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分析家の独り言(コラム) アーカイブ

2010年3月 9日

分析家の独り言 328 (娘の引越しNo.2:娘の出立)

7日(日)、午前中京都での仕事を終え、レンタカー(ライトバン)を借りて、娘の残りの荷物を運んだ。

久しぶりの運転に少し緊張しながら高速道路を走り、途中ご飯を食べて、4時間かかった。

到着に合わせて、ガス器具や洗濯機を業者に取り付けてもらい、荷物を運び込んだだけの部屋を娘と二人片付けた。

新築の物件で、何もか新しく気持ちがいい。

娘の城なので、「トイレ使っていいい?」などとトイレやお風呂を使うのにも気を使う私がいた。

少し変な気分だった。

夜になって、足りない家電(掃除機や電気ポット)や雑貨(洗濯ざおなど)を一緒に買いにも回った。

私は翌日8日(月)午後から大阪で仕事があるため、朝7時前に向こうを出て、10時には家に戻った。

娘も学校へ行く用事があると、また一緒に車に乗って帰って来た。

部屋を借りるための諸費用、家電製品(一部は娘が買った)、2度の引越し費用、雑貨の一部は私が出した。

3月半ばから働き出すが、働いたその日から給料が出るわけはないため、給料が出るまでのお金のことを娘に聞いた。

もちろん言われた額を出すつもりで。

ところが、「以前におばあちゃん達からまとまったお金をもらったのがあるから、それで何とかする」という答えだった。

「もし足りなくなったら、振り込んで欲しい」と娘は言った。

私は「わかった、じゃあ足りなかったらいつでも言って、振り込むから」と言った。

私は娘がいくらいると言ってくるだろうと思った。

ところが自分でやりくりしてやっていこうと思っているようだった。

それを「いや、出してあげるから」と私が言ってしまうと、せっかくの娘の自分でやろうという気持ちを台なしにしてしまう。

余計なことはしない、言われた事だけ言われた通りにした。

そして娘は、今朝私が電話セラピーをしている間に自分の新しい家に出かけて行った。

私は仕事の合間に私の部屋に置いてある娘の服を片付けかけた。

ガランとした娘の部屋、「もうここであの子が暮らすことはないんだ」と思った。

買い物に行って、娘の好きなものを考えながら献立を考えることもない。

この娘の食事さえ作らなくてよくなった。

ほぼ毎朝4時半に起きて、娘のお弁当・朝食を準備することもない。

廊下にあふれ出した娘の荷物にけつまずくこともない。

私は娘が出ていけば、ホッとするだろうと思っていた。

ところが自分でも意外なほど何とも言えない寂しさがある。

晩ご飯の買い物をしながら、「あの子にとって私はいい母親だっただろうか」と思ったら涙がこぼれそうになった。

もっとしてやればよかった事、もっと声をかけてやれた事はなかったか、いろんな想いが娘がいなくなってから浮かぶ。

人は無くしてから、その存在の大きさや大切さに気付くのかもしれない。

テレビドラマのセリフにあった、「子どもと一緒にいられる時間はそう長くはない」と。

一緒にいる間にどれだけの事がしてやれるだろう、そして、してやれただろう。

2度の引越しに、少々無理をしても、嫌な顔をせず娘に付き合った自分は褒めてやりたい。

また、母親が分離不安を克服していないと、子どもの自立を無意識に阻む可能性は大きいと再認識した。

もう一人私のもとに下の娘がいる。

この娘との時間も大事にしていこうと思う。

いつまでもいるわけではない、いつかは自立して行くのだから。

そのとき後悔や想いを残さず、笑顔で送り出せるように。


分析家の独り言327(娘の引越し)

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2010年3月 2日

分析家の独り事 327 (娘の引越し)

昨日、自営業を営む兄に頼んで、この春就職する娘の引越しをした。

それが初めは、卒業式の二日後に引越ししたいというので、その予定で兄にも頼んでいた。

娘は21日の卒業式と卒コレ(自分達がチームを組んでデザインし作った服のファッションショー)の準備に忙しく、家に帰ってくる暇もなく、友達の下宿に泊めてもらうことが多かった。

卒コレの後は打ち上げで、帰りは次の日22日と言う。

引越しの準備などまだ一つもできていない。

それで23日に引越しが出来るのかと私は内心気を揉んでいた。

案の定、直前になって23日の引越しをキャンセルしようかと思うと言い出した。

いくら兄とはいえ、引越しのために仕事をあけていてくれるだろうに、えらい迷惑をかけることになる。

娘本人が兄に電話連絡を入れたが、私もわびの電話を入れた。

その時、娘にえらくキレて怒られた。

私が23日の引越しを前にメールや電話を入れたとき、「おっちゃん(兄)に連絡しろ連絡しろとひつこい」と言って。

私はまさか娘に怒られるとは思っていなかった。

私が入って仲介役をするより、直接詳しい打ち合わせをしてくれれば良いのにという思いと、兄は仕事をあけて引越しのつもりをしてくれているのに、キャンセルするならするで、相手にかかる迷惑を思い早めに連絡するのが常識でしょうと思った。

それをひつこいと怒るのか?

ふと考え、思い出した。

そう言えば祖母も母も口うるさかった。

「電気を消したか?」、「つけっ放しだった」、「あれをしたか」、「これをしたか」、「早くしなあかんやろ」等と。

自分ではそんなに言ったつもりはないが、娘はひつこいと感じたのか。

そこには、私の常識と娘の常識の差や、他人からいい加減と思われたくない私、育ってくる間に染み付いた強迫神経症的ひつこさがあったのか、いろいろ考えた。

娘はキレて怒った時には、ご飯もいらないと食べなかった。

昔の私なら、それ以後も食べたくないなら食べなくていいと放っておいただろう。

子ども時代に私が娘と同じ事を母にしたら、そうされていた。

やはりされたことを人はするんだなと思う。

無意識に刻まれたことを、また再生し再現するのが人間。

それはそれとして、もちろんご飯を食べるか聞いていつものように世話した。

そして昨日引越しをしたが、思っていたよりも荷物が多く、一回では運びきれなかった。

今度は精密機械(ミシンやパソコン等)を運ぶので、レンタカーを借りて私が片道3時間余りを運転して欲しいと言う。

それもまた、いきなりで仕事の予定もある中でである。

仕方なく、無理を言ってクライアントに分析日程を変更可能か聞いて変えてもらい、何とか時間をつくった。

もちろん娘の機嫌は良さそう。

これも子どもに振り回されるということか、何とかなったのだからこれで良かったのだと自分に言い聞かせ納得した。

分析をオールOKを知らなければとても出来なかったこと、また悪しき伝統は一つ書き換えられたかと苦笑いである。


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2010年2月26日

分析家の独り言 326 (無意識:子ども時代を再現する)

人は無意識に子ども時代を再現する。

例えば、怒られ叩かれて育った人は、配偶者との間でまたその子ども時代を繰り返す。

相手を怒らせ、自らまた叩かれるような場面を作り出す。

こういう無意識があることをほとんど人は知らない。

この無意識に気付き、本当なら避けたいはずの暴力を自ら相手から引き出しているとわかれば、この暴力を回避することは出来る。

ここに、人との間に『共謀』というものが起こる。

それは夫婦の間で顕著で、親子の間でも起こるし、ほとんどの二者関係において起こりうる。

無意識は意識できない意識であるため、それがあることさえわからない。

しかし、このあることにも気づかない無意識に人操られ生きているとしたら、何と虚しいことか。

そのために人は、なぜ自分はこんにも生き辛いのだろう、なぜ相手はいきなりキレて攻撃性を向けてくるのだろうと悩む。

まさかその悩みの原因を自分が作り出しているとは知らずに。

決して暴力を振るう側を擁護しているのではない。

暴力を行使する側もイライラしており、攻撃性を出したからといってそれでスッキリしているわけではない。

互いが嫌な想いをしながらも、この暴力は繰り返されることになる。

この両親を見て育った子は、また親と同じ争いあう夫婦関係をつくる可能性が非常に高い。

こうして攻撃性を向け合うという関係が、世代連鎖されていく。

この連鎖を止めるには、それぞれが自分の無意識に気付くことである。

少なくとも、夫婦のどちらか一方が気付ば、共謀は止まる。

これら無意識に焦点をあて、無意識、コンプレックスを解消していくのが精神分析である。

そうすると当然、マイナスの現象(暴力・イライラ・争い等)は治まり心は穏やかになり、人生を楽しめるようになる。


(無意識論は、インテグレーター養成講座 基本編第一巻 13,14番目に解説する)

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月刊精神分析2009年4月号 なぜ分析で病が治るのか

月刊精神分析2009年5月号 精神分析家をえらびますか?

2010年2月23日

分析家の独り言 325 (2010年2月京都子育て相談室より:オールOKによる子どもの変化)

2月の『子育て相談室』に、2月初旬に子どもの非行のことで分析に来られたクライアントが新しく参加された。

ラカン精神科学研究所のホームページ、各サイトを見て電話連絡が入り、非行の子どもさんへの対応法、オールOKをお話し、あれから3週間がたった。

個人的なことなので、詳細はこの場で語れないが、分析後ご夫婦で話し合い、オールOKすることを決め実践したという。

わずか3週間ほどで、子どもの様子が変わってき、落ち着いてきたという。

参加した他のお母さん方から、「えらいね」、「すごいね」の言葉が聞かれた。

オールOKを実践された内容、子どもへの言葉がけ等聞くと、確かにやっておられることがわかる。

大したものと、私も感心した。

オールOKをすれば、やはり子どもに良い変化をもたらすことが顕著になる症例であり、私もまた学ばせてもらった。

もちろんこのお母さんも初めから、オールOKをすんなりできたわけではなく、2年ほど自分なりに試行錯誤し、苦悩し、泣いた末のことである。

この方いわく、「2年前の自分なら、オールOKをできなかっただろう」と。

最初は、子どもが悪いと、責めたり、すかしたり、言ってきかせるなどする。

それをしても子どもは聞く耳を持たず、ますます荒れていく。

大体非行の子どもは警察のお世話になるようなことをしており、親は学校や地域社会で肩身の狭い思いをする。

そのうちに、子どもやその友達責めていた親は、これはどうも違うと思いだし、自分の子どもへの対応の仕方を振り返りだす。

だんだんと親も折れて、子どもの言う事を聞かざるを得なくなる。

結果、子どもの意向に添うことになっていくが、私達のいうオールOKとはまだまだかけ離れているため、何とか落ち着いてはいくものの、根本的解決更には子どもや親の精神的発達までには行かない。

我々の言うオールOKは、中途半端な解決ではなく、親子のその後の人生を充実した有意義なものにしていける。

親子の間に信頼関係などの人間関係を構築していく基礎をつくり、子どもは親に受け入れられ、与えられ、認められて健康な自己愛・自尊心を持つ。

自信と自己への価値、肯定感を持ったなら、人は発展的に生きてくことが出来る。

それをした親もまた同時に学習し成長する。

取り組むだけの価値はあると自負している。


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2010年2月22日

分析家の独り言 324 (娘の卒業式)

私事だが、昨日娘の卒業式に行った。

「卒業コレクション」と言って、2~3人一組で服をデザインし縫い上げた服を、モデルが着てファッションショーが行われた。

娘がおばあちゃんも来て欲しいというので、80歳を超えた母と一緒にこの卒業コレクションと卒業式に出かけた。

高校を卒業して4年間働いたが、突然「デザイナーになる」と言い出し、服飾の専門学校に通った。

前の職場でお世話になった人たちも、わざわざ見に来てくれた。

この場を借りて、御礼申し上げます。

娘のために来ていただきありがとうございました。

3年間滋賀県から大阪まで通い、ボタン一つとれても付けたことのなかった子が服を縫った。

3年前入学した当時は、こんなに服が作れるようになるとは想像できなかった。

人間、好きなこと・したい事を見つけることは大事なこと。

3年の間には辛いことも苦しいこともあっただろうが、よくやり通した。

おかげ様である地方都市に就職も決まり、3月には引越し、また社会人となる。

卒業制作に忙しいからと、去年の10月に住む所も一緒に見に行って決めてある。

この娘が、「パリに留学したくなったらどうしよう」と言った。

卒業生たちの中には、いったん就職して海外に留学する人たちがいる。

私は、「行きたくなった、またその時考えればいいやん」と答えた。

ようやく専門学校を卒業し、就職も決まりホッとしたところだが、また留学したいと言えば、そのための費用は用意しておいてやらなければいけないと思った。

娘の「留学したくなったら・・・」という言葉に、「まあそれもいいでしょ」と思える。

私も好きな仕事をして、趣味のバスケットを楽しんでいる。

やりたい事がある、好きなことが出来ることは幸せなことである。

人生楽しんだ者勝ち(笑)。


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2010年2月18日

分析家の独り言 323 (オールOKする意味)

「オールOK!子育て法」について質問をいただく、何か子どもに問題が起きたらオールOKするのかと。

子どもに何か問題が起きてからオールOKするのではありません。

生まれたその日から、いえ母親のお腹の中にいる時から子どもを想い配慮します。

小さい頃からオールOKで育った子は、しっかりとした自我を形成し、主体性を持っていますから、何か困難なことにであったり、迷った時、自分で考え自分で最善の道を選択していきます。

もちろん親や周りの人に相談することはあります。

しかし最終的に決めるのは本人です。

また好奇心旺盛で様々な事に興味を持ち、自ら動くエネルギーがあります。

オールOKされ思いやりや配慮されているため、それをまた周りの人にすることができます。

それは人から良く思われたいからではなく、自然に人のことを思いやる行為としてです。

子どもにとって思春期(早い子は小学校高学年から中学・高校生あたり)は子どもから大人になる過渡期であり、精神的にも不安定になる大変な時期です。

この時期をある人は「疾風怒濤の中」と言ったり、また「気違い」と表現されることさえあります。

不登校や非行など子どもの問題行動がこの時期に多いのもこのためです。

子どもにとってこの大変な時期は、大きな荷物を背中にしょって険しい山道を延々と歩くようなものですから、出来るだけ楽に超えさせてあげたいものです。

それを「これはだめ、あれもだめ、こうしなさい・・・」と親や大人たちがうるさく言うと、さらに子どもの負担は大きくなり、大人の世界への移行が上手く進みません。

どの時期に限らず子どもにオールOKで対応し、親子の間に信頼や絆、親密感を築きましょう。

この親との関係性をその他の人間関係に広げていく基礎をつくのですから。


(上記の文章はオールOK!子育て法 のサイトに追記したものです。)

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2010年2月16日

分析家の独り言 322 (人生シナリオを書き換える)

交流分析の中に人生脚本(シナリオ)という理論がある。
インテグレーター養成講座 第一巻 No.25で解説)

クライアントの分析において、常に出てくるテーマの一つである。

我々は親から日常の細かなことから、生きていく上での指針に至るまで
様々なメッセージを書き込まれ、そのシナリオで生きている。

この量が膨大である。

これらのメッセージ・シナリオを一つ一つ検証し、書き換えること。

これらのシナリオを全て排除し、自分の価値と考えで作った自分のシナリオで生きていくこと。

分析の最初は、この作業に多くの時間を費やすことになる。

いつまでも親のシナリオで生きていたなら、真に自分を生きたいとは言えない。

しかしこれもほとんど無意識のレベルで行われているため、自分が親(他者)のシナリオで生きているとは思っていない。

他者のシナリオで生きていたなら、充実感や達成感が感じられないだろう。

いつもどこか違和感やズレ、虚しさが伴うだろう。

それが生きにくさや、精神的病理や様々な不適応を生むこともある。

育つ過程で、シナリオを書き込む側(親)の圧倒的な情報量と養育する側という立場の強さと、書き込まれる側(子ども)の象徴界(言語)の貧弱さと養育される側という立場の弱さ・未成熟という両者の不均衡がある。

対等で均衡が保たれていたなら、親のメッセージやシナリオを「これは取り入れよう、これは自分にはいらない」と取捨選択することも、「それはおかしい、間違っている」と非難の仕様もある。

ところがそもそも子どもは親に勝ち目はなく、両者の関係は破綻している。

だからこそ、親は子どもへの言葉がけに細心の注意を払うことが大事。

親にとっては良かったかもしれないが、それが子どもにそのまま当てはまるとは限らない。

親自身もその親から渡されたシナリオで生きていることが多い。

すると代々このシナリオが世代に受け継がれていく。

下の代になるほどその歪みやズレは大きくなり、悲鳴を上げドロップ・アウトすることになる。

それがひきこもり・ニート・非行といった問題にも出てくる。

親は絶対ではない。

間違うこともある。

上を行く者・先を生きる者が真理を知り、間違いを後続する者(子ども)に伝えないために、分析に取りくむ価値はある。

自分の間違いに気付き、正すことの勇気を持つことは、人間の強さの一つであろう。


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 月刊精神分析 2010年2月号 依存症とは(覚せい剤など)


2010年2月10日

分析家の独り言 321 (死んで生きる)

分析において、これまでの自分を否定してきた。

否定するとは殺すということでもある。

今更甘えたい、頼りたいなどということは無いと思っていた自分。

子ども時代に甘えることが出来ず、あきらめ抑圧していった。

しかし、甘えから満足して離れたわけではなく、あきらめたのだから無意識下には子ども時代のまま眠っていた。

親に命令指示され、支配され自分の意志で生きてこなかった自分を知った。

悲しく悔しいがそんな自分を認め、誰かに支配されて生きるのではなく、私は私の意志で主体性を持って生きていく方向にシフトした。

自分を知って否定することは、自分の成長であるとわかった。

否定なきところに成長は無い。

我が師、惟能創理氏は、自分で自分を否定する構造を名前(インテグレーター名)を変えるということで表現した。

これまでの自分の名前を否定するところから、新しい自分が生まれる。

どんどん名前を変えていく、これこそ自分の成長の姿であると。

それは、墓碑銘、墓石を建てていくようなものである。

死後に戒名をつけるのではなく、生きている間に自らを殺し(否定し)、新しく生まれ変わるとともに改名する=墓石を建てる。

そういう意味では、毎日死んで生まれての繰り返しである。

死んでから墓石を建てることに意味は無い。

歌にもある、「私のお墓の前で・・・そこに私はいません 眠ってなんかいません」と。

「主体にしてみれば、自らは否定されていくことによって逆に生きのびてゆくことができるといえるだろう」(ラカン)

殺されるから生きられる、殺されなければ生きられない。

このためフロイトは「子ども時代はもうない」と言って、クライアントを否定した。

否定されること=殺されることは、これまで自分が良しとしてきた考えや価値を捨てることでもあり、それはこれまで生きてきた自分の生命の死と感じられるため、そう簡単には殺せない。

子ども時代にしがみつき、精神の成長がとまっていた私も、分析家に否定され(殺され)、生まれ変わり自らの意志と足で歩み出した。

自らの力で生きていることの充実感を知った。


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月刊精神分析2009年01月号 運命は名前で決まる

 月刊精神分析 2010年2月号 依存症とは(覚せい剤など)

2010年2月 7日

分析家の独り言 320 (滋賀インテグレーター養成講座第回:母性より)

2月1回目のインテグレーター養成講座は、自我論Ⅳ(母性)の続きを講義した。

「母性とは」の中で、「母自身がその母との、母 - 娘葛藤を未解決のまま現在に持ち越し・・・」というのがある。

ほとんどの人が「母 - 娘葛藤」を未解決のまま現在に持ち越し」ている。

反対にこの葛藤を解決していたり、我が子の養育場面に持ち込まないことの方がまずまれである。

子どもを育てている母自身にも、その母との母 - 娘関係がある。

子育てしている母も、子ども時代には母に愛着行動を示し、母に甘え、ベタベタとくっつきまとわりついた。

いつも私を見て、私の話を聞いてと母の愛情を求めた。

しかし、母はいつもこれらの要求に応えてはくれなかった。

母にまとわりついたが母は今忙しいからとそれを拒絶し、子どもであった自分の要求は頓挫することがあった。

この要求拒絶が繰り替えされ、母への愛と憎しみが発生する。

要求を受け入れてくれたときには、母に愛を感じる

要求に応えてくれないときには、母に憎しみを感じる。

この愛と憎しみの葛藤を未解決なまま母親になると、子ども時代に自分の母に愛を感じた母と、憎しみを感じた母を、我が子に無意識にランダムに出してしまう。

この母は、子どもを食べてしまいたいくらい可愛く思うときと、殺してしまいたいくらい憎らしく思うときがある。

また、子どもが母に求めてきたときに応えるのではなく、母が子どもを可愛がりたいときに可愛がり、関わる。

これでは子どもはうっとおしいだけである。

子どもが「抱っこして」と言ったときには、「今忙しいからダメ」と言い、子どもが要求していないときに母の気分で抱っこする。

子どもへの対応がちぐはぐで、こうした矛盾した行為に母は気付かない。

母は自分が子どもを可愛がり、憎たらしいときに憎たらしいと思っているため、母の主観では一貫していて、矛盾しているとは思っていないのだ。

むしろ自分の子育てには間違いがないと確信していたりする。

この母は子どもの主観に立てず、子どもへの配慮が出来ない。

母自身がその母との葛藤に目を向けず、それを無意識に我が子の養育場面に出していることがわからない。

こういった対応を子どもにしていると、子どもは何らかのサインを出す。

それにも気付かずにいると、様々な問題行動として表面化してくる。

それが不登校、ひきこもり、非行などに至る。

母がその母親との関係を見直し、その葛藤を解決していくと、当然子どもへの対応が変わる。

ランダムに無意識に、いい母と悪い母を出すことがなくなり、子どもは安定してくる。

まず無意識に気付くこと。

それを精神分析を通して見、書き換えていく。

更に精神分析理論を学んで、自分を知り、子どもへの対応に活かそうとするお母さん方が居る。


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2010年2月 4日

分析家の独り言 319 (分析とは自分を知ること)

分析依頼と共に、様々な相談を受ける。

神経症、うつ病などの精神疾患はじめ、社会適応しながらも生きにくさを感じている人、子どもの不登校・ひきこもり・ニート・非行などの問題、夫婦間の問題等々。

子どもの問題に関して、親御さんが相談に来られる場合、子どもへの具体的対応法をお話しする。

同時にその子を育てた親(母親)を分析し、自分をしっかり見つめ、子どもは自分のコピーであること、何らかの問題が起きたその原因を知り、母親に変わってもらう。

その変わった母親が対応することで、子どもも変わる。

また親は分析を受けず、子どものみが分析を受けるケースもある。

親子共分析に取り組まれるクライアントもおられる。

精神疾患であれ、生きにいくさであれ、その他様々な問題も、分析により心の構造を見ていき、クライアントが自分を知って気付き、変容していく。

臨床をしていると、精神を病んでいるからとか、何らかの問題を解決したいから分析を受けるのではなく、結局のところそれらは単なるきっかけでしかないのではないか。

分析は知ることを楽しいと感じる人が受ける。

病んでいる人にも適応できるが、病んでいる病んでいないということより、人間として自分を知るという喜びを味わうものである。

自分のことを振り返って、私は月に一度分析家が京都に来られ、分析を受けるのを指折り数え楽しみに待った。

何も知らない私に分析は智を与えてくれた。


この分析家は言った、「分析を知れば人生のからくりがわかります」と。

この言葉に導かれて来た。


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2010年2月 2日

分析家の独り言 318 (欲望の運動)

フロイトは「子ども時代はもうない」と言った。

クライアントは、様々な理由で楽しい子ども時代・学生時代を送れず、そのことを後悔し今も取り返したいと思っている。

しかしまた、そのものはもう無いということも知っている。

取り戻したい気持ちと、もうそこには帰れないもどかしさを抱え苦悶する。

そのままではいつまでもこの葛藤に執着し、動けない。

だからこそ過去を語り、整理をつけ、どういう自分だったか、なぜ納得のいく充実した子ども時代を送れなかったかをもう一度しっかり意識化した後、葬り去る。

人は無いとしっかり認識すれば、そのものを手に入れようと動き出す。

無いものを無いままにはできないから、今の自分として手に入れられる形で。

否定し、そこから生まれるものがある。

この無いと否定することにまず苦痛を伴う。

そこには、死んでいた(主体を抹殺された)悲しい自分がゴロゴロしており、それを見なければならない。

これを見ずに、「無い」と否定することは出来ないからだ。

無いと否定したものがファルスとなり、ファルスをもとに欲望の運動が始まる。

動き出した運動は止まることなく、動き続ける。

この運動が生きる充実感になる。


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2010年1月31日

分析家の独り言 317 (信頼)

分析を受け子どもに対してオールOKをしていき、同時に自分の育ってきた過程を振り返る。

しんどいながらも子どもにオールOKすると、嫌でも親は自分の子ども時代を見ることになる。

そしてやがて親であるクライアントは自ら気づいていく。

本当は自分が親に甘えたかった、頼りたかった、可愛がられたかった、受け入れて欲しかったことに。

小さい頃はそれを親に求め、願ったが、とてもこの親は自分の願いに応えてくれそうにないと感じ、あきらめていった。

いつまでも甘えたいなどの気持ちを抱えながら、それが叶わないのは辛いことであるため、そんな気持ちは自分にはないと、抑圧したり自分から切り離してしまう。

しかし、我が子を育てる過程で、抑圧や分割し無意識に追いやった過去の欲望がよみがえる。

自分があきらめた甘えなどを、子どもが親である自分に求めてくる。

これは母親の無意識を刺激し、腹が立つ。

腹が立つこと、引っかかったことそれら全てその人のコンプレックスである。

このコンプレックス、腹立ちと闘いながらオールOKをするため葛藤し、しんどく苦痛を伴う。

しかし、このしんどさに打ち勝ちオールOKする母親であるクライアント達がいる。

それを支えるのがクライアントの子どものために自分がここで何とかしなければという想いと、分析、インテグレーター(分析家)である。

更に夫(子どもの父親)の支えがあればいいのだが・・・。

私は誰に対しても同じことを言う、「オールOKしてください」と。

しかし、オールOKする人としない人が居る。

辛いながらもオールOKしていくと、子どもの様子が変わってくる。

それを身近に肌で感じる母親は、やはりやってよかったと言う。

「なぜあなたはオールOKしたんですか?」とあるクライアントに聞いてみた。

すると分析家である私に言われたからだと言う。

分析家に言われてもやらない人はやらない。

私という人間と、分析をいかに信頼してもらえるかということである。

人間関係の基本にある信頼ということをあらためて考えさせられる。

子どもへのオールOKも、母と子の信頼をつくるためでもある。

子どもはこの母親なら、自分の言うこと要求を聞いてくれるだろうという信頼のもとに自分を出せる。

それに応え続けると、更に母と子の信頼は絆へとつながっていく。


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2010年1月30日

分析家の独り言 316 (心の成長、自立へ)

人間の精神とはいくつになっても成長しうる。

このことが理解されていないと、子どもにオールOKをしても、母親は一生自分が子どもにこき使われるのではないかと思う。

適切に世話をすれば必ず子どもの心は成長する。

心が成長していけば、いつまでも母親に頼りっきりで「あれして」「これして」とは言わない。

オールOKを始めると、子どもは最初、これまで欠けていたいた世話や我慢してきた要求を取り返すかのように、要求をどんどん出す。

しかしそれに付き合ううち、徐徐に要求は減ってくる。

子どもは満足いけば、今度は自分で出来ることの喜びを知り、「よくここまでしてくれた、もういいよありがとう」と言って、自立していく。

一生子どもの世話と要求に振り回されると思うと嫌になり、母親は「私はあんたの家政婦でも奴隷でもないわよ」と言いたくなる。

しっかり子どもの言うことを聞き取り、その通りに動けば子どもは満たされると共に成長していく。

反対に、子どもの言葉をいい加減に聞き、中途半端な対応しかしなければ、子どもは満足出来ず成長も進まず、母親は子どもに振り回され続けることになる。

それをみると、本当は子どもに自立して欲しくないのでは?と思うくらいである。

中途半端に対応して、子どもに文句を言われながらも、親は子どもを自分の下に居させたいのではと。

それは無意識のレベルの話ではあるが、親の分離不安が絡む。

人間自分を必要とされなくなることほど寂しいことはない。

それまで何だかんだと言っても「お母さん」「お母さん」と言って自分を頼り必要としてくる子どもが自立して自分から離れていくことを、親は子どもに見捨てられたと意味づけるのかもしれない。

オールOKをする母親に、成長・自立という概念が自分の辞書に登録されていないのではないか。

母親自身がその親に押さえつけられ、自分の成長を阻まれてきていたら、これらの文字の辞書への登録はないだろう。

オールOKして、散々子どもに振り回されれば、母親も充分やったという気持ちになり、子どもが自立していくことを心から感謝できる。

人間は親に依存して生きる時間が18年以上に渡り長いため、そのことが親と子の分離を難しくしている。

親子互いが納得し了解して、快く離れていくことを目指したい。


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2010年1月28日

分析家の独り言 315 (東京・秋葉原の無差別殺傷事件、加藤智大被告)

東京・秋葉原の無差別殺傷事件で殺人罪などに問われた元派遣社員、加藤智大(ともひろ)被告(27)の初公判が28日、東京地裁で開かれた。

加藤智大被告(27)が、事件で重傷を負った東京都江東区の元タクシー運転手、湯浅洋さん(55)に謝罪の手紙を送っていた。


加藤被告は、この手紙の中で、
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 この度は本当に申し訳ございませんでした。
 言い訳できることは何もありません。
 私は小さい頃(ころ)から「いい子」を演じてきました。
 意識してやっているわけではなく、それが当たり前でした。
 そのことがあるので、取り調べを受けている時から「申し訳ない」と思っている自分は、はたして本当の自分なのか、という疑念がありました。
 形だけの謝罪文はいくらでも書けますが、それは皆様への冒涜(ぼうとく)でしかなく、これは本心なの か、いつもの「いい子」ではないのか、と常に自問しながら書いています。
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と書かれている。

彼は、親に気に入るいい子を演じてきたのだろう。

おそらくそうしなければしかられる、家庭内での自分の待遇が悪くなったのだろう。

いい子を演じることは当たり前のことで、意識してやっているわけではないという。

いい子をするとは、自分の主体性や欲望を抹殺し、他者((親)に主体性を奪われていただろう。

だから、今謝罪している自分さえ、本当の自分の気持ちか、相変わらず小さい頃からしてきた「いい子」なのか、自分でもわからないのだ。

いい子いい人を演じていると、本当の自分が一体何なのかわからなくなる。

彼は自分を持たず、抜け殻のまま他者(親)の望むように生きてきた。

自分の感覚、考え、気持ちを持ち、それらを承認され肯定されないことは自我の死に等しい。

子育てをする親御さんたち、今一度子どもへの対応を振り返り反省して欲しい。


加藤被告は、次の様にも書いている。
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 「皆様には夢があり、温かい家族、恋人、友人などに囲まれ、人生を満喫していたところを私がすべて壊してしまった。
 取り返しのつかないことをしてしまった」「私にはそういったものはなく、それらを理不尽に奪われる苦痛を自分のこととして想像できず、歯がゆい」
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彼には温かい家族、恋人、友人などに囲まれることも、人生を満喫することもなかった。

せめて誰か彼の言葉に耳を傾ける人がいたら、ここまでの事件を起こすことは避けられたかもしれない。

いい子ではなく、まず彼の言うことをしっかり聞ける親がいたならと思う。


更に、次の様な文章もある。
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 どうせ死刑だと開き直るのではなく、すべてを説明することが皆さまと社会に対する責任であり、義務だと考えています。
 真実を明らかにし、対策してもらうことで似たような事件が二度と起らないようにすることで償いたいと考えています。
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是非その様にして欲しい。

彼の心の闇を解き明かすことで、今後同じような事件が起こらないようにしたいものである。


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月刊精神分析2009年9月号 秋葉原無差別殺人事件

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2010年1月27日

分析家の独り言 314 (相互主体性)

クライアントは、人から自分がどう見られるかを非常に気にし腐心する。

ある者は人の評価を得るために行動し、相手の求める自分になろうとする。

相手の期待する自分になれないと、自分が理想とする自己像の幻想が崩れる。

子どもの頃は、この相手は母であり、母の期待に応えようとする。

これが親の言うことをよく聞くいい子の正体である。

大きくなるにつれそれが母にとどまらず、他者一般へ広がる。

相手に主体を譲り渡せば自分は受身となるため、自己を相手に規定され、自己の存在を相手に意味づけられてしまう。

子ども時代、親の言葉は絶大である。

親に「お前はだめな子だ」「変わっている」「変だ」「不細工だ」「馬鹿だ」・・・とマイナスの言語で語られると、そのように自己をマイナスに規定してしまう。

これを大人になって、自ら書き換えるのは簡単ではない。

分析においてこの書き換えをする。

主体は常に自分の側に置く。

そうすれば、不安になることも、揺れることもない。

人が自分をどう思っているかなど気にならない。

しかし、主体性を持つことを許されず、相手(母)に預けてしまうように育ってしまうと、主体を常に自分の側に置くことができない。

鏡像段階の相互主体性の中で、主体を自分と相手の間で入れ替えてしまう。

だから自分は良いと思っても、相手から否定されると落ち込んだり、へこんだりと揺らぐ。

その時々、相手は勝手な自我で私を否定したり、規定しているだけである。

それに一々動揺していたのでは疲れる。

まずもって否定が成立すること自体、相手が主体であるということになる。

この相互主体性の罠から飛び出し、自分の側に主体を固定することである。

私はあるときから良い人をやめた。

人からみて良い人と言われるように振舞ってきた自分に主体性はない、と知った。


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子育てネットワーク

2010年1月24日

分析家の独り言 313 (滋賀インテグレーター養成講座第4回:母性より)

1月23日(土)、インテグレーター養成講座 自我論Ⅳ(母性)を開いた。

今回は新しい方の参加があり、受講者は5名となった。

講座内容が母性についてなので、是非お母さん方に聞いて欲しい内容である。

実際の子育てや自分の育ってきた過程を振り返るためか、質問があり、講義の内容全てを話しきれなかったため、次回に持ち越しとなった部分がある。

母性とは何か。

子どもを生んだから母性を持った母になるわけではない。

また全ての女性に、生まれながらに母性が備わっているものでもない。

結局、人は自分が育てられたようにしか自分の子どもを育てられない。

親となった自分が母性を持った母親に育てられたなら、自然と母性行動を子どもに示せるが、放っておかれたとか叩かれ怒られたなら、そのまま子どもの養育場面に再現される。

もちろん後者の対応を母性行動とは言わない。

何はともあれ、まずこの世に生み出された赤ちゃんにとって母親と共に過ごすことが第一である。

そのため母親と何らかの事情で分離されること自体が子どもに悪しき影響を及ぼす。

母以外の人に育てられることは後々子どもの心に影を落とす。

また母親が育てても、母性を持って育てなければ子どもの心は育たない。

それが今社会的に、不登校・ひきこもり・非行などの現象で表れている。

心が育てばそれらの現象は消えていく。

それには母性行動で子どもに接すること=オールOKすることである。

インテグレーター養成講座を受講しているクライアント達は、分析以上に応えると言う人がいる。

理論を聴くと自分の育ちと違うことに気づくため、分析されていると同じことになるためである。

それでも月1回の講座を2回にという要望があり、2月は2回インテグレーター養成講座を開催する。


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子育てネットワーク

2010年1月21日

分析家の独り言 312 (オールOKし信頼を築く)

クライアント達は子どもにオールOKをしていく。

分析や子育て相談などで、子どもの様子を話される。

子どもの様子を聞けば、母親であるクライアントがオールOKをしているかどうかがわかる。

分析もオールOKも知らずにいたときは、親は子どもを思うように動かせた、子どもは親の言うことを聞くおとなしいいい子だった。

それがあるときから不登校になったり、非行に走り出したり、家庭内暴力が起こったりする。

親はこれまでいい子だったのが手におえなくなり、どうしていいかわからず助けを求めてくる。

そこでオールOKの対応法を話す。

実践してもらうと、親にとってさらに大変なことが起こる。

それは子どもの要求が増えるからだ。

お金であったり、世話であったり、どこかへ行きたいということであったり様々な要求である。

小さな子どものように、何気ないことを「見て」といったり、母親と一緒にテレビ・DVDをみることであったり料理をつくりたいということであったりする。

今度は親が子どもに動かされ、振り回される。

子どもに対応する親は、体やお金を使い子どもに付き合うことになる。

ところが親自身のコンプレックスが邪魔をし、「だめ」「できない」と言ってしまう。

それでも時には失敗しつつもオールOKしてもらう。

子どもの要求が出ているということは、お母さんが子どもに対応しているということである。

子どもは拒否され続ければ要求を出さなくなる。

母親を信頼できないからだ。

オールOKしていくと子どもは母親を信頼し始める。

子どもは親がこれまでと少し違うようだと思いだす。

おそらく要求を出す子どもも最初はおっかなびっくりであろう。

拒否され否定されてきたため、また「だめ」といわれるのではないかと恐いのである。

だから子どもが要求を出すということは、親への信頼の証となる。

そうして少しずつ自分のことを話し出すようになるとさらに良い。

20歳代よりは高校生、中学生、小学生、幼児、乳児というように子どもが小さいほど、母親の対応が子どもの言動に早く変化をもたらす。

重ねたマイナスが少なく、心が柔らかいのだろう。

子どもは何かしらサインを出してしるので、それにいち早く気づくことも大事である。

子どもから要求があまり出ないということは、まだ親を信頼していないし、まだいい子をしていたり、本当の自分を出せないでいる。

子どもが安心して親の懐に飛び込んでいける信頼を勝ち取るには時間もかかる。

根気強くやり続けることが大事。

どうかお母さん達頑張って、と願う。


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2010年1月18日

分析家の独り言 311 (子どもの好み・感覚を尊重する)

たまたま見たテレビで、ある女優さんが話していた。

「デパートの店員になりたかった」と言う。

彼女には9歳上に姉がいて、服など身の回りの物のほとんどが姉のお下がりだった。

9歳も上だと、例えば服の流行も子どもとはいえ古くなる。

小学校入学時のランドセルも姉のお下がりで、レンガ色に変色しぺっちゃんこだった。

だから彼女は、新しい物に触れたかった。

最新の流行のものが何でもそろうデパートの店員になれば、常に新しい物にかこまれていられると考えた。

「欠けたものが欲望になる」と言うが、まさにその通りなるほどと納得。

彼女は新しい、自分の好みの服や物を持ちたかっただろう。

また、親の好みを子どもに押し付けて、何でも買って着せてしまったのでは、子どもは着せ替え人形になる。

子ども自身の好きな色、形、デザイン、それらを尊重されるこも子どもにとっては大事なこと。

だから親が勝手に決めないで、子どもに聞いてほしい。

子どもも自我が出来てくると、親が買ってきた服を着なくなる。

それまでは親の好みで選んで着せられたが、良かれと思って買って来た服を着なくなり、それでは仕方ないと子どもに聞くようになる。

思春期を迎える子ども達には、服は対社会的仮面(ペルソナ)ともなり、他者にどう見られたいか、見せたいかなど、アイデンティティの問題も絡んでくる。

やたら鏡に自分を映して、服装などに気を使うのもこの時期である。

なかには、「誰もあんたなんか見てないよ(だから、何を着ても同じ)」と言う親がいる。

我が子の価値を親が引き下げることはないだろう。

自分が思い描く理想的自己像をつくり、外に出ていく。

娘達は出かけるときに、服が決まらず、「これとこれとどっちがいいと思う?」とか、「これでいいかな?」と聞いて来た時期があった。

こちらとしてはどちらでもいいと思うが、真剣に考えて答えないと怒る。

聞いてくる娘も自分の中では決まっているが、もう一押しして欲しいのだろう、どちらがいいか聞いておいて自分が思うのと違う方を言うと、「お母さんはセンスがない」とか、「いや、違う、こっちだ」とか言う。

「それなら聞かないでよ」と思うが、それにも付き合うことである。


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2010年1月17日

分析家の独り言 310 (1月京都分析理論講座参加者のメールより)

1月14日(木)の分析理論講座に参加された方から下記のようなメールをいただいたので紹介する。

ひきこもりの子どもを持つ親御さんからの相談を受けられている方からのメールである。

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本日の理論講座はとても勉強になりました。

理論講座という名称ですが、実体験や実践をとおしてのお話でしたので、こちらも思い当たる引きこもりの実例が多くありました。

私が精神科医や精神分析に懐疑的だったのは、何でも病気と結びつけてしまう彼らの方法に疑問を持っていたからです。

「うつ病」か「統合失調症」でかたずけられると、逆に親は安心して投薬と治療で解決すると思ってしまうようです。
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メールにあるように、うつ病や統合失調症という病名をつけられると、親は安心することがある。

非行の子どもたちもまた、多動性、アスペルガー、統合失調症といわれることがある。

その診断名を告げらると、だから小さい頃から育てにくかったのだと親は納得してしまう。

厳しい言い方になるが、親は自分の育て方が悪かったとか間違っていたと思いたくない。

どこかで自分が悪かったのかもしれないと思いつつも、病気・障害のせいにすれば自分を正当化できる。

すると、オールOKなどの子育て法を話しても聴く耳を持たなくなることがある。

人は皆自分が可愛い。

自分を守りたい、自分が悪いとは認めたくない。

しかし、非は非として認め正していき、本当のことは何なのかを知りその方向に進んでいかなければ本当の解決には至らない。

病気や障害があろうがなかろうが親がすることは同じであり、子どもへのオールOKによる世話・対応である。

ひきこもりや非行に効く薬はない。

親の暖かい愛情、思いやり、理解と共感である。

分析においては、その一部をインテグレーター(分析家)が担うことにもなる。

いずれにしても、薬を服用するだけでよくなることはない。

病院や施設に入れて治ることもない。

(それはまた、映画『彼女の名はサビーヌ』を紹介してコメントする予定)

クライアントが言った、「人のせいにしているうちは、真剣に子どもと向き合えない」と。

学校のせい、先生のせい、友達のせい...にしたい、それでも一番子どもに良くも悪くも影響を与えるのはやはり親である。

だからこそ親次第で子どもは変わっていく。

もしくは、ひきこもり等の本人が、自分を変えようと強い意志をもち、自分探しの旅(精神分析)に取り組むかである。

取り組めば道は開かれ、ひきこもり、非行等から脱していく。


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2010年1月15日

分析家の独り言 309 (1月京都理論講座より)

1月14日(木)、分析理論講座を開いた。

ひきこもり関係の参加者であったためその方向から症例を入れながら、分離個体化の過程の後半を解説した。

『分離』は、母から個体として肉体的・精神的に分化し、母と一定の距離をもち、母から自分を切り離してそれでも自分を維持できる自我境界を形成する過程。

『個体化』は、精神内界の自律性、知覚・認知・現実検討などの諸機能の発達過程。

自分の感覚、自分の見たもの(知覚)によって反応すること、それを自我の自律という。

これが成人であってもあやしい。

子どもが怪我をして「痛い」と訴える、体の調子が悪く「しんどい」と言う、友達ともめて「つらい、苦しい」と言う。

親は「大したことない」、「痛くない」、「大丈夫」、「それがどうした」...などと真剣に取り合わないことがある。

これでは、子どもは自分の感覚を自分のものとして肯定して感じられなくなる。

「痛い」と訴えて、「痛いね、大丈夫?」と気遣われ心配されるから、自分の痛みを感じた身体的感覚と、痛いと感じた自分が一致する。

体が「しんどい、きつい」と訴えて、「大したことない」「寝ていれば治る」と言われれば、自分の身体的苦痛がどれほどのもので、その感覚が正しいのかどうかわからなくなるだろう。

正しく親(母親)が反応しなければ、子どもの心は育たないことになる。

「痛い」、「苦しい」と子どもが言って、それに適切に反応すると、親は病院に連れて行ったり、世話をしなければならず、その手間がかかることを避けていないか。

言葉で「痛くない」、「それくらい大したことはない」と言えば、それで終われる。

参加されたお母さんは、「私もそうでした」と言われた。

適切に世話されていない私たちが親となって子どもを育てるとき、こうしてまた適切に子どもを世話し対応できない。

それを「子どもにオールOKし、言われた通り要求に応えましょう」と言って抵抗なく出来ることは奇跡に近い。

それでも、オールOKの話を聴き、それに取り組む人達がいる。

ある人は、「ひきこもりはエディプス・コンプレックス(父親との関係)が大きく関わっているかと思っていたが、それ以前の母親との問題があったんですね」と言われた。

父以前に、子どもにとって最初の対象である母でつまずいている。

ひきこもりの人達の高年齢化が進み、30歳代、40歳代、50歳代となってきている。

年齢を重ねるほど、ひきこもりから脱出することが難しくなる。

ひきこもり当事者と親に体力・精神力・経済力などがあるうちに取り組まれることを願う。

もっと言えば、ひきこもりや非行などの問題がおこらない子育てを知って実践することをおすすめしたい。

興味・関心のある方は各サイトをご覧ください。


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2010年1月10日

分析家の独り言 308 (精神分析に取り組む)

ラカン精神科学研究所のホームページに、Googleカレンダーを載せるようになってから、予定を見て分析や講座、子育て相談室への問い合わせや申し込みが増えた。


今の状況をなんとかしたいとクライアント達は救いを求めて分析の戸を叩く。

自分独りでは何とも出来そうにないと、意を決して。

しかし、我々インテグレーター(分析家)は救世主ではない。

自分の得た分析理論と分析能力を活かし、クライアントの問題に共に取り組む援助者である。

理論という地図をもとに、暗闇の世界(無意識)を共に旅する。

闇雲に突っ込んで、ブラックホールにでも入ってしまったら大変である、そういう危険な世界でもある。

安全に効率よく進むために理論を駆使する。

精神の世界は宇宙のそれに似ている。

ホームページやブログを読んでいる人たちがいることを頭に入れながら、また今年もいろいろなサイトやブログを書く。

生きにくさや今の自分を変えたいがどうしていいかわからない人達に、精神分析という道もあると知ってもらいたい。

15年前36歳の私は悩み、道を捜していた。

長い道程を経て、私は今幸せだと言える。

そして更に理想を掲げ、上を目指す。


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2010年1月 1日

分析家の独り言 307 (2010年を迎えて:分析理論を学ぶ)

2010年、明けましておめでとうございます。

滋賀県大津市唐崎辺りは、薄っすらと雪景色の元旦の朝でした。

ブログ(セラピー日記)を書き始めて2年半余り、300を超える独り言を書き綴って来ました。

今年もまた、ブツブツと分析家の独り言を書いていきますのでお付き合いください。


インテグレーター養成講座のために、テキストや本を読み直す。

私が埼玉県の惟能氏の所で養成講座を受けたころを思い出す。

あの当時、自己愛論が全くわからなかった。

質問したいが、どこをどのように質問していいかさえわからなかった。

それは自分に健康な自己愛がなったからだと一人納得した。

その後分析を通して自己愛を育てていった。

講座を聞く側から話す側になり、私も養成講座で何度か話してきたが読むたびに違った角度からまた考えさせられる。

あのクライアントの語りは、この理論通りだと思うこともよくある。

我が師惟能氏も言う、「7回も講座をやっていれば覚えてしまうが、それでもまだ新しい発見がある」と。

先生でもそうなのかと思う。

やはり、理論はしっかり自分のものにしておかないといけないとあらためて思う。

同じ本でも、時間を空けて久しぶりに読むと前とは違った気付きや解釈が出来る。

自分の関心のないところ、コンプレックスにひっかかるところは文字を追っていてもスルーしてしまい、心はそこに留まらない。

本当に人の心・精神とは不思議なものである。

以前は全くわからなかったり、曖昧だったことが理解できてくると、これほど嬉しいことはない。

まだまだ理解し極めていくことが沢山あり、楽しみである。


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2009年12月31日

分析家の独り言 306 (今年を振り返って:成長)

去年3月、ここ滋賀県大津市にラカン精神科学研究所とともに住まいを移し、約2年足らずが過ぎた。

人は生き方を変えるように住み替える。

確かに私にとって大きな転機であった。

おそらくまたここ何年かのうちに転居する。

自分の歳を考え、老後を視野にいれ終の棲家を探す。

今年1年、いろいろな人との出会いがあり勉強させてもらった。

「自分以外の人には出会わない」と言う。

来年また自分を知った分だけ、これまで出会えなかった人(自分)と出会えるだろう。

どういう人(自分)たちとの出会いがあるのか楽しみである。

自分を知り成長した分、程よい親との距離がとれる。

支配するされるでもなく、依存するでもなく、私は私として言うべきことは言い、助けてくれと言われれば私の出来る範囲でする。

決して無理はしないし、優先順位を見誤ることもない。

親に人にどう思われるかを気にし、好かれることを私のとる言動の基準にして動くことはない。

それらもクライアントの分析を通して考えさせられ学習した。

クライアントの語りを聴きながら、クライアントと自分は全く違うと思っていても必ずそうとは限らない。

本当に自分にクライアントと同一の部分はないか、違うならどこがどう違うか、それらを常に検証し自分を見つめ知っておくこと。

この視点がないと、自分の無意識を知らぬ間に刺激され、心身に影響がでる(逆転移する)ことがある。

クライアン達は私に、「よくこんなしんどい仕事をしますね」と言う。

自分を常に見張っておく必要があり、そこには未熟な自分や見捨てられ不安や恐怖を味わった悲しい自分がゴロゴロしている。

そういう自分と出会うことはしんどい大変なことかもしれない。

それでも楽しいと感じられ、やりがいがある。

クライアントと私自身の成長が楽しみだからだ。

我が師、惟能氏は言う、「分析が目指すのは精神の成長である」と。

個人の成長と日本社会の成長を願い、今年を心静かに送り、新しい年を迎えようと思う。


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2009年12月28日

分析家の独り言 305 (自分を振り返って1:対人恐怖だった私)

この世に生まれたばかりの赤ちゃんに書き込まれていくのは、その母親の情報、自我である。

すると、この母親のなかにどういったものがあるのかが問題となる。

例えば母が、人を恐がる=対人恐怖症であったとすると、我が子も一人の対象であるため、この子を恐れる。

対象と関わるときの基本的姿勢は、恐い恐れるとなり、当然人との交流を避ける。


インテグレーター養成講座のテキストの「自己愛」を読み返し、ふと思い出し考えた。

私はギリギリ社会適応してきたが、基本的には対人恐怖だったなぁと。

学生時代は授業で先生に当てられないように願いながら学校生活を送っていた。

人前で話すことは大の苦手だったし、友達も少ない方だったと思う。

中学から部活をしていたので、その仲間はいたがそれが友達といえるものだったかは今となれば疑問である。

ただ同じ部活での時間を過ごし、バスケをそれなりに楽しんだが、私は本心を語ることはなかった。

自分が抱えているしんどさは、同じ世代のこの人たちにはわかるまいと決めていた。

家で親に「ああしなさい、こうしなさい」「それをしてはいけない」と縛られ、したくもない宗教を強要され、いかにして家に居ないようにするかを考えていた。

登校拒否ならぬ帰宅拒否か(苦笑)。

その逃げ場が部活だった。

小さい頃から、度々ではないにしろ叩かれることもあった。

育つ過程で「人とは関わらないがよい」、「人は恐いもの」と学習した。

私にとってがんじがらめの家から出られた大学時代があったことは大きかった。

この時期になってやっと、友達と呼べる人たちができた。

それでも、それまで親に監視され、命令指示されてきたことは私の中に居座り続け、何かをしようとするとき、心の中に住み着いた両親にいつも見張られている感じが常にあった。

それと戦いながら、時には私が勝利し、また時には親に負け、一応の自由の中4年間を過ごした。

そのまま家に戻らず就職でもすればよかったのだが、親は大学を卒業したら私は家に帰るものと決めており、私はそれに逆らうこともできず帰るしかなかった。

まだ、自分の力で生活していくという自立心は私には育っていなかった。

親に呑み込まれ、そこから脱出するほどのエネルギーと自我は、大学時代の4年間では取り戻すこともつくることも出来なかった。

あの頃に分析と惟能創理氏に出会えていれば・・・ 私のその後も続く苦悩は随分軽減され、全く違った道が開けていただろうにと思う。

実際に出会えたのはそれから14年も後のことになる。

分析を受け、親のロボットだった自分を自覚し、自分を取り戻すために10年以上の時間がかかった。

それでもあのまま自分を持たずに、しかし持っているという錯覚の中でもがき苦しみ続けたかと思うとゾッとする。

あるクライアントは、「おまけの人生、二度目の人生」と言ったが、私にとっても今が「生きなおしの人生、取り返しの人生」である。

「自分が望んでもいないのにこれほどの苦悩を味あわなければならないのは理不尽だ」

だから私は、「自分の人生をこのままでは終われない」と思ってきた。

「いくつになっても生き直せるんですね」と言ったクライアントの言葉が心にしみる。


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2009年12月26日

分析家の独り言 304 (幸せになる:目標・理想をもつ)

クライアント達は、耳にたこができるくらい「オールOK」とともに「言われたことだけ(正確に)してください」と聞いている。

しかし、これを実行するのは簡単ではない。

最初私は「だまされたと思って、黙って三年オールOKしてください」と言う。

「しかも、敏速かつ的確に、継続して」

折に触れ、分析や講座、子育て相談室で説明していくため、クライアントは頭でなぜそうすることがいいことか理解していく。

しかし頭でわかったことと、実際に出来ることは違う。

そこには、オールOKする母親のその母との無意識の葛藤がある。

クライアントに、「子どもに言われたことだけする」という言葉が本当に理解されるまで10年かかる。

私は最初から同じことを言い続けている。

クライアントも言う、「何年も前から聞いています」と。

何度も言うが、言葉としてわかることと、実際に出来ることとは違うのである。

何年も分析を受け、子どもに対応しているあるクライアントは、「子どもに言われたことだけするという言葉が本当に理解されるまで10年かかる」と話したところ、「よかった、私だけじゃないんですね」と言った。

分析を受けても、講座などで理論を聞いても、なかなか「オールOK」や「言われたことだけする」ということが出来なくて、「何で出来ないんだろう」、「私がダメなのか」・・・ と自分が嫌になることがある。

それでも、知ってしまった限り、今更やめることも出来ない。

辛いながらも、「オールOK」することが真理であるとわかっているからだ。

そうでなければ、わざわざこんなしんどいことを誰もしようとは思わないだろう。

だから本当に子どもに「オールOK」をするには、母親が分析によって自分の無意識(親との愛と憎しみの葛藤)を知っていくことが必要になる。

子育ての場面で、母自身が育てられた養育状況が再現される。

母親自身の養育状況が幸せな(オールOKされた)ものならいいが、多くの人が自分の言いたいことが言えず、要求が受け入れられず、無視され、放っておかた、叱られた、叩かれた・・・ というものであれば、子どもに「オールOK]するのは葛藤に満ち満ちてしまう。

私も「オールOK」が身につくまで、何年かかったことか。

10年どころではなかったのではないかと思う。

やってもやっても、失敗してしてしまう。

自分で自分が嫌になる。

そんな中で思ったのは、多分私は人より欠損が大きいのだろう。

だから人が三年で出来ることが、その2倍3倍かかる。

悔しいけど仕方ない、そんな自分ならそれも受け入れてやるしかない。

それ以外に子どもと私の明るい未来はないとわかっていた。

そして、私にはインテグレーター(分析家)になるという目標があったため、人に「オールOKしてください」と言って、自分は出来ていませんでは通らない。

それではインテグレーターになる資格はないと思っていたから、この私にも努力し続けられたのだと思う。

目標・理想(なりたい自分という自我理想)を持つことは大事である。

この私に出来たのだから、やる気さえあれば誰にも出来る。

幸せになるために、取り組むだけの価値はある。

私は幸せになりたかったのだ。


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2009年12月22日

分析家の独り言 303 (分析により自分を知る、自分を生きる)

子どもの不登校、ニート、ひきこもり、非行等、その他何らかの問題で分析に来られる。

それは母親である場合が覆い。

今、目の前の子どもを何とかしたい。

様々なところへ行ったが、これといった変化・進展もなく、何年か経過した状態の場合も多い。

分析の初めは、クライアントから子どもの状態を聞き、その子どもへの具体的対応法や、なぜそういう状態になったかを理解してもらう。

子どものことを話す母親は、子どもの何らかの問題は子どもの問題ではなく、自分に何らかの問題があると薄々感じている人もいる。

分析的に表現すれば、母親がその親との葛藤(愛と憎しみ)に未解決で、そのことを無意識に抱えながら子育てした結果、今の子どもの問題を生んだということである。

分析を始めると、子どものことと共に自分の親のことが語られる。

そうして母親は自分と子どもの関係と、自分と自分の親との関係を見ていく。

そこに共通点が見えてくる。

母親自身も親に言いたいことが言えなかったり、親の顔色を見たり、親の愚痴を聞かされて来ていたり、自分を否定されていたり・・・ している。

そのことが母親自身嫌だったはずなのに、その嫌なことを我が子にしてきた、その結果が今の子どもの状態であると気付いていく。

そういう意味で、子どもの問題は、その子を生み育てた親の問題であると言える。

それに気付き、自分を見つめ、自分と親との葛藤を見るのは辛いものである。

せっかく気付きながら、分析から足が遠のくこともある。

気持ちはわかる。

それでも我が子のため自分の成長のためにと踏ん張るか、辛さに負けて自分と向き合うことを避けるか。

それはクライアントが決めるしかない。

取り組まなければ現状維持だが、子どもの年齢は上がり実質問題は大きくなっていく。

取り組めば、見たくない自分を見ることになりそれも辛い。

しかし、結果が違ってくる。

辛いながらも取り組めば、その先には子どもの幸せと自分の幸せが待っている。

主体性を取り戻し、自分らしく生きていける、人生を楽しめる。

しかしまた、その道程の遠さに人は尻込みするのだろう。

しかし、「千里の道も一歩」、「継続は力なり」である。

お金を払えば得られるというものではなく、ただひたすらこつこつ積み上げていく努力のみ。

この長い道程を越えた末に得られるものは、何ものにも代えがたいものである。

私の場合は、辛さもありながら例えマイナスの自分であっても、自分を知ることが楽しかった、嬉しかった。

謎解きのように、なぜ自分が生き難かったのか、その訳がわかっていった。

自分への智を得、そして自分を肯定し、自分を取り戻していった。


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月刊精神分析2009年4月号 なぜ分析で病が治るのか

月刊精神分析2009年5月号 精神分析家をえらびますか?

2009年12月17日

分析家の独り言 302 (自分の感覚を大事にする)

クライアントの分析を終えて、ふと思い出したことがある。

20歳の頃、神戸の大学の近くで下宿をしていた私は、赤いブレザーを着て実家に帰った。

母はその赤いブレザーを見て「派手すぎる」と言った。

言われた私は、「そうかな」と思った。

しかし、これと言った反論もせず、いつまでも「派手」といわれた言葉が残っていた。

しばらくして、「20歳の私に赤のブレザーが派手というなら、私は一体いつ赤を着るの?」と思った。

それまであまり明るい色は着なかったように思う。

家を離れた開放感からか、私には珍しい赤のブレザーだった。

母はどういう基準で20歳の私に赤いブレザーが派手すぎると言ったのだろうか。

根拠のない、自分の勝手な感覚で軽々しく子どもにものを言うものではない。

もし私が今娘達に同じ様なことを言ったとしたら、非難ごうごうだろう。

私も娘が着るものをとやかく言おうとは思わない。

どうぞ、好きな色の好きな服を着てください。

それが個性だし、50歳を過ぎた私の感覚と、20歳代の娘の感覚が違って当たり前。

だから、相手を尊重し、自分なりの好きを磨いて楽しんでくれればよい。

私は自分でも気付かない色々な親の言葉に縛られ、親の感覚や価値観で生きてきたことがたくさんあったのだろう。

その親の呪縛から解き放たれ、自分の感覚を自分のものとして感じて生きる世界は、私が子どもの頃見ていた世界と違っているはず。

充実感があり、判断に迷うことはあるが自分で考え決めていける。

また、あるクライアントは着られれば服は何でもよかったと言った。

何色のどういうのが着たいということがなく、もらった服でもよかった。

そのクライアントは徐々に自分の好みの服を買うようになった。

自分の感覚を大事にしよう。

それには自分への自信や肯定感が必要。

それがないと他者から否定的言語を言われると、自分はこうだと自己主張できない。

自分は自分でいいのだ。

この世に一人しかいない私。

その私を私が認め、受け入れていけばよい。

その元になるのが、母の承認と賞賛である。

自我がまだ確立されていない子どもにとっては、母の影響は大きく、母の対応と言動によって子どもの自我はつくられていくのだから。

分析では、インテグレーター(分析家)がクライアントに承認と賞賛を与え、気付きによってクライアントは自我を育てていく。

自分の感覚を大事にすること、あらためてクライアントの分析から考えさせられた。


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2009年12月16日

分析家の独り言 301 (インテグレーター養成講座;受講者の声)

今年10月にインテグレーター養成講座を新しくスタートして、3回の講座を終えた。

受講者の中に、「理論を聞くことが個人の分析以上にこたえる」と言う方々がいる。

特に精神発達論を話しているので、自分の育ち方や自分の子育てと比べ、あまりの違いを思い知らされる。

講座の朝になると何となく行く気がしないで、「お休みします」と電話したくなるという方。

これは抵抗。

理論を聴くことによって、見たくない自分を見ることになる。

それでも講座に来られるのだから大したもの。

そうかと思うと、「講座の後体がだるく、家に帰ってご飯がつくれなかった」という方。

講座の内容(理論)がクライアントの無意識を刺激する。

「生後わずかに間に、これほど複雑な精神の構造と発達があるとは知らなかった」という方。

皆さんが感じられることで、私も13年前同じことを思った。

「そういうことだったのか、それならもっと早くに教えて欲しかった、知っておきたかった」と。

だからこそ、これから結婚し子どもをもつだろう若い人達に聴いて欲しい。

もちろん子育て中の親御さんや、自分を知りたい方々にも。

精神発達論くらいは、中学か高校の授業で教えて欲しいくらいだ。

もっと言えば、オールOK子育て法が、社会の常識当たり前になればいいのだが。

今はまだ、世間の非常識くらいの扱いと感じる。

オールOK子育て法の話をすると、「そんなに子どもをわがままにしていいんですか」「とんでもない」と言われる。

インテグレーター養成講座や分析理論講座では、オールOK子育て法を折に触れ人間の心の発達や構造上から解説している。

クライアント達は言う、「オールOKは奥が深いですね」と。

理論的にあらゆる方向から考えてあみ出された子育て法だから、理論を学ぶほどそれしかないとわかるのだが、一般の人にはなかなか理解されないのが現状である。

受講したクライアントは講座の録音をとり、家でも聞いているとのこと。

私もそうだったと思い出す。

私は13年前講座を聴く側から、今話す側に立った。

この講座の中からまた話す側になる人が出てくれることを願う。

次回2010年1月の講座内容は、自我論Ⅳ《母性》である。

これは多くの人に聴いてもらいたい内容である。

詳しくは、滋賀インテグレーター養成講座開講日程のお知らせ(平成22年1月) をご覧ください。


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2009年12月14日

分析家の独り言 300 (後悔のない生き方を)

親は「子どものために良かれ」と思い様々な事を言う。

日常の些細な事から、進路や生き方についてまで...。

親自身が生きて来た過程でそれは良かったかもしれないが、その事がそのまま子どもに当てはまるとは限らない。

だから、子どもに話す時は慎重に言葉を選んで話さないといけない。

親は無意識に子どもを自分の思うように動かしたいと思っている。

そこには親の"分離不安"がある。

また、自分の親と精神的に切れていない為、自分の子どもとも適切な距離がとれない。

日々クライアントの分析をして感じる事がある。

親は子どもに「幾つかの選択肢を与えた」様に見せかけて、実は子どもが「親の選んで欲しい道」を選ぶしかないようにもっていく。

まだ未熟で人生経験も少ない子どもには、その親の"罠"を見抜くことはできない。

そうして子どもは親の敷いたレールの上を歩くしかなくなる、歩かされる。

分析を進めていくと、その事にクライアントは自分で気付いていく。

また、子どもに「失敗して欲しくない」と、親は先々を心配し子どもが聞いてもいないことを先走って言ったりする。

あるクライアントが言った。「転ばぬ先の杖はいらないとわかりました」...と。

その通り、よく気がつかれたと思う。

失敗の無い人生などありえない。

人は失敗するから反省して、次は「こうしよう」「ああしよう」と考え、工夫と努力を重ね達成感を得ていく。

転ばぬ先の杖=過保護過干渉という事であり、それは、その子どもの可能性と能力を親が自ら奪い取ってしまっている。

私事だが、私は「石橋を叩いても渡らない」性格だった。

慎重にも慎重を期し失敗の無いようにと、育つ過程で親からのメッセージを受け取った結果である。

慎重すぎると「新しい事に挑戦する」とか「変化」を好まない人間になる。

生きていく事は選択の連続である。

常に右か左か、するかしないか、選ばなければならないその時、できるだけリスクの少ない無難な方を選ぶ事になる。

生きていく中では一か八か勝負に出なければならない時もある。

それがこれまでの自分から脱皮して、新しい自分に生まれ変わる機会(チャンス)になるのだ。

よくよく考えれば、私は慎重というよりは臆病であった。

あの時自分を信じて、例え失敗したとしても自分のやりたいことに挑戦すればよかったと思うことが幾つかある。

その後悔があり、私は"たられば人生"を生きていた。

「もしあの時こうだったら、こうしていれば私の人生はもっと違ったものになっていたはずなのに」と。

分析により自分を見つめ知っていくと、あの時の臆病な私にはその選択しかできなかったのだから仕方がないと納得した。

しかし、今からは臆病な無難なだけの生き方はしない。

新しいことに挑戦し続けていく。


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2009年12月11日

分析家の独り言 299 (娘の買い物に付きあって:親とは)

娘が「買い物を楽しめない」と言ったことがあった。

「どうして?」と聞くと、

娘がレジに並んでいて、先に並んでいた人がかごを置いたまま商品を見に行って、自分が先にレジを通すところだった。

そこに前の人が帰ってきて、店員は娘のレジをするのをやめて帰ってきた客を先に精算しだした。

娘は「自分が先だろう」と言いたかったが言えなかった。

そうして言えなかった自分と、小さな事にこだわっている自分が嫌だったと言う。

また、買い物で店員から説明を受けたり、商品を勧められたとき、自分が納得していないのに「はい」と言ってしまったり、欲しくも無い物を買ってしまったりすることがあると言う。

私は自分の欲しい物を買いに行って、何にしようか、どんなものがあるかと楽しみで行く。

自分の気に入るものに出会えると嬉しいので、買い物は楽しいことだと思っていた。

なるほど誰もが買い物を楽しいと思うのではなく、その人なりのいろいろな想いがあるんだなと思った。

それで娘は買い物に行くとき私に付いてきて、一緒に行こうとよく言っていたのだ。

あるときコンポを買いたいと、大型家電量販店へ一緒に行った。

店員に説明を受け、娘は自分なりに質問をし納得したようで買うことに決めた。

精算もしたが、店員の言葉に納得のいかないことが出てきて、また悩み出した。

私もそばで聞いていておかしいなと思うことがあったので、結局その場でキャンセルした。

娘は今も分析を受けている。(親子・兄弟・夫婦は分析できないので、惟能氏に分析をお願いしている)

娘がそのことを惟能氏(分析者)に話たところ、 「今度の分析はコンポを買いに行くことにしましょう」と言われた。

そこでまた娘は悩んだ。

また自分の言いたいことが言えるだろうか、、また店員にも分析者にも自分の想いが言えず、いらないのに買ってしまうのではないかと。

私は店員はまだしも、分析者にも言いたいことが言えてないことがあるのかと少し驚いた。

分析者を信頼し頼っていると思っていたが、娘は本当に真から信用しきっているわけではなかった。

思わず私は、「先生に全部言いたいことが言えてるわけじゃないなの?」「まだ先生の前ではいい子でいたいの?」と娘に聞いた。

娘は「そうだ」と言った。

そして、「コンポを買いに行くときお母さんも付いてきて」「横にいて、本当に納得したか、それでいいか、買うときに聞いて」と言った。

結局、分析者である惟能氏と娘と私の三人で家電店に行きコンポを買うことになった。

店員を惟能氏が呼んでくれた。

私はそばにいて、娘は自分でどういう機能のものが欲しいかを話し、説明を受け店員とやり取りしていた。

惟能氏と私はほとんど話すことなく、そばにいただけで娘が聞いて決めていった。

私は言われていた通り、いざ買うとなったときに「それでいいやね。納得したんやね。」と娘に聞いてと言われていたことを娘に言った。

娘は「これでいい」と笑顔で言った。

先生も私も何をしたわけではない、しかし家に帰って娘は「二人がいてくれて安心だった」と言った。

そんなものかもしれない。

見守られている、そばにいてくれて何かの時には助けてもらえるそういう存在があるのと無いのでは気持ちが違う。

親とはそういうものなのだと、娘の買い物の分析に付き合って思った。

分析者の立場としては、クライアントの信頼を得るには時間がかかり、大変なことだと実感した。


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2009年12月 9日

分析家の独り言 298 (2009年12月京都子育て相談室より:ひきこもり)

12月の子育て相談室には、新しく名古屋から来られた方や、ボランティアでひきこもりの支援に当たっている方が参加された。

ひきこもりは社会の大きな問題の一つであり、ひきこもる人の高年齢化が見られる。

年齢を重ね30代・40代・50代となってきている。

当然親の年齢もあがり、子どもが50歳代であれば、親は70歳・80歳代となる。

親が生きているうちは何とかなるが、子どもを残して親が亡くなった後、子どもはどのようにして生きていくのか、という問題に行き当たる。

そこまでいってしまったものは国の政策で対策法を考えてもらうしかない。

我々インテグレーター(分析家)にできるのは、そこへいく前の段階、子どもが10代・20代、せめて45歳までの間に親が子どもを育てなおすと同時に、ひきこもりの本人を分析し社会に適応できる強い自我をつくること。

この厳しい雇用状況の中、まず人とのコミュニケーションがとれなければ仕事は無いと、企業で働くひきこもり支援をしている参加者は言われる。

社会の中で生きていくためには、当然のことである。

このコミュニケーションをまず家庭の中で子どもは学習する。

親に言いたいことを言い、受け入れられ、親の言うことも聞く。

互いの想いや考え気持ちを会話によって伝えあい、そこに信頼・絆・親密性が築かれていく。

こういうコミュニケーションがそもそも家庭に無いことがほとんどである。

親は子どもを自分の言う通りに動かせたい、それが子どもの幸せと信じ命令指示を一方的に出す。

子どもはどうせ親に何を言っても無駄だ、聞き入れられることはないとあきらめているから本当のことを言わない。

こうして子どもは、言えない→出せない(感情)→動けない、でひきこもっていく。

育てる親の側に、特に母親に様々なストレス(例えば嫁姑の関係による)があり、子どもに適切に対応できないこともある。

例え嫁姑の中であっても、母親は言うべきことは言い、その上で姑とも互いに理解しあえる良い関係を築ければいいが、嫁である母親が言いたいことが言えない人で、嫌なことも呑み込んでしまう。

私さえ我慢すれば上手くいくからと言うが、それは言いたいことを言ってしまうと喧嘩になり、それを避けたかったり、良い嫁で居たいということではないか。

事なかれ主義は一見平静を保っているように見えるが、水面下では悪感情などが蓄積されていく。

この言いたいことが言えない母が育てた子は、やはり言いたいことが言えない子になっていくだろう。

だからこそ、オールOKによって否定や命令指示することをやめ、言えなかった子を何でも言える子にするのである。


初めて参加された方から以下のようなメールをいただいた。

「本日、参加させていただいた○○です。
いつもとは違った角度から問題を考えることができました。
引きこもりの問題は家族や社会のありかたが複雑に絡み合っていますので、様々な角度からのアプローチが必要だとおもいました。
実は、精神分析というのをあまり信用していなかったのですが、母と子という関係に絞ってみると非常に明快になりますね。
全ての人間関係の根源になっているという問題の立て方は勉強になりました。」

いろいろな立場から、いろいろなアプローチが必要と思う。

いずれにしても早い対応が大事であり、放っておいて良くなるものではない。

年齢を重ねるほどひきこもりからの脱出は難しくなり、家庭だけで抱えられない問題へ発展していく。

分析はひきこもる人間の心の構造を理解することの視点を持ち、そこからアプローチする。


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不登校・ひきこもりに悩む方々へ のページ

非行・家庭内暴力に悩む方々へ のページ

2009年12月 7日

分析家の独り言 297 (ラカン精神科学研究所HP3万件アクセス)

当ラカン精神科学研究所のホームページのアクセスが3万件を越えた。

ホームページを立ち上げて、約2年半(2007年春開設)になる。

日本ではまだ知名度の低い精神分析を、いかにしてより多くの人に興味・関心を持ってもらえるかを考えてきた。

お蔭様で、「ホームページを見ました」「ブログを読んでいました」と言って、分析や各講座、子育て相談室へ参加の申し込みが入る。

私はどこか名だたる大学を出たとか、社会的資格があるわけではない。

精神科医であるとか、臨床心理士、カウンセラーでもない。

一般には、臨床心理士・カウンセラーを国家資格と思われているふしがあるが、この中で国家資格であるのは精神科医だけである。

そんな中で、私という人間を信頼して分析治療や講座などに来ることを決意できるものを提供したいという思いでホームページや各サイトを作ってきた。

権威主義的なクライアントから、「先生はどこの大学のどの先生の下で学ばれたのですか」と聞かれる。

そんなものは何もない。

いわゆる大学の教授などからみれば、我々インテグレーターは素人分析家ということになるだろう。

肩書きも資格もなく、信頼されるものをどう提供できるかと考える。

現代はパソコンというい便利なツールがあり、それを多くの人が使うようになったため、パソコンでいろいろな情報を発信している。

何かに悩み、検索キーワードを入れて、ラカン精神科学研究所にたどり着かれる方がいる。

クライアント達は、ホームページのGoogleカレンダーに書き込んだ予定表を見たり、宣照真理のセラピー日記(ブログ)を読んでいるらしい。

そんな状況の中、今回3万件のアクセスを超えたことは、私にとって意義のあることである。

更なるホームページ・各サイトの充実を図りつつ、分析を世にひろめていきたい。


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2009年12月 6日

分析家の独り言 296 (滋賀インテグレーター養成講座第三回:超自我の発達より)

昨日5日(土)、第三回インテグレーター養成講座、自我論Ⅲ《超自我の発達》を開いた。

自我の三審級(エス、自我、超自我)をバランスよくいかに構造化できるかが精神構造上大事である。

超自我は親からの禁止(親の「ダメ」)として子どもに取り入れられるが、超自我も発達していく。

しかし臨床上、超自我が親の禁止の段階で止まっていることが多い。

人が成長すると共に、様々な経験を通して社会適応しつつ、エスの解放をいかに上手くするかという問題になる。

エスの解放のみではやりたい放題で、人を傷つけても殺しても平気、欲しい物は人の物を取ってもよいということになる。

また、超自我が支配してしまえば、禁欲的な真面目人間となるが、躍動感や楽しむ事ができず抑圧されたエスは行き場を失い、最後には爆発することになるだろう。

これが何か事件が起きたときに、「あんな真面目な人が事件を起こすなど考えられない」というコメントになる。

痴漢行為をすれば職を失い、家族がいれば共に路頭に迷うことにも成りかねないのに、電車で女性のお尻を触るということにもなる。

程よい超自我を持つことは簡単ではない。

超自我は自分を律する自我であるが、自分の理想のために今自分は何をし、何を我慢しなければならないかという自我理想に向かうために働く。

ここまで超自我が発達すれば大したものである。

その前にまず、自我理想を描けないという人たちがいる。

親が理性的、論知的でしっかりした超自我をもっていなければ、子どもは超自我を学べない。

子どもは親以上の超自我を持つことはできない。

分析では、クライアントがどれくらいの超自我をもっているかを、クライアントの語りや行動からみていく。

また、犯罪や凶悪事件が増えるということは、超自我のない人間が増えているということである。

全ての人に正しく超自我が入っていれば、警察はいらないのだから。

して良い事と、悪い事の分別がつかないということは、やはり赤ちゃん(アダルト・チルドレンどころか、アダルト・ベイビー)ということになる。


インテグレーター養成講座に参加の方は、お母さん方が多く、毎回「子どもに申し訳ない、ごめんなさいです」と言われる。

子どもに命令指示し、禁止する超自我を植えつけてしまったという反省かと思う。


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2009年12月 1日

分析家の独り言 295 (変容、自己否定から肯定へ)

自己肯定感、自信を持つことは結構難しい。

クライアントにはほぼそれらがない。

そして分析を受ける前の私も全くなかった。

親から「お前はダメだ」「~ができない」「あれもダメ」「これもダメ」とダメだしの連発だったと記憶している。

そんな中で、自分を肯定し自信を持つことはまず不可能だった。

当然「良くできた」「がんばった」などの承認や賞賛はない。

そんな私は、自分でも「ああ、私は何もできない、ダメなんだ」と思っていた。

『他者の下で自我は構成される』、親の私のへの否定的な言葉が私をダメ人間と規定してしまっていた。

肯定感も自信もないから、何かを自ら積極的にすることもなく引っ込みじあんでおとなしい、失敗が恐い、人と関わることが苦手・・・どころか、言葉で攻撃を受け、さらに実際に叩かれることもあったために、私にとって人は恐い存在だった。

振り返ればそんな中で生きていた。

よく不登校も、ひきこもることも、精神的病理に罹患することもなく来たなぁと我ながら思う。

大学は何が何でも大嫌いな家を出るために遠くの大学を選んだ。

初めて家を離れて一人の人間として見られ、「頑張っている」「結構やってる」とプラスの評価を受けることがあった。

ダメだと思っていた自分を、いや良くやっていると評価されると非常に気持ちが悪かった。

散々ダメ出しをくらい、自分でもダメだと思っていたのに人は私を良いと言う。

どっちが本当の自分なのかわからなくなる。

あまり褒められると、本当の私を知らないくせにと腹が立ってくる。

そんな気持ち悪さを抱えながらいた。

これらPTSDを分析を通して癒すのに時間がかかった。

そしてあるときの分析で、自己イメージが近づいてきて、あともう少しというところまできたとわかった。

そうなるまでには、ひたすら語り続けた。

過去を再現し、何度も何度も思い出しては語り、私が悪かったのではない、ダメ出しされることで私は私をダメだと思うしかなったのだとわかった。

そうしていつの間にか、自己肯定感も自信もつくられていた。

今の自分にOKを出し、自分が目差すなりたい自分(自我理想)も明確にある。

今に立つと、昔が自分だどうダメだったのかあまり思い出せないくらいである。

謙虚さを忘れず、しかし自分への誇りと自信は失わず生きていける。

人は中庸、程よさを持つことが難しい。

多くの人が極端にどちらかに振れ、その間を行き来し疲れている、昔に私のように。

相反するものをいかに自分の中に統合するかが、人間が生きるうえでの課題の一つのように思う。


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2009年11月29日

分析家の独り言 294 (変容、母をあきらめる)

クライアントは分析を受け、自分でも気付いていく。

分析を受ける時間だけが分析ではなく、分析と分析の間、常に頭が思考が巡る。

自分で気付いたことを分析場面で報告し、それについてまた話しあったりもする。

「よく気付いたな」と感心することも多い。

分析の時間に気付くことと、日常生活の何気ない瞬間に突然「そうだ」とひらめいたり、子どもや人間関係を通してわかることもある。

私の場合、逆転移して円形脱毛ができたり体が動かなくなったことがあった。

自分でクライアントの何に刺激されたのがわかるときと、わからないときがある。

当然逆転移したときには自分で一生懸命それを探す。

それが私のまだ解消されないコンプレックスだからである。

わからないときは分析を受け、無意識を意識化する。

「あなたはまだ、母に甘えたいと思っている。それを今も望んでいる」と分析者に言われた。

それでもピンとこない、しっくり自分の中におさまらない。

分析を受けて親に甘えられるようになったクライアントを良かったなと思う一方で、自分はそんなこともできなったという思いが、分析中に一瞬だがよぎったことを覚えていた。

甘えらえなかった自分はこれまで散々語り、そんなことはもうわかっていることと思っていた。

しかし、そのとき甘えているクライアントを羨ましいと思った自分がいた。

それを自転車に乗って買い物に回っているときに思いついた。

そうか、甘えているクライアントを羨ましいと思ったということは、それを望んでいる自分がいるということ。

フロイトは「子ども時代はもうない」と言った。

私はまだ子どものまま、あの母が私を甘えさせてくれることを待っていると分析されたのか、それは当たってる、確かにそうだと自分の中にストンと落ちた。

子ども時代を象徴する言葉は、『競争と羨望』である。

羨ましいとは羨望だから、私は子ども時代が終わらずにいるということだ。

それならば「大人とは何か?」を考えた。

大人とは、自分に欠けている母に甘えることを他の事・人に置き換えて今の大人の自分として満たすことであるとわかった。

これが母から分離し母をあきらめることでもある。

「よしこれでいい」、すっきりした。

分析を受けて15年、こんなことを繰り返し自分を見つめ、子どもの自分を成長させてきた。

と同時に、母というものが我々に与える影響力の大きさを今更ながら思い知らされる。

分析の初期クライアントは言う、「もう母のことはいいんです」と。

本当にもういいで済むことではない。

分析によって整理をつけ、本当の意味で「母をもういい」と言えたときの開放感、充実感を味わえばわかる。

この母をあきらめることを=母殺しという。

この苦労しがいのある苦労はして来てよかったと思う。


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 月刊精神分析2009年11月号分析を受ける


2009年11月24日

分析家の独り言 293 (非行、無意識に気付く)

子育て相談室などで必ず、「子どもの言っていることをしっかり聴いてください」

「子どもに言われたことだけしてください」と言う。

これがなかなか理解されない。

私もそうだったが、本当に実践できるようになるには何年もかかる。

まずしっかり聴くことが難しい。

その上に、言われたことだけではなく、余計なことまでしてしまう。

子どもが荒れていわゆる非行仲間の友達を家に連れてくる。

こういう話はよくあることだが、家がそういう子たちの溜まり場になる。

あるクライアントはこの子どもにオールOKをする。

子どもが友達を連れてくるために、自分の子どもだけご飯を食べさせるわけにもいかず、食べてない子にはご飯も出す。

今度は、子どもが友達とコンサートに行きたいと言う。

友達はお金がないので友達の分もチケットを買って欲しいと言った。

言われる通りチケットを買った。

ここまでは良かった。

コンサートにいく交通費や、途中でジュースくらいは飲みたいだろうと、そのお金まで聞かずに出した。

これが余計なことであり、「言われたことだけする」から外れている。

そのお母さんいわく、どうせお金がないだろうから万引きをするだろう。

それで警察に捕まったら、この不況の中、子どもが就職しようとしたときのマイナスになるのではないかと心配だと言う。

必ず万引きするとは限らないし、もし万引きで捕まっても、それは子どもがそこでして良いことと悪いことの学習をすることである。

いずれにしても心配するがあまり余計なことまでして、結局自分の首を絞めている。

これを続けたら、破産するまでするしかなく、家はますます溜まり場となる。

行動の結果からみると、子どもが友達を家に連れてくるので困ると言いながら、本当はお母さんが連れてきて欲しいのではないか。

ここが無意識である。

言葉はいくらでも反対のことや嘘を言えるが、行動は嘘をつけない。

だから、例えば「行きたい行きたい」と言っても、何かの理由をつけて行かなかったのは、本当は行きたくなかったのではないかとなる。

そのために病気や事故にまであう人がいる。

「変わりたい」と言いながら、変わろうとしないなのは、変わりたくないのであり、変わらないことに何かメリットがあるからである。

人は無意識に気付かず、行動している。

無意識に気付けば人は変わる。


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2009年11月20日

分析家の独り言 292 (無意識に気付く:価値を切り下げられていた私)

私はバーゲンが大好きだということに気付いたことがあった。

もっと正確に言うと、もともと高価なもの(価値のあるもの、値段が高いもの)がプライスダウンされているものにひかれる。

例えばコートなど、もとの値段は何万もしていたものが、5割引、7割引になっていて、それが自分の気に入るデザインで手に入れたときに無上の喜びを感じていた。

そしてあるときふと思った、そのものこそ私だと。

私は私を、もともとは価値があったが、それを値引きされ、安く見積もられているという自己規定だった。

値引きされたその物こそ私だから、私に出会うために買い物に行ったようなもの。

そこには、今は低い価値を付けられているが、本当の私はもっと価値があったんだぞという想いがあった。

育ってくる過程で親に「ダメだ」「出来ない」と価値を切り下げられたために、いや私は本当はすごいんだ、えらいんだと言いたかったということ。

本来は、自分が欲しいもの、必要なものを探し、その物の値段が納得いくものなら人は買う。

ところが、私はまず値段の下がっているものを探していた。

それも無意識のうちに。

意識上は少しでも安いものを探して、家計の負担を少なくしようにと思っていたが、よくよく考えれば違っていた。


また以前天海有輝のセラピー日記分析家の独り言167(こんにゃくだったクライアント
で書いたクライアントも同じだ。


切れ端のこんにゃくをビニール袋に入れて、ビニールテープで止め、「はい、100円です」と、こんにゃくを受け取るときモワモワっとした何とも言えない幸せな気持ちになったという。

普通なら捨てられてしまう商品価値のないこんにゃくに、(100円のこんにゃくとして)価値を与える人になりたかったというクライアント。


あるクライアントは、駅などに張られているポスターの端が少しめくれていると気になって、一駅一駅降りてはそのポスターが折れて見えない部分を直して見る。

この人にとって、このポスターの端が折れて見えないとことこそ自分自身なのだ。

そこに何が描かれいているのか、どんな色なのか見ずにはいられない。

そのために、一々電車を降りていたのでは、社会生活に支障がでる。


よくテレビなどで見る、ごみ屋敷というのも同じである。

ごみ屋敷の家主は、捨てられているごみが自分自身であるから放っておけず拾ってくる。

これらそれらその人の無意識による行動である。

それが、一般的には癖・傾向といわれる程度のものから、社会不適応に至るまである。

無意識に気付けば、自分で修正することができる。

私の場合でいえば、安く値踏みされ自己規定を書き換えて、自分の価値に対する自己イメージを一致させること。

それを分析を通してやってきた。

すると当然行動が変わる。

気付いて、受け入れれば一瞬のことである。

こんにゃくを買わずにはいられなかったクライアントは、不思議なくらいこんにゃくに気を止めることがなくなった。


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2009年11月16日

分析家の独り言 291 (子どもに適切な関心を向ける)

子どもの心を育てるために「まなざし」と「声」と「スキンシップ」が必要である。

親が子どもに適切な関心を向けるということ。

この子は何をしたのだろう、何か悪いことをしていないか、などの監視の目ではなく、あたたかく見守るというまなざし。

「ああしなさい」「こうしなさい」「あれをしちゃだめ」と命令指示したり、感情的に子どもを怒るのではなく、「あなたはどう思う?」と子どもの意向を聞くことや、「どうしたの?」と子どもを思う気持ちで声をかけ、子どもを理解しようとすること。

そして、抱っこをはじめ、手をつなぐ、頭を撫でる、体をさするなどのスキンシップ。

自分が育ってきた過程を振り返って、残念ながえらどれも得られなかった。

監視の目は向けられていた。

いつどこへ誰と何の用事で出かけるかと聞かれ、答えなければならなかった。

これは警察の調書と同じ。

これをされると嘘をつくのが上手くなっていった。

都合の悪いこと=親に怒られそうなことはうまくごまかすようになるからだ。

またこの監視の目が強いと、誰かにいつも見られている、見張られているような感じがすることがある。

とにかく「ああしない」「こうしなければだめ」と命令指示が多く、自由がない、窮屈。

親の意向にそった行動をするしかなく、自分で物事の善し悪しを判断できなくなっていく。

あるクライアントは、「あなたはどう思う?と聞かれたことがない」という。

はじめから自分がとる行動は決められいるようなもので、親の考えが何より正しく、それを聞かなければならないようになっている。

更に母親は生後7週間で仕事に復帰したため、祖母に育てられ、赤っちゃんの頃から抱っこされる機会は少なかった。

祖母が生きている頃、「あんたを連れてお母ちゃんの仕事場へ昼休みにオッパイをもらいに行った」とよく聞かされた。

小学校高学年か中学の頃だろうか、母に手をつなぎに行って「いい歳して、いやらしい」と言われたことがあった。

娘は二十歳を越えても、私が椅子に座っていると、何気なく膝の上に座ってくることがある。

ああ、これでいいんよねと思う。

「母と手をつないだことが無い」「母と買いものに行った記憶が無い」という人もいる。

母親である私たちが何かしら欠けている、適切な関心を向けられていない。

その自分が子どもを育てるのだから、さらに欠損は大きくなり、適切な関心を向けることはできない。

あらためて娘達には申し訳ないことをしたと思う。

遅ればせながら埋め合わせられてことと、まだ足りない部分があるだろう。

娘に声をかけ聞くことが、自分が親からされて嫌だった警察の調書のようになってはいけないと思うあまり、もしかすると聞いて欲しいと娘が思っていることまでスルーしてしまっているかもしれないと思うことがある。

そうかと思うと「お母さんは突っ込んで聞いてくれるから話せる」と言われることもある。

適切な関心というのは確かに難しい。

母親がその母親から適切な関心を向けられて育ったなら、当たり前のこととしてまた子どもにできるのだが。

親は子どもと接する(子育ての)なかで、子どもの反応を見ながら、学習することができる。

分析を通して理論を知って、子どもに適切な関心を向けられる母親になってもらう。


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2009年11月14日

分析家の独り言 290 (非行に悩む親の会「大文字の会」に参加して)

昨夜久しぶりに、京都教育センター内にある親と子の教育センターで月1回「大文字の会」という、非行の子どもに悩む親の会に参加してきた。

この会を主催されているのは、教職を退職された年配の男性。

私は9~10年前から参加し、これまで様々な非行に悩むお母さん方(お父さんも)の話をきかせてもらった。

自分の勉強として参加してきて、学ばせてもらったことも多かった。

ここで出会った人の一人が、『非行・家庭内暴力に悩む方々へ』のサイトで紹介した緒方さん(仮名)である。

昨夜の話の中で、地域性の影響を親が受けることがあるという。

その地域、近所の人からの評価・視線を気にいて必要以上に子どもに口やかましく言ってきたことがある。

古い町並みに古くから住む周りの人達の中で暮らすことの良い面と悪い面があり、悪い面が強調されてしまう。

例えば「近所の人にはきちんと挨拶しなさい」とか、「そんな格好で近所を歩くのやめて」など。

子どもの評価が即親である自分の評価となり、人から良い人と思われたい、「なんだあの親は」と非難されたくないなどがあり、結果子どもを追い詰めていった。

あるときからそれをやめて、子ども中心に考えるようになったら自分も楽になったと言う。

また、学校へ行けば勉強や校則をやかましく言われ、これでは子どもも大変だと思ったと。

そう、子どもも大変なストレスを抱えながら学校や地域、家庭で日々を過ごしている。

せめて家庭は家族がのんびりとリラックスできる団らんの場であって欲しい。

しかしその家族が、親がピリピリした雰囲気で、家族間の摩擦があったり、例えば母親(父親)が未成熟であったなら、その影響は子どもに降りかかる。

他人が気になるということは、主体は自分ではなく他者にあるということ。

私は私という視点がない。

吹けば飛ぶような薄っぺらな親が、子どもにああだこうだと言いまくる。

弱い犬ほど吠えたがる。

それは弱い自分を守るためかもしれない。

外からの刺激を時には受け止めたり、跳ね返したり、排除したり、時と場合によって対処することがおきる。

親は子どもの傘となり、降りかかる火の粉から守ってやらなければならないことがあるが、その親が子どもにとって火の粉となってはいないか。

世間体を気にして、常識を振り回して。

そんなことを思う昨夜の大文字の会だった。


「大文字の会」は毎月第二金曜日、夜6時半~9時まで
場所は、京都市左京区聖護院川原町4-13 京都教育文化センター内 1F 親と子の教育センター
電話 :075-771-1150(担当:勝見先生)
参加費:500円
来月は12月11日(金)の予定

興味・関心のある方は上記へ電話連絡するか、ラカン精神科学研究所へ連絡ください。

ラカン精神科学研究所 
電話:077-558-8766 または 050-3767-6283
携帯:090-7357-4540
メアド:lacan_msl☆yahoo.co.jp ☆を@に変換したメールアドレスにメール送信願います(スパムメール対策)。


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2009年11月13日

分析家の独り言 289 (結婚詐欺にみる心の発達停止)

近頃ニュースでよく耳にする、結婚詐欺事件。

自分の利益のために、人をだましてお金を出させ、自殺であるかのように見せて殺す。

これは精神の発達からいえば、22ヶ月以前の赤ちゃんの段階である

(ちょうどこのテーマは次回11月のインテグレーター養成講座で話す分離・個体化の過程で解説する。)

母がまだ乳房だけの存在である部分対象から母と一緒に遊ぶ、寝る、食べるなどの共生、共感、共有の体験を通して、母を全体対象として認識していくが、対象が全体対象に至らない段階で精神はストップいてしまった状態。

精神が赤ちゃんでも、肉体の成長とともにそれなりの知恵や知識は得るため、その年齢にふさわしいように外目からは見える、人からお金を騙し取ることも出来る。

対象である他者を部分対象としてしみるということは、他者を部分的に利用するということである。

だから、自分欲しいお金を得るために他者を利用出来る。

他者を一人の人間と思えば、痛みも喜びも感じる血の通った自分と同じ生きている人なのだから、相手の気持ちにつけ込んで、結婚するとだましてお金を取り、更に自殺に見せかけて殺すなどということは出来ない。

母親のオッパイを飲んでいるだけの部分対象の段階のまま止まっている。

母親が適切に愛着をもって子どもに接し世話したなら、部分対象から母は全体対象に至る。

生後八ヶ月において、母とそれ以外の人を認識し始め、世話し続けた母が子どもの精神内界に焼き付けられ(内在化され)、対象恒常性に至る。

それには母が自分を見続けた一対一のまなざし、その体験の積み重ねと記憶が必要である。

それを子どもを世話せず誰かに預けたのでは、母親のイメージが子どもの中に定着することも無く、母親との愛着や信頼・絆も形成できず、精神の成長はそれ以上発達する事は無い。

世話せずに成長するものは無い。

植物や動物がそうであるように、人間もまた同様である。

精神が未熟であることほど恐ろしい事は無い。

精神の発達と知能は全く別のものである。

人はやはり、精神の時と肉体の時の二つのときを生きている。

この精神の時がどこで止まっているのかを見、そこからもう一度時を刻み出し、成長・発展していくことを精神分析は目指す。


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月刊精神分析2009年10月号変容と変遷

2009年11月10日

分析家の独り言 288 (2009年11月京都子育て相談室より:子ども時代を終わらせる)

昨日9日いつものように京都で子育て相談室を開いた。

遠くは兵庫県や大阪からの参加やお父さんの参加もあり、子どもの不登校、ひきこもり、非行、家庭内暴力、子育ての悩みなどで、一人ずつ現状を話しながら質問され答えていった。

日々子どもと接しオールOKする中での成功や失敗、子どもの変化、悩み、親の気付きなどがあった。

それぞれが抱える問題は違っていても、子どもへの対応法オールOKは同じで、質問や答えが質問した以外の人たちの参考にもなると思う。

いつも私が言うことがある。

「子どもが何を言っているのか、まずよく聴いてください」ということ。

勝手に先回りして心配したり不安になったリしないで、言ってないことまでしようとしたり、聴く側の勝手な思い込みもしないで、正確に言葉を聴き正確に反応すること。

たったこれだけのことが案外お母さん達にはできないことが多い。

心配性のお母さんは、子どもが言ってないこと・やってないことまで先回りして心配する。

そのもとには、母親自身の問題がある。

安心と安全の中で母自身が育ってきて、自己肯定感や自信をもっているか。

それが無ければ、マイナスの思考に流れやすく、その母の言動は日常のなかでも子どもに伝わり、子どももまた心配性であったり、人の話を思い込みで聞くことになるだろう。

また、子どもの要求に応えるのはいいが、言葉で「いいよ」「はい、わかった」と言っても、眉間にしわを寄せて、顔が「ダメ」と表現していたのでは子どもは気持ちよくやってもらったとは思えず、満足度も低い。

言葉ではOK、表情でNO、この相反する二つのメッセージを出されたら子どもは困惑するだろう。

さらに子どもの要求に応えるが、言葉で「めんどくさいな」とか「もっと早くいってよ」などと言われるのも同じである。

どうせ応えるなら、子どもが心地よくやってもらってありがとうと思えるようにして欲しい。

そうでないとせっかく応えたことによる子どもの心を育てる効果が半減する。

それはもったいない。

しかしこういう私も、どうせ子どもに応えるなら、文句も愚痴も嫌な顔もせずに気持ちよくやってやればいいのに、なんで一言要らないことを言ってしまうのかと悩んだときがあった。

そのときには、私はこんなことも親には言わなかったし、言えなかった、してももらえなかった、なのにあんた達(子ども達)はいいよね、言えば応えてもらえてもらえるんだから、と思っていた。

この時点でまだ、私の子ども時代が終わっていなかった。

この私の子ども達を羨望する言葉は、親に対する子どもの視線に立った言葉である。

ところが子どもを育てる私は、子どもに対する親の立場に立たなければいけなかった。

それには親から心理的に分離し、自律することが必要だった。

過去の親への愛と憎しみ、してもらったことと、してもらえなくて心残りなことに対する恨み辛み憎しみを整理し、そこから離れること、解き放たれること。

そうすると、子どもへの羨ましさはいつの間にかなくなり、要求に応えてもらって喜ぶ子どもの顔をみて、これでいいんだと一緒に喜べる私がいた。


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2009年11月 6日

分析家の独り言 287 (会話の力)

クライアントから、「Yes」の裏の「No」を読み取りながら会話をするというのを幾例か聞く。

「~したいんだけど、どうかな」「いいかな」と聞いて、相手が「いいよ」と言っても、その裏には「ダメ」が含まれているのではないかと思うというのである。

この会話は非常にややこしく、会話が成立しにくく、互いの思惑が交錯し混乱する。

これとともに多いのは、察するという会話である。

言葉ではっきり「ダメ」とか、「~しなさい」とは言わないが、遠まわしにそれを言っていることを察するというもの。

兄弟が親に怒られているのを見聞きして、自分にもそれをするなと言っているんだと察する。

親が他人の行為に文句をつけて、子どもは親がそういうことを好まないんだ→してはいけないんだと察するなど。

言葉で「勉強しろ」とは言われないが、勉強していると親の機嫌がよければ、それは「勉強しなさい」と言われたのと同じことになる。

非言語的会話とでもいうべきこれらの会話は、病んだ家族に多い。

会話が何か、どういうものかわからないというクラインともいる。

正常な会話をしてきているか、非常に怪しくなる。

一方通行の命令指示も会話とは言わない。

会話とは言葉のキャッチボールであり、会話によって人と人が理解しあい、共感や合意が得られるものである。

自分の考えや意見を言うと同じように、相手の考えや意見も聞き、自分の主張をどこまで通し、相手にどこまで譲るか。

自分を主張するばかりで相手が自分に合わせることだけを望んだり、自分を殺して相手に譲るばかりでも良好な関係はつくれない。

どこまで出して、どこまで引っ込めるか、これを子ども時代から親との会話で学習していく。

まずは子どもは親に自分の言いたいことを言えること。

親はオールOKして、子どもの言うことをしっかり受け入れ聴く。

この聴いてもらうことがそもそもない。

しっかり聴いてもらうから、子どもは成長とともに、人の話を聞ける様になる。

親がろくに子どもの話も聞かないで、親の話を聞けというのは無理である。

人は基本的にしてもらったこと(体験したこと)は出来る。

またされたようにしか出来ない。

会話ないの夫婦、会話のない親子、会話のない家族、これらは互いの理解や思いやり、信頼、親密さ、愛着が育たない。

第三者が聞いていると、全く話しがかみ合っていないのに話が終わらず会話であるかのようにみえるものもある。

今一度、自分達がしている会話は、本当の意味で会話といえるかを見直してみてはどうか。

カウンセリングで話を聞いてもらい楽になる、癒されるというのは、理解と共感的態度で話を聞いてもらうからだろう。

分析はこのカウンセリング的理解と共感を持ってクライアントの話を聴き、さらに無意識や心の構造に踏み込む。

それらを薬や暗示、催眠などを使わず、会話によって行う。

この会話によって、理解され、癒され、気付き、変容し、成長していく。


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2009年11月 3日

分析家の独り言 286 (メール相談・スカイプセラピーより:今ここに生きる)

時代の流れなのか、最近パソコンによるメール相談や、電話セラピーに加えスカイプでのセラピーが増えてきた。

以前からホームページ上でスカイプは無料で電話機能が使えるので、それにカメラをプラスするとテレビ電話となり、遠方であるなどして直接面談できないクライアントに対応できると言ってきた。

メール相談についても、メール相談だけでやり取りをするケース、メールのやり取りをした後分析に入っていくケースや、、メール相談の後子育て相談室などに参加されるケースなどいろいろある。

日本ではまだあまり知られていな精神分析を、より多くの方々にまずは知ってもらいたいという思いからパソコンというツールを使ってホームページや各サイト、月刊精神分析を作ってきた。

ブログ『宣照真理のセラピー日記』は、私の分析を受けているクライアント達も読んでいるようで、分析や相談室・講座で話題にのぼる事がある。

これも精神分析というものをいろんな方向から表現し理解してもらえるように、また私という人間を知ってもらうことの参考になればと思って書いている。

分析とともに分析者がどういう人間かも、クライアントの立場に立てば気になるのは当然で、この分析家は信頼できるのかどうなのかをどこで判断するか。

分析関係に入れば、分析家はクライアントと信頼関係を築くことに注力するのは当然だが、そこに行く前段階で、どの治療者のもとに行くかをクライアントは決めなければなならない。

また子どもの不登校・ひきこもり、非行などで困ったとき、どこに相談しに行けばいいのか迷うだろう。

そんな時、「不登校」「ひきこもり」「非行」などの検索文字を入れて当ラカン精神科学研究所のホームページやサイトを見て、一度話を聞いてみたい、メールで相談してみたいと思う何かを提供できたらと思っている。

実際「ホームページを見ました。分析を受けたいのですが」と電話をいただく。

手前味噌ながら、分析やラカン精神科学研究所をいくらか信頼してもらってのことかと思う。

さらに、精神分析とは何かから説明しなくてもホームページなどを読んでもらっているため、時間や料金などについても了解した上での連絡のため非常に助かる。


分析は精神の病があるから受けるものとは限らない。

精神的病理の有無に関わらず、自分を見つめ、自分を知り、自分らしく活き活きと生きていくことができる、それを目指す人達が取り組むことといえる。

そういう意味では、全ての人が分析を受ける可能性がある。

分析により親との精神的分離を成し遂げ、精神的に成長していく。

過去にとらわれ執着せず、今を味わって「今ここに生きる」ことである。


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2009年11月 2日

分析家の独り言 285 (滋賀インテグレーター養成講座第一回より)

新しくインテグレーター養成講座を開き、第一回を終えた。

講座の内容は、『自我論Ⅰ』 胎児の世界、新生児の世界、乳幼児の自我と対象関係。

内容が濃く、3時間では話しきれないほどだった。

胎児がどのように胎内ですごしているのか、そのとき母親との関係がどうであるか、新生児の世界はどんなものかなど参考文献  

「胎児は見ている」   (祥伝社)
「赤ちゃんには世界がどうみえるか」  (草思社)

と、症例を入れながら解説した。

胎児も新生児も一般には、まだ全てにおいて未成熟で何もわかっていないだろうくらいにしか思われいていないだろうが、そうではない。

感覚器官が未発達ながらも、胎生六ヶ月以後には自我が芽生え始めており、胎生八ヶ月においては、胎児なりに考え、感じ、記憶しているといわれている。

ましてや新生児においては、肉体の成長とともに精神の発達・成長はいちじるしく、母親による世話が大事である。

乳幼児の自我と対象関係では、対象関係論(乳幼児の精神の構造)を解説した。

実際に今乳幼児が身近にいる方もおり、「そうそう、確かにそうだ」という声もきかれた。

分析理論講座ではやさしく理論を解説しており、また分析の中で一部理論的なことを話すこともあり、そのとき必ず「そんなことなら、もっと早くに知っておきたかった」という声を聞く。

私も、分析理論を学んだのは子どもがもう小学生になっており、せめて子どもを産む前に知っておきたかったと思った。

講座参加者の中には、これから結婚するだろう若い方もおり、是非こういう人たちに知っておいて欲しい。

子育て中の方には、これまでの子育てを見直し、子どもにどう接しどう世話するのが子どもの健全な精神を育てることになるのかが理論をもとにわかってもらえる。

智を得たとき、無知だった自分を知る。


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2009年10月30日

分析家の独り言 284 (自分らしく生きる)

クライアントの話から、子どもに「早く、早く」と追い立てたということを聞く。

おそらく私も私の親から同じように言われていたのだろうと思う。

私も子どもを育てる過程で子どもを「早く、早く」と追い立てていたからだ。

保育園に行く娘に「早く着替えなさい」、「早くご飯を食べなさい」「何やってんの、遅い」と。

急き立てる私に娘は「何でお母さんは早く、早くが好きなん?」と言った。

当時私は娘のそんな言葉に気を止めることもなく、相変わらず追い立て急き立てていた。

自分の内で常に「早く、早く」という声が回っている気がした。

長い間、それさえも気が付かなかったのだが、そんなことに気が付き始めたのもやはり分析を受けてからだったと思う。

「早く洗濯をして」、「早く家事を済ませて」、「早く仕事をして」・・・ 毎日毎日・・・ 疲れていた。

あるとき思った、そんなに急いで私は何をしたいのか?どこに向かっているのか?

早く、早くの先にあるもの、行き着く先は「速く棺桶に入ることじゃないか」と気が付いた。

そんなに私は死に急いでいたのか。

おかしいよね、私。

何でもっと、生きる過程を大事にして来なかったのか。

いろんな問いが自分の中に湧いてくる。

そして「早く、早く」と死に急ぐ生き方は辞めると決めた。

そこに何の意味もない。

では、なぜ私の中で「早く、早く」のレコードが回っていたのだろう。

多分、大家族の中で母は家事に仕事に忙しく追われ、子どもの私にも自分のことは自分でさっさとしてもらわなければ困ったのだろう。

その母が私に「早く、早く」と言っていたのだろう。

親の口癖は、くり返し聞くことになり、子どもの心に刻まれる、刻印される。

この無意識に刻印された言語に従って、人は生きていくことになる。

自分の意思とは関係なく。

他にもいろんな言葉を言われているはず。

まだ気付かないその言葉を見つけ、書き換えていくのも分析の仕事である。

あるクライアントは自分を縛っているものをしっかり見つめ、それを一つ一つ見ていくと決めたと言った。

絡まった糸を丁寧に解くように、薄皮を一枚一枚剥がすようにしていくと、自分を縛り生きにくくいていたことから解放される。

解放されたとき、以前自分がいかにどうでもよいことに縛られ生きにくかったかがわかる。

この開放感と自由な心を取り戻し、自分らしく生きていける。


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2009年10月26日

分析家の独り言 283 (2009年10月京都子育て相談室より)

新しい方の参加があり、子どもへの対応法の質問が相次いだ。

「オールOK子育て法」を話すが、世間では子ども要求に応えると、「わがままになる」「何でも子どもの言うなりになってはいけない」と言われるので、お母さんが迷ったり、悩んでしまう。

その方は、「オールOKしていいと言われると安心する」と言われた。

ただし、子どもに言われないこと、要求されないことまでしない。

それは過剰であり、逆に支配につながり、子どもは攻撃されたと感じてしまうからだ。

子どもが何を言っているのかまずよく聴くこと。

記号としての言葉をしっかり正確に受け取ること。

しかしそこに聴く側の母親のコンプレックスが入ると、思い込みなどにより勝手に解釈してしまう。

母親が甘えを抑圧し、親に言いたいことが言えなかったとしたら、子どもの甘えが受け入れられない。

子どもに「お母さん○○して」と言われると、「自分でしなさい」と言う。

これでは子どもの言葉を正確に受け取ったことにならない。

子どもは自分の言葉の真憑性が学べない。

母親が自分の言った通りに動いてくれるから、子どもは自分の言葉が正しかったと思える。

そうして言葉を覚えていく。

基本的に母親がその親にしっかり自分の言葉を聴いてもらってないために、子どもの言葉を聞きたくない。

これが母親のコンプレックス、無意識である。

子どもは自分の言葉を正確に受けとられ、言葉通り応えてくれる母親と信頼関係を築いていく。

この信頼をもとに、母親以外の人と関わっていける。

当然自分への肯定感や自信も持てる。

ある子どものクライアントは、「オール(OK)と言われると、安心する。オール=全てだから、気兼ねなくいける」と言った。

母親の胸に思いきって飛び込める安心感が子どもの心を育む。

質問に対し答え、対応法等を話し、なぜそうするのかを説明し納得してお母さん方に子どもにオールOKを実践してもらえるようにしている。


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2009年10月21日

分析家の独り言 282 (子どもの主体性を大切にする)

これまでも娘とケーキを何度も一緒に作ってきた。

今度は「料理を教えて、一緒に作ろう」と言う。

料理本をみて、材料を一緒に買いに行く。

ああだ、こうだと言いながら、時には「結構いける」と喜んだり、「これは今一つだったね」「まあ何事も経験」と言ってみたり。

とにかく娘のペースに合わせて進めるため、すごく時間がかかる。

でも子どもはこんな風に、自分のやりたいようにやって、自分に合わせてもらえれば楽しいだろうなと思う。

自分のときはどうだったかと振り返る。

時間のない母に手伝わされ、メインは母がして私は洗い物や雑用。

あれでは料理を作ったという感覚さえ持てなかっただろう。

料理を手伝うのは嫌いだった。

家族のためにご飯を作ることが母親としての役目と思い作ってはきたが、途中までとてもしんどかった。

家事の中でも、料理が一番苦手というか、苦痛だったと思う。

なぜだろうと考えた。

おそらく母に一番手伝わされ、嫌々だった事だからではないか。

例えば女性が、そこそこの歳になって自分で家事をするようになる。

そのとき、料理・洗濯・掃除・片付けなどが、楽しい思い出としてその人の中にあったなら、その楽しい思いと共に家事をするだろう。

しかし、やりたくないのに無理やりやらされたりなどして、家事をすることに良いイメージ・思い出がないと、家事をしようとしたときその嫌なイメージがでてきて面倒くさい、やりたくないとなるだろう。

人は何を体験し、どういうイメージ・記憶を自分に残したか。

もちろん良いものを重ねられた人は幸せである。

料理を作るとき、「ああ、あの時母とこうして作って楽しかった」「美味しかったなぁ」と思えれば、料理は楽しいことで好きになるだろう。

そうすると、子どもに物事の得て不得手、好き嫌いを決めさせているのは、多分に親の対応によるところがあるのではないか。

子どもが自らしたくてすることと、親に言われてさせられるのでは大きな違いがある。

つまり、子どもの主体性を重んじることが大事。

子育ての場は、母親自身が育てられたことの再演の場となるようだ。

合わせる、待つとういうことが苦手な私が自分を知り、娘によって鍛えられ、ゆっくりしたテンポの娘に付き合えるようになったのは奇跡かもしれない(笑)。


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2009年10月20日

分析家の独り言 281 (精神分析の意味:幸せを目指して)

ククライアントは「こうあるべき」「こうでなければならない」という硬い枠を持っている。

その枠に自分も他人も納まっていないといけない。

最初はこの枠が自分を縛り、生きにくくしていることに気付かない。

後にこの枠があるために生きにくいとわかるが、これがなかなか手離せない。

そもそもこんな枠など持たない方が楽だったと、枠を持たなくなったときにわかる。

と同時に、いかにこの枠に縛られ、自分を持てず無駄に生きてきたかを知る。

育ってくる間に親や周りからいろんな言葉を吹き込まれ、「~であるべきだ」「~でなければならない」の枠を持たされてしまった。

子ども時代、小さければ小さいほど、親たちの言動による枠を跳ね除けたり、否定することは難しい。

一生それを金科玉条のごとく思い生きていく人もいるだろう。

私の親は、私に25歳までに結婚しなければ、いいところにはお嫁にいけない、幸せになれないと吹き込んだ。

だから昔、友達のお姉さんが25歳を越えても結婚していないと聞くと、「えっ、まだ結婚してないの」と私は驚いていた(今から思えばなんと滑稽なことか)。

他にも、感謝しないといけない、女の子は早くから家のことができないといけない、結婚するまで婚前交渉をもってはいけない、先祖や親を尊ばなければいけない・・・ 日常の細かなことまで、ありとあらゆることに口やかましかった。

おかしいと思いながらも、それらを否定できず、私はそれらの言葉に従って生きていた。

「苦労は買ってでもするもの」と言われれば、楽をしてはいけない気になる。

我慢することが良いことで、自分の要求やわがままを出してはいけないと教えられたが、それらを出すことが大事だった。

子ども時代にはそれを親が受けとり、成長するごとに自分で我慢することや社会に適応することを学習し、しかし要求を全て抑えるのではなく、今の自分に出来る方法で満たす、置き換える。

抑えるのではなく、いかに満たすかが大事だった。

そうとは知らずに、出来る限り抑えることが正しいと思い生きてきた。

「真面目に生きなければ、神様は見ているから罰が当たる」と言われれば、怠けたり、人に悪意を持つことが出来なくなる。

人を憎んだり、恨んだり、怒りを抱いたり、人として当たり前の感情を抑えなければならなくなる。

人は真面目にだけ生きることが良いことだろうか。

真面目な自分と、羽目を外して不真面目な自分を適材適所使い分け、楽しむ事が大事と知った。

人を憎んだり怒ったりする、それも人間として当たり前の感情であり、それらをいけないものと思わなくなる。

それよりも、なぜ自分はこの人が嫌いなのか、腹が立つのか、何にひっかかっているのかを考えるようになる。

そこに自分のコンプレックスがあるはずだから。

そうなると、自分の感情に振り回されることがなくなっていく。

「人に出来ることは自分にもできる」と言われ、出来ないことに出会うと自分はダメだと落ち込む。

そもそも人に出来ることが全部自分に出来るわけがない。

人にも自分にも出来ること得意なことと、出来ないこと不得意なことがあって当たり前。

自分の特性や好きなことを知って、それを活かせば良い。

クライアントは様々な枠をはめられ、生きにくさを感じ苦しんでいる。

分析において語りながら、自分のからだに心に書き込まれた言葉、シナリオを解読し、書き換えていく。

親の価値観やものの見方で生きていくのではなく、自分の価値・見方で生きていく。

それには親との心理的分離が必要。

そこには愛と憎しみがあるため、これが厄介であるが、根気強く取り組めば自分を自分として感じ、生きている充実感が得られる。

悩み苦しみがあるから、病んでいるから分析を受けるのではない、分析は幸せを目指す人が取り組むのである。


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月刊精神分析2009年9月号 秋葉原無差別殺人事件

2009年10月16日

分析化の独り言 281 (クライアントの気付き:自己の成長)

分析はクライアントのコンプレックス・無意識に触れるため細心の注意が必要である。

それを「薄氷を踏む想い」と表現する。

文字通り薄い氷の上を歩くようなもので、いつどこで薄い氷が割れ、冷たい水の中に落ちるかわからない。

一気にコンプレックスに触れるとクライアントは悲鳴を上げる。

辛く苦しいことであるため触れたくなく、無意識に追いやったものに接近するのだから。

クライアントの反応を見ながら行くが、解釈が早すぎ、クライアントがそれを受け入れる準備が整っていなければ抵抗が起きる。

次回の予約を入れずに帰るクライアント。

様々な表現をして分析から撤退していく。

分析を辞める辞めないはクライアントの自由なので無理に引き止めたりはしない。

来るものは拒まず、去るものは追わずである。

やめていくクライアントはそれ以上自分を見つめることができず、治す(変容する)気がないか、自分という治療者には治せないクライアントだから絶対に追いかけてはいけない。

また、本来の分析というものが理解されていないと感じることもある。

コンサルティングを求めている人に多い。

クライアントなりの一段落がつき、やめていくが、その中で分析に復帰してくるクライアントがいる。

子どもの問題で分析に来られ、殆どその対応法(コンサルティング)を求められた。

子ども達は一応の落ち着きを得たが、今度は親である自分のメンタルケァを求めて来られた。

分析がないと、自分自身の成長がないと気付いたという。

その通りである。

素晴らしい気付きと、私は独り感動する。

表面上はそれなりに落ち着いてはいるが、根本的解決ではなく、自分の心も本当の平安を得たのではないことを知っている。

自分の母親から母らしい対応を受けなかったために、母性というものが何かわからない。

当然子ども達にも母性行動がとれない→子どもは何らかの問題を呈する、病む。

自分が変わることで、子どもの心が成長し社会に出て行けるようにまた取り組むという。

一度やめたクライアントが復帰してくることは少ないが、中にはこういうクライアントもいる。

「またお世話になります、よろしくお願いします」と言われた。

私の方こそ「よろしく」である。

また語り合い、共に学び成長していけるだろう。


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2009年10月13日

分析家の独り言 280 (分離不安、葛藤を乗り越えて自立へ)

10月の連休中に実家の地域のお祭りがあった。

親戚の人たちが集まる。

その席で皆が話している中、母が私のことを「この子は、そこまでせんでもいいやろと私が思うくらい、娘らの言うことをきいてる」

「私がこの子を育てるとき、あれダメ、これダメを切ってきたから・・・」と言った。

私は本当にこの人(母)わかって言ってるのかと思った。

少しは自分のしたこを反省したのか?

一方では相変わらず私に「娘をもっと躾けないといけない」とか、「手伝わして教えておけ」だのと言っている。

どれが本当の母なのか。

いずれにしても、私は私をしっかり持って、この考え方でこうするというものを持っていないと親に振り回される。

子ども時代には親や大人は絶対で正しいと思ってきた。

親もまた、自分たちの言うことは正しいから言うことを聞いておけばいいんだと、あるゆる場面で子どもである私に言ってきた。

それを途中まで信じてきたが、はたと自分を振り返ったとき、それは違っていた。

親の言う通りしていれば間違いは無い、幸せになれると信じ込まされてきたが、決して私は幸せではなかった。

これは大変なことだと気がつけたのは30歳半ばを過ぎていた。

ならばなぜ、親はそんなにも支配し、自分達の言うことを聞かせたかったのだろう。

もちろん親たち自身がその様に育てられたのではあるが、それくらい子どもを従わせたいというのは分離不安であろう。

自分と同じ考え、自分と同じ行動をとることを強要する、それは一体化を望んでいる姿。

いくら自分の子どもであっても、別の個体であり別人格であると認識していれば、親である自分はこう思い、考え、こうだったが、子どもはどうかわからないというところに立てる。

ところが、よく聞くのは、自分がこの学校に行ってよかったから子どもにも行かせたかったとか、親の職業を継がせたいとか・・・ という話である。

人間は親と分離していくことが一つの大きなテーマである。

自分は自分として一人で立っていられる(=自立)ということは、簡単なようで難しいことだった。

親が自立していなければ、子どもを取り込み、子どもの自立を無意識に阻んでしまう。

いつまでも自分のそばに子どもを置いておきたい。

子どもはいつまでも自分の足で自分の好きなところへ歩いて行くこともできない。

何もしないで、親の自我を越える自我を子どもは持てない。

真の自立とは、親が嫌だから、気にくわないから距離をとっている、会っていないということは違う。

親への愛と憎しみの葛藤をいかに克服しているかである。

今一度、自分が親からどれだけ自立しているかを見直してみてはどうか。

自分への問いかけでもある。

子どもを呑み込もうとする親の過剰な愛情と、してもらえなかったことへの執着と恨み憎しみの葛藤が不安と緊張を呼び起こす、自分を苛立たせる。

一般には、そんなことにも気付かず生き辛を感じていることもあるだろう。

自分と向き合い、自分を知れば自立に向かい幸せを感じられる。

その一つの方法が分析であった。


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2009年10月10日

分析家の独り言 279 (苦痛を乗り越えて自己改革へ)

子どもの何らかの問題で分析に来られるお母さんからよく聞くことがある。

子どもがボソボソ小さな声でしゃべるので聞き取り辛く、「もう一度言って」と聞き直すと、子どもは「もういい」と怒るという。

子どもはわざと小さい声で話すことがある。

そのときの母親の反応を見ている。

自分の言うことを聴く気があるか? どれくらい真剣に聴くか?

聴く側の母親は、常に準備して子どもが何時しゃべりかけてきても聴けるようにしておく、それくらいでないと聴き取れない。

子どもも、どうせこの親は自分の言うことなど聴く気もない、聴かないだろうと半分あきらめている。

このとき、いつもと同じ聴き方をしないで、お母さんにはしっかり子どもの言葉を聴くということを意識してもらう。

それだけでも子どもからすれば、「あれ?(いつもと違うな)」と、親の変化に気付くはずである。

子どもは親に自分を理解して欲しい、わかって欲しい、黙ってとにかく自分の話を聴いて欲しい。

どんなに荒れていても、口を閉ざしていても。

おかあさんに子どもへの関心を向けてもらうようにすると、これまでいかに自分が子どもの言うことをいい加減に受け取ってきたか、聴いてなかったかに気付いていく。

自分では聴いているつもりでも、無意識には「聴きたくない」がある。

聴けば子どもの要求通りに動かなければならなかったり、聴くこと事態が苦痛であったりする。

そこには、親自身のコンプレックス・無意識がある。

親である自分がまずその親に充分話を聴いてもらっただろうか、受け入れられただろうか。

基本的に親にされたことは出来るが、されなかったかこと、経験のないことは出来ない。

その出来ないことを、いろんな方向から説明して、お母さんに納得して、子どもにしてもらう。

お母さん自身の分析によって自分を振り返りつつ実践していくと、必ず子どもに変化が見られる。

「子ども(相手)を変えたければ、まず自分が変わること」、と何度も聞かれただろうが、自分の変え方がわからなかったのではないか。

自己変容、自己改革は非常に大変なこと、苦痛や痛みさえ伴う。

それでも子どものため、ひいては自分のために取り組む価値はあると思う。


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2009年10月 7日

分析家の独り言 278 (オールOKで欠けたものを取り返す)

子どもは親に自分を理解して欲しい、わかって欲しい、話しを聞いて欲しい。

あるクライアントが言う。

1歳半になる孫が、まだ言葉が話せないため、「ぎゃー」「ぎゃー」言うことで自分の想いを伝えようとする。

それでも伝わらないと、クライアントの手を持っていって、態度でこうしろと伝える。

子どもってこういうものだったんだと思う。

この孫の親(=クライアントの子ども)は、こんなときがあっただろうか。

おそらく無かっただろう、おとなしい子だった、確か。

その子が今は仕事で家に寄ると、母親であるクライアントにしゃべりまくる。

テレビで見たこと、自分の周りでおきたこと何でも話す。

これは孫の「ぎゃー、ぎゃー」と同じだなと思った。

口数が少なく、余りしゃべらなかった子が、オールOKして信頼関係が出来ると、言葉が増えてよくしゃべるようになった。

人間は取り返す。

踏み外した階段をそのままにしては登れない。

必ず欠けた所に戻って取り返さないと、あるところから先には進めない。

そして「人間は自分を表現し、理解され、相手がどう感じるかを受け取りたいものなんですね」と言う。

受け取り続けるから、しゃべり続け、しゃべりながらしゃべる子どもが気付いていく。

親子が信頼しあっている姿は美しい、オールOKして最後までやって幸せに行き着けた。

当たり前の幸せに行き着くのは大変なこと。

大変な労力と時間とお金も要したと語った。

より多くの人に、このクライアントのような幸せを感じてもらいたい。

どこかで手を抜けば、必ずそのしっぺ返しは来る。

それは子どもがいくつで、どういうかたち(例えば非行、不登校、ひきこもり等)でかはいろいろであるが。

しかし原因があっての結果であるから、子どもが欠けたところを埋め合わし取り返していけば良い。

そのための協力と努力つまりオールOKは親として惜しまずして欲しい。
 
やり方がわからなければ教えるので聞いてください。


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2009年9月30日

分析家の独り言 277 (不登校から突然の登校)

昨日、クライアントから電話があった。

「子どもが二人とも学校に行きました」という報告だった。

ここ何年か二人の子どもが不登校だったが、一人は先週の途中から、もう一人は昨日からそろって登校したという。

子どもたちの母親であるクライアントは分析を受け、オールOKをしてきた。

しかし、家で見ている限り子どもたちに変化は見られなかった。

おそらくクライアントの中では、オールOKするしかないと思ってはいても、どこかで本当に大丈夫だろうか? と疑問や迷いもあっただろう。

それでもクライアントはよく頑張った。

突然、「学校に行くと言って、ワクワクするような感じでした」「あんな子どもの様子は初めて見ました」と言う。

「だから、学校に行くときは突然行きだすといったでしょ」と私が言うと、「本当にその通りでした」と答える。

「これで少しは私の言うことを信用していただけましたか」と冗談半分に言うと、「いえ、信用はしていたのですが・・・」と言われた(笑)。

学校には行かないだろうと思っていた子どもたちが突然行ったので、クライアントは面食らった様子だった。

オールOKすれば必ず結果は出る。

子どもの自我が育てば動き出すが、ただそれが何時とはいえない。

だから突然行き出すケースが多い。

子どもを外側から見ていても何の変化も無いように見えるが、オールOKしていれば子どもの中で確実に心が育っている。

私が嬉しかったのは、子どもがワクワクするような感じだったということ。

誰かに言われたのでもない、子ども自らが行こうと思った、それも嫌々学校に行ったのではなく、ワクワクしながら行ったのだ。

オールOKで目指すのは、不登校の子どもを学校に戻すことではない。

その子が自分らしく活き活きと生きることである。

それが学校であるか、それとも他の場であるかは子どもが選んで決めることである。


オールOKの話をしても、聞く耳を持たない人が多い。

しかもそれを実践する人はさらに一握りの人たちである。

子どもにオールOKすることは、上辺だけの学校に行くか行かないかを問うのではない。

子どもの心を育てなおし、元気とやる気、主体性をもって動けるようにする、根本的な対応法である。


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2009年9月29日

分析家の独り言 276 (精神分析とコンサルティング)

精神分析は、基本的には分析家との会話により自分を見つめ、無意識を意識化し、コンプレックスを解消する洞察的気付き療法である。

クライアントは自分を知ることにより、足りないもの、欠けたもの、知らなかった物事を取り返していくことにもなる。

それが人として変容・成長することになっていく。

しかし、最初から「自分を見つめ知りたい」といって、分析に来る人はまずいない。

ほとんどは心の病(例えば神経症など)であったり、親子・夫婦・家族など対人の問題などで分析に来る。

その中でも多いのは、子どもの問題、不登校・ひきこもり・ニート・非行である。

例えば子どもがひきこもりで、その子どもをなんとか社会に出られるようにしたい、と分析に来る。

そのほとんどは、ひきこもりの子どもの母親である。

この母親に、「さあそれではあなたの無意識をみてみましょう。それにはまずお母さんあなたの養育史から話してください」とは言わない。

クライアントが話したいことを語ってもらい、子どもの様子、経過を聞き、どこに問題があるか、今日から子どもへの対応を変えてもらう部分を説明し、具体的にアドバイスする。

そこでは当然『オールOK』の話をする。(オールOK!子育て法 のページを参照)

なぜ、『オールOK』が必要なのか理由を説明し、今後子どもがとる可能性のある態度とその意味を理解してもらい、それでも『オールOK』できるか確認することもある。

『オールOK』をする気のない人、やらない人は次の予約をとって帰らない、がもちろんそれはクライアントの自由である。

私は自分の娘の不登校始め、多くの臨床例からも、『オールOK』以外に子どもが本当の意味で主体性を持ち、元気に活き活きと生き、自立していく方法に出会ったことがない。

『オールOK!子育て法』は私見や親の都合からいわれたものではなく、人間の心の発達の理論に基づいた子育て法である。

母親がこの子のために、自分の身を呈してもやると決めて実践してもらえば、子どもの変化・成長が見える。

そうなると、、『オールOK』するお母さんもしんどいながらも、これでいけると明るい光を見出してやっていく。

その中で、いくら、『オールOK』しようとしても出来ないことが出てくる。

そこに母親のコンプレックス・無意識が関与するので、少しずつそれにも触れながら、子どもへの対応法を話しさらに実践していけるようにサポートする。

これはほとんどコンサルティングである。

本来の意味での精神分析とは違うが、まず目の前の問題(ひきこもり)を解決するために必要なことである。

しかしまた、それに対応する中で自然、母親は自分を振り返り、いろんなことに気付いても行く。

そういう部分では精神分析としての意味合いがある。

『精神分析』というと、いきなり自分の心を分析される、または精神鑑定と間違う方がいるがそうではない。

精神分析が扱うのは、人が生きること全てに関することなので、まずはクライアントの話をよく聴き、何を求めているのかを見極めて治療方針を立てる。

分析はクライアントの利益のためになされるものである。


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2009年9月27日

分析家の独り言 275 (母は子どもの母港)

下の娘の体調が戻りかけホッとしていた昨夜。

電気をつけたままウトウトしていた私の部屋に、今度は上の娘が倒れ込むように入ってきた。

「どうしたん?」と私。

娘は手を差し出して、「もんで」と言う。

言われるままに、親指と人差し指の付け根の間をもんだ。

聞くと、「吐きそう、気持ちが悪い」と言う。

「えっ、また(この子も)」と思った。

しばらくもんでいると、娘はからだを引きずるようにしてトイレに行った。

私は外で心配しながら待っていた。

ドアが開いたので、「大丈夫?」「吐き気はどう?」と聞いた。

娘はポツリ、小さな声で、「多分、受け入れたくないことがあるからやと思う」と言った。

「ああ、それはきっとそうやと思う」と私。

背中をさするくらいしかできずにいると、娘は自分の思い当たることをひとしきり話し出した。

話終わった頃、もう一度「吐き気する?」「どう?」と聞くと、「もう大丈夫」と娘は答えた。

娘は悩んでいた、腹も立てていた。

それを言葉で吐き出して、吐き気はなくなったようだ。

母親とは、子どもの話を聴き続け、受け取り続ける存在。

しんどい時、辛いとき、悩んだとき、困った時、腹が立った時、また嬉しかった時にも、帰っていくところ=母港。

私にはそんな母港はなく生きてきたんだなと思うと同時に、娘にはなんとか出来ている自分がいることにホッとしている。


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2009年9月26日

分析家の独り言 274 (9月分析理論講座、子育て相談室より:人が生きるとは何か?)

9月24日(木)分析理論講座、25日(金)子育て相談室と続けて講座と教室を開いた。

両日とも参加したクライアントもいて、どちらも2時間理論を話したり、質問に答えた。

子どもと自分のことに取り組み、何とかしたい、このままではいられない・・・ 熱意が伝わる。

自分と向き合い、子どもにオールOKするのは大変なこと。

それでも取り組めば必ず道は開け、幸せを感じ楽しめる自分になる。

「空手形は出さない」「必ず幸せへの道である」「ネバーギブアップ」この言葉を私も何度言われたことだろう。

その言葉を信じさせてくれた先生(惟能創理 氏)は偉かった。

と同時に、それを信じて15年分析に取り組んだ自分がいる。

そして今、また様々な悩みや問題を抱えて分析を受けに来るクライアントに私も同じことを言う。

ある課題を乗り越えれば、また新しい課題が出てくる。

子どもの問題に取り組み、そのことが解決されたならそこで分析を終わりにしてもいい。

子どものことが解決した時点でやめていく人もいる。

しかし、今度は自分の問題に取り組むと言う人もいる。

その途中のどの段階で辞めるかはクライアント次第。

私の場合は、生きている限り課題に取り組み、人として成長できるところまで行くと決めた。

先生が生きていてくれる限り私は分析を受けるだろうし、仕事を通してクライアントから学ぶことも多い。

「分析によって人が生きていく、人生のからくりがわかりますよ」と言った先生の言葉に強く引かれた。

そしてそれを知りたい。

人間とは何か? 人が生きるとは何か? 自分とは何者か?

これを追求し、知っていくことに楽しみを感じらる自分は幸せだと思う。


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2009年9月25日

分析家の独り言 273 (母は力は偉大)

下の娘が体調を崩した。

生理の初日はいつもの多少体調の変化がある。

夜中に携帯電話がなり、娘が「しんどい」と言う。

「待ってて、すぐいくから」と、娘のもとに駆けつけた。

「吐きそうで気持ちが悪い。でも吐くのは恐いから吐きたくない」

冷や汗をかいていて、そのためにからだ冷たくなり、寒いと言う。

トイレの前に座り込み、吐いたり下したりしながらも私に話していた。

自分でも「これだけしゃべってたら、元気そうに思うやろ」などと言いながら・・・ 2時間ほど。

それにつきあった。

「少しましになったのでベットで寝る。一緒に横で寝て」というのでお腹に手を当てながら娘の横でウトウトした。

外が明るくなりだした頃、「もう帰ってもいい」と娘がいうので、自分の部屋に戻って、少し横になった。

朝9時頃だったろうか、パソコンに向かい仕事をしていたところに、また娘から電話。

「また、吐きそう。しんどい」

駆けつけると、便器を抱えるように座り込んでいる。

また、嘔吐と下痢をくり返し、トイレの前で倒れ込むように横になった。

「下痢止めの薬でも飲むか」と娘に聞くと、「飲む」というので持って来たが、「出すことを拒んだからこうなった。下痢止めを飲んだらまた出すことを止めることになるから、苦しくても薬は飲まない」と言う。

私はその背中をさすった。

すると、「安心する」「楽になった」

「私がして欲しかったのはこれや」と言う。

先生(惟能創理氏)の本の症例に、娘が病気になって、お母さんを呼び寄せ看病したら、たちどころによくなった、というのあったけど、まさにそれやな」と娘。

小一時間ほど背中をさすった後、娘は「母の力は偉大やな」、「そばにいていい?」と言い、私が電話セラピーをするそばで、横になって少し寝たようだった。


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2009年9月20日

分析家の独り言 272 (高相祐一・酒井紀子夫妻の保釈に寄せて)

16日夕方、酒井法子さんの夫 高相祐一氏が拘置先の警視庁渋谷署を出た際、かぶっていた帽子に「PUNK」と書かれていた。

「PUNK]とはくだらない人間、ちんぴらやくざという意味がある。

人はそのときの自分の状態、気持ちを表わすものを着る、身につける。

本人はおそらく無意識の裡に、自己規定した言葉である。

また、その帽子に「CASPPER」の文字がパッチワーク風に縫いつけられていた。

この「CASPPER」は高相被告がDJをする時のニックネーム。

コメディー映画に出てくるお化けのキャラクター「キャスパー」に息子が似ているとの理由で名付けたという。

ただ、キャスパーの正式な綴りは「CASPER」で、高相被告が綴りを間違えたのか、故意によるものなのかは不明という。

これらのことから、彼はくだらない人間、実体のないお化けのような存在だということになる。

人は本当の自分を知っている。

それは無意識に。

そしてその無意識の通りに行動し生きていく。

今回の事件で明らかになった高相氏のプロフィール等。

どうやらプロのサーファーではなく丘サーファーで、経営していた店はつぶれ、仕事はどうしていたのか。

覚せい剤に手を出し、妻にも覚せい剤をすすめ今回の逮捕に至った。

これではくだらない人間、ちんぴらやくざという表現になるのもわかる。

しかも、「CASPER」とは映画に出てくるおばけのキャラクター。

お化けは死んだ人=生きながら死んでいる。

人が生きるとは何か。

自我理想(なりたい自分、目標)をしっかり描き掲げ、努力していくこと。

ここに人としての成長・発展がある。

それがなければ、人が真に生きているとは言えないのではないか。

その日その時をこなすだけで、何となく過ぎれば良い、一時の快楽を求めて覚せい剤を使用していたのでは、そこに生きる意味はない。

しかも、身体には多数のタトゥーがあり、保釈時にはそれらを隠すかのように手袋をはめていたが、それでも隠し切れず見えていたという。

(タトゥーの意味については、天海有輝のセラピー日記 分析家の独り言179刺青の意味を参照) 


彼もまた、母に抱っこされなかった人=母性喪失者、愛着障害者であろう。

ここから彼らがどう立ち直っていくのか、いけるのか。

酒井法子さんのみならず、一人の人として夫として父として、これからが彼らの正念場。

ここから一念発起して自分を見つめ立て直すのか、さらに落ちていくのか、岐路に立つ。

立ち直りたい、このまま人生を終わりたくなければ生きなす道を求めること。

その方法がわからなければ分析の戸を叩いてみてはどうか。


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2009年9月18日

分析家の独り言 271 (2009年9月 京都子育て相談室より:家庭内暴力・ひきこもり)

昨日9月17日、京都で『子育て相談室』を開いた。

ラカン精神科学研究所のホームページをみたと、他県から新しい方の参加があった。

子ども性別・年齢、問題はそれぞれ違っていても、共通する子どもの行動やそれに対する親の悩みがあり参加された方の話が盛り上がった。

例えば、子どもの状態が悪い時に、その子がいるだけで家族の中に張り詰めた雰囲気になり、親や家族が楽しくしていると子どもが怒る。

それは、子どもの側からすると、「自分がこんなにしんどい思いをしているのにお前らよくそんな楽しそうにしていられるな」という想いがある。

それくらい荒れたりひきこもっている子は、自分自身がしんどさや不満不安を抱え、気持ちの持って行き場がなくもがいている。

と同時に、この自分のしんどさをわかって欲しい、がそれを親達は理解しようとせずに、のほほんと楽しんでいるように見えて腹が立つ。

親も他の兄弟がいて、問題の子どもだけのことをいつも考えているわけではない。

また、大変な状態だからと一日中落ち込んだり、暗い顔をしているわけにはいかない。

ただ、問題の子どもは、親が楽しそうにいていると自分のことを考えてくれていないと思う。

子どもは、人は自分を理解して欲しい、わかって欲しい。

それがない、またはそれが感じられないために、孤独感の中である者は怒り暴れ、またある者は絶望し自分の殻に閉じこもる。

荒れる子、心を閉ざして何も言わなくなった子の心をどう開くかである。

特にそこに暴力があると、それだけで親も恐さゆえ逃げの態勢に入りがちとなる。

その態度にまた子どもは怒る。

なぜなら、家庭内暴力などの行為は、子どものギリギリのサインであり、本当は自分に向かってきて欲しい、関心を向けて欲しい、わかって欲しい・・・ のだから。

そうなると、子どもに対応する親、特に母親の精神状態が問題となる。

子どもの心を開くためにオールOKすることだが、母親が暴れる子どもを恐がっていてはそれどころではない。

自分の身を捨ててでも、この子を何とかしたいというくらいの気概がないと取り組めないことかもしれない。

また、この母親を支え励まし、共に戦っていく夫(子どもの父親)の協力も不可欠であろう。

こういったことを『子育て相談室』で話し合った。

参加の親御さんたちは、いわゆる各地にある『不登校の親の会』などにも参加されたことがある。

ラカン精神科学研究所の『子育て相談室』に来られる方は、他によくある『不登校の親の会』は言いっ放しなので、時には人の話を聞いて、「うちもそうなったらどうしよう」と、かえって心配や不安になることがあったと言う。

「ここの子育て相談室は、先生がいてちゃんと答えてくれ、アドバイスしてもらえる」と言われる。

万人に合うわけではないが、そう思ってこの『子育て相談室』に価値を見出した人たちが来てくれているのだろう。

また、最初は子どもが大変で親も不安をいっぱい抱えてのスタートであるが、親が『子育て相談室』に参加し、親または子ども、もしくはその両方が分析を受けたり、『分析理論講座』を受ける人もいて、当然オールOKしていくと子どもも落ち着き変化が見えてくる。

子どもがどうにもならないのではないかというところから、光が見え始めこれで何とかなると思ってもらえると、『子育て相談室』に参加する親御さんの表情も明るくなってくる。

こういう変化や、話し合われる内容に明るいものが見えるのが、私にとっても喜びであり、やりがいを感じる。

同じ母親としても、またインテグレーター(分析家)としても、勉強になり、ありがたいと感じる時である。


何らかの子どもの問題で悩んでいる方、興味・関心のある方、参加お待ちしています。

下記へ電話はメールで連絡ください(当日でも参加できます)。

電話:077-558-8766 または 050-3767-6283

携帯:090-7357-4540

メアド:lacan_msl☆yahoo.co.jp ☆を@に変換したメールアドレスにメール送信願います(スパムメール対策)。


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2009年9月16日

分析家の独り言 270 (分析を通して人を育てる)

一か八か、もうこれしかなと荒れる子どもにオールOKをすると決めたクライアント。

分析を受け、母親教室(現在の子育て相談室)にも参加し続けた。

分析において、子どものことと共に自分のことも語る。

その途中で、「もしオールOKをして子どもが変わらなくてもいいと思った」と言う。

インテグレーターの私としては少々驚く、何でだろうと?

クライアントは言った、「もしここで自分が死んでも肯定できる」

「なぜなら、この自分を知ってくれている人(インテグレーター、分析家)が一人でもいるから」

「自分がどう考え、どう行動し、どう生きたかを知っていてくれる人がいるから死んでも悔しいということがない」

「ああ、○○さんはここまで頑張ったけど力尽きたのか、と自分の努力も苦悩も理解してもらっている」

「理解してくれる人に出会うことで安心して死ねる、それは安心して生きられることである」

「自分を知ってくれる人に出会う、それで生きた意味があった」と。

なるほどなぁ・・・ と私は思った。

そしてクライアントに教えられた。

クライアントは、母親として子どもを理解しようとしていった。

結果、子どもは社会適応し、母であるクライアントはこれほど人を好きになったことがないというほど子どもを好きになったという。

今後子どものさらなる成長が楽しみであり、子どもが要求するなら自分の命がある限り応え続けるともいう。

子どももまた母を気遣う。

母が困ったとき、出来ないことがある時、こちらからこうしてと言わなくても子どもは母を助ける。

こうして相互性が、互いを思いやる関係ができていった。

分析において理解と共感が大事である。

インテグレーター(分析家)から理解と共感をされたクライアントは、それらを今度オールOKする中で子どもにもできるようになっていった。

自分に経験・体験のないことは仕様がないが、分析によって理解と共感される心地よさを感じ知った者は、今度それを人(子ども)に出来る人になる。

人がこの世に生命を宿したその時から、自分を想い全てを受け入れ、理解し、共感してくれる、その人が母親であったなら、人はどんなに幸せだろう。

そうして育った子どもは、幸せな人生を保証されたようなものである。

分析において、クライアントが望めばそういう母親になれる。

インテグレーター(分析家)がクライアントの母親代わりとなって、クライアントを育てて行くことも分析の仕事の一つである。


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2009年9月14日

分析家の独り言 269 (オールOKと基本的信頼)

あるクライアント、分析を受け子どもにオールOKをしてきた。

子どもは不登校で、あまり外にでない。

不登校とは子どもが24時間体制(1.5歳未満の口唇期)に戻った状態なので、お母さんと一日中一緒に過ごす。

家にいると子どもの変化はほとんどわからない。

自分(母親)が分析を受け、子どもにオールOKしても目だって子どもの変化も見えず、本当にこれでいいのか?と迷いや疑問も出てくる。

分析もそろそろ辞めようかとも思い出した頃、ある催しに親子で参加した。

そこで子どもの成長した姿が見えた。

母親から離れ、同年代の見知らぬ子達と普通に話し、対等にやりあっている我が子を見た。

何の変化も成長もないと思っていた我が子が、オールOKすることで子どもは確かに成長していたと感じられたという。

毎日家でそれほど変化のない生活の中で子どもに対応して、このままこの子は家にいて、一生自分から離れずにいるのかなど、様々な不安が出てくるだろう。

私も下の娘が不登校していたときには、一体いつ動き出すのだろうと思った。

しかし、あるとき突然「学校に行く」と言い出した。

日常の中で子どもの変化は見えなかったが、オールOKすれば子どもは変化・成長していた。

やはり一貫してやる続けることである。

最初から100%出来なくても、諦めずに根気よく、継続は力なり。

子どもの変化・成長とはこのようになかなか表面いは見えにくいものであることを知っておくことも大事なこと。

自分の娘の経験からも、やはり信じるということが人間にとって大事なことであり、基本なのかとあらためて思う。

この基本的信頼を人が学ぶのは、わずか0~1.5歳の時期。

母親に適切に世話されることで、人は人・物・事を信頼することの基礎を学ぶ。

これを学べなかった人達が多く、その人たちが親となって子を産み育てる。

親が基本的信頼を学んでいなければ、当然それを子どもに伝い教えることは出来ない。

私も分析を受けるまでは、基本的信頼など全くないまま子どもを育てていた。

分析を受け、インテグレーター(分析家)との関係を通してやっと学ぶことが出来ていった。


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2009年9月13日

『月刊精神分析』 09年8月号酒井法子覚せい剤所事件と分析理論発刊のお知らせ

- 特集  酒井法子覚せい剤所事件と分析理論 -

今回は、今世間で話題の酒井法子さんの覚せい剤に関せする一連の事件についての概要と、精神分析の立場から解説しています。

酒井法子さんがタレントであったためにマスコミで報道され、彼女のプライバシーも詳しく出されることになりました。

このマスコミからの情報をもとに、彼女の生い立ち・養育史をから、彼女の心の構造(特に依存)をみています。

ただ、酒井法子さんに限らず、今の日本で覚せい剤は我々が想像する以上に蔓延している可能性があります。

これもマスコミからの情報ですが、覚せい剤を売っていたイラン人が「これほど薬(覚せい剤)が売れる日本はおかしい」と言っていると聞きました。

それくらい現代の日本人は、覚せい剤に依存しなければならない未熟で脆弱な心の構造しか形成できていないということです。

覚せい剤を使っていくと、幻聴など統合失調症(以前の精神分裂病)と似た症状を呈するといいます。

人間辞めますか?覚醒剤やめますか?(日本民間放送連盟の麻薬撲滅CM)のキャッチフレーズを思い出します方も多いと思います。

それほど危険で、法律でも禁止されている薬物を違法と知りながら使わなければならない人達が増えているのです。

そのことを今一度考え、人間とはいかに生きるべきかを問い直させてくれる事件でもあります。

もし私が酒井法子さんと同じような境遇で育ったとしたら、私も覚せい剤に手を出していたかもしれません。

精神分析で問題とする養育史、赤ちゃんの頃からの育てられ方を重視するのは、この時期から人間の心の構造が良くも悪くも形成されるからです。

原因があっての結果であり、それを紐解き、正常な心の状態に戻していかなければ、依存の構造から抜け出すことは難しい、いや出来ないと思います。

今後、酒井法子さんの更生へ道は平坦なものではなく苦悩と困難な道でしょうが、自分を大切にし残りの人生を有意義なものに書き換えていって欲しいと願います。


月刊精神分析2009年8月号 (こちらをご覧ください)

<目次>

1、はじめに
2、語り手プロフィール
3、酒井法子覚せい剤所持事件の概要
4、精神分析的視点
5、自己統制-時間編―
6、自己統制-お金編―
7、自己統制-健康編―
8、酒井法子というペルソナ(仮面)
9、酒井法子容疑者の経歴
10、名前の不思議 酒井家の場合
11、タレント酒井法子の死
12、精神分析的解釈とまとめ
13、精神分析家ネットワークの紹介

ラカン精神科学研究所のホームページ


月刊精神分析2008年11月号 私と精神分析 もご覧ください

月刊精神分析2008年12月号 心の栄養学講

月刊精神分析2009年01月号 運命は名前で決まる

月刊精神分析2009年02月号私と精神分析 2

月刊精神分析2009年03月号随筆 精神分析

月刊精神分析2009年4月号 なぜ分析で病が治るのか

月刊精神分析2009年5月号 精神分析家をえらびますか?

月刊精神分析2009年6月号 女性と仕事・結婚・出産

月刊精神分析2009年7月号 非行と家庭内暴力

2009年9月 2日

分析家の独り言 268 (分析によって自分を知る)

あるクライアントが言った。

世間に流されて生きてはいけない。

せめて自分と自分の家族は強固なものにしておかなければいけない。

嫌なことをよけてよけて生きて来ては、自分さえも受け取れない。

最初は子どもの問題で、分析を知りオールOKをした。

子どもの問題が解決した頃から、夫婦の問題が見えてきた。

子どもに問題があったときは、この子が悪い、おかしい、だから私はこんなに大変で苦しいと思った。

今度夫婦の問題が起きたとき、夫がこんな人だから私は不幸なんだと思った。

ところが結局、全てのことは自分に起因していた。

自分は正しいで、相手を人を責めているううちは自分と向き合えない。

嫌だけど自分を見つめ出し、自分を知っていくと人のせいにしなくなった。

ひたすら自分を振り返り、知っていくと自分の変化に驚くことがいっぱいあった。

そして気がつけば、穏やかな日々と心の安定、家族とのたわいない会話に喜びと幸せを感じられるようになった。

今まで生きて来たなかで、これほど幸せを感じられたことはなかったという。

そして、お金は自分を活かすために使わなければいけない。

病身や施設に入るようになってから使うお金より、自分を磨き成長するためにお金を使うこと。

期待するのは自分にする、それがベスト。

人や家族に期待するのは、自分に自信がなく不安が高いから。

これからも変わり続けていくと言う。


自分を知っていくと、ものの見方考え方が違ってきて、「なぜ自分は今この事に腹が立つのだろう、ひっかかるのだろう」と、冷静に自分を見つめられる。

そして自分の過去を辿り、今の状況と同じようなこと、その原因となりそうなことを探す。

すると、自分で気付くことがある。

また、自分でも気付かない変化がおきていて、今までとは違う反応・考え方をしている自分に気付いて驚くことがある。

最初に出会ったころは、生きるか死ぬかという大変なクライアントだっただけに、よくここまで変容し成長したと思う。

諦めずに取り組めば必ず道は開けると、あらためて教えられた。


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2009年8月31日

分析家の独り言 267 (ひきこもりとドライアイ:その心の構造)

あるひきこもりのクライアントが語った。

小さい頃から悲しかったり、悔しかったり、辛かったりして泣いた。

しかし、誰も自分の話を聴いてくれなかった。

なぐさめたり、共感されることがなかった。

泣いても何も変わらない、何もならない。

そうして泣くことが嫌いになった。

さらに感情を出すことを抑え、言いたいことが言えくなっていった。

後にそれがドライアイという症状に至った。

日常的に常に目が乾くため、目薬が手放せない。

泣きたいときに泣かない=涙を出すことを止めた⇒ドライアイという症状

心が全て身体のに影響する。

初めに心在りき。

泣きたいときに泣いて感情を表出し、言いたいことを言えるようになれば、ドライアイは治る。

クライアントの話しに耳を傾け、受け入れ、共感していけば、感情や言葉が表出できるようになる。

それを分析場面やクライアントの周りの人(特に母親)がしていくこと。

心が癒えれば、身体も癒され症状は消失し、言えるようにもなる。

しかし、分析がなければ自分が感情や涙を出さずにきたことなど気付きようもない。

否定されたり非難されることなくクライアントは自分の話を聴き続けられる安心感のなかで、心を開き語り出す。

精神分析がおしゃべり療法といわれる所以である。

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2009年8月28日

分析家に独り言 266 (8月京都子育て相談室より)

昨日京都で8月2回目の子育て相談室を開いた。

クライアントたちはそれぞれに子どもにオールOKする中で、その失敗やしんどさを語りつつも、オールOKすることによって子どもの変化や気付きがあった。

それらを話し合った。

夏休み、しんどいながらも子どもの要求に応え対応するうち、自分のことを自然と振り返り、自分はこんな風に世話されただろうか、大事にされただろうか、いや多分こんなことは無かった。

そう思ってから少し子どものことが、大事に思えたという。

自分の欠如を知れば、こうして子どもを思いやることもできる。

またあるクライアントは、子どもに問題があると思っていたが、子どもにオールOKで対応するうち、自分に問題があったと気付いた。

それから子どもへの対応が変わったという。

こうした気付きが大事である。(分析は洞察的気付き療法である)

最初大半のクライアントは、自分は愛されて育ったと思っている。

しかし子どもに対応し、自分を振り返れば自分も適切に世話されていないことに気付き、理想的自己イメージは崩れていく。

そうして足りたところと、足りないところを自覚して、本当の自分を知っていく。


子どもの問題に悩み、そのお母さんが分析を受ける。

当然分析でもオールOKの対応法を話す。

頭では何とか理解できても実践しようと思うとできなかったり、疑問や不信感が出てくる。

初期は特にオールOKしたくないが、それをするしかないのだろうとやり出す。

すると、子どもに少し変化が見えてくる。

やっぱりオールOKすることが良いことなんだと思う。

あるクライアントは言った。

「それでも毎週分析か子育て相談室・理論などでオールOKの話に触れていないと戻る(オールOKできなくなる)」と。

常に理論・理屈でオールOKの対応法にふれながら、確認し、疑問点を質問して解決していかないと、根気強く継続してやり続けることは難しい。

なぜなら母自身に世話されず、大事にされず、愛されなかった子ども時代の悲しい自分が無意識下にいるからである。

クライアントたちは、自分だけでなく同じようにオールOKする人たちの話を聴くことで、共感しあったり、意見を言ったりしながら刺激しあうことになる。

自分のことは見えないが、人の話を聴くと子どもにこうしたらいいのにと思ったり、他の人ができているところを認めたりもできる。

いつもの自分とは違う角度からまた自分や子どもとの関係を見つめることができる。

その中に、私の失敗談や経験したこと(娘の反抗や不登校)、症例などを交えながら話をしている。

一人で悩みながら迷いながらオールOKし頑張っているクライアントたちの役に立てればと願いながら、この子育て相談室を開いている。

そうして未来ある子どもや青年たちが自分を活かし、活き活きと自分の人生を歩んでいってくれることを目指していく。


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2009年8月25日

分析家の独り言 265 (9月京都分析理論講座より)

昨日京都で、いつものようにテキストを解説し、参加されたお母さん・お父さん方の質問に答えながら分析理論講座を進めた。

ひきこもりや不登校、非行などの子どもへの理解と対応を学ぼうという熱心なクライアントたちなので、質問されることが多い。

今回は、生後6~8ヶ月の乳児の発達について解説したが、この時期は「8ヶ月不安」と言われる時期で、乳児が適切に世話され、母を識別し内在化し始める時期である。

大事なのは、適切に世話されることであり、手を出しすぎても、抜きすぎてもいけない。

このころの子どもを育てるとき、先回りして手を出しすぎたという。

そうすると、乳児は自分で内部感覚(お腹が空いたなどの不快感)を感じ取り、それを泣くという形で表出する必要がない。

お腹が減る前に、オムツが濡れて気持ち悪いと感じる前に、おっぱいや乾いたオムツが勝手に来るからである。

放ったらかしもいけないが、過干渉・過保護も子どもにとっては適切な世話とは言えない。

次回の分析理論講座で分離・固体化の過程を解説するが、これは自分の感覚を自分のものとして感じ、母とは違う存在である自分に気付き、その母から距離をとって切り離し、それでも自分を維持できる自我境界をつくる過程である。

これだけのことを乳幼児期になすのである。

大人でさえ、この精神の発達をしている人は少ない。

自分と他人は別個の違う存在であると認識するだけでも、精神の発達から見れば大変なことである。

この認識がなければ、自分の思っていることは他人も思っているはず。

他人は自分の思う通りに動くはず、という思い込みからの言動となるため、当然軋轢や、誤解などが起きる。

また、子どもを育てる母親自身がその母と分離できずにいるため、子どもを取り込んでおり、子どもが自分から距離をとり離れていこうとすると、分離不安からそれを妨害してしまう。

母親の言動は無意識的なので、子どもの成長や自分からの分離を阻んでいることにも気付かない。

こうして精神の発達は阻止され、いつまでも赤ちゃんのまま留まる。

それでも体は、それなりに成長していくため、肉体の年齢と精神の年齢の差はどんどん開いていく。

その結果、学校に通う途中や、進路を決めるとき、社会に出る頃になって、精神が赤ちゃんでは学校という社会でまわりと対等に話すことも、関係を築くことも難しく、自分の進む道を自ら決定することもできず、撤退しひきこもることになる。

子どもがひきこもるにはひきこもる原因がありそれを理解し、対応法を知って育てなおしていけばよい。

こうして分析理論を知って、理屈から人間を理解していくことも意味のあることと思う。

分析理論講座に興味・関心のある方、連絡ください。


電話:077-558-8766 または 050-3767-6283

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2009年8月22日

分析家の独り言 264 (分析によって全てを肯定する生き方へ)

あるクライアントとその息子の会話。

息子の住まいは別だが、家業をともに営むため毎朝クライアントの家に来て、仕事場に出かけていく。

あるとき息子は、子どもの世話に追われる自分の妻を見ていて、夫である自分は子どものためならと我慢していることもあり、つい愚痴が出て、「嫁さんは子どものためにいるようなものや」「自分は辛抱と我慢ばっかりせなあかん」と言った。

母親であるクライアントは「そやから、あんたが家に来たときは、あれが食べたいて言うたら用意して、あんたの言う通りしてあげてるやん」と言った。

それをそばで聞いていた息子のお嫁さんが、「その通り」とひと言。

自分が生きている間は、いくつになっても息子が望むなら自分に出来ることはしてやるとクライアントは言う。

やる限りは邪魔くさいと思わないで、息子のいうことを大事に思ってしてやる。

子どもの側から言えば、誰かに自分の要求をきいてもらえ配慮される幸せ。

それを母親としてきいてやる、それが今は喜びとなった。

仕事から母親であるクライアントの家に戻ってきて、そのまま息子は自分の家に帰るときもあるが、わざわざ2階にいるクライアントの部屋まできて、「わっ、クーラーのきいた部屋で、お前はいいねぇ」などと、皮肉めいた冗談を言いながら、5分ほどしゃべって帰っていく息子。

そんなたわいの無い会話ができるようになり、それをが心地よい。

分析を受ける前も自分の人生、分析を知り分析を通して自分を知っていったその後は二度目の人生。

そのどちらをも冷静に、客観的に見ていられる。

いっぱい苦しんで耐えて、それでも生ききってきた。

女として生まれたが、歪められ生き難さを感じてきた。

前は、今度生まれて来る時は男として生まれ僧侶になりたいと思っていた。

今は、、もう一度生まれ変われるならやっぱり女が良いとクライアントは言う。

生命を生み出すことの素晴らしさを知ったから。

本当に大事なのは、生み出した後いかに育てるかであるとわかった。

生命力のある存在として子どもを育てるには、生命力を持った親にしかできない。

そのための知恵・知識を知らないと、共に生き、真の人間を育てることは出来ない。

人が人を理解しないと、人同士は生きられない。

そのためにも、生み出し育てるには全てのことをケチったらあかんとクライアントは言った。

全ては自分に必要で起こったこと、良い事も悪いことも全てを受け入れ肯定できるクライアントになった。

よくここまで来てくれたと私は思う。

人としてインテグレーター(分析者)として、クライアントから教えられるこもまた多い。


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2009年8月21日

分析家の独り言263(トラックバックに気をつけて)

「分析家の独り言」と題してブログをあげいて、それにトラックバックが来ることがある。

今回、酒井法子容疑者の事件について書いたブログにも幾つかのトラックバックが届いた。

どういうものかと、トラっクバック先のサイトの見に行った。

酒井法子容疑者について書かれていて、同じように興味・関心を持つ人のブログのように思えた。

その中に酒井容疑者の動画が貼り付けてあり、私は安易にそれを見ようと思ってしまった。

結局それは、いわゆるワンクリック詐欺というもののようで、この動画を見たことにより料金が発生するという画面が出た。

実際には動画は何も見てもいない。

クリックして出てきたのは、動画ではなくお金の請求の画面だからだ。

こういう手口があるのかと、驚くとともに、ある意味感心した。

こういう頭の回転・機転をもっと人や社会の役に立つ方向に使えないものか、といつも思う。

私のブログを見た人が、私と同じような嫌な想いをしないように、当然トラックバックは削除した。

皆さんも気をつけて欲しい。

いろんな手を使って、不正にお金を得ようとする一部の人たちがいる。

俺々詐欺しかり、振込み詐欺等、私達の周りのいろんな所に落とし穴があるようだ。

分析的にいうなら、超自我(良心)が機能していない。

お金が得ることが目的で、お金を人をだまして不正に得てもかまわないということ。

そこに自分への自負・尊厳などなく、他人への配慮・思いやりもない。

自分さえ良ければいい、人が泣こうが困ろうが知ったことではない、それより何よりお金が大事、得たい。

本当にそれで幸せを感じ、充実した人生を生きられるのか、人にとって真の幸せとは何かと考えさせられる。

こういう人間が増え、それが犯罪につながることも多い。

一方で、心を病む人も増えている。

この先この国はどこへ向かうのか。

それら全て、一人一人の心のあり方が問われるのではないか。

肉体はそれなりに成長し、やがて老いていく。

心の成長、あり方は肉体とは全く違う経路・過程をたどり、命のある限り成長し続けることが出来る。

なぜそれを目指さないのか、しようとしないのか。


また、ブログにコメント・メッセージが届くこともあるが、その中にも真面目なものから、いわゆるHな内容、卑猥な表現のものもある。

出会い系の迷惑メールも一日に山のように届く。

人は様々。

ネットの便利さの裏に、こういった危険があることを忘れてはいけない。


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2009年8月20日

分析家の独り言 262 (酒井法子容疑者:、「3人の母と家の秘密」 より)

覚せい剤取締法違反(所持)容疑で逮捕された女優の酒井法子容疑者(38)の毛髪から、覚醒(かくせい)剤成分が検出された。

ネットで、「3人の母と家の秘密」 と題した酒井容疑者の生い立ちを書いた記事を見た。
(http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20090817-00000002-aera-soci)

以下、記事より抜粋
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「1人目の母」つまり実母とは、両親が離婚したため2歳で離別している。
酒井容疑者はインタビューで「実の母の顔、全然覚えてないんです」と話している。

小学校時代には、埼玉県狭山市の親戚の家に里子に出された。
これが「2人目の母」である。

狭山での暮らしも突然、幕を引く。小学校卒業間際の6年生の3学期に、父が再婚したことで呼び戻された。その相手が、のりピーから見れば先の「3人目の母」にあたる。

中3の冬、友人に誘われてコンテストに出場。入賞を逃しかけたが、所属事務所サンミュージックが特別賞を受賞させ、芸能界入りが決まった。
3学期の卒業間際に東京に転校した。

小学校も中学校も、卒業式直前に「大人の都合」で転校させられる運命は、幸せを掴みかけるのに、あと一歩届かないのりピーの人生を暗示しているようでもある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2歳で両親が離婚し、実母の顔も知らない彼女。

分析上、これだけでも心の負担は大きく、それ以後の人生に大きな影を落とす。

子どもには親の都合はわからない。

ある日突然母親がいなくなる。

2歳といえば、まだフロイトのいう肛門期にあたり、トイレット・トレーニングの時期である。

マーラーの分離固体化の過程でいえば、第四期の個体化の強化と情緒的恒常性の出現の時期。

母の映像・イメージを内在化するが、普通に育っても、母とのいきなりの分離は不安を呼び起こす。

そのため母を何か物に置き換えて、この母との分離の不安と寂しさを子どもは一時的にしのぎ、和らげている。

この母の代理物が移行対象物といわれるもので、それには柔らかいもの、母の香りのするもの、例えば毛布・シーツ・タオル・ぬいぐるみなどである。

ところがこれは母が一日のうちの短い時間不在である場合のことで、彼女の場合は両親の離婚が決まったときから母と全くの分離状態に置かれた。

それはもう、移行対象物により母の代理物を持つだけで到底埋め合わせられることではない。

母にくっつきたくて母を呼んでも探しても、自分の前には現れない母を諦めるためにどれほどの心の負担を強いられただろう。

当然それ以後、精神の発達はその時点で停滞し、欠損を抱えながら生きていく。

またいつ、自分の大事な人が突然去って行くかもしれないという想いをどこかに抱えながら生きていくかもしれないし、何かにしがみつきたい、甘えたいと思いながらも、それをまた失うかもしれない不安や恐怖から、人を求めない生き方をするかもしれない。

さらに、小学校時代には里子に出され、また環境や母と呼ぶ人さえ変わる。

そしてまた、中学3年では彼女がどこまで自分の意思で動いたのかはわからないが、芸能界入りするために東京に転校した。

記事に「幸せを掴みかけるのに、あと一歩届かないのりピーの人生を暗示しているようでもある」とあるが、今回の覚せい剤取締法違反(所持)容疑もそうだが、一見幸せそうに見える彼女の心の闇、苦悩は深いのではないか。

覚せい剤を使用していたことは確かなようだし、それが何年前からだったのかははっきりしないが、彼女が覚せい剤にはまっていったにはそれだけの養育史があった。

原因なくして結果はありえない。

彼女は実の母に甘えたかっただろう、頼りたかっただろう、抱きついてしがみついて安心したかっただろう。

彼女の置かれた状況がそれを許さず、何年も後に子どもの頃から欠けたもの、欲望は、覚せい剤に依存するという形をとった。

38歳という年齢の彼女は、育ってきた環境がどうであれ、社会的責任を負い、罪は償わなければならない。

まして子どもさんはまだ10歳。

これから彼女がしなければいけないことはたくさんある。

まず、覚せい剤から距離を置き、抜けることだけでも大変なことだろうから、なんとか頑張って欲しい。

それには彼女を援護し、支える人、ことが必要であろう。

人は人によって支えられ癒される。


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月刊精神分析2009年4月号 なぜ分析で病が治るのか

月刊精神分析2009年5月号 精神分析家をえらびますか?

2009年8月18日

分析家の独り言 261 (自分への智を得、知的享楽へ)

分析で問題になるのは、クライアントと親の関係である。

最初クライアントにとって、母親は優しい良い母であることが多い。

ところが、養育史を聞き母親について語りだすと、様々な母親が出てくる。

最初の語りとは違ってくる。

中には、母親の悪い面に触れようとすると抵抗し、明らかに不機嫌になったり、とても触れられそうにないこともある。

クライアントの反応を見ながら、それぞれのクライアントに合わせて進めていく。

良い母の下(無意識)には、悪い母がいる。

反対に、最初から「母は嫌いです」というクライアントもいる。

こういうクラアントの無意識には母への愛着が隠れている。

母を好きか嫌いかどちらか、一方だけを意識している。

そうしなければ、優しい好きな母と表現した場合、嫌いな悪い母が出てくると困るからだ。

反対に嫌いな悪い母を意識している人にとって母を求め母に愛着を持った自分が出てくると、母を憎みきれないのでこれも困る。

母も人間であるから、100%良い人でも悪い人でもない。

良いところもあれば悪いところもある、そのどちらも意識すること。

偏らず、真実を見て知ること。

対象関係論でいう、良い母にはそれに対応して良い自我が、悪い母に対して悪い自我が形成される。(詳しくは、分析理論講座またはインテグレーター養成講座で解説しています)

そうして自分を知っていくこと。

それが辛いことであるため、撤退していく人もいる。

私は自分の思い込みや、思い違いを分析によって知り訂正していけることが楽しかった、面白かった。

そうだったのかと納得できると、辛いことも受け入れられた。

私という人間は、結構理屈っぽい人間だったんだと思った。

自分への智を得ていくことから始まり、さらに真理・本質を求めるようになった。

まだ知らないこと、わからないことがたくさんある。

命が終わる瞬間まで、それらを追い求め、智を得て、知的享楽に浸りたい。


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2009年8月17日

分析家の独り言 260 (感情を取り戻し人間として生き返る)

健康な精神のためには、怒りたいときに怒り、泣きたいときに泣き、悲しいときに悲しむというように感情を出すことである。

これを子ども時代から経験し、最初は母親とその感情を共有する=共感する。

ところが多くのクライアントは言う、「泣いてはいけない気がした」「感情をだすことに抵抗がある」「自分の感情に自身がない」「自分に感情がない気がする」などと。

これでは、自分の感じた怒り・悲しみ・憎しみ・喜びなどの感情を自分のものとして肯定し、感情豊かに過ごすことはできない。

自分は冷たい人間かと思う。

感情を出すには、その感情を受け取ってくれる人がいるから出せる。

例えばつまづいて膝を擦りむいたときに、子どもは痛くて泣く。

そのときに「ああ痛かったのね」「大丈夫?」よしよしとされれば、痛くて泣いている自分の感じ方はOKとなる。

しかし、「痛くない、痛くない」「それくらい大したことじゃない」と言われてしまうと、私が今感じている痛みは痛みじゃないの、と?(ハテナ)がつく。

だんだん自分の感じ方の自信がなくなっていく、自分自身にも自信がなくなる。

言葉で自分の思うこと、考えを伝えることが出来ず、溜めに溜めて最後に泣くしかなくなる。

しかし、この精一杯の表現も「泣くな」のひと言で切られることがある。

こうなったらもう泣くことも出来ず、感情のないロボットのように生きていくしかないだろう。


私の子ども時代を思い出した。

母は教師で、私が目を覚ますとすでに母は仕事に出かけていなかった。

母のいない昼間は、一緒に住んでいた祖母と過ごした。

幼稚園に行く前頃だったろうか、母を思い出し寂しくなって母が着ていた服を抱きしめて、母の残り香を嗅ぎながら一人で泣いた。

そのとき私は泣いている自分を見られてはいけないと思った。

それは記憶にはないが、多分まだ小さかった私は、母を思い出して泣くことがあったのだろう。

それを見た祖母か、祖父か、それともそれを聞いた母かが、「泣くな」と言ったのだろう。

泣くなと言われても寂しい気持ちは抑えられず、見られないように一人こっそり泣いていたのだろう。

寂しい、母にずっとそばに居て欲しい、これが小さい私の願いだった。

しかし、忙しく働く母にそのことを言った覚えは無い。

寂しい気持ちも、母と一緒にいたい気持ちも小さな胸にしまい、封印していった。

そして私も感情のない冷たい人間になっていた。

私にとって分析は、感情のないロボットから血の通った感情をもった人間になることが治療目標の一つであった。

今クライアントたちの叫びが私に昔の私を思い出させ、「ああ、それは私だと」いえる。

分析は、情動とともに過去を語り、感情を再現し、もう一度人間として生き返る場である。


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2009年8月16日

分析家の独り言 259 (電話セラピー)

精神分析は直接面談によって行うのが普通であるが、遠方であったり、何らかの事情で直接面談が難しい場合のは電話によるセラピー(分析)を行う。

ラカン精神科学研究所ホームページの予定表(Googleカレンダー)を見るとわかるように、最近電話セラピーが増えてきた。

一番最初は、元の吉川精神科学研究所のホームページ(http://www.geocities.co.jp/Beautycare/6953/)をみた関東方面の神経症に悩むクライアントからメールが来て、分析で治るだろうか、治るなら分析を受けたいということだった。

遠方であるためクライアントが京都へ来ることも、私が関東へ行くこともままならず電話でのセラピーとなった。

1年に1回は那須で行われる分析サミットに参加するため東京を経由して那須へ行くため、そのときはクライアントと時間を調整し直接面談による分析をしている。

今年も7月、このクライアントに会って分析をした。

こういう形で、滋賀や京都へは来られないクライアントからホームページを見たとメールや電話が入り、分析希望のクライアントが増えてきたのである。

中には、月1回福岡に出張するが毎週分析を希望されるので、もちろん福岡に行ったときは直接面談による分析をし、後を電話セラピーで埋めるという形をとるクライアントもいる。

直接面談による分析は顔を見て行うため、ダイレクトにクライアントやインテグレーター(分析者)である私の反応が行き交いする。

そこでしか感じとれない雰囲気もあり、直接面談がより良いとは言えるが、物理的に困難な場合には電話セラピーも有効な手段と考えている。

クライアントの近くに仲間のインテグレーターがいて、希望されるなら紹介している。

分析によって無意識を知り人生が変わり、活き活きと生きることを味わって欲しいと願う。

暗いトンネルから抜けると、昔の悩んでいた自分が思い出せないくらい変わっている。

もう過去にはいない、心も身体も開放され今の自分が楽しめる。

分析は万能ではないが、自分の人生を諦めずに取り組んだ人たちがこれからの人生を行きなおしていることも事実である。


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2009年8月15日

分析家の独り言 258 ( 『月刊精神分析』 2009年6月号より)

クライアントの分析をいしいて、いつも行きつくテーマがある。

それは月刊精神分析2009年6月号 女性と仕事・結婚・出産にも書いたが、結婚動機である。

臨床上最も多く出会うのは、『家出結婚』。

生家(実家)での居心地が悪いく家を出て行きたいが、厳格な親であるため結婚という二文字以外に家を出る方法がなく結婚したとか、結婚以外に家を出て生活する方法がなかったなど。

人間の基本となる生家での人間関係(親子関係)が良好でないのに、その他の人間関係が上手くいくことはまずない。

何よりも口唇期における母親との基本的信頼を基礎に人は人とつながり、関係を築いてく。

残念ながらこの基本的信頼さえ学習してない人たちがほとんどである。

そういう私もその一人であった。

基本的信頼を学習していない母親が子どもを産み育てても、子どもとの間に基本的信頼を築くことは難しい。

人は幼少期どのように育てられたか、それによってその後の人生は決まってしまう。

だから分析において養育史を重視し、それをクライアントに聴く。

子どもであった自分たちには何の罪も落ち度もない。

ただ基本的信頼さえも知らない親であったために、または愛着や、本来の人間の精神の成長を知らないために、自己流の歪んだ子育てしたできない親だった。

しかしまた親も、その親に同じような育て方しかされていないために、そういった歪んだ育て方しか出来なかった。

気がついたものが修正するしかない。

自分と同じ子どこにはしたくない、悪しき連鎖は子どもに伝えたくないとクライアントたちは言う。

その通りである。

私も振り返れば、余りにも安易に結婚・出産をした。

みんながするから、親がうるさいから、そんなことで自分のまた子どもの大事な人生を進んでいいのか。

もっとそれらに関わることをよく知って、考えて行動すべきであった。

しかし、当時の私は余りにも無知であった。

気がついた時には、すでに子どもは小学生になっていた。

それでも気がついたときから修正していくこと。

出来れば早いほど良いが。

これから結婚・出産を経験する人達に月刊精神分析2009年6月号 女性と仕事・結婚・出産を読んでもらいたい。

昨今は婚活という言葉が流行っているようだが、幸せな結婚生活を送るためにしなければいけないことはパートナー選びだけではない。

結婚の意味、出産(親になること)の意味をしっかり考え、知って欲しいと願う。


月刊精神分析2008年11月号 私と精神分析 もご覧ください

月刊精神分析2008年12月号 心の栄養学講

月刊精神分析2009年01月号 運命は名前で決まる

月刊精神分析2009年02月号私と精神分析 2

月刊精神分析2009年03月号随筆 精神分析

月刊精神分析2009年4月号 なぜ分析で病が治るのか

月刊精神分析2009年5月号 精神分析家をえらびますか?

月刊精神分析2009年6月号 女性と仕事・結婚・出産

2009年8月13日

福岡出張のお知らせ(平成21年9月)

毎月1回、福岡出張セラピーを行っています。

平成21年9月の出張は以下の予定です。

日 時 : 9月10日(木)、11日(金)
   なお9月9日(水)は熊本出張

場 所 : 地下鉄天神駅周辺(詳しいことは電話等にてお問い合わせください)

分析料 : 10000円 (プラス交通費2000円)

9月は福岡近郊もしくは熊本で分析を希望される方、おられましたらご連絡ください。

ひきこもり等により、外出が困難な場合は、お宅への出張セラピーを行います。

遠方への出張であるため、福岡でのクライアントの方には分析料プラス2000円の交通費の負担をお願いしています。


子育て相談室インテグレター養成講座も開きます。

興味・関心のある方、参加希望の方は下記へお問い合わせください。

℡ 077-558-8766 または 050-3767-6283

携帯℡ 090-7357-4540

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分析家の独り言 257 (自己分析による気付き)

分析家の独り言 256 (8月京都子育て相談室より:私のオールOK失敗談)を書き、気付いたことがあった。

なぜ私は娘にオールOKしきれなかったのか、なぜ自分の都合で仕事を優先してしまったのかを考えた。

娘に責められたとき浮かんだ「私が仕事をしなければ生活できないでしょ、それをあんたはわかっているの?」という想い。

私は娘を食べさせてやっている、養ってやっていると思っている。

意識上では、親が子どもを世話し、食べさせるのは当たり前と思いつつ、恩着せがましい気持ちがあるのではないか。

そしてハッとした。

それってもしかしたら、私が育ってくる間に嫌だ嫌だと思って来た私の親の意識と同じじゃないか。

もう忘れかけていたが、私の両親は事あるごとに、食べさせてやっている、学校へ行かせてやっていると恩きせがましい態度だった。

そして、親の言うことを聞かなければこの家には居られないと子ども心に思っていた。

そのために、無理やり親の信じる宗教をやらされた苦悩の日々。

自分でご飯を食べられない限り嫌でも親の言うことを聞くしかなかった。

それは脅しであり、それを否定した私が結局同じことを娘に思っていた、していた。

まだそこが払拭しきれてなかったかと愕然とした。

親の影響は大きく、恐い。

親が自分にした嫌なこと、間違いを、私は自分の子どもにはしまいと思いつつやってしまった、これが無意識であり、私のコンプレックスである。

それはクライアントを分析して、何度も出会い知っていたはずなのに、自分の事となると盲目になり、自分が見えなかった。

もう捨てよう。

恩着せがましい気持ち、食べさせてやっている、世話してやっている、あんた達のために働いているという想いは。

私がしたくて選んだ精神分析、そしてそれを仕事にしたのだから、誰かのためにやっているのではない。

安心と安全=安らぎの中で何かの時には守ってもらえるという安全感もなく暮らした時間が長かったために、私は精神のバランスを崩していった。

そのために心に傷を負い、それらを癒すのに時間がかかった。

しかし今の私は、自分で安心と安全もつくれる。

子ども時代に得られなかったものを、大人となった今の自分として置き換えたもので埋め合わせていける。

これが大人である。

これでいい。

苦労も辛さも自分の糧となり、自分の生きてきた道を肯定できる。

全て私の成長のために必要なことだった。

これでよかったんだ、よく頑張った。


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2009年8月12日

分析家の独り言 256 (8月京都子育て相談室より:私のオールOK失敗談)

昨日8月11日京都で子育て相談室を開いた。

いつものように参加のお母さん方の質問に答えながら進めていき、その中で私の失敗談をお話した。


去年(2008年)3月末に、京都から滋賀県大津市に引越し、琵琶湖の夏の風物詩である花火を人混みを避けて下の娘と二人楽しんだ。

その時、「また来年も一緒に花火見に行こうな」と娘は言った。

私は「うん」と答えた。

今年の8月7日琵琶湖の花火を娘は去年の約束通り、私と二人で見ることを楽しみにしていた。

ところが私は、そのことを忘れたわけではなかったが、自分の仕事を優先し福岡出張の仕事を入れた。

予定をくみ、交通手段の手配も済ませたところで、娘の方から「今年の花火行ける?」と聞かれ、私は「ごめん。どうしても花火とぶつかる日に予定をくむしかなくて、今年は行けない」と言った。

娘は私の予想以上に、烈火のごとく怒った。

「私のことを軽く見ている」

「一年前から約束いていたのに、それじゃあ何のための約束か」

「だからあんたは信用できないんや」

私は言い訳をし謝ったが通じない。

私の判断が甘かった。

仕事ならば仕方ないと許してくれると思っていたが、そうではなかった。

責められ続け、私も最初は悪かったなと思ったが、どこかで私が仕事をしなければ生活できないでしょ、それをあんたはわかっているの?と言いたくもなった。

しかしギリギリその言葉だけは飲み込んだ。

毎日責められた。

私はネットで、他に行けそうな花火大会はないかと探した。

ちょうど8月10日に宇治川の花火がある、この日なら私も行ける。

娘に話してみた。

しぶしぶながら、仕方なしに「それでもいい」となった。

私はこれでホッとした。

ところが、台風の影響で当日雨かもしれない、しかも娘もネットで宇治川の花火の情報をみたところ、雨が降った場合傘をさすと他の人の迷惑になるためレインコート等で観覧してくださいということが書いてあったという。

それを見て、面倒くさい、雨に濡れてまで見るのも嫌だとなり、娘は「行かない」と言い出した。

「私は琵琶湖の花火に行きたかったのに」と。

私もいい加減責められ続け嫌気が差してきていた。

その私の態度に、「あんたは本気で悪いと思っていない、それが伝わって来ない」

「何かで埋め合わせるとか、来年は必ず行くからとも言わないのか・・・」 また延々文句を言われた。

半分私ももう良いかと思い出した。

しかし、最後まであきらめないで誠意は示そうと思いなおした。

当日曇り空だが、雨は上がった。

YAFOO!の天気予報のピンポイントで宇治を見ると、弱い雨、降水量は0か1(mm/h)、これなら行けると私は思った。

晩ご飯を早めつくりだし、夕方からいつでも行けるようにしておいて、娘に「これは行ってみないとわからない賭けだけど、とりあえず行ってみようよ」と声をかけ続けた。

一度は「行かない」と言った娘だが、「行くだけ行って、ダメだったら帰ってくればいいやん」と言った言葉から誘いに乗ってきた。

「どうせ行くなら、早めに行った方がいいとネットに書いてあった」と娘が言うので、それもそうだと思い花火開始の1時間以上前に着くように出かけた。

雨は何とかもちそう、人出はそこそこある。

人の流れに乗って、花火が見えそうな場所に歩いていった。

民家の並ぶ道路沿いだが、たくさんの人がシートを広げていた。

この辺でも良いだろうと、私は持ってきた携帯用のいすを二つ並べ、娘と座った。

予想以上に近くで、頭の真上に近いところで迫力ある花火が見られ、花火の火の粉か、かすのようなものが落ちてくるくらいだった。

「来てよかった」「予想以上によく見えて楽しかった」と娘は言い、私もこれで何とか埋め合わせられたと思った。

子どもの喜ぶ満足した顔を見られることが、親としての喜び・幸せと思った。

そもそも、娘との約束をないがしろにし、仕事を優先した私がやはり間違っていた。

小さい頃からおとなしい子で、あまり言いたいことを言わないことを良いことに娘のことを私は良い加減に流してきたことが多かっただろう。

それと同時に、自分もそうやって親に対応されて来て、娘のように親に文句を言って食い下がったことはなかったと自分を振り返った。

本当は子どもはこれで良いのだろう。

子どもの文句でも何でも聞いて受け取るのが、本来親の仕事、役目だったと教えられた。

私もまだまだだなぁと反省した。


子育て相談室に参加のお母さん方からも、「それだけ(娘が私に)言えることが良いですね」という感想があった。

「そこまで親に文句を言って、子どもは悪いなと思っていないのだろうか」という質問もあった。

それぞれが自分のことと見比べたりしながら、また自分のお子さん達への対応を考えて欲しと、あえて失敗談を披露し、質問を受けながら話し合った。

おそらく世間一般では、ここまで子どもの言うことを聞くのかと驚かれるとこもあるだろう。

オールOKと言っただけで、そんなわがままにしていいのかと言われる。

私も今回失敗したが、子どもの側に立ち続け寄り添うことの大事さと親としてそれをすることの大変さを痛感した。


オールOKについては、オールOK!子育て法 のページを参照してください。

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2009年8月10日

分析家の独り言 255 (酒井法子覚せい剤取締法違反容疑で逮捕)

酒井法子容疑者は夫高相祐一容疑者の勧めで昨年の夏ごろ、一緒にあぶりをやったと供述しているという。

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覚醒剤(かくせいざい)とは、狭義には覚せい剤取締法で規制されている薬物であり、規制対象としての覚醒剤は「覚せい剤」と記載される。
広義には脳内を刺激させる中枢神経刺激薬である。
中枢神経刺激薬は、脳神経系に作用して心身の働きを一時的に活性化する働きを持つ広義の向精神薬の一種で、ドーパミン作動性に作用するため、中毒症状は統合失調症に酷似しており、嗜癖・依存に誘発された精神病は、重篤になりやすい。

一般に、数度の使用によって強い嗜好性が生じ、習慣性の依存状態となりやすい。日本では他の麻薬と区別され、所持、製造、摂取が厳しく規制されている。  (ウィキぺディアより)
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彼女にも覚せい剤を使用することがいい事か、悪いことかの判断は付くはず。

悪いこと、してはいけない事と知りながら、それを自分で止められず、やってしまうところにその人のコンプレックスがある。

リスクを背負ってまで覚せい剤を使用することで、彼女は得るものがあったということだ。

ネットの情報では、「初めてのシャブを静脈注射したときの快感。そりゃぁ日本中が中毒者だらけになるのが解る気がします」というのがあり、相当心地良いことなのだろう。

本来なら、心地良さは覚せい剤などの薬を頼らずに自分の努力で得るものだが、リスクを背負っても手軽にしかも即得たい。

そこに達成感だとか、自負心、自己への尊厳というものが伴うとは思えない。

それどころか、マイナス面が多く、現実にはありえないような妄想を抱くようになり、人や自分を傷つけることもあるという。

身体も精神も壊れていくことを覚悟で使うのか、そこまで考えず短絡的に手を出してしまうのか。

違う方向から言えば、それくらい日常の中に楽しみや、心地良さを見出し感じられないという事ではないか。

彼女もそうだったのか。

社会的にはそれなりに成功し経済的にも恵まれ、結婚し子どもを産み、幸せそうに見えていたが、彼女の心の中は満たされない何かがあったのではないか。

薬に「頼る」=依存、だから薬物依存といわれる。

依存は口唇期(生後0~1.5歳)の欠損による。

赤ちゃんは、母に抱かれ安心と安全の中で守られていることが心地良いことである。

しかし、3歳で両親が離婚となると、それまでの両親の夫婦仲や養育状況は良好で合った可能性は低い。

そうすると赤ちゃん以前の母の胎内に帰りたい(胎内回帰願望)と人は願う。

それは母と自分が全く未分化で母と一体で居られた時代である。

アルコールによる酩酊状態も、自分がわからなくなるくらい世界(母)と一体化することである。

こうして薬物依存、アルコール依存になっていく。

それら心の欠損から始まる。

人はお金や物、地位・名声があっても、心が満たされなければ本当の幸せを感じることはできない。

心を育てることを真に問い直し考えることが大事である。

依存症は人が言葉を持つ以前の欠損であるため、治療には時間も労力もかかるが、そこから脱したいという強い意志があれば可能である。

自分を知り、止まっている心の時計を動かし、何かに頼らないで自分で安心と安全・心地良さを作り出せる人間に、大人になることである。

今回の事件で彼女の人生が全てNGで、終わったわけではない。

むしろ、これからどう生きるかが大事。

酒井法子さんに、犯した罪は罪として反省し償い、今後の自分の人生をしっかり歩んで欲しい。

子どもさんのためにも、ご自身のためにも。


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2009年8月 3日

分析家の独り言 254 (見捨てられ不安)

無力なゆえに、甘えと依存を充分経験するはずの子ども時代に、我々は親の言うことを聞かなければ親に見捨てられてしまう、見捨てられる不安に脅かされる。

その脅しを親は子どもに使い、子どもを支配する。

自分で自分の身の回りのことさえまだおぼつかず、親の世話が必要である子ども時代。

街でも見かけるが、子どもがぐずると平気で「勝手にしなさい」と子どもを置いてさっさと歩いて行ってしまう1親がいる。

子どもは、置き去りにされたら生きてはいけないため泣きながら親の後を追う。

また親や家庭の事情で、保育園や祖父母・親戚に預けられるなどする。

その年齢が低いほど、心の負担も大きい。

見捨てられるかもしれない不安、恐怖、さみしさ、怒り様々な感情に押しつぶされそうになることもあるだろう。

人間の存在としては同等のはずが、養育する側とされる側に上下関係が生じる。

そんなに子どもに言うことをきかせたいのか。

子どもの上に立ちたいのか。

私も以前は子どもの上に立ちたかった。

子どもを自分の思う通りに動かしたかった。

そうならないと怒っていた。

なぜなら、自分もそうして育ったから、そうするものと思っていた、それ以外の方法を知らなかった。

ましてオールOなど・・・

親に反論すること、逆らうこと、言いたいことを言うことができない。

自分の感覚、考えを自分のものとして持つことさえも許されないことがある。

そんな中で子どもはどうやって自分を保つことができるだろう。

親である我々自身も傷付いているはずなのに、また同じように子どもを傷つけていく。

この連鎖に気付いて修正しなければ、不幸は連鎖し続け、最後に自己または他者を破壊するだろう。

そうして、悲惨な事件はこれからも多発する。

これをくい止めるのは、一人一人が自分を知り、無意識に気付いていくことである。


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2009年8月 2日

分析家の独り言 253 (会話、理解が人をつなぐ)

荒れる息子、常識から外れすぎていて、問題をおこし、この息子と向きあわぜるをえなくなたクライアント。

親子でありながら言葉が通じない。

当然、気持ちも通じない。

この息子にオールOKしていった。

人が本当のことをいうのは、簡単なことではない。

人は本当のことが言えなくて病んでいく。

クライアント達は言う、言っても受け取られず、理解されずどうせ言っても無駄と思い言わなくなったと。

息子が本当のことを言えるようになったとき終わる。

ただいつ終わるかはわからないが、少しでも早く終わらせると言って、オールOKに取組んだクライアント。

その過程で、息子の変化をまじかにみた。

そして人の見方が変わった。

これまで自分と合わない人とは出来るだけ関わらないように、避けてきたが、人って案外面白いものだと教えられた。

人は自分が思ってきたようなものとちがっていた、一体何を見てきたのか。

何も知らなかったのではないか、見ようともしなったのではないか。

これでは人生の半分以上を損したようなもの。

人と関わり、人から刺激をもらい、自分の中に変化が起こる。

自分が正しいと思ってきた考え方や価値をもう一度吟味しなおし、他の考えの方が良いと思えば入れ替える。

例えば、私は我慢することがいいことだと教えられ、そうして生きてきた。

出来るだけ自分を出さずに、人に合わせいい人を演じてきた。

ところが分析に出会い、自分を出すことが大事と知った。

我慢することが必ずしも良いことではなかった。

逆に自分を出して、人と良好な関係を持つことができる。

時と場所、相手等を考えて、出す事と控える事を適切に判断していくこと。

それにはしっかりとした自我構造がなければできない。

それが無いから、とにかく全て出さないのが安全と、我慢していただけだった。

あるときから私は良い人をやめた。

言うべきことは言い、相手の意見も聞く。

互いが話合いによって、合意点を持ち、納得すること。

本当は、そういう話し方、関係を親との間で学習し、さらにそれを周りの人たちと経験していくものだった。

会話が人と人をつなぐ。

その会話の仕方がわからないというクライアント達の話を聴き、会話を重ね、分析において信頼関係を築くことからつながっていく。

荒れる息子にオールOKしたクライアントは、息子を理解しようと努めてくなかで、人とつながることの面白さを知った。

オールOKは、それをされた子どもと、した親の両者を育てていった。


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2009年7月31日

分析家の独り言 252 (分析の回数と気付き、変容)

通常分析の回数は、理想的には1週間に1度のペースである。

ただし、クライアントの経済的・時間的なことを考慮し、無理なく分析を継続できる回数をクライアントに決めてもらっている。

中には、1週間に2度分析を受けるクライアントもいる。

クライアントの側の経済的な問題がなければ有効なことである。

分析である限り、最低月1回の分析は維持してもらう。

2週間に1度のクラインともいるし、10日に1度のクライアントもいる。

完全予約制なので、次回の分析の予約をして帰ってもらう。

しかし困ったときだけ電話を入れて、「いついつ空いてますか」と予約をとるクライアントもいる。

これは本来の分析とはいわず、相談・コンサルティングになる。

それでクラインとがいいと言うなら、それはそれでかまわない。

ただし、継続して分析することを契約する本来の分析とは一線を画する。

分析による気付き、変容というものが希薄になる。

月1回の分析が維持できず、「今月はお休みします」というクライアントもいる。

また次の分析までの間が1ヶ月以上空くクライアントもいる。

これは抵抗である場合が多い。

それくらい自分と向き合い、自分を知ることはしんどく、辛いことでもある。

ただ、それを乗り越えた向こうには、自己の変容と成長が待っている。

クライアントは分析と分析の間に、自分なりにいろいろなことを振り返り、考える。

この時間や思考がまた大事である。

分析で話していると、「ふと、昔のことを思い出してこういうことがありました」と話しだすこともある。

そのことが案外重要で、分析場面でそのことに付いて話し合ううち、また新たな気付きが生まれるなどする。

それをくり返しながら、クライアントは自分ついての知を得ていく。

そして、バラバラな点であったものが、だんだん線でつながれていき、最終的には一つの絵となる。

ここに至る過程でも人は変容していくが、ここに至ると更にこの先もっと変容していく。

ただこの変容の仕方は、ある日を境にガラッと変わったというより、気が付けば前は出来なかったことが、抵抗無く出来るようになったいたというようなものである。

これがクライアントの「生きるのが楽になった」という表現になるのだろう。

それまで苦しんでいた神経症などが消えている。

不安や緊張が薄らいでいくき、最終的には安心と安全を得ている。

周りが変わったのではない、自分が変わったのである、成長したのである。


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2009年7月29日

分析家の独り言 251 (千葉市の母娘殺害・連れ去り事件)

千葉市花見川区の団地で店員豊田愛子さん(61)が殺害され、次女智美さん(22)が連れ去られた事件で、仲田敬行容疑者(28)が逃亡先の沖縄で、智美さんと海水浴や水族館など観光地巡りをした詳細な足取りが26日、タクシー運転手の証言で分かった。

運転手は「2人は口数は少なかったが、カップルにしか見えなかった。でも、保護された直後、智美さんはほっとした笑顔を浮かべていた」と語った。

また、千葉北署捜査本部によると、栃木県内で見つかった逃走車両から、団地付近で見つかったものとは別の刃物が見つかった。智美さんは「脅された」と話しており、車内で仲田容疑者が刃物で智美さんを脅していたとみている。

(http://www.47news.jp/CN/200907/CN2009072601000506.html より抜粋)

保護された智美さんは、母親の殺害現場を目撃し「逃げたら危害を加えられると思った」と話している

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この事件を聞いて、智美さんは逃げようと思えば逃げられたはずなのに、なぜ仲田容疑者から逃げなかったのかと不思議に思った人たちもいるだろう。

人間の心理とは複雑なもので、知美さんは自分の母親が仲田容疑者に危害を加えられた現場を見ただろう。

母親が死に至たり、仲田容疑者に抵抗したり、逃げたなら自分に対しても同じことがおこるかもしれないという恐怖を抱いたはずである。

この恐怖は強烈なもので、見えない手錠で知美さんを縛る。

例え逃げても、自分を探し出し、今度は自分が殺されるかもしれない。

警察も自分を守ってくれる保障はない。

恐怖によって、人を奴隷化し自分の言うことを聞かせるとが出来る。

被害者(智美さん)その人に直接的に脅したり危害を加るのと同じくらい、別の人(母)への脅しや危害を見せ付けることは効力がある。

それはその暴力や危害がいつ自分に向かうかもしれないという恐怖である。

人はこれに縛られ、奴隷化されていく。

犯人の言いなりになり、動くしかない=これが智美さんが「逃げたら危害を加えられると思った」、「楽しそうにしていないといけないと思った」という言葉に表れている。

こうして被害者は犯人の心理的支配下に置かれる。

奴隷化とは、完全受身性にし、被害者が一切自ら考えて動くという能動性を許さない、全面降伏させること。

そこには被害者に絶対的無力感がともなう。

自らが何かを考え行動することが無くなり、言いなりとなる。

この状態に置かれたと感えられる。

だから逃げられる状況にあっても、逃げられないのである。

智美さんの受けた心の傷(PTSD)が今後心配される。

回復には、援助者と時間がかかるだろう。


これは家庭における虐待についても同じことが言える。

あからさまな虐待でなくても、日常的に親から子にそれとは気付かれないうちに起きていることがある。


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2009年7月27日

分析家の独り言 250 (2009 第10回那須サミットより)

7月25日(土)から東京に入り、いつもは電話セラピーをしている東京周辺のクライアントと一年ぶりに、直接面談による分析をした。

翌日26日(日)那須に向かい、分析サミットに参加してきた。

逆転移について症例レポートとして、私宣照真理と金谷氏が発表し、惟能氏が「転移と逆転移」について講義した。

MRI(mentor`s of rookie integrator:新人インテグレーターの支援者)の設置について惟能氏から提案があり、その後クループセッションとなり、3グループに分かれ、各グループで話し合いが持たれた。

私は第2グループの進行役となった。

サミット参加者は、惟能氏の分析とインテグレーター養成講座を受けた人たちで、実際にインテグレーター(分析家)として活動している人、これからやろうとしている人などである。

インテグレーターとして活動している者の中にも、経験を積み重ねた人や、やり始めた人など様々。

養成講座で理論を学んだが、そのあとインテグレーターになる、ならないは自由。

受講した人が全てインテグレーターになるとは限らない。

自分に必要ということで、理論を学ぶという人もいる。

中には、2度目のインテグレーター養成講座を今受けているという人もいた。

私も時間と経済的に許されるなら、もう一度養成講座を受けてみたい。

その彼いわく、1回目とまた全然違う形で聴けるという。

その感覚はわかる。

例えば同じ分析理論の本でも、1年前に読むのと、今読み返すのでは理解度が違う。

また新しい発見やより深い理解が得られ、日々勉強はかかせない。

また、私は13年前、京都から新幹線で東京まで行き、更に高崎線で1時間かけてインテグレーター養成講座に通った。

時間と共に、講座料とそれ以上に新幹線代が高く付いた。

そのため私はもとを取らなければ、これだけのお金をかけたのだからと、一言一句もらすまいと思った。

惟能氏の了解のもと、講座をテープにとり、さらに家でその録音テープを文章におこした。

膨大な量である。

ことあるごとにこのノートを開き、理論を読み返す。

時間を割き、自腹(お金)を払うことの意味がここにある。

分析においても受ける側の心次第で、千円払う人は千円の価値が、例えば百万円払う人には百万円の価値がある。

分析する側は同じように分析しても、受ける者の真剣さが違う。

お金払うからこそ真剣に取り組み、それだけのものをクライアントは得て帰る。

分析は時間と料金と場所を決め、その枠内で行われる。

1時間1万円が高いか安いかは、クラインとが決めること。

その価値を見出した人たちがクライアントとしてインテグレーターのもとに分析を受けに通って来る。

時として私はクライアントとして自分を分析され(教育分析、個人分析)、インテグレターとしてクライアントを分析する。

インテグレーターとして、クライアントより自分のコンプレックスを意識化していなければ、クライアントの無意識はわからない。

自分をより深く知り理論を極めていく、これが私のクライアントに対する誠意である。


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2009年7月25日

分析家の独り言 249 (7月京都分析理論講座より)

7月京都分析理論講座を昨日開いた。

自身が分析を受け、理論も学びたいといわれるクライアント達が参加した。

乳児の三つの発達段階の
(1)対象のない段階(微笑)
(2)前駆的対象の段階(無差別微笑)   まで解説した。

次回は
(3)対象関係の段階(8ヶ月不安)   からとなる。

理論を話しながら、実際に子どもさんたちにオールOKをしてもらっているクライアント達なので、症例を紹介したり、実際オールOKをしていく中での苦労、最近の子どもの様子などを話し合いながら進めた。

理論を話しながらも、参加されるクライアントの状況に合わせて話す内容を考えている。

また、クライアントから質問が来ることもあり、私の体験を話すこともある。


オールOKすることはたやすいことではない。

私も子どもにオールOKしたが葛藤の毎日だった。

頭ではわかっていても出来なくて、「ダメ」と言ってしまい、あとでしまったと思うその自分にまた落ち込むということが続いた。

それでも、オールOKしなかったら、自分と同じ子をつくるだけ。

同じ想いを子どもにさせることは絶対に避けたい、その一心だった。

先祖代々続いた悪しき心の伝統を書き換えるのが、なぜ私なのかと思った。

私の前の代の親が気付いてしてくれたら、私は子どもの立場でオールOKしてもらい楽だったのに。

または、子どもが気付いて子どもの代で書き直してくれたら、私は私の親のように自分が正しいと思い込み、子どもを思い通り動かしそれで生きていけた。

それが何の因果か、私が一番しんどい役をすることになった、間違いに気付いてしまったがゆえに。

どこかで改革しなければこのままでは行けない、それが私に与えられた使命なら甘んじて受けるしかないと覚悟を決めるしかなった。

それでもここまでくれば、やってよかったと思える。

逆に取り込まなかったなら、今の自分は居ないし、命もなかっただろう。

自殺か、事故死か、病死か・・・いずれにしても自己破壊のスイッチが入っていただろう。

子どもにお金や物としての財産を残すより、健康な心を残したいと思った。

お金や物は一瞬で無くしてしまう。

しかし、健康な精神=自己肯定感、価値、自信、信頼、絆、安心と安全、好きなことを見つけ突き進むこと、自立・・・等等 は失いようが無い。

それはお金では買えない親が残せる財産であると思った。

私はどんなにきつくても、途中で分析をやめようと思ったことはなかった。

なりたい自分、自我理想を描き続けられたからだ。

気がつけば分析に入って、まる15年が過ぎた。


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2009年7月21日

分析家の独り言 248 (7月福岡出張より)

ラカン精神科学研究所のホームページや各サイト、ブログを見たと電話連絡いただき、分析の予約をとられるケースが増えている。

クライアントとなる人たちは、子育て(不登校・ひきこもり・ニート・非行等)の悩みや、自分自身、夫婦、家族の悩み問題をどこに相談し治療していけばいいのかがわからないように思う。

そんな中、ホームページを見られたのだろう福岡出張を知って、福岡での分析依頼があった。

福岡のベットタウン的存在と言われる、前原のクライアントのお宅へ出張した。

福岡天神から、JR筑紫線に乗り30分余りで着いた。

以前には太刀洗に行ったこともあり、福岡にも詳しくなってきた。


クライアントはみなそうだが、今の悩みや問題を解決したい。

しかし、本当に解決し治るのか半信半疑である。

分析にたどり着くまでに、クライアントなりにいろいろなところへ足を運び、治療を受けてきた人もいる。

そこではクライアントが望んだような効果・結果が得られなかったため、ネットで検索し、当研究所のホームページ等を見て連絡をいただく。

精神分析とはどういうもので、私が何者で、信頼にたるかどうかは、私がホームページ等で情報を発信し表現したもので、クライアントが判断してくれているのだろうと思う。

そのためにも、月刊精神分析やオールOK子育て法などのサイトをこれからも充実させ、ブログ(宣照真理のセラピー日記)を書き続けていく。

クライアントの中にも、「ブログ(セラピー日記)を読んでいます」という人たちがいて、「楽しみにしています」という声も聞かれる。

分析を受けながら、分析と分析の間、クライアントは自分なりに様々なことを振り返り、考える。

そんなとき、私の体験やクライアントの分析する中で感じたことを書くことが、また何かの参考になるのなら、それはそれで意義のあることと思う。


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2009年7月16日

分析家の独り言 247 (人として成長し続ける)

クライアントは子どもの問題からオールOKをして、自分と向き合っていく。

そして自分の変化に気付く。

駅や電車の中でアベックを見る。

この暑いのに人前でそんなにくっついて、何を考えてる。

以前は怒鳴りつけてやっりたい気分になったという。

ところが分析により、自分を見つめるうち、自分は人に甘えるということが無かった。

悲しいかな、人に甘えるということがわからない。

きっと人前でくっついているアベックは、自分にはわからない甘えるということが出来た人たちなんだろうと思う。

そう、親に甘えたいのが子どもである。

子どもは親に甘えと依存を充分満たされて、自立していく。

ところが、親に子どもの甘えを受け入れ、子どもを甘えさせることが出来なければ、子どもは自分の甘えたい気持ちをあきらめ、無意識下に押し込めるしかない。

そして自分には甘えたいなどという気持ちはないと思って生きていく。

しかし、自分があきらめ抑圧した欲望を他者(甘え合うアベック)に見たとき、心は冷静ではいられない。

甘え合うアベックに出会うと、自分もそうして母に甘えたかった理想的自分と、そうは出来なった悲しい自分の二つが同時に浮かび上がる。

そこに羨望と攻撃性がある。

自分に甘えるということが体験できず、それが欠けたものだという自覚ができると、ものの見方が変わる。

以前のように攻撃性だけが露になり、怒鳴りつけてやりたくなるのではなく、それが自分にはなかった、だからこそ今からでもそれを得ようと動き出す。

それを「自分にないものを自分の要素として加えようと思った」と表現した。

そして、一番理解すべきはパートナーである夫かもしれないに至った。

この相手を理解し成長させることが出来れば、自分が人間になれるかもしれない。

この相手を幸せにするとこが出来たなら、かなりの人と関わりを持てるだろうと。

相手がどうであれ、自分が変化し続けることクライアントは言う。

その通りである。

相手のせいにするのではなく、自分を変化させ成長させる。

そして、自分に足りないものを知って、それを体験し得ていくこと。

これを死が訪れるその瞬間まで追い続け、獲得していくと私は決めた。

どこまで行けるか、私に残された時間はそう多くはない。

10年後、20年後、30年後の自分が楽しみである。

クライアントとともに互いの成長を喜べることは幸せである。


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2009年7月13日

分析家の独り言 246 (オールOKの難しさ)

子育て相談室で、「自分の子どもが不登校をしてるい間も母親教室(当時の子育て相談室の名称)をしていて、教室に来るお母さん達にオールOKしてくださいというのは辛くなかったか」と質問された。

「当然当時は辛かったです」と答えると、「そうは見えなかった」と言われた。

内心、人にはオールOKしてくださいと言いながら、自分の子どもが不登校をしている。

「オールOK出来てないから不登校になったんでしょ、自分も出来てないのに人にそれを言うのか」と言われそうな気がした。

実際に、我が師惟能氏に「自分の子どもが不登校で、私がまだオールOKをできていないのに、教室や分析で子どもにオールOKしてくださいと言っていいんでしょうか」と聞いた事があった。

惟能氏はひと言「いいんです」と言った。

今から思うと、オールOKを言い続けたことは辛かったが、そのことで自分が鍛えられ、励まされ、支えられたと思う。

子どもの非行で大変なお母さん達の話を聞きながら、オールOKの話をするのだが、そのときの私は私以上に大変な非行の子どもに対応しているお母さん達がなんとかオールOKしようと頑張っているのだから、私がしなくてどうするのと思った。

それが私の励みとなった。

分析という仕事があったお陰である。

えらそうに人に言うのだから、まず自分がしっかり子どもにオールOKしなとダメだと。

ただ、オールOKするのは私にとっては至難の業だった。

頭では「いいよ」と言い、子どものいう通り動こう、それを理論的にも理解しているはず。

それでもいざ子どもを目の前にすると「ダメ」と言ってしまい、子どもが何か要求してくると「またか」と顔が歪んでいただろう。

この葛藤に何年悩んだことだろう。

自分に欠けたものの大きさを思う。

クライアント達に、「オールOKしてください」と言っても、なかなか出来ないのもわかる。

それでもあきらめずにオールOKするか、やりたくないとオールOKをしないのでは大きく道が別れる。

子育てに悩み分析にまで来ていても、撤退していく人はいる。

やっと今から自分と向き合ってこれからというときに辞めていくクライアントもいる。

ここまで来たのに残念と思うが、無理に引きとめはしない。

中には一旦休んだり辞めても、復帰してくる人もいる。

動機のないところに分析はありえないし、分析を受けるかどうかはクライアントが自分の意思で決めること。

子育てに限らず、分析によって自分と向き合い、自分を知っていくとこが健康な精神を得、幸せへの道であることは確かである。


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分析家の独り言 246 (オールOKの難しさ)

子育て相談室で、「自分の子どもが不登校をしてるい間も母親教室(当時の子育て相談室の名称)をしていて、教室に来るお母さん達にオールOKしてくださいというのは辛くなかったか」と質問された。

「当然当時は辛かったです」と答えると、「そうは見えなかった」と言われた。

内心、人にはオールOKしてくださいと言いながら、自分の子どもが不登校をしている。

「オールOK出来てないから不登校になったんでしょ、自分も出来てないのに人にそれを言うのか」と言われそうな気がした。

実際に、我が師惟能氏に「自分の子どもが不登校で、私がまだオールOKをできていないのに、教室や分析で子どもにオールOKしてくださいと言っていいんでしょうか」と聞いた事があった。

惟能氏はひと言「いいんです」と言った。

今から思うと、オールOKを言い続けたことは辛かったが、そのことで自分が鍛えられ、励まされ、支えられたと思う。

子どもの非行で大変なお母さん達の話を聞きながら、オールOKの話をするのだが、そのときの私は私以上に大変な非行の子どもに対応しているお母さん達がなんとかオールOKしようと頑張っているのだから、私がしなくてどうするのと思った。

それが私の励みとなった。

分析という仕事があったお陰である。

えらそうに人に言うのだから、まず自分がしっかり子どもにオールOKしなとダメだと。

ただ、オールOKするのは私にとっては至難の業だった。

頭では「いいよ」と言い、子どものいう通り動こう、それを理論的にも理解しているはず。

それでもいざ子どもを目の前にすると「ダメ」と言ってしまい、子どもが何か要求してくると「またか」と顔が歪んでいただろう。

この葛藤に何年悩んだことだろう。

自分に欠けたものの大きさを思う。

クライアント達に、「オールOKしてください」と言っても、なかなか出来ないのもわかる。

それでもあきらめずにオールOKするか、やりたくないとオールOKをしないのでは大きく道が別れる。

子育てに悩み分析にまで来ていても、撤退していく人はいる。

やっと今から自分と向き合ってこれからというときに辞めていくクライアントもいる。

ここまで来たのに残念と思うが、無理に引きとめはしない。

中には一旦休んだり辞めても、復帰してくる人もいる。

動機のないところに分析はありえないし、分析を受けるかどうかはクライアントが自分の意思で決めること。

子育てに限らず、分析によって自分と向き合い、自分を知っていくとこが健康な精神を得、幸せへの道であることは確かである。


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2009年7月11日

分析家の独り言 245 (子どもにオールOKすることは親が育つこと)

娘に「日傘が欲しいので買いにいく、一緒に来て」と言われ、仕事帰りに京都で待ち合わせて付き合った。

四条を回り、最後に立ち寄った京都伊勢丹で、やっと娘が気に入った日傘があった。

しかし困った。

折りたたみ式のは黒、そうでないほ方は紺色。

娘が使いやすいのは折りたたみ式ではない方だが、色は黒がいいと言う。

もう売れてしまって、これ以外にはない言われた。

そこで娘は悩み出した。

黒と紺の日傘を私に差させて見る。

今度は娘が自分で差して鏡に映して見る。

これを延々と繰り返す。

店員さんが入れ替わり立ち代り、「いかがですか」と聞きに来る。

そのうちに店員さんも来なくなった。

小一時間ほど迷っただろうか。

正直言えば、「どっちでもいいんじゃない」と思うが、それは絶対に口にはできない。

娘は真剣だから。

とにかく娘は迷いに迷い、それに付き合った結果、娘が使いやすいと思う折りたたみ式でない紺色の日傘を買い求めた。

帰ったらご飯の準備をしなければならないし、できれば早く切り上げたかったが、娘に付き合ってよかった。

家に帰って「付き合ってくれてありがとう。納得がいった」と娘が言った。

もし私がひと言でも要らないことを言って、娘が充分迷えず妥協することになっていたら、家に帰ってきてもまだ「あっちがよかったんじゃないか」と言っていただろうと思う。

クライアントの中にも、子どもと買い物にいくとどれを選ぶか決められず迷う、それに付き合うのがしんどい、嫌だという人がいる。

ああ、そのクライアントの気持ちわかる。

そこには、親である自分自身が、その親にこれほど付き合ってもらったことがない。

子どもである自分が親に付き合わされたことは山のようにあっても。

子どものためにお金を使い、子どものために自分の時間を使い、子どもが喜ぶ顔を我が喜びとし、幸せを感じられたとき、親もまた成長している。

そこに過去子ども時代に叶えられなかった欲望と、今目の前で満足した子ども=自分の二つを冷静にみている私がいる。

オールOKして子どもを育てることは、親が自分を育てることになる。


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2009年7月 9日

分析家の独り言 244 (2009,7月 京都子育て相談室より)

昨日京都での子育て相談室に、生後7ヶ月の赤ちゃんを連れて若いお母さんも参加された。

無条件にかわいいこの時期、自分達の子どもがもう10代、20代になっているお母さん方からは、思わず「かわいい」という声が聞かれた。

と同時に「この頃から我が子を育て直したい」という声もあった(同感)。

何も知らないがために、手探りで一生懸命子育てしたが違っていた。

子どもがどういうふうに発達していくのか、その中で大事なことは何かを知っていたら、親子共にこんなに苦労することはなかっただろうと思う。


そろそろ8ヶ月不安が出てくる頃なので聞いてみたところ、最近になって母親以外の人に抱かれると泣くようになったという。

生まれた頃は、まだ自他未分化で自分も母も世界も渾然一体となった世界に赤ちゃんはいる。

そこから母に世話され、抱っこされることによって、だんだん自分以外の対象がいることに気付き始める。

そして生後8ヶ月前後になると、いつも自分を世話してくれる母を認識し、母以外の人が抱こうとしたり、近づくと泣く。

これが正常な発達である。

しかし、母以外の人が世話したり、抱っこすることが多いと8ヶ月不安はおこらない。

誰に抱かれても平気でいる、こういう赤ちゃんを見て一般の人は「誰に抱かれても笑顔で、いい子ね」というが、精神発達論から言えばとんでもないことである。

それは母がその子に専心し世話していないため、赤ちゃんに良い母が内在化されていないことがわかる。

この赤ちゃんのおばあちゃんが子育て相談室や、分析理論講座で学んだことを、娘である赤ちゃんのお母さんに話をされているので理解されているようだった。

ただ、来春から仕事に復帰することになっていて、どうしようかということだった。

もちろん分析的立場から、仕事より子育てを優先しないと子どもの心は成長しないといえる。

子どもにすれば、母親は自分より仕事を取ったということになり、結果、後になって欠けた時間とそのために失った子どもの心の成長を埋め合わすには大変な時間と労力がかかる。

お母さんも、「我が子がかわいく仕事に復帰して手放すのは辛い」と言われるので、子育てをとる方向で行くと言われた。

お金や物に変えられない子育ての重要性を理解される方が少ない中、良かった思うとともに嬉しかった。

働くこと、お金をもうけることそれはそれで必要なことでもあろうが、子育てより優先することではない。

働くお母さん方には怒られるだろうが、母とは何か、母親の重要性、本来の役割をこれからも私は訴えていく。

今の日本の社会の在り方とは逆行するだろうが、本当のことは何なのか、何を人として親として母親として大事にしなければならないのかを伝えていく。


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2009年7月 8日

分析家の独り言 243 (オールOK:次の世代につなぐ)

あるクライアントの息子夫婦が孫を連れて家に来た。

4歳の女の子と1歳の男の子。

4歳のAちゃんは弟が生まれてから、お母さんを弟にとられいつも我慢している。

Aちゃんのお父さんとお母さんが近くのスーパーに買い物に行ったその間、おばあちゃんであるクライアントと遊んで待っていた。

最初は機嫌よく遊んでいたが、そのうちにぐずり出した。

そんなところにAちゃんのお父さんとお母さんが帰って来た。

そこでクライアントはAちゃんの気持ちを代弁して、「Aちゃんは本当はお母さんに抱っこして欲しいんやろ。でもいつも弟にとられるんやな」と言った。

するとAちゃんは「うん」とうなずく。

「それならほら抱っこしてあげよう、おいで」とお母さんは言ったが、Aちゃんは「いや、いらん」と言う。

本当はお母さんに抱っこしてもらいたい。

でも、自分の気持ちをちゃんと理解してくれてないお母さんに素直に飛び込んでいけない。

4歳にしてこんなに複雑な感情を持ち、反応をするのかとクライアントは思った。

Aちゃんのお父さんとお母さんは、「おばあちゃんはなんでもわかってくれて、甘えられていいな」とAちゃんに言うが、そうではない。

クライアントは子どもの思いと親の思いのズレを、子どもの立場になって修正し、親に子どもを理解するようになってもらいたいと言う。

そしてクライアントは自分のことを思う。

自分は理解してくれる人もなく、いっぱいいっぱいで生きてきた。

自分の生き辛さはどこから来るのか。

自分自身の育ちと、自分がしてきた子育てを振り返る。

答えは自分の中にある。

人を正しくとらえることをして来なかった。

親に「ああしろ、こうしろ」と様々なことを吹き込まれた。

と同時に、自分もまた子どもに吹き込んでしまったことがたくさんある。

それらを修正するためにオールOKする、それは親である自分が変わり続けることでもある。

自分の次の世代が安定して、人として成長するのをみられることは幸せであり、喜びである。

人を育てることは難しい。

子どもが自分の核をつくるには、家庭で両親にどれだけ肯定されるか。

無我夢中でやったオールOKだったが、今つくづくやって良かったとクライアントは言う。

Aちゃんのお父さん(クライアントの息子)が荒れ出したのは12年前、それから4年後分析に出会いオールOKをし始めた。


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2009年7月 7日

分析家の独り言 242 (子どもの成長を喜べる親になる)

親自身が成長し、成長を楽しみにできることが大事である。

そうでないと子どもの成長を喜べない。

子どもが成長すると、これまでできなかったことができるようになり、だんだん生意気になっていく。

これまで子どもにとって親は絶対的存在で、親の言うこともきいていた。

ところが子どもが思春期になると、親をこけにし、馬鹿にし、母親に対して「くそばばあ死ね」くらいのことは言う。

これを子どもの成長ととらえるか、「なにを生意気な誰のおかげで大きくなってきたと思っているの」と、力で押さえつけてしまうか。

この子どもの生意気な態度に対する親の反応で、これから子どもを成長させられるかどうかが決まる。

子どもが親に反抗するということは、子どもの自我と親の自我がぶつかりあうことである。

したがって子どもの側に自我が育っていなければ、思春期になっても反抗期は来ない。

後に何かしら問題が露呈する子どもの場合、この反抗期がなかったというケースがみられる。

親は子どもに反抗期がなく、いくつになっても親の言うことをよく聞いて、やりやすいいい子だと喜んでいてはいけない。

それは「その子は死んでいます」ということと同じである。

自分を持たず、出さず、親の言いなりなっていて、そのまま社会に出ていけるはずはない。

自分で考え、自分で動けなければ、簡単に自分が他者に乗っ取られペシャンコになってしまう。

人はいくつになっても成長していける存在であると知った。

肉体は老いていく、これは仕方がない。

しかし精神は成長し続ける。

親が成長し続けていれば、子どもの成長を共に喜べる。

親が成長をやめてしまったら、子どもが成長し親である自分を追い越していく恐怖を感じ、子どもの成長を阻むだろう。

こういう親にとって子どもは親を追い越していってはいけないのである。

成長をやめたときから、人は石化していく。

こういう人を頑固という。

本当の親孝行は、親を越える精神の成長を遂げることである。


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2009年7月 4日

分析家の独り言 241 (<青少年白書>ニート2万人増の64万人に 高年齢化の傾向)

YAHOO!ニュース http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090703-00000020-mai-pol より

 小渕優子少子化担当相は3日午前の閣議で09年版青少年白書を報告した。仕事も職業訓練もしていない若者(ニート)が、08年は前年比2万人増の64万人となった。中学、高校時代に不登校だったり中退した人がニートになる傾向が強いことも判明した。白書は「さまざまな支援が必要とされているにもかかわらず(現在の支援が)ニート状態からの脱却に必ずしもつながっていない」と施策見直しの必要性に言及した。

 ニートの年齢別内訳は、15~24歳(低年齢層)が26万人、25~34歳(高年齢層)が38万人。総数は02年以降、62万~64万人で推移しているが、低年齢層は02年比で3万人減ったのに対し高年齢層は3万人増え、いったんニートとなった人が社会復帰できず高年齢化している現状がうかがえる。

 今回は不登校や中退した人の調査を初めて実施。今年2~3月、04年度に高校を中退した人1595人(回答168人)と、中学で不登校だった人480人(同109人)を対象とした。現在ニート状態にある人は高校中退者の20.8%(同年代平均5.9%)、中学不登校者の16.5%(同2.3%)と、いずれも同年代平均を大きく上回った。

 白書は「学校段階でのつまずきが、ニートへつながっている」と分析している。【横田愛】

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ひきこもり、ニートは社会的にも大きな問題と考えられる。

少子化の上に、若者が働かずにいることは、国家財政にとっても見逃せないことであろう。

その対策として、京都府などでは「京都府青少年社会的ひきこもり支援年とワーク」をつくり、府と民間支援団体が協力してひきこもりの問題に取り組んでいる。

京都府ひきこもり支援情報ポータルサイトで京都府の取り組みや各民間支援団体の紹介をしている。

ここにラカン精神科学研究所も支援団体として参加している。


白書は「学校段階でのつまずきが、ニートへつながっている」と分析している、とある。

確かに小・中・高校の不登校からそのまま社会と関わりを持たず、ニートやひきこもりになっていくケースが多い。

ただ、学校でのつまずきのもとには、家庭でのつまずき=養育上のつまずき、つまりは親がどう育てたかに行き着く。

ここから見直していかなければ根本解決にはならないが、国はそこまでわかっているのだろうか。

それとも、わかっていても取り組むには壮大すぎて、どうしていけばいいのかがわからないのか。

小手先の対策をいくらやったところでどうにもならない、ニートもひきこもりも減るどころか、これからますます増加する。

今一度、人間のあり方、心身の成長とはどういうプロセスをたどるのかなど知って、しっかり子育てができる環境を国も協力してつくっていって欲しいものである。


また、不登校に悩む親御さんが集う会は、全国各地にある。

クライアントの中でもそういう会に参加した人がいるし、自分の子どもの問題は解決し、自分の勉強として不登校の親の会に参加しているクライアントもいる。

参加した会でオールOKの話をするが、なかなかお母さん達の耳に届かないという。

そんなに子どものことで苦しいのなら、オールOKという対応法があり、これを実践すれば子どもも親も救われるのにそれが理解されないもどかしさを感じるともいう。

そのまま子どもが学校に行かない、家にひきこもると嘆き苦しい思いをするのか。

それともオールOKすることは母親にとってまた大変で苦しいことではあるが、同じ苦しく辛い思いをするのなら、良い結果に至る方を取るのかは、その人が選択するしかない。

ただ、私としては子どもも親も共に喜び、成長できる理論に基づいた子育て法があることをより多くの方に知ってもらいたいと思い、ここブログでぶつぶつと独り言を書き綴っている(苦笑)。


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2009年7月 2日

分析家の独り言 240 (不登校・ひきこもり:主体性をもつ)

不登校・ひきこもりの問題で分析や相談室に来られる中で、高校へ行ったが休みがちでこのままでは出席日数が足りなくなり、いずれ留年か退学かになる、どうしたらいいかということがよくある。

こういうとき私が必ず聞くのは、「その高校は子どもさん本人が選んだ学校ですか」ということ。

すると、「いや親がいいと思って勧めました」とか、「私が行かせたかった学校です」という答えが返ってくる。

また「子どもと相談しながら決めました」という方もおられる。

しかしこれもよくよく聞いていくと、子どもと話はしているが、親の意向に子どもを沿わせるような話し方でしかない。

これでは本当の意味で子どもと相談した、話し合ったとは言えない。

特に高校選択は、子どもにとって将来を左右するかもしれない大事な岐路である。

小学校・中学校は義務教育で、公立の学校であれば何も考えなくもみんなが行くからということで行ける。

ところが、高校は本人の成績によって行ける高校が限られたりし、いやでも自分の進路について考えなければならない。

そこで子どもの主体性が問われる。

自分はこれから何がしたいのか、どういう方向に行きたいのか、行くのかなど。

このとき明確な子どもの意思・主体性がないと、簡単に親や周りに流されてしまう。

すると、高校には入学したが行き渋ったり、行かなくなってしまう。

その頃になって親は慌て出す。

何で学校に行かないのか、行けないのか、原因を探し学校や先生・友達、子ども本人のせいだと思う。

好きなこと、したいことがわからず、積極性や好奇心も持てない子どもに育ててしまった自分(親)に目が向くのは最後となるようだ。

それでもそこに気付く人はいいが、どこまでも他人のせいにして自分を振り返らない人もいる。

子どもはそれまで長い年月をかけて、主体性を抹殺され、脆弱な自我しかつくれなかった。

それら日々親の子どもへの対応によるのである。

そのもとには、親自身の養育史上形成された無意識がある。

親もまたその親に自分の意思を尊重され、主体性をもてる育てられ方をしていない。

そこから見直して、子どもが主体性・自我をもてるようになるためのオールOKできる親になってもらう。

自分が戦うべき最大の敵は自分であると気付いていく。

これはカウンセリングとは全く違う無意識を扱う精神分析だからできることである。


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2009年6月30日

分析家の独り言 239 (マイケル・ジャクソン)

この度のマイケル・ジャクソンの突然の死亡報道には驚いた方々が多かったことだろう。

私が気になっていたのは、整形手術を繰り返しマイケル氏の顔、特に鼻の変容ぶりだった。

整形をし始めたきっかけは1979年のステージの床に鼻をぶつけ骨折するという事故であると聞いた。

更に気になる記事があった。

幼少時、父親がマイケルの顔を見ては「なんだそのでかい鼻は。俺の家系(遺伝子)からではない」と散々罵倒された劣等感の反動からくる補償行為だとも言われている。
(ウィキペディア:マイケル・ジャクソンの外観 より)

あれだけ鼻の形が変わっていくには何か理由があるはずと思っていた。

しかも繰り返される整形手術の度に、どんどん鼻が崩れていくように感じた。

子どもにとって、身体に関する親の言葉は非常な影響力がある。

褒め言葉ならいいが、けなしたり、否定した言語は絶対に言ってはいけない。

親に否定された身体部分は、その人から抹消されることもある。

それは例えば、後に切断という形でその身体部位を失うというように。

また、天然パーマの髪の毛を、親に「なんだ、そのクルクルの髪は」と言われた女性は自分の髪に関心を持てず、年頃になっても気を使わずボサボサのままだった。

あからさまに、自分の子どもに「ぶさいく」だとか、「デブ」だとか言う親もいる。

親は何気なく言ったつもりでも、子どもを深く傷つけてしまう。

マイケル氏も、父親の「なんだそのでかい鼻は。俺の家系(遺伝子)からではない」の言葉がなければ、あれほど鼻の手術をしなくて済んだだろう。

自己イメージに歪みが生じ、何度手術しても父親に否定された言語を自分で消し書き換えないかぎり、マイケル氏はもうこれでいいと納得できなかっただろう。

「俺の家系(遺伝子)からではない」ということは、自分の子どもではないと言っているのと同じ。

じゃあ、自分はどこの誰の子どもなんだ、本当の親はどこにいるのかと思うだろう。

自分を支える根底が揺らぐ。

人は、自分を支え、見守り、どんなときも見方となって理解してくれる、そんな人がいてくれたらと願う。

それができるのは、まず親である。

その親に否定され認められないで、悲鳴をあげる、暴れる、自分か他人を傷つける。

いつも思う、この世に一人でも自分の話しに耳を傾け、自分を理解してくれる人がいたら、人は生きていける。

あるクライアントとも話した、秋葉原の加藤被告に、一人でもそういう人がいたら彼はあそこまでの事件を起こさずに済んだだろうと。

分析において、インテグレーター(分析家)は、クライアントの理解者となる。


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2009年6月23日

分析家の独り言 238 (ひきこもり・ニートへの理解)

ひきこもりやニートと呼ばれる人達は、家でゲームをしたりパソコンでネットの画面を見るくらいで、特にこれといったことをしないで家の中で過ごすのが殆どである。

親や家族は、何もしないで遊んでいると見る。

ところが本人は、何かしたい事もなく、興味を持てるものもなく、何をしていいかもわからない。

傍目からは、遊んでいるようにみえても、これが結構つらく苦しくもがいているのである。

仕事をもっていたりして忙しい母親は、どうせ暇なんだからと、「夕飯のご飯を炊いておいて」と家事を手伝わせたり、買い物を頼んだりする。

子どもも何もしていない引け目があるので、いやとは言えず指示通りに動く。

これは、子どもの主体性の育てる行為ではないので、好ましくない。

まずこのような子どもにお手伝いをさせる指示は止める。

何もしないで遊んでいるように見えるひきこもり・ニートである子どもの今の状態を認めるのである。

更に、家族にはひきこもっている本人のしんどさや苦しさを理解して欲しい。

ところが「真面目に一生懸命頑張ってきた」親は、子どものその状態を認めることが難しい。

なんで私はこんなに頑張ってきたのに、あなたはそんなに何もしないで遊んでいられるのと言いたくなる。

だとすると、今度は親のそのが問題になる。

親が、自分が好きな事を自らの意思で「真面目に一生懸命頑張ってきた」のなら、そうしてきた事に納得しているわけだから、子どもにも頑張る事を強要したり、頑張らない子どもを責める事はしない。

ところが親の「真面目に一生懸命頑張ってきた事の内容」が、親自身にとって不本意で、嫌々そうするしかなかったり、自己犠牲を伴うものであったりすると、子育て自体が子どもに対して恩着せがましくなり、子どもにも頑張れと言いたくなり、子どものしんどさを理解する事ができない。

子ども時代に自分が好きでそれをしたくて頑張った事と、親に嫌われるのを恐れて、仕方なく頑張ったのでは、自ずと取り組む姿勢・想いが違う。

嫌々するというところには「主体性が欠如」しているのである。

そうするしかなったと思うかもしれないが、本当にそうだろうか?

自分の言いたいことを言う勇気がなかったか?人からの評価を気にしたということはなかったか?

結局親自身のあり方が問われる。

ひきこもりやニートの子どものために、自分を見つめ、自分が変わらなければと母親自身が分析を受ける方々がいる。

自分の養育史を辿り、自分と向き合いながら、子どもへの理解が生まれてくる。

当然子どもへの想いや接し方が変わり、子どもに少しずつ変化が見られる。

子どもを持つと、子どもから色々な問題が提示される。

それとどう向き合うかで、その人の生き方が問われるのである。


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2009年6月22日

分析家の独り言 237 (子どもを呑み込む親)

母親は自分が親にして欲しかったことを、自分の子どもにする。

それは母がして欲しかったことで、子どもがして欲しいこととはずれる、違う。

例えば、私は子どもの頃あまりおもちゃというものを買ってもらえなかった。

友達が当時流行った、バービー人形やリカちゃん人形の着せ替えをいくつも持っているのがうらやましかった。

それを買って欲しいと言ってもおそらく買ってももらえないだろうと思い、親にそれをねだることはなかっただろう。

女の子が生まれて、まだ小さい我が子に、私はリカちゃん人形を買った。

あれは私が欲しかったのだ。

私の母は私の嫁入りのために、箪笥に溢れるほどの着物を詰めて持たせた。

結婚後その着物は仕付け糸がついたまま眠っていた。

あれだけの着物をお金に換算すると相当なものになるだろう。

しかし私にはそれほど必要ではなかった。

それなら、もっと子どもの頃から欲しいものを欲しいときに買ってもらった方がどれだけありがたかったことか。

あれは、私の母がその親にして欲しかったことではなかったか。

同じことを言ったクライアントがいた。

彼女もまた、かつての私と同じように母の欲望で生きた人だった。

自立した母でないと、我が子を分身と思い、子どもに自分の夢を託す。

親の自己愛を満たす道具にしてしまう。

子どもの意思や主体性は無視され、不適応を起こす。

それが不登校やひこもり、非行、精神的病理であったり、生きにくさとなって表れる。

親自身の欠損を子どもで補おうとする。

それこそ母の分離不安であり、子どもを一個人としてみていない証拠である。

親自身が自分を振り返り、本当の自分に気付き知らないと、いつまでも子どもを取り込んでしまう、呑み込んでしまう。

そして子どもはいつまでも自立できないで、病んでいく。


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月刊精神分析2009年4月号 なぜ分析で病が治るのか

2009年6月19日

分析家の独り言 236 (意味の病)

ラカンは人間は意味の病であるという。

もう何年も前、外から帰ってきて家に入ろうとしたら、玄関のドアの前に水の入ったバケツが置いてあった。

当時住んでいた地域では、ゴミ収集車が行った後を水で流すことを当番制でしていた。

そのための水を家人が置いたものだった。

それを見たとき、私の中で「嫌がらせか」という言葉が出た。

その心の声を聞いたとき、ハッとした。

このバケツは何も言っていない、ただそこにあるだけ。

それなのに私は嫌がらせという声を聞いた。

玄関の前に置かれたバケツに「嫌がらせ」という意味をつけた。

何で?

自分が家に入ることを邪魔されているように私は感じたということ。

排除されている、心良く思われていない、そんな想いがあったのだ。

このとき気が付いてハッとしたが、もしかすると私はこれまでも、自分の裡に内在化したマイナスイメージがあり、こういう声を聞いていたかもしれない。

人の言葉を正確に聞かず、自分の無意識に彩られた聞き方をしてきたかもしれないと思った。

そのためにマイナスの意味をつけ、勝手に怒ったり不機嫌になったいたこともあるかもしれない。

これは大変なことだと思った。

病理になると、心の声としてではなくこのバケツがしゃべりだす。

それが幻聴といわれるものでもある。

クライアントも、同じように意味の病を語る。

人の何気ない言動に、クライアントは意味を見出す。

嫌われた、排除されたと感じたり、人が恐いという対人恐怖のクライアントは外に出ると、自分の悪口を言われるとか、攻撃される気がするという。

それでも何とかそのマイナスのイメージに打ち勝とうと、クライアントは葛藤し、心的エネルギーを使い、疲れ果てる。

または外に出られないクライアントもいる。

こういうクライアントにとって外に出ることは大変なことである。

それを一般の人や家族にも理解されず、孤立し、ますます追い詰められていく。

まずこのクライアントの語りに耳を傾け、理解者となる。

そしてどの言葉のまたは行動の何と何をチョイスしたのか、そのチョイスの仕方、どういう意味をつけたかを分析していき、クライアントの無意識に迫る。

ある意味謎解きのようなものである。

しかしそれによって、クライアントがこの無意識の構造に気付けば、そのマイナスの感じ方は修正されていく。


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2009年6月18日

分析家の独り言 235 (自分の人生を生きる)

人は自分の意思で、自分として生きていると思っている。

ところがほとんどは、私という皮を被って入るが、中身は親である。

多くは母、父の価値観や考え方で動き、それが自分だと思っている。

それでも何とか動けるが、そもそも親と自分は別の存在であるから、他人(親)の価値観や考え方で物事を判断し行動するには無理がある。

生きるということは、常に変化し続けることで、止まることは死を意味する。

自分のあり方をとっても、昨日の自分と今日の自分は全く同じではない。

分析によって、自分を取り返す。

それにはまず、自分のほとんどを占めている親を追い出すこと。

子どもの頃から、親はいいろんなことを子どもである私達に吹き込む。

おとなしくしなさい、お行儀よく、我慢しなさい、勉強しなさい・・・

いろんなメッセージを、まだ物事を判断できない時代に書き込まれてしまう。

それがおかしいと感じ排除できず、そういうものなんだと思い込まされる。

そのことが本当に正しいことなのか、自分に今必要なことなのかを、遅ればせながら今からでも一つ一つ現実吟味し検証しなければ自分の人生は歩けない。

主体性をもつということが非常に難しい。

自分の主は自分である。

自分の中から親を追い出し、一旦空っぽして、そこから自分を築いていく、、欲望の運動を起こす。

自分を持たない親が子どもを育てれば、自分を持てない子どもしか育てられない。

自分を持たなければ、動けなくなる、ひきこもる、ただ動き回る。

私が分析でわかったことは、親の言うとおりにしていれば間違いがない、安全だからと親の言うことを聞かされた。

親の認める道以外は歩くことを許されなかった。

そう思い込まされて生きてきたが、違和感があり、生きづらかった。

自分のしたいこと、好きなことがわからなかった。

何かを真に楽しむということがなかった。

その親の呪縛から離れたとき、見える世界が変わった。

自分の足で自分の人生を歩く充実感。

そこには責任も伴うが、それを自分で引き受け背負う覚悟もできた。

なんと自由で風通しのいいことか。

生きるとは本当はこういうことを言うのだろう。

またなんと死んでいた時間の長かったことか。

人は無意識に気付いて真に目覚めない限り、夢遊病者と同じいう 惟能創理(いのうそうり) 氏の言葉が思い出される。


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2009年6月16日

分析家の独り言 234 (ひきこもりからの脱出)

人間関係がスムーズにいけば、ほとんどの問題は解決するように思う。

親子、夫婦、兄弟、嫁姑、親戚、友人、隣人・・・。

人は他者から自分がどう見られているかを気にする。

変だと思われないだろうか、嫌われないだろうか・・・と腐心する。

排除され、否定され、非難され、拒絶せれ、攻撃されるのではないかと恐れる。

これら見捨てられ不安につながる。

こうなると生きづらく、人と関わるのがおっくうになり、ひきこもりがちとなる。

現実とは関係なく、このマイナスの想像がその人の中でぐるぐるまわる。

ならば、なぜ他人に対してそのようなイメージを持ったのか。

そうなるにはそうなる理由がある。

人を友好的に見るのではなく、敵対視し恐れるイメージを心に内在化する何らかの現実を積み重ねたのだろう。

その最初が、人として生まれて最初の対象である母との関係にある。

後に父、そして家族、それが地域社会との関係に広がっていく。

最初の母との関係につまずくと、それから先がうまくいかないのは当然である。

学校に行くようになると、友達との関係がうまく築けない。

いじめを経験する可能性が高い。

友達がいっぱいいるひきこもりの人を見たこと聞いたことがない。

友達がいないで、孤独で、孤立している。

この人との関係を学習しなおすこと。

それのための第一歩として、分析は養育史を聴いていく。

そこに親子関係や、家族のあり方がみえてくる。

残念ながら我々は、育つ過程の家族のなかで傷ついて来ている。

それは意図的というより、無意識であるケースが多い。

子どもを産み育てる母自身が、またその母から傷を受けていて、それがどんどん下の代にコピーされ連鎖していく。

そうされるほどに傷は大きく深くなり動けなくなる。

分析によって、心的外傷(PTSD)といってもよいこの心の状態を癒し、他者と再結合することをめざすのである。


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2009年6月14日

分析家の独り言 233 (愛と自由と平和を勝ち取る自己革命)

少し前まで、私の横で話をしていた娘が自分の部屋に戻っていった。

仕事をする私の傍らの、網戸にした窓からレースのカーテンを揺らして時おり風が入る。

窓際に植えたムクゲを、今年も大きくなったなどと思いながら眺めた。

何気ないことにホッとし、幸せを感じる。

穏やかな時がここにある。

この歳になってやっとこういう時間をもてるようになったかと、一人想う。

振り返れば、さみしく悲しい子ども時代。

言いたいことが言えず、イライラを抱えながらどうしていいかわからなかった。

本当は人と関わりたいのに、人が恐く、独りが楽と思い込んでいた。

親から言われたああせい、こうあるべきの言葉にがんじがらめで、不安の塊だった。

分析を受け始めた頃、先生(インテグレーター)から「あなたは愛と自由と平和を勝ち取る、まるでフランス革命にこれから取り組むんですね」といわれたことを想い出す。

その通りだった。

それは自分との戦いだった。

まだまだ私には知らないこと、足りないものがある。

それを知り、埋めるために、私に残された時間はそう多くない。

しかし命がある限り、それらを知り、埋めていき、なりたい自分を目指して行けるところまで行く。

36歳の夏、まだ分析が何かよくわからないまま飛び込んだが、自己革命に乗り出していた。

そしてまる15年目の夏がもうすぐ来る。

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2009年6月13日

分析家の独り言 232 (ラカン精神科学研究所HP2万件アクセス)

今朝、当ラカン精神科学研究所ホームページのアクセスが2万件を超えました。

一昨年(2007年)春からホームページの作成にかかり、去年(2008年)10月にアクセス1万件となり、それから8ヶ月。

ブログ『セラピー日記』や『オールOK!子育て法』、『不登校・引きこもりに悩む方々へ』、『月刊精神分析』等のサイトをつくり、精神分析というものを何らかの問題を抱え悩んでおられる方や、一般の方々に知ってもらいたいと思い、日々書き綴ってきました。

クライアントから、「各サイトや、セラピー日記を毎回楽しみに読んでいます」と言われることや、ホームページ等を見たと直接電話をいただき、分析や子育て相談室、分析理論講座に来られる方が増えています。

私としては、どうように表現すれば、精神分析というものが皆さんに理解されやすいかと考えています。

分析を通してクライアントの語りに耳を傾け理解し、クライアントの変化・成長が見え、それを共に喜べる充実感、それは子育ての喜びと共通するものがあります。

毎回何らかの気づきがあるクライアント。

あまり変わらないと思っていた人が、子どもの言動によってこれでよかったんだと思えたというクライアント。

話すだけ話して、「ああ、すっきりした」というクライアント。

とにかく、言いたいこと、聴きたいことをしゃべってそれに答えて欲しいというクライアント。

それぞれ違うクライアントの様々な悩み、歪み、それを理論を基に心の構造を見、紐解いていくオーダーメイドの精神分析。

自分自身が悩み、苦しみ、もがいて辿りついた精神分析でした。

それによって自分を見つめ知っていくことが、こんなに自分を変え、今を楽しめ、更に目標をもって生きていくようになるとは思っていなかったのです。

ただ目の前の問題や悩みを解決するだけでなく、心身ともに解放され、自分らしく生きられ道があります。


あらためて、各サイトを紹介します。

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天海雄輝野セラピー日記(旧ブログ)

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月刊精神分析2008年11月号 私と精神分析

月刊精神分析2009年01月号 運命は名前で決まる

月刊精神分析2009年02月号 私と精神分析 2

月刊精神分析2009年03月号 随筆 精神分析

月刊精神分析2009年4月号 なぜ分析で病が治るのか

月刊精神分析2009年5月号 精神分析家をえらびますか?

2009年6月11日

分析家の独り言 231 (インテグレーター・分析家の仕事)

ラカン精神科学研究所のホームページや、オールOK!子育て法等のサイトを見て分析や子育て相談室、分析論講座に来られる方々がいる。

子どもの不登校やひきこもり、非行など何らかの悩みや問題を抱えながら、ネットで何か対策法なり、改善する方法はないかと検索し探す。

例えば子どもが不登校になった。

その子どもにどう接していいのかわからない。

最初は、学校が悪い、先生が悪い、友だちが・・・と人のせいにしたり、何かきっかけがあればまた動き出せる、学校にも行くのではないかと思う。

ところが、月日がたつうち、親もこのままでは子どもは変わらない、動かないのではないかと思い始める。

と同時に、これまでの自分の育て方、子どもへの接し方に何かまずいことはなかったかと考える。

そしてまた、これまで蓋をしてきた自分自身のことをも振り返り出す。

実際に電話等で連絡をして、分析や教室・講座に参加すると行動を起こすまでに、いろいろ悩み、苦しみ、焦っておられたことと思う。

しかし、分析に来るクライアントの語りを聴いていると、ある覚悟が見える。

子どものことと同時に、自分自身を見つめようという覚悟。

こういうクライアントの中には、自然と「自分とは何者か?」という問いかけがすでにある。

私はインテグレーターとして、他の誰でもない、自らこの問いかけをした素晴らしさに一人感動する。

自分と向き合うことはおそらく辛いことで、これまで見ないようにしてきた。

辛いからとそれを無視して、今の悩みや問題が根本的に解決しないことを知っているように思える。

しかし、ただ辛いだけではない。

辛いながらも知っていくことに意義を見出し、自分が変容していく。

そして子どもの心が成長していく。

生きるのが楽になり、今を楽しめるようになる。

子どもと良好な関係を築き、人間関係がスムーズにいき、そこにも楽しみを見い出せる。

そこまで求めないクライアントもいる。

子どもへの対応を具体的に聞きたい。

とにかく子どもが社会適応してくれればいいというのなら、それはそれでいいのである。

クライアントが何を求めているか、どこまで行きたいかであって、それに確実に応えるのが私のインテグレーターとしての仕事である。


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2009年6月10日

分析家の独り言 230 (両親の喧嘩は子どもを傷つける)

子どもは育ってくる家庭の中で、様々に傷ついている。

その中で、両親の喧嘩を見聞きすることが、後の子どもの人生に大きな影を落とす。

クライアントの中には、「自分の両親がいつも喧嘩していた」「父親はDV(ドメスティック・バイオレンス)だった」という話を少なからず聞く。

様々な状況の中で、包丁が飛ぶようながあったり、酒乱で暴れることも・・・ ドア一つ向こうの家の中では何が起こっているかわからない。

子どもにとって、父母は一番身近で、愛着をもつ愛すべき人達である。

その二人が、いがみ合い、喧嘩し、大声で罵倒しあう。

しかも暴力まで振るうことがある。

小さな子どもの心は恐怖と、悲しさ、さみしさ、心細さ等々で傷つく。

そうして喧嘩する両親を見て育った子どもは、自分が大きくなって結婚したら絶対喧嘩をしないで仲良くしようと決める。

しかし、本当仲の良い両親を見たことがないため、ただ相手を無条件に受け入れ、自分の意見は言わず相手に合わせているだけというのが関の山である。

上辺はいさかいがなく、平穏そうには見えるが、それが本当に仲の良いことかというと違う。

本来は、互いが言いたいこと言った上で、歩み寄り、合意点を探して、ことを進めていくことであろう。

その過程で、どれだけ自分を出して主張し、またどれだけ相手を尊重し譲ることができるか、これを程よく互いに学習していき、そこに親密さ、絆、信頼が形成され、仲のよい関係が自然とできていく。

またある人は、言葉を交わすから喧嘩になるのだと思い、何も話さないこと決めた。

結果、全く会話のない夫婦となった。

これでは、親密さも絆も信頼も育たない。

夫婦の間でそれが無ければ、子どもともそれを育てることは難しい。

人と人との関係をつくっていくコミュニケーション能力が問われる。

コミュニケーションには、相手の話を正確に聴くことと自分の思いを話し伝えること。

この基礎は、まず子ども時代に父母といかにこの学習を積み重ねられるか。

だから養育場面で、親は子どもの言うことをよく聴くこと。

そこに親や世間の価値観を入れず、正確に聴き取ること、これだけでもかなり難しい。

人は言葉によってつながっていく。

そのつながり方が、争い・対立・喧嘩か、友好的か、もしくはつながろうとしなければ会話もない。

言葉の使い方、会話の仕方から分析場面で学習してもらうことになる。

夫婦喧嘩は子どもの前で、聞こえるところでしないことである。

せめてこれくらいの配慮はあってしかるべきである。


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2009年6月 8日

分析家の独り言 229 (秋葉原通り魔事件から1年)

事件の概要(ウィキぺディアより)
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2008年6月8日午後0時30分過ぎ、東京都千代田区外神田4丁目の神田明神通りと中央通りが交差する交差点で、2トントラックが、西側の神田明神下交差点方面から赤信号を突っ切り、横断中の歩行者5人を撥ね飛ばした。
このトラックは交差点を過ぎて対向車線で信号待ちをしていたタクシーと接触して停車。トラックを運転していた男性は車を降りた後、撥ねられて道路に倒れこむ被害者や救護にかけつけた通行人・警察官ら14人を、所持していた両刃のダガーナイフで立て続けに殺傷した。
さらにこの男性は奇声を上げながら周囲の通行人を次々に刺して逃走。事件発生後数分して万世橋警察署秋葉原交番から駆けつけた警察官が男性を追跡し警棒で応戦、最後には拳銃を抜いてナイフを捨てるように警告し、それに応じナイフを捨てた男性を非番でたまたま居合わせた蔵前警察署の警察官とともに取り押さえた。これらはおよそ5〜10分間ほどの間の出来事だった。
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まだ記憶に新しい、世間を震撼させた秋葉原通り魔事件から1年が経った。

分析に来られる親御さんの中には、「うちでも世間で起きている事件がいつ起こるかわからない」、「第二の秋葉原事件が起こるかもしれない」と言う方がいる。

同世代のクライアント達は、「加藤被告の気持ちがわかる」とか、「共感できる」と言う。

しかし、実際に行動化するとしないでは、大きな違いである。

加藤被告の心の闇を解明することはできるだろうか。

思い起こされるのは、神戸連続児童殺傷事件の自称酒鬼薔薇聖斗や、すでに平成16年9月14日死刑執行(享年40歳)されている、大阪池田小学校で児童を殺傷した宅間守。

原因があっての結果なのだから、無差別殺人を起こすに至った原因を徹底的に探ってみたいものである。

事件を起こした彼らの中にあった攻撃性、憎しみ、不満、寂しさ、孤独・・・

彼らに、一人でも彼らの話に耳を傾け、理解しようとする人間がいたら、事件を起こさずに済んだかもしれないと分析の中で語りあうことがある。

やはり会話と理解、それらを育ってくる過程で、まず親といかに体験し学習できたか。

ネット等で彼らの生い立ちを読む限り、そういうものがあったどころか、反対に寒い中薄着で外に締め出されたなど、世間では躾の範囲か?といわれるが、分析的に言えば明らかな虐待があった。

やられた子はやり返す。

親にやり返せば家庭内暴力。

それ(親)を超えて社会が悪いとなり、無差別化すれば事件となる。

おそらく、親御さんの中には自分の子どもにそういった不安を持っておられる方もいるだろう。

残念ながら事件一歩手前の予備軍は、少なくないと思う。

私は事件となる前に、なんとか未然に防ぎたいと切に願い、日々分析を通してクライアントと接している。


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2009年6月 6日

分析家の独り言 228 (会話の大切さ)

子どもの不登校・ひきこもり・非行などに悩み来所されるクライアントに共通するのは、親子の会話がないか、かみ合っていないこと。

逆にいえば、親子でしっかり会話できれば、ほとんどの問題は解決できるし、そもそもその問題や悩みは起きないだろう。

ならば、親は子どもの言うことをしっかり聴くこと。

一見簡単に聞こえる、『子どもの話しを聞く』ということが、案外難しい。

子どもが何かを言ってきたとき、親は「それはこうしたらいい」と対処法を言うことが多い。

子どもは対処法を聞きたいのではなく、自分がそのことをどう思い、どう考えたか気持ちを話して聴いて欲しい、受け取って欲しいのだ。

このとき親はただ聴き続ければよい。

それが良いとか、悪いとかの判断しないで、子どもの気持ちに共感しながら理解しようと努める。

聴き続けていると、子どもが「お母さん(お父さん)はどう思う」と聴いてくる、このとき初めて親は自分が感じたこと、考えを言う。

会話により理解が生まれる。

理解が惚れ込みに至る。

人と会話をしていって、その人を好きなるということがあることを知らなかったと言う人もいる。

また、真面目に一生面に生きてきたクライアントは、荒れて人に迷惑をかけたり、お金を要求する子どもが理解できなかった。

しかし、この子を理解し、この子が本当のことを母である自分に言うようになろうと決めオールOKしていった。

子どもの要求に応えながら、会話ができるようになり、子どもを理解しようとしていった結果、子どもが好きになったと言う。

そこまでいったときに子どもの非行はとうに終わり、立派に働き家庭をもっていた。

家庭で子どもが育つ中で、こういった会話と理解があればいいのだが。

それでもこうして、後から取り返すことはできる。

この〔会話→理解→惚れ込み〕ができる親になれるように分析はサポートする。

この経験のない人に、それでは〔会話→理解→惚れ込み〕をしてくださいと言ってもいきなりできない。

これを分析場面で、クライアントとインテグレーター(分析家)とで経験して、それをクライアントが親である場合は子どもとの関係に応用してもらう。

クライアントが子どもの立場である場合は、インテグレーター(分析家)が親代わりとなり、分析を通して体験してもらうことになる。

だからインテグレーター(分析家)は、クライアントの語りに耳を傾け聴き続ける。

「会話ということがわからない」、「人を好きになるということがわからない」と言うクライアントがいる。

会話をするとき、インテグレーター(分析家)の真似をしているというクライアントもいる。

そのようにして、インテグレーター(分析家)がモデルとなり会話を学習してもらうことも大事なこと。

会話により人とつながり、理解と共感、惚れ込む(人を好きになる)ことの障害が、少なからずある。

人は分析を通して人間として駆け落ちたものを、学習しなおす。

インテグレーター(分析家)もまた、クライアントと関わり鍛えられていく。


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2009年6月 3日

分析家の独り言 227 (笑えなかった私)

テレビを見ていて、「お母さんって、お笑い見て笑うんや」と娘が言ったことがあった。

「ん?どういうこと」と聞くと、娘いわく、以前、私はお笑いなんか見ませんって感じで、家族が笑ってても一人さめていたと言う。

お笑い全部が嫌いで見ないわけではない。

漫才やお笑いのトークショーのようなものは好きだが、どうしてもダメなものがあった。

それは『志村けんのバカ殿様』の類。

あの中で、布団が水浸しになったり、着物が汚れたり、着物のまま池に入っていったり・・・そういうシーンが私には不快感となる。

あれを笑い、ジョーク、ギャグとして見られないのである。

あんなに布団や着物がぬれて汚れて、その後どうするのだろう、スタッフが片付けるのだろうが、大変だろうなと思う。

そんなことを思いながら見ているのだからとても笑えない。

さらに、娘が小学生と中学生の頃だったか、上の娘が友達と見に行って面白かったからもう一度見たいと言って、家族でミスター・ビーンの映画を見に行った。

題名は忘れたが、ビーンが美術館の警備員で、大事な絵の前でくしゃみをし鼻水が絵に付いてしまい、それを拭き取ろうとするとますます絵がボロボロになっていくというお話。

周りは皆ドカンドカン笑う、私はどんどん不快感が増し気分が悪くなり、劇場から出て行きたくなった。

もし私が映画の中のビーンだったら、こんなに失敗したら、こっぴどく親に怒られる。

先程のお笑い番組でさえ、布団や着物をぬらしたり汚したら、これまたどんなに責められ怒られることかと、そういう視点と思いで見てしまう。

よほど私は育ってくる過程で怒られてきたのだろう。

祖父母からも父・母からも。

しかも私は誰からもかばってもらったことはおそらく一度もない。

具体的に思い出せない無いこともあるが、自分がひっかかるところから予測がつく。

そして、何で皆が笑うことが、私には不快感となって笑えないのかがよくわかる。

そんな私は小さい頃から、人が恐くてたまらなかった。

人は自分を怒ってくるもの、攻撃するものと私の無意識に書き込まれていただろう。

振り返れば、それでも何とかひきこもらずに、人の中でかろうじて生きてきたのが不思議なくらい。

失敗を責められ怒られ、親の言うことを聞かなければまた怒られ、見捨てられないように必死に親にあわせた子ども時代。

そうするために、私は私自身を捨てていった、自分を殺して生きた。

そして親のロボットとなった。

そんな惨めで悲しく無力な自分を、分析を通して見続け、知った。

そんな自分をしっかり意識化・言語化して受け入れたところから、私は私を取り戻していった。


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2009年6月 2日

分析家の独り言 226 (事件 京都教育大<集団準強姦>周囲の学生数人、見ていて止めず より)

YAHOO!ニュース http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090602-00000011-mai-soci より抜粋
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京都教育大の男子学生6人が女子学生への集団準強姦(ごうかん)容疑で逮捕された事件で、他にも数人の学生が事件当時、現場に出入りしていた。
6容疑者は当時、教員養成課程の3、4年生で体育教育を専攻し、それぞれ、陸上▽アメリカンフットボール▽サッカー▽ハンドボールの体育会系クラブに所属。
2月下旬に同専攻卒業生の送別コンパがあった京都市内の居酒屋で、めいてい状態の女子学生を店内の空き部屋に連れ込み、集団で性的暴行を加えたとして逮捕された。
ほかにも数人の学生が現場に出入りしていた。こうした学生の存在は大学の内部調査でも浮上。
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京都教育大は国立大学で、教師の卵を育てる大学。

滋賀県に引越す前に住んでいた家から割りに近く、子どもたちと学園祭に行ったことも何度かあった。

国立大学なので学力は高い学生が集まっているはずだが、やはりここでも心がどれだけ育っていたのだろうと思う。

いくら酒に酔った場とはいえ、して良いことと、悪いことの判断はしなくてはいけない。

酩酊状態で無抵抗の女子大生を集団で強姦、しかもそれを見て知っていた他の学生で止める者がいなかったという、これが二十歳を過ぎた成人のすることか。

いつも思うが、学歴偏重の社会、勉強さえ出来ればいいのか。

その先には、いい会社に就職し(いい職につき)、より多くのお金を得ることが目的であり、それが人間の幸せという構図。

あまりにも心の成長をないがしろにしてはいないか。

相手を思いやるという気持ちが欠けている。

集団強姦された女性の気持ち、心の傷を考えないのか。

考えないからできるのか、もともと考えられる力が無いのか。

そうだとしたら、あまりにも人間として大事なものが欠け落ちている。

学力は学校へ行ってそれなりに身につけることができる。

心を育てるのは親の役目である。

親の心の成長度によって、子どものそれも決まる。

親に思いやりをかけられて育った子は、人に思いやりをかけることができる。

一方的に命令指示され、親に自分の気持ちを汲み取ってもらったことのない子は、人の気持ちを考えることは無理である。

こどもに勉強を教える塾は山のようにあるのに、心を育てる親の教育をするところがない。

昔日本にも、あたたかい気持ち、情緒、感情というものが人の中にあった時代があったはず。

戦争・敗戦が日本人に残した傷が、今このような形で人を社会を蝕んでいるのか。

放っておいて育つものは何も無い。

親となった以上、心の育て方を知らないで済ませられることではない。

知らないなら、なぜ人は道を捜し求めないのか。

末期的状況の中で、子ども達は叫んでいる、不登校・ひきこもり・非行・事件を起こすという形で。

大人もまた傷つき、生きる意味を見失っている。

あなたの生きる意味はなんですか? お金と物ですか。


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月刊精神分析2009年4月号 なぜ分析で病が治るのか

2009年5月31日

分析家の独り言 225 (褒める、育てる)

クライアント達は、親に褒められたことがないと言う。

個として認められず、親に呑み込まれ、自分というものを持たない。

すると、自我境界がなく、自分と他者の区別がつきにくくなる。

自我境界とは他者と自分を区別する境であり、これがしっかりしていないと自分の思っていることは、他人も同じように思っているはずと思い込む。

自分の感覚や考え、価値を相手に押し付けたくなる。

これが家庭においては、親から子になされることが多い。

それをしてしまう親にもしっかりした自我境界はない。

自我境界があれば、自分と例え我が子であっても相手との違いを認識していて、個として尊重し、自分を押し付けたりはしない。

子どもの側は、簡単に他者に侵入され、自分を乗っ取られてしまう、傷つきやすい。

こういう子はまたいじめられやすい。

暑いか寒いか、空腹か満腹か、好きか嫌いかの感覚さえ、真に自分のものとして感じ、認められているか怪しい。

「自分と他者の区別がつかない」と表現するクライアント、「自分の価値が自分でわからないため、他者から認められ褒められないと自分の存在が危うい」というクライアントもいる。

当然自我も脆弱である。

脆く弱いために、何かあると落ち込む、気分の浮き沈みが激しい。

不登校・ひきこもりの人達はほとんどこうである。

自我境界をつくり、しっかりした自我をつくるには、本来育つ過程で親が子どもに承認と賞賛を与えることである。

承認とは、あなたの言うことは正しいことで、正常なことですと言うこと=オールOKすること。

賞賛とは、できたことを正確に褒めること。

承認と賞賛によって人は自我境界をつくり、成長していく。

今からでも遅くない、子どもを承認・賞賛することである。


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2009年5月30日

分析家の独り言 224 (非行を止める)

人は人と会話によってつながっていく。

しかし親は非行に荒れる息子が理解できない。

口を開けば「うるさいんじゃ」「放っとけや」「あっちいけ」「金」としか言わない息子。

この息子が自分のことを語りだし、母親である自分と会話ができるようになったとき非行は終わると思ったというクライアント。

しかし親は親で、子どもが迷惑をかけ、犯罪を起こし、警察や裁判所などに行って頭を下げなければならないことが起こる。

そこで「親が甘いから子どもが調子に乗ってこうなるんや」と言われる。

言うことは言ってきた、それでも子どもは変わらず荒れる。

これ以上厳しくしたら、もっと荒れる。

「そんなに言うなら、あんたうちの家に来て子どもに言ってみ」と言いたくなる。

親もまた、自分の苦しさしんどさを理解されず、どうしていいかわからない。

精神的に追い詰められて、子どもに「あんたが事件起こすから、私が頭下げんなんやんか。何考えてんの」「親の気持ちがわからへんの」と言ってしまう。

ますます親子の関係は悪くなる、子どもは荒れる、親は嘆く。

この悪循環が止まらない。

一番分かり合えればいい親子が、分かり合えない。

そんな中でオールOKを聞いたクライアント。

今までと全然違う対応法だった。

最初は迷いながら、本当にこんなので子どもがよくなるのか?と思ったこともあった。

しかし、せめて自分が産んだ子くらい幸せにしないといけないと頑張ったという。

自分が死んだ後、子どもがあの時母親はこうもしてくれた、ああもしてくれたと幸せを感じられ、温かい気持ちになれるような自分と子どもでいたい。

残念ながら、自分が思い出す母親との関係は、怒られ、なじられ、否定されたことしか出てこない。

そうなってはいけない、それでは自分も子もまた不幸。

親は死んでも子どもの心の中で生き続ける。

オールOKをしていった結果、息子は自分の想いや考えを母親に話すようになった。

同時に非行は止まっていた。

言葉が会話が人を癒していく。

それは自分の気持ちを受け取られ、理解されることで。

親が自分の私見を離れ、いかに子どもの寄り添えるか、子どもに側にも立てるか。

自分は正しいとだけ主張していたのでは難しい。

不登校・ひきこもりにも同じことが言える。


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2009年5月29日

分析家の独り言 223 (母の存在の大きさ)

子どもの不登校・ひきこもり・非行等の問題で当ラカン精神科学研究所に来られる。

その最初に来られるのは、親である場合が多い。

例えば非行で走り回っている子どもが、そんな自分をなんとかしたいと来ることはまずない。

親が来ているうちに、後から子どもが来ることはあるが。

それに比べてひきこもりの場合は、ホームページや各サイトを見たと、ひきこもり本人が来ることもある。

取り組み方は人それぞれで、子どもに対応(オールOK)する親が分析を受けるケース、子どもが受けるケース、親・子両方が受けるケース、あと各講座や相談室に通われて子どもへ理解や対応法を学ばれるなどである。

その中でも親が分析を受け、母親教室(今の名称は子育て相談室)に通い、非行の子どもに対応してもらったAさん。

セラピー日記やホームページの症例にも書いたが、多額のお金を要求し、家庭内暴力もあった。

「オールO