血液型によって決まる」と題したもので、・・・日本では雑談などで「あなたは何型? 」などと血液型の話がよく話題になる事実を伝えている。

・・・科学的に証明されていないのにもかかわらず、血液型を重要視する考えが国民の間で広く浸透していると紹介している。

血液型と気質の関連を科学的な研究対象にしようとする試みは国内で1900年代前半に当時の医師らによって行われていたが、結果的に科学的に差異が認められなかった経緯がある。

しかし血液型関連の書籍が多数出版され、またテレビなどのマスメディアでもさかんに報道されてきたため信じる人も多く、携帯サイトをはじめ、血液型占いに関連したコンテンツが数多く流通するなど一つの市場を形成している。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

記事にあるように科学的に証明されていないのにもかかわらず、なぜ日本人は血液型による性格診断や占いをしたがるのか。

たった4つの血液型で、性格が振り分けられ、性格が診断できるわけはないと私は思っている。

性格とは遺伝と環境の相互作用によって形成されていく。

そのときどきでその割合が違う。

こと血液ということで言えば、遺伝的要素ということになるだろう。

しかし育っていく過程やその環境の要素も大きいのだから、血液型で性格が決まるとは思えない。

例えば不登校・ひきこもりの子どもさんを持つお母さんや周りの人会話で、「うちの子は、気が弱くて言いたいことがいえない性格みたい」とか、「人に気を使う性格で」というのを聞く。

しかも「性格は変えられないから・・・」と言う。

言いたいことが言えない性格、人に気を使う性格、これは生まれながらに持っていたものというより、育ってくる過程で培われたもの。

これらは子どもが若ければ、親の対応次第でいくらでも変えられる。

ところが、「性格は変えられる」と言うと、驚かれることが多い。

「性格は変らないでしょう」と。

生まれながらに気を使う赤ちゃんはいない。

攻撃性の塊で、親を殴りながら生まれてくる赤ちゃんもいない。

それら、親や周りの人の顔色を見て自分は出さず、人に合わせる環境の中で育ってきたり、自分の言うことが聞き入れらず、怒られたり攻撃性を向けられることがあっただろうと推測される。

また、「自分も親も無口な性格で、これは生まれながらのもので仕方ない」と言う人もいる。

これも、個人差はあるものの、自分が言うことを受け取り受け入れる相手(親)がいれば、極端に無口にはならない。

性格を表すこ言葉として、我がまま、自分勝手、明るい、暗い、几帳面、大雑把、おおらか、神経質、マイペース・・・などなど様々ある。

自分に自信を持てば明るくもなるだろうし、言いたいことも言えるようになる。

大人であっても人は性格を変えられる。

そのためには自分を知ること。

そして生きながら、死んで(=自分を否定して)生まれ変わる、これを積み重ねていくこと。

これを人としての成長・発展という。


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2009年2月 9日

分析家の独り言 194 (幸せを感じるとき:非行の息子に対応して)

(以下の文章は、クライアントの了解を得て掲載しています)

荒れた息子にオールOKをして、見事息子は立ち直り、立派に社会生活を営むようになった。

昔の悪の先輩の経験談を聞いて、両親に話しながら涙を流して笑い転げる息子。

それを聞いて同じように笑うクライアント。

ああ、よかったなと思うと言う。

非行から脱出する過程で、悪い仲間と関係を絶ち、1年間家にひきこもった。

コンビニやレンタルビデオを借りに行く以外はほとんど外に出ず、自室にこもり、急に降りてきては、母親であるクライアントに話をしてまた部屋に戻っていく。

そのつど、クライアントは家事の手を止めて、息子の話に聞き入った。

人に自分の想いをしゃべれる、受け取ってもらえる事がいかに大事かを知った。

息子が仕事を始めようと思うと言い出したとき、クライアントは「男は仕事を始めたら、一生働き続けることになるから、焦らなくていい。ゆっくり考えて」と言った。

それでも息子は、自ら「働く」と言って、働き出した。

今、オールOKをしたことが、クライアントの自信になると言う。

あちこちに攻撃性を向けて叩きまくっていた子が、笑い転げて話す、そんな息子を見ることができる。

活き活きとした子どもの姿を見られることに幸せを感じる。

物金に走る人もいる。

お金も無ければ暮らしてはいけない。

しかし、必要以上に物金に執着することが無くなり、これまで苦手としてきた人への興味が出てきた。

私はクライアントと、人は人を自分を知らずして生きる意味があるのか、と話しあった。


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2009年2月 7日

分析家の独り言 193 (自己決定能力を持つ)

人は自分で選択し、物事を決めていかなければならない。

不登校・ひきこもりの状態であった子が、何らかの動き・変化を起こす。

親はそれを見守り、時に子どもからの依頼があれば経済的精神的援助をする。

そして例え動いた結果、上手いかなくても、途中で頓挫しても決して責めないことである。

次どうするかをまた考えれば良い。

思えば、人生は選択の連続であろう。

自分の人生上の選択・決定を一時停止しているのがひきこもりの人達とも言える。

何かを選択することは、それ以外の選択肢・可能性を捨てることでもある。

この選択が正しかったのか、それはやってみないとわからないところがある。

だからこそ人は、自分を信じ勇気を持って、選択し実行していく。

しかし、この選択事態を他者にゆだねてしまったら、そうせざるを得なかったらどうだろう。

中には親に自分の生きる道のレールを引かれ、その上を歩まされる人もいる。

親はそれが子どものためと信じ、親の思う安全と確実さを子どもに押し付ける。

しかしそれで子どもは幸せだろうか。

生きがいや、やりがいを感じて、これが自分の生きた軌跡だと胸を張っていえるだろうか。

自分をしっかり持ち、自分の人生は自分で決めて歩く。

自分で決めたことなら、自分で責任も取れる。

人(親)に決められた道を歩かせられれば、後にそのことに気付き、子どもは無力感や、虚しさ、怒りさえ感じるだろう。

そして、上手くいかなかったとき、それを人のせいにして自分で責任を取らない。

それは未熟な子どもの自我である。

分析が目指すものの一つは、自己決定能力を持つことである。


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2009年2月 6日

分析家の独り言 192 (クライアントとの出会い)

今年に入り、ホームページのカウント数の上がり方が増し、それに伴うように分析依頼や講座、子育て相談室への参加が増えている。

仕事は忙しくなり、最近はまめにブログ(宣照真理のセラピー日記)を書くことがままならない状態になってきた。

しかし私としてはなんとか時間をつくり、皆さんが興味・関心を持てるもの、役立つものなどの情報発信をこれからもしていきたい。

分析依頼等で連絡をいただく方々は、HPやブログ、各サイトを読んでおられ、ある程度分析を理解してもらえているのでこちらとしても大変助かる。

わが師は言う、「出会いこそ人生の全て!」と。

様々なクライアントとの出会いが、また私に新たな気づきや成長をもたらせ、勉強させてくれる。

不安や自信のなさを抱え、現実の症状に悩むクライアントもいる。

早く楽にしてあげたいとこちらが焦ると、逆にクライアントの心の構造をみえなくしてしまう、自分をメシア(救済者)かのように思ってしまう。

常に観察者の目を忘れず、クライアントの語りを聴きながら、心の構造を理論をもとに見ていく、理解と共感を持って。

分析において初回面談で語り、分析者に「理解されたと感じられる」とクライアントに言われることがある。

このクライアントの想いが、分析者との信頼につながっていき、分析治療は進む。


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2009年2月 1日

分析家の独り言 191 (不登校・ひきこもり,子育て相談室)

京都府主催の青少年すこやかフォーラムに、ひきこもり民間支援団体として参加してきた。

京都府ひきこもり相談支援センター相談員の曽我氏によると、ひきこもりの長期高齢化がみられるという。

ひきこもり相談支援センターに寄せられる相談のうち
 年齢層                  年 数 
    25歳以上 55%            5年以上 40%
    35歳以上 18%            1年未満 25%      
 男女比 8:2

当研究所に不登校・ひきこもりで分析や子育て相談室に来られる方は、幼児~大学生と、20歳代、30歳代、40歳代の方がおられる。

年齢が若いほど、親の対応次第で子どもの状態に早く変化が現れる。

ひきこもりが長期にわたり、しかも高年齢化するということは、それを支える親御さんの年齢がもっと高くなり対応することが難しくなる。

もちろん、本人を分析することで自我を育て社会に出るようになるが、時間がかかることが多い。

そういう意味では、初期の対応が大事となる。

昨日のフォーラムの最後、ひきこもり民間支援団体合同説明会で、ネットで私のラカン精神科学研究所のHPを見たと言って来られた方がいた。

子どもさんがネットで見て、「自分の考えに近い」と言われたと。

次回2月6日の子育て相談室に参加したいということだった。

家族の理解と適切な対応があれば、子どもがいくつであってもしっかりした自我を持てる⇒社会に出て行く。

また、家族の理解と協力が得られない場合は、本人が自力で分析により、分析者とともに自我を育てて行くことになる。

学校へ行けばいい、社会へ出て仕事ができれがいいという、うわべの現象のみにとらわれず、ひきこもりの根本を知り真に人として社会の中で堂々と生きていかれることを願う。

毎月子育て相談室を開いています。

そこで、不登校やひきこもりの子どもさんへの対応法をQ&A方式で理論的に説明したり、症例をあげたりしながらアドバイスしています。
(不登校・ひきこもり限らず、非行その他、子育てに関すること全てに対応します)

どう接していいかわからない方、悩んでおられる方、参加お待ちしています

℡ 077-558-8766 または 050-3767-6283

携帯℡ 090-7357-4540

メアド:lacan_msl☆yahoo.co.jp ☆を@に変換したメールアドレスにメール送信願います(スパムメール対策


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2009年1月29日

分析家の独り言 190 (理論を知る、自分を知る)

あるクライアントが言う。

自分は仕事をし、税金も払い、立派に正しく生きていると思っていた。

しかし、子どもは問題を表した。

オールOKをし子どもがまともになって、分析理論を知りだすと、「自分はおかしかったのか」と思ったと言う。

自分は間違っていない、正しいと思っている限り、自分を振り返ったり、自己反省はない。

分析理論により、人間の発達とは本来どういう過程をたどるのか、心の構造はどのようになっているのかなどを知っていくと、自分のゆがみや、間違いを知ることになる。

「えっ、そうだったの」、「そんなの(例えば母による母性的世話)自分にはない」、「子どもにもしてきてないけど、自分もされてない」、「そしたら私は欠けてるってこと?」、などなど嫌でも考えさせられる。

「それを知ることは恐いが、それを知っていきたいとも思う」とクライアントは言う。

私もまず自分が分析を受け、分析理論を学んだ。

知らなかったことばかりで、これは生きていく上でも知らなければと思った。

クライアントのなかには、「理論を聞いて目からうろこが落ちた」と表現する人もいる。

まさにそんな感じがした。

だから、月2回インテグレーター養成講座を受けるために、新幹線で埼玉県の我が師のもとに3年間通えたのだろう。

そして今、同じようにインテグレーター(分析家)を目指す人や、分析理論を学びたいという人たちに、理論を伝えている。

いつも思う、この分析理論やオールOK!子育て法が、世間の常識当たり前のこととなって欲しい。

数学や英語もいいが、分析でいう発達論くらいは学校の授業に入れてもらいたいと切に願う。


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2009年1月22日

分析家の独り言 189 (症状・生きにくさを薬に頼らない)

携帯サイトを見たと、福岡出張前に電話をもらった。

精神科を探しているということだったが、精神分析という治療法を簡単に説明した。

丁度、何日か後に福岡に出張することを伝えた。

出張の前の日にまた電話が入り、時間が合えば福岡で分析を受けたいという依頼だった。

時間・場所・料金を告げ、了解され、福岡で実際にお会いした。

ある症状と共に、人間関係等生きにくさを感じ、これを何とかしたいということだった。

同じような症状の知人がいて、精神科の薬を飲んでいるが、薬には頼りたくないと言われた。

私も多くの心の病が薬で治るとは思わない。

生きにくさや、神経症やうつなど、様々な心の病・悩みは、心の構造を明らかにして、無意識にせまり、根本的にみていくこと。

このクライアントは、自己分析し、おそらくこのあたりに原因があるのだろうと考え、手順よく養育史を語ってくれた。

これだけの養育史があれば、この症状や生き辛さは当然と思い、よくこの程度でいられ、現在社会適応していると感心した。

人に自分の過去を話したこともあるが、一般の人には受けいれらなかったと言う。

それは無理もない。

過ぎ去った昔のことを話したところで、「それがどうしたの」と言われるのがおちであろう。

その過去の話に耳を傾け、そのことに意味を見出し、それを語ることが大事などと言うのは、分析家以外にはない。

まだ日本の社会では、精神分析というものの認知度が低く、このクライアントのように悩みや、心の病を抱えながら、それをどこで、どうすれば治せるのかを知らないわかない人が多い。

クライアントの話を聞き、クライアントが生きやすくなるために、分析家(インテグレーター)はこれから社会的に要請されると考える。

今回のクライアントも、このままではいたくない、何とか症状も生き辛さも無くしたいと言い、分析に取り組むと言った。

生き辛さを解消し、クライアントの笑顔と幸せをともに味わいたい。


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2009年1月18日

分析家の独り言 188 (オールOK失敗談)

年末から今年のお正月にかけて、久しぶりに風邪をひいてしまい、下の娘とお正月の三が日の間に三宮へ買い物にいくという約束が守れなかった。

早く風邪を治し、平日でも時間のとれる日をつくるからということで、1月9日に娘と出かけた。

神戸三宮は学生時代を過ごした懐かしいところだが、あれからもう30年近くが過ぎ、街の様子も変った。

娘が行きたいと言うところを回り、ランチを食べ、ハーバーランドへも足を伸ばした。

夕方6時過ぎ京都に戻り、娘にはお弁当を買って渡し、私はここから丸太町にある京都教育センターへいき、大文字(非行の親)の会に向かった。

大文字の会が終わったのが9時頃、それから大津の自宅に戻ったのが10時過ぎだった。

ご飯を食べる時間も無く、三宮へ買いものに行った続きで会合に出て、それなりに疲れて帰ってきた。

まずお風呂に入ろうと、お風呂のスイッチを入れて、お弁当を食べ終わった娘のそばに座った。

ここ1ヶ月前から、お風呂上りに娘の足に薬をぬって、さするということをしている。

両足に、蚊にさされたような赤い腫れができ、それがかゆくてかくと、皮膚が剥がれてかさぶたになる。

それが治っていくときに、色素沈着するのか茶色になって、それが多数あるため、足全体が茶色の斑点だらけとなる。

娘も私と同じ分析家に分析を受けているので、この足のことを話したところ、「優しく触れられたことがないんだね」と言われたと。

確かに、赤ちゃんのときには寝っぱなしの子で、それをいいことに放っておいた。

「可愛いね」といいながら、足をさすってやったことはなかっただろう。

そこで、薬を塗るとともに、優しくさすりましょうということをここ1ヶ月余り続けてきた。

ひどいのは足だが、手や腕、背中も少しかゆいと言うので、そこも薬を塗りつつさする。

それをすると20~30分ほどかかる。

娘に薬を塗らなければと思いながら、「今日ばかりは短めでいいやろ」と言った私の言葉が、娘には気に入らなかった。

私は、朝から仕事の都合をつけ娘に付き合い三宮まで出かけ、夜は仕事関係の会合に出た。

晩ご飯さえまだ食べていない。

こんな日くらいは、薬をぬってさすることも、少し短めでものいいだろうと思った、それで当たり前というか、普通。

ところが娘は全く違う思いでいた。

私の思いを主張すると、娘は「だから、あんたはだめなんや」

「薬をぬればいいとおもってるやろ」

「ただ薬をぬるだけなら、あんたになんか頼まない」

「この足を本気で治したい、それにはあんたがさすること。それが何にもわかってない」と、泣いて怒って訴えられた。

そうか、こんなにも人の思いは違うのかと思い知らされた。

私にとっては当たり前のことが、娘には全く通じない。

人は持っている辞書が違う=意味が違うため、同じ日本語を話しているから通じていると思っているが、それはどうも怪しい、そんなことをクライアントにも話してきていたが。

ラカンは人は誤解から始まると言うが、あらためてその通りだと思った。

自分の考えを訂正して、娘にあわすことか・・・辛いなと思いながらも、「悪かった」と謝って、「いつものように薬を塗ってさするから」と言った。

育ってくる過程で、主体性を奪われ精神的に殺され続けてきた私は、母親としてまだ自分を殺すことに、娘の立場に立って寄り添うことに抵抗があるようだ。

私もまだまだだなと思いつつ、こうして娘に鍛えられて、教えられるのかと苦笑。

自分を否定し、殺す(=自分の考えを改め、娘に寄り添う)ことによって、新しく生まれ変わり自分がまた成長していく。

自分を殺すこと=成長、と意味づけられると、自分が死ぬことが苦痛でなくなる。

自分を殺す辛さを、自分が成長する喜びに変えられるかどうかが勝負となる。


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2009年1月16日

分析家の独り言 187 ( 1月京都子育て相談室より)

個人の分析を受けつつ、子どもへのオールOKを頑張っているクライアントの方々が参加された。

いつも言われるのだが、子育て相談室に来て、質問をし、話を聞くと「ああ、そうだ、またオールOKを頑張ろう」と思うが、家に帰って子どもを目の前にすると、できなかったり、迷いが出たりすると。

オールOKされていない私たち母親が、頭でオールOKを理解し、それをすることが子どもにとっていいことだとわかっていても、それがすぐ実践できるかというと、これが非常に難しい。

皆さんに『オールOK!子育て法』をお話ている私自身も、長年分析を受けても、理論を聞いてもなかなかできずに、悩んだものだった。

参加されたお母さんも、オールOK、しかも敏速かつ的確にだが、ついすぐに対応できなくて、家事や用事の手が止められないと言う。

どうせ対応するのなら、子どもが「やってもらってよかった、お母さんありがとう」と思えるように、言われたらすぐに反応することが大事。

時間を置いて対応すると、子どもにはしてもらったときの喜びや満足度が違う。

どうせやるなら、子どもが満足を感じられるように、効果のある対応をして欲しいと話す。

「わかっているんですが、それがなかなかできなくて」と言われる。
 
それもわかる、しかし心がけて、少しでもできるように努力してもらいたい。

その努力がいつか実を結び、自然に体が動き対応できるときが来る。

ローマは一日にして成らず。

オールOK(子育て)も一日にして成らずである。

日々子どもに接する中での疑問や、迷いを聞いて、またお母さん方に頑張っていただきたいと思い、子育て相談室を開いている。


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2009年1月15日

分析家の独り言 186 (荒れる子どもにオールOKをして)

思春期から非行に走り、荒れた息子にオールOKで対応したあるクライアントがいる、そのクライアントの話である。

その息子が20歳代後半になり、家庭を持っている。

家業を手伝い、父と一緒に仕事の現場をまわることも多い。

その仕事先で、仕事仲間に「どうしたらそんないい息子に育つのか」と、父は聞かれる。

父親は、息子が荒れて大変だったときのことを知らないその仕事仲間に「昔は大変やったんやで」と言う。

そう言われても、真面目に仕事をする今の息子しか知らない人には、想像も付かないのだろう。

父親に聞いても、「どうしたら、そんなにいい息子に育つのか」の答えが得られなかったその人は、今度息子に聞いてきたと言う。

「どうしたら、あんたみたいにいい息子に育つのか」と。

息子は「自分も昔はやんちゃして、親に迷惑もかけました」と答えた。

そのことを、家でクライアントに父親も息子も話した。

息子は母であるクライアントに、「お前がどう育てたか、聞いて欲しいやろ」と言った。

クライアントは「いい息子に育てたかったら、分析を受けて。と言っといて」と息子に言った。


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2009年1月14日

分析家の独り言 185 (オールOKは子どもの好奇心を育てる)

あるクライアントの話。

お正月に息子たちがそれぞれ奥さんと子どもを連れて来た。

1歳過ぎの孫は、しばらくすると外に出たいと言った。

母親は外はすこし時雨れていて寒い、風邪をひくから、お家の中にいるように子どもに言う。

子どもは外に出たくて泣き出した。

クライアントは子どもが出たいと言うのだから、出てやればいいのにと思いながらも黙っていた。

ぐずりだした子どもに手を焼いて、それならもうそろそろ帰ろうということになった。

タクシーを呼んだが、正月のため、すぐには来ない。

クライアントは孫に「おばあちゃんと外で、タクシーが来るのを待とうか」と言って、孫の手を引いて外に出た。

途端に、孫の顔が変った。

家の前の砂利道を踏みしめて歩く孫。

これがしたかったのかとクライアントは思った。

そのうちに石を握って投げ、水溜りをわざと踏む。

なんと活き活きとした孫の顔。

子どもの言う通りにしたら、何でもないこととクライアントは言う。

その通りである。

風邪をひくから外に出てはいけませんと言った母親、実は母親が寒いのに子どもに付き合って外に出るのが嫌。

風邪をひかれて手がかかるのがまたもっと嫌ということではないか。

子どもの興味・関心をこういう形で無視していないか。

日常の何げないことだが、ありがちなこと。

私も我が娘が小さいころ、同じようなことをしていただろうと思うと、反省。

こうしてオールOKすると、子どもの好奇心や能動性を育てることになる。


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2009年1月10日

分析家の独り言 184 (我慢も抑制も子ども自らが学ぶ)

母親は自分の理想を子どもに投影する。

子どもは母のまなざしの中に映った、母が想い描いたイメージを自分の像として受け取る。

本来自己像は、自分でつくるものである。

こういう自分になりたいと自分の象徴界(言語)をもってつくった自己像であるべきである。

3歳は3歳なりに言語をもっており、これが欲しいという自己像がある。

ところが、あれもこれもそれも欲しいと言うと、母は「どれか一つにしなさい」と言う。

すると、子どもは1個を選ぶ自分が、親が自分に求めた自己像であると覚り、不本意ながらそれを自己像にしなければいけない。

こうして、本当なら三つとも欲しいが、1個に限定する自己像としなければならなくなる。

そうでなければ自分を受け入れてもらえないため、3個を選ぶ自分は排除される。

本来は、「3個欲しい」と言って、母が「いいよ」と言ったときに、子どもの欲望と母の承認により一致し、「私は3個欲していいんだ」となる。

こうして、その欲求はOKですよと親に承認されることにより、子どもの健康な自己愛、自己肯定感をつくる。

これも親のオールOKによる。

ところが多く親は、子どもが欲求を断念し、我慢したことに「我慢して良い子ね」と褒め、要求を断念することで報酬が得られるメカニズムが子どもの中にできる。

それどころか、わがままだ、贅沢だと否定されたり、怒られることさえある。

そうして我慢強い子になっていく。

しかしこの我慢の行き先は、抑圧されて欲求・欲望を表現できず、出せなくなる。

全ての欲望は断念させられる。

このときこの子は「良い子ね」と言われるが、それは「あなたは死にました」ということと同じ意味である。

子どもが全ての欲望を断念したときから、親は子どもに「あれ買って」「これして」と言われなくなり、安心していられるため、喜ぶ。

それを分析のように、「欲望を断念することはよくないから、もっと欲望を出しなさい」というと、世間からは非難される。

子どもが欲望を断念することに賞賛を与えて、不健康な自己愛を子どものなかにつくる。

親が承認したもの=善、親が不承認したもの=悪であり、善悪のメカニズムが組織化されていく。

それら親の対応によってつくられる。

では、断念した欲望はどこにいくのか?

我々は多くの欲望を断念してきた。断念した分だけ「良い子だ」と言われ、欲望を出した分だけ「わがままだ」と言われた。

断念した欲望は、意識上、記憶としてはなくても、情動と共にいつまでも心の中、無意識下に残り、しまわれる。

そして断念した欲望の墓標とともに墓が立てられる。

これが(夢分析において)夢で、嬰児の死体、バラバラの物・身体、肉片、腐った野菜として出てくる。

欲望を断念することは=自分を殺すこと。自分を生かすことは=欲望を出すこと=わがままな人間になること。

このわがまま(世間ではこういわれる)な、自分を生かせる子どもにするためにオールOKをする。

これを知らないで皆、子どもを殺している。

理性も抑制も我慢することも子どもが自分で学習することである。

親から押し付けられたり、教えられるものではなく、抑制する精神を子どもが自分で学ぶのである。

与え続けられた人間は、「こんな私でも、親はここまでしてくれた、申し訳ない」という気持ちが発生する。

この「申し訳ない」、「悪いな」と思う心が抑制する心をつくる。

すると欲求がどんどん減ってくる。

親はそこまで子どもがいけるように、財産をはたいてでも与え続け、子どもの欲求に答え続ける。

それくらいの気概でやらないと、子ども自らが我慢や抑制を学習することはできない。


上記の文章はオールOK!子育て法のページ(終わりに)にも掲載しています

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2009年1月 8日

分析家の独り言 183 (松戸の3児死亡火災、母親は出火当時「実はパチンコ中」より)

以下ネットの記事を抜粋したものです
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1月7日22時35分配信 読売新聞 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090107-00000071-yom-soci

千葉県松戸市の常盤平団地4階で田之口舞さん(23)方が全焼し乳幼児3人が死亡した火災で、舞さんが出火当時の6日夕、パチンコ店に行っていたことが、松戸東署の調べでわかった。

 同署幹部によると、舞さんは当初、「午後3時半に家を出て、松戸市内の病院に行っていた」などと説明していたが、自宅近くのパチンコ店の防犯カメラに舞さんが映っていたことが判明。同署で改めて尋ねたところ、「6日は午前10時からパチンコに行き、午後2時40分に戻った。午後3時10分からまたパチンコに行ったが、言いたくなかった」と話した。家を出る際は、鍵を掛けていた。

 遺体で見つかった3人のうち、長男の翼(たすく)ちゃん(4)と長女の海美(うみ)ちゃん(6か月)の身元は確認された。
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テレビのニュースでこの事件を見たとき、病院に行くにも生後6ヶ月の乳児を置いて行くのか、と疑問を持った。

4歳なら置いていっても良いかといえば、そうではない。

しかも病院ではなく、パチンコに行っていたという。

朝10時から午後2時40分までの約4時間半余りを、子ども三人だけにいておいたのかと驚いた。

午後2時40分に戻って、子どもたちにご飯を食べさせ、また3時10分からパチンコに出かけたということだが、子どもはご飯を食べさせておけば良いというものではない。

ご飯を食べさせれば、身体は何とか育つが、母親がそばいて愛着を持って世話をしないと、子どもの心は育たない。

クライアントの声にも、「分析を知るまでは、子どもは食べて、寝て、着させて、学校に行かせていれば育つものと思っていたが、そうではなかったんですね」というのを聞く。

私自身も、分析を知るまでは人間の心の発達に、親特に最初は母親がここまで大きな影響を及ぼすものとは思わなかった。

だからこそ、分析理論でいう発達論や心の構造を、せめてこれから親になる可能性のある人や、今親である人達に知ってもらいたいと切に思う。

無知であることの悲劇が多い。


ある症例を紹介する。

ハイハイから、やっと伝い立ちができるようになった生後1歳未満の乳児の母親は、夏の暑い日に子どもが寝ている間に買い物に出かけた。

すぐ帰るからと、クーラーをつけて、部屋を締め切り、玄関に続くドアも閉めた。

買い物を終えて急いで帰ってきたが、玄関で子どもの泣き声がする。

子どもは母が出かけた間に目が覚め、母を探したのだろう。

そしてまだ歩けないのに、必死でドアノブに手をかけ、小さな手でドアを開け玄関までたどり着き、母を求めて泣いていた。

母親は「ごめんね」と声をかけ、子どもを抱きしめたが、その後の半年間、子どもは家にいても、出かけるときも玄関に続くドアを閉めようとすると泣いて訴え、閉めさせなかったという。

たった1回でも、子どもの心に目覚めたときいるはずの母親がいなかったときの寂しさ、心細さの傷が残ったことの証であろう。

その後子どもを一人置いて買い物に行かないことと、子どもをできるだけ抱くようにしてもらったが、その心の傷を癒すのに、半年かかったということである。


この事件で亡くなった子ども達が、日常的に子ども達だけにされる時間があったのか、それともこのときたまたまだったのかそれはわからないが、どれほどの心の痛みを抱えていたかと思う。

こういう痛ましい事件が起こらないように、親は子育ての大切さと、子どもはどのようにして発達していくのか、そしてそのためにどう対応し世話することがいいのかを知って欲しい。

亡くなられた子どもさんのご冥福をお祈りします。


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2009年1月 6日

分析家の独り言 182 (私の生きる意味)

昨年末より、自分のなかで問いかけていたことがある。

自分の生きる意味である。

なんのために自分は生まれてきて、なんのために生きるのか。

自分の人生は生きるに値するのか。

この答えは、どこにもない、自分で意味づけるのみである。

私はこう意味づけた、「本当のこと、真理を知るために生まれ、生きていく」と。

そこに自分の存在意味を見出した。

分析家仲間の「分析をするために生まれてきた」という言葉を聞いて、自分のなかでくすぶっていたものが回り出した、「じゃあ、自分は何のために・・・?」

親は大人は、子どもである私に、ああだ、こうだといろんなことを語った。

親は自分が正しいと思うことを、子どもである私に押し付け、言うこと聞かなければ見捨てるぞと言った。

子どもながらに、それは違うだろうと思うことがあっても、親の言うことを聞かなければ、あの家には居られなった。

そうして嫌でも聞くしかなったことが、未だに私に影響を及ぼしていることがある。

そのことの一つ一つを検証しなおして、そのことの真否を、答えを出していく。

人は完璧ではない、間違うこともある。

代々受け継がれた間違いを、私の代で見直し訂正していき、本当のことは何か、真理は何かを求め続ける。

その基本となるものが分析理論、フロイトやラカンの説いた精神の構造であろう。

分析は生きることそのものだから。

自分で物事を考え、しかし人の意見も聞いて、最終的には自分で物事の善し悪しを判断できる、行動できる心の構造を私より後の子どもたちに残していきたい。

分析を続けてこられたのは、悪しき伝統は私の代で清算し、少しでも良いものを子どもたちに残したい、自分のような人間はもうつくりたくないという想いであった。

そのために、分析を通して自分を見つめ続け、自分を否定し殺し、生まれ変わる作業を積み重ねてきた。

それが今、私の生きる意味として結論づけられた。


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2009年1月 4日

分析家の独り言 181 (年頭にあたり思う)

昨年末から久しぶりに風邪をひき、寝込むまでにはならなかったが、のどの痛みや咳に悩まされた。

クライアントは真剣に自分に向き合う覚悟で分析に来るのだから、仕事に穴は空けられない。

私の代わりをする人もいない。

この仕事を始めてからは特に、自分の体には気を使い、風邪などひかぬよう気をつけてきたのだが。

何を身体化したのかと考えた。

思い当たることがある。

それは、これからもう少し自分のなかで咀嚼し、しっかり意識化し行動化していく。

我が師は、分析家も生身の人間、全く身体化しないのもおかしいという。

確かに、身体化という身体の反応によって、また自分を振り返り考える機会となる。

それもまた良し。 

自分との戦いになりそうだ。

それによって、また一つ階段を上がることになるだろう。

そんなことを考えながら2009年の正月を迎えた。


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