金谷氏今月のメッセージの最近のブログ記事

以下は分析家仲間の真理攫取(金谷)氏のHPにある今月のメッセージを私のブログで紹介しているものです。


テーマ「呪い」

 呪い"あまりよい言葉ではない。

 辞書によれば、怨みのある人に不幸な事が起きるように願う事。

とあるが、何故この様な言葉が存在するのだろうか?

人間が自ら作り出すものでもない。ではどんな風に出来るのか。

 人間には欲望がある。その欲望は、自らかなえることも出来るが子供時代は、養育者つまり母親が重に叶えてくれるものである。

しかし、母親の個人的都合や経済的な事、教育方針からそのほとんどが叶うことは無い。

人間は欲望が叶わないと、それが言えなくなる。

精神的病いは、この「言えない」事が全ての原因だと言っても過言ではない。

 言えないと言うことは、出せない。

欲望が出せないと、満足体験が無い。そうすれば不満になる。

不満が続くと怒りになる。怒りが続くと増悪になる。

この増悪が続くと破壊になる。

この破壊衝動が募ると、復讐心が形成される。

 しかし、この復讐は母親に向けての物だから、実行不可能である。

根本的には、母親は愛する対象で有り、尊厳性の対象でもあるから母親に向けられた復讐心は、自らの心の奥底に沈めてしまっている。

母が正しい教育をしていてくれたならば・・・・・

母がいつも適切に与えてくれていたならば・・・・・

母が自由に思いのままにさせてくれていたら・・・と、忘れていた思いが込み上げてくる。

その度に抑圧をかけて忘れ去ろうとするが、その悔しさや何ともしがたい思いに苛まれる。

これが辛くて悔しい、こんな思いをしなければならないのは、母親の責任だと。

又、これを繰り返すこの積み重ねが、復讐と言う「呪い」を形成する。

母親の対応が良ければ、自分の人生は素晴らしいものになっていただろう。

育てなおしをしているクライアント〔母親〕は、痛切にそう思う。

育てなおしをしてもらった子供が、私がこうなりたかった理想の子供に成長するのを、まじかに見る事になってしまうからだ。

子供が良くなれば成る程、自分は違う欠損をしている事が明らかになる。

子供の成長と同時に、自分の欠損と向き合わなければならない。

してはいけないと思いつつ、成長し良くなって行く子供に嫉妬してしまう。

対応しなければならないと知りつつも、対応に抵抗・葛藤・無視しようとする。

しかし、思い直し対応をする繰り返し。

こんな自分に涙を流し、この苦しみを味わっている自分の母親を呪わない方がおかしい。

もし対応しなければ、神戸の事件や秋葉原の事件の様な人間を作ってしまう事になる。

呪いは、必ずどこかで表現してしまう。

それが表現された時、大惨事になってしまう。

多くの関係ない人々を巻き込んで、不幸な人々を作ってしまう事になる。

母への呪いをもって子供の幸せはないということになる。

でも、母も子も全て幸せになる事が分析の目的である。

子育ては、ALL OKが基本である。

これは、子供が欲するままに言葉で言えたものだけO.Kする・叶えると言うこと。言われてない事はやらない。

何故ALL OKなのか?

子供が言っても、答えてもらえないのは、自分に価値が無いからだと思ってしまうから。

欲しいとも頼んでもいない事をされるのは、押し付けそのものであって迷惑なもの。

対応を改め、子供が自由に思うがまま与え、世話する事により「呪い」は消えていく。

今持っている人は、この「呪い」の文字を「祈り」と言う言葉に書き
換える事が望ましい。

    拈湧 笑界・ねんゆ しょうかい

金谷精神療法研究所

ラカン精神科学研究所 のホームページもご覧ください

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テーマ「体罰」

 「懲らしめの為に、身体的な苦痛を与える」

これは昔江戸時代頃に罪人に対して罰を与える時、刑罰の一つとして「百叩き」と言うものがあった。

この行為を体罰と言う。

ということは一般的には使ってはいけないもので、特に学校教育には絶対必要は無い。

生徒達は何も悪い事はしていない、生徒がすることは悪い事ではなく間違った事をしてしまうと言うこと。

其れは、常識や社会的ルールを完全に収得していない上に、理性も充分でなく、感情優先の時代だからである。

 

 学校はシュミレーションの場である。

人間として何をすべきか、何をしてはいけないか、を集団の中で体験学習していく。

彼らの失敗は必然の中で起こることで、試行錯誤の末、結果で善い悪いは無い。


スポーツの世界が、学校の中では部活動に存在するが、昨今・少子化社会になり、生徒の獲得の為に学校は知名度を上げる事に必死になり学力の高さで競い、それがだめなら野球・サッカー等強豪イメージをつけようと、より力が入る風潮にある。

その為に普通にしていては、優勝などできない。

行過ぎた手段を取ってまでも強いる。

生徒を扱く、すなわち表向きは「喝」を入れると熱心に鍛え指導してるかのように正当化し「体罰」を加える。

これが鍛錬の世界だと、当たり前の如く行われてしまう。

当たり前のイメージとは恐ろしい。

その厳しさに耐え、辛さを克服し成し遂げる事こそが勝者であると。・・・・・


 お釈迦様は自らの問いを身体に求めて、6年間厳しい修行をされたが、身体に求めても何も得るものは無いと悟られた。

その上瞑想によって心理に到達されたのである。

 もっと身近な存在なら、読売巨人で活躍された桑田選手が、自伝の中で同じ様に述べられている。

体罰では、何も得るものは無かったと言っているのである。


 本当に我々人間が強くなる為には、自分の弱点を知る事にある。

技術向上は絶え間なく、鍛錬を続けていく事しかない。

物事を論理的に考え、そのものを正しく見る目を持つ。

そして知性的に物事を捉える。それが強い精神を作る。

ではどうすれば出来るのか?どうすれば勝てるのか?どうすれば上手くなるのか?

常に考え、修正が出来る柔軟な考え方や心を持つ事が理想である。


分析的に体罰を何故するのか?といえば、「自らの無能・無力感の防衛の為に暴力に訴える」である。

 チームの監督を引き受けた以上、優勝しなければ監督としての力量を問われるのではないか。

駄目監督の烙印を押されるのではないか。

と、自らの弱さを露呈させない為に、取る行為である。


 では、体罰を使わないようにするためにはどうすれば良いのか?

それには、先ず物事を正しく見る目を持つ。

そして、相手の能力を正しく知る。

その上で、弱点克服のためにどうすれば良いか、本人に解るように論理的に説得し理解させる。

そうして自らがやって見せて、本人にやらせて見る。

体験をさせながら本人に気付かせ、本人が修正改善していく。

無理強いをして押し付けても、何も出来るようにはならない。

体罰もいじめもやる人間は弱さを隠すためであって、何の生産性も無く無意味なものである。

こんな人間を作らないためにも、理想的な母になり健全な人間作りをして欲しい。

私達が出来ることは、理想的な母親に育てていく事に努力し続けていくだけです。

    拈湧 笑界・ねんゆ しょうかい

金谷精神療法研究所

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テーマ「オンリーワン」

 お釈迦様は「天井天下唯我独尊」と、天にも地にも尊いのは唯我独とおっしゃられた。

この言葉は、人間の尊厳性を説かれた教えである。

 昔インドにはカースト制と言う身分の階級があり、この制度に異を唱え、同じ人間として産まれて来たにも拘らず、自らの選択権も無く一生その階級のままでは不平等である。

「人間は、何の為に産まれてきたのか?」と自らに問いかけ、そして悟られた言葉が「人間は仏の精神を持ち享楽に生きる事」。

その為に生まれてきたのだと、無駄な人間は一人もいない。

それぞれに役目があり、皆この世に必要な人間であると説かれた。

 

 分析の臨床の中で思う事は共通して、クライアントのほとんどは自らを否定し、卑下して自信喪失している。

又反対に、自らを否定しながら反動形成(防衛)を使って自信過剰になり本当の自分を生きられないと言うこともある。


 現実には、本当の自分を知っている人はいない。

色々な事が出来て、色々なことを知っている人が「私はなにをやっても駄目だ、何も出来ない人間です。」と心にも無い事を言う。

これは親の「まなざし」がなく、「承認賞賛」をもらえなかったが為正しい自己規定が形成されていないからである。

親は競争の原理を子育てに持ち込み、優秀な人間を目標にし、その人に勝てと叱咤激励をする。

誰よりも優秀でNO・1になれと、形振り構わず教育をする。

勉強だけかと思いきや、スポーツも野球・バレーボール・サッカーと自分の子供をレギュラーにと必死になる。

その他ピアノ・書道・ダンス何でも一番・NO1しか目標には無い。

子供の能力や子供の好み・やりたい事などお構いなし、人間の情緒や交流性を育てる事に欠けている。

子供は好きな事に熱中する・集中力をつけていく。やる気はここにある。


 分析の仕事を通して16年間、数多くのお母さん方と出会い、子供の育てなおしや胎教からの子育て等、理論どおりやればすばらしい子供に成長すると言う事を、実証確認する事も出来たことは喜ばしいことです。

確かに世間の子ども達とは違い、まったく見た事もない子どもに成長している。

その事が、比較参照項を持って判断してきたお母さんには戸惑ってしまうようです。

自分の子供が表現している事が正しいのか、間違っているのかとても個性的で、出会ったことのない子供で、行動も周りの子供とは違うのを目の当たりにすると、とても不安になる。

是で良いのかと。

 母親自身は常識と言う漠然として、解らないもので育てられてきたため判断に苦しむ。

でも、分析者から見ると理論どおりに育てると、子供は子供らしく育ち、心身共に発達成長の仕方をするのだと解かり感動する。

 では、理論どおり育てると子供はどんな表現行動をするか。

幼少期は母親ベッタリでわがまま。

学童期は勉強をしないがしっかり学習はする。

理由の解らないものは絶対にやらない。

本人が理解できないものは、全く興味を示さない。

友達が多く人気者である。

積極的に学校へ行こうとはしないが、学校というしくみに徐々に理解していこうとする。

子供には自分なりに考え、自分なりに学校を見ているのである。

自ら身につけた自主性や主体性・自発性から判断し理解している。

成果主義や押し付け的な教育には決して馴染まない。

反対にお母さんは、そんな子供をどれくらい理解してるだろうか。

言葉と行動が一致しない事や、他の支持命令で動く大人みたいな子どもと比べ、劣っている様に見え不安を高めるが、子供の発達過程で精神は先に成長し言葉もしっかり使えるが、行動は経験しないと身に付かないため当然の事である。

 テレビや親の行動を見たりして情報を得て、少しずつ理解して学習していくものである。

世の中には、大人でも言葉と行動が違う人は沢山いる。


 惨敗した民主党を見れば、一目瞭然。


 SMAPの歌に「世界に一つだけの花」というのがある。

大ヒットで、ダブルミリオンになった歌だ。

グループは歌がお世辞にも上手い訳では無いが、本当に皆が思っている事、歌詞のようにそうでありたいという思いが、ヒットさせたのでしょう。

 「色々な形の花がある。それぞれの花が誇りを持って、堂々と店先に並んでいるのに、人間はどうして一番に成りたがる?」

のかと、我々人間はそれぞれ違う種を持っていて、それを育てて行く事。

NO.1ではなく、「Only・One!」どこにも同じものは無く、特別な人間であると歌っているのである。

まさに老若男女が共感、世の中の誰しもが望んでいることである。

Only・Oneに育てるには、Only・Oneの母になる必要があるのです。

 

 分析は人間になることを目指している。

全ての人が自分の素晴らしさに気付き、そして夢を叶え享楽の人生を生きて欲しいと願い、日々分析をし続けます。

どうぞ2013年良い年をお迎え下さい。

    拈湧 笑界・ねんゆ しょうかい


金谷精神療法研究所

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テーマ「日本語」

 言葉は人を理解する為に必要、そして自らの思いを伝える為にも言葉は必要なもの。

人と交流するためのコミュニケーションには、絶対必要なもの。

しかしそうであるならば、いくら立派な事を考えたり、思ったりしても伝える時に間違った言語を使ったら、思考そのものが歪んでしまい、お互いが理解できず誤解したままになってしまう。

 文化庁では平成7年(1995)から「国語に関する世論調査」なるものを立ち上げ、国語に関しての日本人の意識や理解度・慣用句や言葉の使い方についてを調査している。

平成23年の最新調査では、自分自身の言葉の使い方について「気を使っている」と言う人が多く、77.9%も居る事がわかった。

但し、気を使っている人が多い一方で、本来の意味・使い方とは違っているのに「正しい」と認識している人も多い。

基本的な慣用句の本来の意味を正しく把握しないで、使ってしまっているのである。

誰かが言ってた慣用句を見聞きして、なんとなくその場で感じたイメージや断片的な知識などで判断し納得したものを、次に自分が使うとき本来の言い方でない使い方をしてしまったものが、一般的に広がってしまい、そのまま定着したものと思われる。


 例えば「役不足」と言う慣用句がある。
世間一般的には、「自分の力量に対して役目が重過ぎること」と理解している方も多いが、本来の意味は「本人の力量に対して役目が軽すぎること」が正しい意味である。

こういうものが非常に多い。又、「その発言は流れに棹差すものだ」

これを「傾向に逆らって、勢いを失わせる行為をすること」または「傾向に乗って勢いを増す行為をすること」等、ほとんどの人が前者だと思っているだろう。

実は後者が本来の意味で、現状の勢いを利用し、物事を思い通りに進めると言う意味で全く逆である。

こういう風に思い違いをして記憶している人が多い。

 どれだけのものを意味をまちがえて覚えているのか、もう少し例をあげてみましょう。

1例 姑息な手段 ①「一時しのぎ」 ②「卑怯な」

 ②だと思っている人が多数だが、正解は①である。

「姑」はしばらくの意、「息」は休むの意。だから一時しのぎ"である。

2例 檄を飛ばす ①自分の主張や考えを広く人々に知らせて同意を 求める事 ②元気の無いものに刺激を与えて活気付ける事。

これは①が正解である。

3例 他山の石 ①他人の謝った言行も自分の行いの参考になる。    ②他人の良い言行は自分の行いの手本となる。正解は①である。

よその山から出た質の悪い石でも、玉を磨くのには役立つ事から出来た言葉である。

4例 破天荒 ①誰も成しえなかった事をすること②豪快で大胆な様子。中国の古事から生まれた言葉で①が正解である。

 ②が正解と思っている人が多数いる。

5例 号泣する ①大声をあげて泣く②激しく泣く。

 号泣の「号」には大声をあげると言う意味が含まれるので①が正解。

6例 話のさわりだけ聞かせる ①話などの要点の事②話などの最初の部分のこと。

義太夫節野中で一番聞き所が「さわり」で、そこから転じて話などの肝心な部分の意味①が正解です。

7例 憮然として立ち去った ①失望してぼんやりしている様子
   ②腹を立てている様子。

憮然とは失望落胆しているさまの事で正解は①.

「ぶぜん」というものの響きから、不機嫌な様子をイメージしてまちがっている。


 この様に日頃から何気なしに使って、間違いに気ずかず会話をしてしまい、なんとなく伝わっている。そうだと思い込んでしまっている。

例えば「枯れ木も山の賑わい」と言う言葉も、「つまらないものでも無いよりはましだ」が正しいのに、人が集まれば賑やかになるという意味によく使われてしまう。

私自身も以前、することや話題が無くなってしまい、時間を持て余す事を「間が持たない」と使っていたが、「間が持てない」が正しい日本語だと解り修正した事がある。


 本来コミュニケーションを取ることは、お互いを理解する為のものであるはず、がほとんどの人が「了解」を理解していると思い込んでいる。

理解とは物事のしくみや状況、またその意味するところなどを論理によって判断し解る事である。

了解したは事情を思いやって納得する事、これは論理的と思い込みの違いで、ほとんど好い加減に会話し処理している。

それをラカンは、人はそれぞれに自分の辞書を持っていいてそれにもとずいて解釈している為、会話が一致しない。故に全てのコミュニケーションは誤解であると言っている。

「何で言わないの?言ってくれないと解らないでしょ!」

「始めからそう言ってよ!」等とよく言う人がいるが、辞書を合わさずに何万遍言っても、永遠に通じ合う事は無い。辞書が違うのである。

人はそれぞれの辞書を理解し、確認しながら伝える努力をしなければコミュニケーションは出来ないのである。

 

 分析はまず、その人がどういう辞書を持って使っているか、と理解する事から始める。

その辞書が自ら作ったものではなく、親に因って作られたもので古い型の間違いだらけであると事、それを告げ知らせ真理の言語があると知って頂き、その言語の書き換えをする事こそが精神分析の役割である。

しかし、そこには間違った言語を刻み込まれたと言う悔しさの情動との戦いがある。

この戦いに打ち勝ち、真の言語に出会った時人は、安らぎ幸福に生きていけるのである。


それに日本語とは非常に上手く出来ている。

日本には昔短歌俳句を用い、情景や状況や人の心を短い言葉で言い表すことができていた。

武士等は死に際して「辞世」を詠み、自分の一生は何であったのかと表現もしている。

その中でも豊臣秀吉は、自分の一生を「露と落ち露と消しにし我が身かな、浪速の事も夢のまた夢」と、栄華の限りを尽くした大人物でも露と夢で表現した人間の一生の果敢無さが、良く伝わってくる。

これからも日本語のすばらしさを、分析を通じて真の日本語に出会いたいものである。

    拈湧 笑界・ねんゆ しょうかい
金谷精神療法研究所

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テーマ「弘法大師の言葉」

 「弘法大師」即ち空海の事を言う。

空海と言う人は、921年に時の天皇醍醐天皇により諡号を賜ったもので、自ら名乗ったものではない。

精神分析(特にラカン理論)は、言葉で導き治療する。

言葉が悩み苦しみを造りだし、果ては病理まで産み出す。

又、それを造りだしたのが「言葉」であるならば、「言葉」で治せるはずである。

 人間は真実の言葉「真理に基づく言語」を持ったならば、至福の境地に至る。それを空海は気付き悟った。

だから彼の宗派は「真言宗」と言う。

分けても、自らの悟りを楽しみながら説く「密教」という絶対の真理を説いた「真言密教」であった。

人間は苦しむものではなく、楽しく生きるものであると説く。

それには真理の言語に出会い、そのものに額づく、そうすれば必然的に幸福になる。

空海はその事を一生懸命に説法して回った。

それ故にたくさんの言葉を残されている。


 ここでは本の一部しか伝えられませんが


1.己有(こう)を識(さと)らず、貧これに過ぎたるは莫(な)し、
  塵刹(じんぜつ)の海会(かいえ)は、即ち是れ我が宝なり。

これは、他の宗派の人々が小さな教えに執着して、己の中に真実の仏がいますことを知らない。

これに勝る貧しき事があろうか。

我々は、無量無敵の仏・菩薩と言う宝を内包しているのである。

私達は自分が生まれて来たのには理由があって、生きているからには何か役目がある。

それを知り、その者に成る事がこの世に生まれて来た天命である。


2.如何(いかん)ぞ己身(こしん)の膏肓(こうこう)を療せずして、輙爾(たやすく)他人の腫脚(はれあし)を發露(あらわ)す。


どうしてあなた自身の重病を治さないでいて、他人の足に出来た腫れ物のような病を、軽々に暴き立てるのか。

人は他人の事は良く見えて、良く解る、そのことが自らの能力だと思い込んでいる人達が多い。

自らの事は無視をして、他人の事をとやかく詮索する。

人は自力で治す事が出来ると知る事であり、他人には心から支援するのみである。


3.自心に迷うが故に、六道の波、鼓動し心源を悟る、故に一大の水澄静(ちょうじょう)なり

人は自分の心に迷いがあるとき、苦しみの世界を自らつくる。

仏道修行の目的は、心の正体を見つける事である。

心の実体を知れば、自然に心安らかな世界・心澄み渡る静かな世界に生きることが出来る。

迷い苦しみの根源は、自らの心の中に有る。

しかし、それはほとんど他者によって作られたものであり、自らには責任は無い、

しかもその根源を取り払うには、自らの力でやらなければならない。

という割に合わない、辛い現実がある。

だが、その答えが自らの心の中にあると気付いた時、安らかになる。


4.百歳八萬の法蔵を談論すとも三毒の賊、寧ろ調伏せんや。


空海は自らの中にそれを見出した。

仏教の祖・おしゃか様は「生きる事即ち苦である」と説かれたのは、

真理を知らずして生きるならば、苦の世界に陥ると、人々に教え伝えられた。

空海は密教を学んだ時悟られた。

仏の奥深い絶対の真理は、生きる事は苦ではない。

真理に平伏し、隷属するならば享楽の世界に至る。

「生きる事即ち楽である」と伝えようとした。

しかし、それを理解する人がいない事に失望し、「縁なき衆生は度し難き」と。

人の言葉を聞きいれないものは、救いようが無いと嘆かれた。

ラカンの精神分析理論は空海の言っている事と同じで、説き方が違うだけ。

ラカンは精神分析を受けいれて、精神を統合すれば、享楽に至ると言っている。

空海は「即身成仏」死んで仏になるのではなく、生きている今仏になる事と。

つまり悟りの境地=享楽の世界に行くと言う事である。。


                   拈湧 笑界・ねんゆ しょうかい 
金谷精神療法研究所

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テーマ「法則」

 法則とは、辞書によれば一定の条件の下で必ず成立する事物相互の関係と有る。

科学・物理・経済にも法則がある。

 一番の法則は自然法則である。
自然界の現象や秩序を支配していると考えられている法則で、この法則に基づいて、人間は生きている。

生かされていると言うべきだろう。

 これ以上に人間が生きて行く為に、色々な人が法則を称えている。

例えば「引き寄せの法則」と言うのがあり、これは似たものが似たものを引き出す、と言う法則のこと。

すなわち、プラス思考をすれば肯定的な物理上の結果を産み、マイナス思考ならば否定的な物理上の結果を招いてしまうと、言うことになる。

 「現在の思考が未来を創り出す」と言う考えである。

有名なアメリカの著作家・ナポレオン・ヒルの主張で、1937年に「思考は現実化する」を著し、人は何かを考えて確信を持てば、必ず実現できると、引き寄せの重要性を説いた。

因みにわが恩師は「思考は物質化する」と提言している。


 又、こんな法則もある。

結婚生活を成功させる7つの法則と言うのがある。

ゴットマンの法則とも言う。

 これは
①相手の考え方や感情をよく理解する事。(相互理解)

②相手に対する愛情と賛美の精神を涵養すること。これは互いの考えや価値観を尊重すること。

③相手から逃避せず向き合う事。ごまかしたりうそをついたりせず互いに歩み寄る事。

④相手からの影響を受け入れるようにする事。自らのアイデンティティを保ちながら、相手の意見を認め受け入れる。

⑤夫婦間で解決出来ることは、必ず解決する事。夫婦だと言う事で曖昧にして、答えを先延ばしにしてしまうからきっちりと解決する。

⑥お互いに行き詰っているなら、それを話し合いで解決する事。お互いに相手の立場に立って何とか解決しようとすること

⑦二人で分かち合える人生上の意義を創り出す事。夫婦は個別の目標を持ちながら、共通の目標を持つ事。夫婦の事は難しい。基本的に配偶者の選択を間違えて、結ばれている為に必ず危機が訪れる。分析の相談の80パーセントは夫婦の問題に行き着く。ほとんど離婚してしまう。

 こんな法則もある。
「時間はお金に相当する」ベンジャミンフランクリンは、時間がお金と同じ様に大切なのだと言う。「時は金なり」と教えている。
イギリスの大学教授・イアンウォーカーは賃金税率生計費をもとにした公式から「時間はお金に相当する」ことを証明した。
それはこうである。
 V=(W((100-t)/100)1c
 V=時間の価値 W=人の賃金 t=税率 c=生計費 

この公式に従えば、イギリスの平均的な1時間当たりの価値は、男性が米ドルで約9ドル約830円(1ドル92円)、女性が約7ドル約640円
それをもとに、夕食を作るためにかかる費用を食材込みで計算すると男性が約16ドル約1470円・女性が約10ドル約920円

それに対し、テイクアウトすれば男性が約5ドル約640円、女性が約4ドル95セント約460円で済むと言う。

ウォーカー教授は、この様に時間がどんなに高価であるか、故に所得が上がり時間の価値が上がっている人ほど、自分で時間を使うより他から買うことを選択する。

 人間が生まれながらに持つ最も貴重な財産は時間であり、その時間で稼ぐお金も大切であろう。
それだけにどちらも大事に扱うべきであろう。


時間やお金を合理化して、シンプルな生活を送るには「シンプル実践の法則」と言うのがある。

それは次の4つの基本を実行する事。
①優先順位をつける。-単純化することは不要なものを捨てること。先ず自分にとって何が重要であるかを選別し、そこで決めたことに集中して他を捨てること。不要と考えられるものは思い切って捨て、重要項目に集中する事である。

②取捨選択をする。-仕事を先延ばしにすると、2倍のエネルギーを要する。先ず時間を作り出し、それを有効な事柄に振り向ける。そこで優先事項の項目をリストアップし、それに使う時間と内容を一つずつ吟味する。優先事項に残らなければ思い切って捨てること。
人はえてして難問を先延ばしにして、簡単なことから片付けようとするが、返って問題を複雑にし結果解決に時間がかかってしまう。

③「NO―」も言う。難しい事はなるべく引き受けない。はっきり「NO―」という断るくせをつけること。日本人は「NO―」と言うのが苦手である。断ると嫌われるのではないか。村八分にされてしまうのではないかと、保身に走り気が進まないのに付き合ってしまい、大事な自分の時間を無駄に使うことになる。

④支出を合理化する。-支払っていたものを書きとめよ。これは倹約を実行する事である。質素な生活をすると言うことは、単に何もかも始末をする事ではない。必要なものとそうでないものに分け、取捨選択しなければならない。それには日頃支払っている色々なお金を、毎日書き留める。そしてその内容を詳しく検討し、節約できるものはないかと考える。不要な支出があれば、直ちに止める事。

 まだまだ色々な法則はありますが、一番は我々が提言するラカン理論の法則である。

それは「真理の言語に隷属する」
真理の言葉に素直に従っていけば、必ず幸福になります。
どの法則も実行しなければ答えが出ません


                   拈湧 笑界・ねんゆ しょうかい
 
金谷精神療法研究所

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テーマ「漢字」

 精神分析とは言葉で治療していくものである。

人間の苦しみの根源は言葉になって陰れている。

しかし、それを自ら知る事が出来ず、それを求めて悩み苦しむ。

分析はその根源である「言語」を突き止め、言葉で導き出し答えを言葉で伝える。
その言葉に出会った時、うそのように悩みが消えていく。

この様に分析は、言葉を使うために多くの言葉を持っていなければならない。

 先月、記した灘高の先生に示して頂いたやり方、例えば「駄菓子」と言う文字の「駄」から他に言葉はないか?

「駄馬」「駄作」 「駄賃」 「下駄」 「雪駄」などと、色々と広がっていく。
「雪駄」せったと読むのだが、今では聞きなれない言葉である。

しかし、これは雪中で千利休が履いた事に始まる。
「雪駄の土用干し」。これは雪駄は干すとそっくり返るところから、そっくり返って威張っている人の事を言うのだと学ぶ。

 そこで学習しようと思った時、ある本がきた。
「読めますか?小学校で習った漢字」という挑戦的なタイトルに意地になって思わず買ってしまったが、これが中々面白く、字を学ぶのには良いとのめり込んでしまった。

小学生時代に習う文字は「小学校配当漢字」と言う。
小学一年生では80字を修得する。

「一」「石」「雨」「耳」「車」「手」「中」等があり、これらを組み合わせると「一手」に引き受ける、とか「手中」におさめる、と言うように言葉が生まれていく。

私達は日常漢字にどの様に接しているかと言うと、雑誌・新聞・インターネット上で大変お世話になっている。

人と人との会話も「漢字」を音に変えて会話をしているである。
切っても切れない大事なものである。

 それ程大事なものをどれだけ意識して、有効的に活用しているか?

日本の漢字は、非常に上手く出来ていると今更ながら感動する。

「親切」これは周知の如く「しんせつ」と読む。言葉の意味は好意を持って人の為に尽くす事と辞書には書いてある。

 しかしよく見ると親を切ると明記する。
「親を切る」とは親不孝と言うことになる。が、そうではなく本当の意味は、親は子供を切ることは到底出来ない。だが子供を自律させる為には切らなければならない。

それは身を切られるほど辛い。だから親にそんな辛い思いをさせない為に子供の方から親を切る。これが親切であると言うこと。

漢字は真実を表している。漢字はこんな様に成り立っている。

小学校で習った文字、なんと簡単かと思いきや侮れない。

少し紹介してみると、先ず入門編。
独楽・覚束無い・浅傷・飛耳長目・塩梅・好事家・流石・十姉妹・気障・手練手管。答(こま・おぼつかない・あさで・ひじちょうもく・あんばい・こうずか・さすが・じゅうしまつ・きざ・てれんてくだ)

読めますか?

◎「どちらを使うか?」同音異字

a、その計画に異(ぎ)を唱える(議・義)
b、製造の(か)程(課・過)
c、その行いに(かん)心する(感・関)
d、議長の決(さい)を仰ぐ(済・裁)
e、私が適役と自(にん)します(認・任)
f、パンの焼き方を(しゅう)得する(習・修)
g、しょ)期の目的を達成する(所・初)
h、横綱が(たい)勢を崩して倒れた(体・態)
i、科学の真理を探(きゅう)し続ける(求・究)
j、彼の知られざる(はん)面が見えた(半・反)正しく使えますか?

◎間違い探し

①罪をいさぎ良く認めなさい
②ちょっと調子がいいとすぐ頭に乗る人がいる
③予断を許さない状態
④灯台元暮らし
⑤同窓生が一同に会する
⑥大器晩生
⑦晴天白日
⑧臨期応変
⑨短刀直入
⑩自我自賛

◎間違い解りますか?
①訪問/訪門
②収集/集収
③急救車/救急車
④貯水池/貯水地
⑤切半/折半
⑥善後策/前後策

解りましたか?
これはほんの一部ですが、こんなにたくさんの文字を習っていたという事が解ります。

たくさんの言葉を学んで使っていたはずなのに、正しく読み書き喋ったりしていなかったという事も解ります。

 分析で学んだ事は、言葉の力・言葉の有効性である。
コンプレックスの絡んだ言葉は、いくら思い出そうとしても出てこない。
その都度、分析者の導きによって言葉が出現した時、感動と共にすっきりする。何とも言えない安心感が漂う。

逆にその言語に行き当たらなければ、その言葉に関連する現象が何度も何度も繰り返し、辛い苦しい人生を送る事になる。

感動とはラカン理論で言うならば象徴界的言語に出会う瞬間である。

そのためには正しい言葉を使う。それには漢字に触れ合い、正しく理解し、自らの幸福のために多くの言葉を収得し、不幸の文字を幸福の文字に書き換える努力を続ける。そうすれば幸福な人生を生きていける事を保障します。


                   拈湧 笑界・ねんゆ しょうかい

 
金谷精神療法研究所

ラカン精神科学研究所 のホームページもご覧ください

以下は分析家仲間の拈湧笑界(金谷)氏のHPにある今月のメッセージを私のブログで紹介しているものです。


テーマ「躾」

 母親学校で子供を育てるとは・子供の心を育てる事だと伝える。

いつも参加される方は、どうすれば立派な良い子に育てられるのかと又それぞれの思いを抱き聞きに来られる。

心理学で育てればどんな子供になるのか。

猜疑心と好奇心を抱きながら参加する。

 その中で我々が語る事は、母親は妊娠中から心穏やかに、精神を安定させて、行為行動に細心の注意を払い、怒る事無く・争う事無く・産まれてくる子供をどう育てるかが、一番大事な事であると話す。

1に、理想的な母親とはどういう母か、
ひたすら学習する日々を送っていただく。

2に、出産は自然分娩で、出産後直ぐに我が子を抱っこし、傍らで一緒に寝る事。

3、そして母乳で子育て。

1.5才出来れば3才までは24時間一緒に居る。

ただ居るだけではなく、授乳行為を中心に世話をする。

ただ授乳するのではなく抱っこして、赤ちゃん緒顔を見て、声に出して語りかける。

授乳も、時間や量を決めて与えるのではなく、赤ちゃんが欲しい時に欲しいだけ与える。

母親の都合ではなく、赤ちゃんの要求に対して与えていく。


もうこの辺りから内心穏やかでは聞けないご様子の参加者。

初めて聞く事だから珍しさから、興味を持って聞くはずなのに何か違う・何かおかしい・何だか受け入れられないと、内心葛藤しながら聞いて帰る。

 納得いかないから、友人・知人・自分の親達に聞く。

聞けば、自分達の中にない理論だから、全ての人達が「それはおかしい、そんな事で子供を育てたらとんでもない子になる。」といわれ、

折角学びに行ったのに、変な事を聞きに行ってしまったと結論付けてしまう。

 又、気付きのない迷路に迷い込んで、不安な子育てをやり続けることになる。

何故こんな事が起こってしまうのだろうか?

子育て方法を知らないから学習しにいく。

それでいいのに、比較するものなど無いはずなのに、何故、違和感を覚えるのだろうか?

 
其れは、自分が母から育てられた養育なるものが、身体に刻み込まれ、それが基準になり判断しているからなのです。

ましてやしっかり認識して納得して身につけたものでは無いから、自分自身も解からない。

 
 学び聞いた事と、何かしら違う感じがするので不安になる。

そうなれば、世間で言う常識とやらで子育てをしようとする。

いかに立派な常識を並べても、子供が理解する能力は無いし、育っていないのに、子供には伝わらないだろう。

 
 母親は、自分が不安の余り厳しく怒りをあらわにしながら伝えようとあせる。

悪い事に、子供には意味が分からずお母さんは怒っていると言うことだけ解かるので恐怖を感じる。恐いから、言う事を聞く。


 これが世間一般の常識的養育だとがっかりする事もる。

自分が育てられたように養育するのではなく、学んで母子共に成長していくのが子育てなのです。母は子育てを学ぶ事が必要なのです。

 ある幼児向けの絵本で、「絵本地獄」というタイトル。

本の帯に「うちの子はこの本のお陰で、悪さをしなくなりました。と絶賛している。

この本の地獄絵は、千葉県の延命寺が所蔵している16幅の絵巻を基にして構成している。

 製作の目的は「死ぬ事は恐い事だ」と言う事を伝えとする意図があると言っている。

小学校2年生の男女24名に、これを見せて感想を聞いたコメントを載せている。

一例、「僕はじごくなんてないとおもう。いくらあっても、いきたくない〔男〕」

「じぶんのゆびで、てんごく・じごく・おおじごくとかぞえたら、じごくなので、こわくなりました。ほんとうにいくのかなあ。学校からかえれなくったら、どうしようかなあ。じごくなんか、なかったらいいのに。こまったなあ〔女〕」

これで、この本の意図するところが伝わっているでしょうか?

これは、脅しでやくざの世界と同じではないか?

親に養育していく力がないから・言う事を聞かせる力が無いから、こんなものの力を借りて子育てをする。親として恥ずべき事である。

 子供には死を恐れさせるのではなく
「生きることへの楽しさや喜び」を身を持って味わせ、とことん感じさせ、生きてる事が本当に素晴らしいと、身体に刻み込ませる事が真の養育である。

 子供が持っている能力は何か?それを見抜く力こそ親の力である。

何も解からないときは、子供のしたいようにさせる。
言葉を覚え、理解力も出来て、認識能力が備わった時、その時初めて言葉で、論理的に説得し、説明をして伝えていけば良い。

そうすれば納得し、自ら正しい行動し、自分の目的に向かって生きて行く。

「躾は親がやって見せて教えて行く」である。


                   拈湧 笑界・ねんゆ しょうかい
 
金谷精神療法研究所

ラカン精神科学研究所 のホームページもご覧ください

以下は分析家仲間の拈湧笑界(金谷)氏のHPにある今月のメッセージを私のブログで紹介しているものです。


テーマ「銀の匙」

 ある青年からの紹介で一冊の本・タイトルは「伝説の教師が教える一生役立つ学ぶ力」に出会った。
灘校を東大合格率№1にまで導いた『奇跡の教室と言われる授業』を行った教師を語っている。

この伝説の教師の名は橋本武・平成24年の7月で100歳になられた。

灘校に赴任されたのは昭和9年21歳の若き時、まだ灘校ではなく灘中だった頃である。

昭和22年・太平洋戦争で敗戦した2年後、GHQの指示のもと学制改革実施で6・3・3制に統一した灘中は高校を新設した。

中高一貫教育・1教科1教師の持ち上がり担当制だった。

そんな状況の中、よく解らないまま東京高等師範学校を卒業して橋本先生になった。

普通なら公立の学校に就職して校長、そして教育行政のトップで教育行政官になるという出世コースを行くのだろうが、橋本先生は違った。

 私立は公立に比べると明らかに格下、しかも退職金制度や恩給〔年金の一種〕も無く将来性もない。誰も選ばない道である。

いつか公立に転職出来ると、軽い気持ちで灘校へやってきた。

当時、終戦後直ぐだったので、戦時中の教科書を都合の悪いところを黒の炭で塗りつぶして使っていた。

それに校長の真田先生は「ああしろ「こうしろ」と指図する事も無く新卒の青二才に全面的に任せ、表立って口に出して指導などと言う方法は一切とらず「無言の指導」に徹した。

このお陰で橋本先生は後に奇跡の授業と言われる様に、普通では考えられない授業を始めることになる。

 まず国語の授業はこうである。

「銀の匙」「かい」と書いてさじと読むが何故「かい」がさじなのか。昔、貝殻をさじ代わりに使っていたところからこの文字が出来た。

教科書を捨てて、この「銀の匙・授業」をやる。

「銀の匙・授業」とは中勘助の自伝的小説・子供の頃から青年期に至るまでの成長物語であり、これを中学三年間この一冊だけで通し教科書を一切使用せず授業を行うと言うもの。

当時としても常識はずれの画期的な試みだった。

 詳しくいえば、一冊を三年掛けて読むので「スローディング」となづけられたこの授業で、非常に大切な事が4つ有る。

1、寄り道をする。

2、追体験をする

3、徹底的に調べる

4、自分で考えるである。


 1、の「寄り道をする」は、小説の中で「材木屋」と言う言葉に出会うとすると、「材木」を取り上げる。

次に材木と言う字が字を入れ変えても意味が変わらない「木材」でも、同じ事をする。

そうすると「議論ー論議」「習慣ー慣習」「製作ー作製」「寺社ー社寺」「苦労ー労苦」「議決ー決議」と言うように、文字が広がり多くの言葉を知る事が出来る。

まだある、文字を入れ替えても意味は同じだが、読みが異なる言葉、「前後ー後前」「黒白ー白黒」「表裏ー裏表」「終始ー始終」

読みは同じだが、字を入れ替えることで意味が変わる言葉、「社会ー会社」「階段ー段階」「外車ー車外」「名人ー人名」「身長ー長身」「行進ー進行」「現実ー実現」「対応ー応対」というように、次々と文字・言葉の寄り道をすること。

しながら多くの言葉に出会う、そして言葉を覚えていく。


2、追体験する。

 これは小説の中に「駄菓子」が出てきた時、橋本先生は神戸のデパートの地下を回ったり、仙台の専門店に手紙で問い合わせたりして小説の中に出てくるものに近いものを、人数分集め、授業中生徒に駄菓子を食べさせる。

今なら、行儀作法衛生管理上の問題とか大変な事だろう。

とんでもない常識はずれもいいとこ、成長期の子供にそんなものを食べさせてとモンスターピアレントならぬ人達が、眉毛を吊り上げて抗議に来る事は想像できる。

先生の考えはこうである。

読んでも解らない、味わってみないと理解できない。

ただ読むだけで人間は理解できないと。

生きた授業をすると言う意味なのである。

その為には寝る間もいとわず「凧揚げ」が出てくれば、手作りの凧を作り自ら上げてみる。

かるたが出てくれば皆でかるたをする。

作者と同じことをして、作者が何を言いたかったかを知る。

感性が育つのと日本の文化も理解できる。


3、徹底的に調べる。

 「丑紅」と言う言葉から、丑は十二支における二番目の動物である。

こから干支の話になり、干支は十干十二支(じっかんじゅうにし)の略で十干と十二支を組み合わせたもの。

甲乙丙丁戊己庚辛壬葵これを音読みすればコウオツヘイテイボキコウシンジンキ」。

訓読みは「きのえ・きのと・ひのえ・ひのと・とつちのえ・つちのと・かのえ・みずのえ・みずのと」となる。

陰陽五行の陰と陽を、兄弟「え」「と」に割り振って分け、きのえ・きのとの様にして10通り十干になる。

これが十干と十二支の最初の組み合わせ「甲子」(コウシきのえね・「えとがしら」)といって、とりわけめでたい年とされている。

 大正13年に完成した兵庫県西宮市にある甲子園は、この甲子の年に出来たので、これが名前の由来に成っている。


4、の自分で考える。

「孝行息子」と言う話があり、昔は修身の時間があって、これを題材にして授業をする。

橋本先生はこれに対し問題を投げ掛ける。

「孝行息子が殿様から褒美をもらった」の様な話は、人を瞞着(まんちゃく・あざむくの意)するものだと言われる。

修身の教科書ではこれを美徳だと褒め称えるが、これを悪徳だと考える。

どちらが正しいと思ったか、整理して考えてみてくださいと、自分の頭を働かせてください。

 そして先生は、自らの感想を述べられる。

「この話は、幼児教育におけるお手伝いと、お駄賃の関係に似ている。お手伝いは美徳ですが、お駄賃をくれなければお手伝いしないと言う状態になれば、美徳は悪徳にすり替わってしまう。

故に褒美をもらう為の孝行は、褒美をくれなければ孝行をしないとゆがめられる恐れがあると言われる。皆様はどう思いますか?」


 こうして一冊の小説「銀の匙」で国語力が付き、自分で考える力や調べる力が増して、読み解く力が強くなる。

好奇心が刺激され、学ぶ事が楽しくなる。そのうえ言葉に敏感になる。
この本を読んでもっとも感じた事は、これが本来の授業ではないか。

点数だけで成績を決められ、面白くない勉強を強制的にやらされる。

不登校になって当然だと思う。

本を読めばそこに答えがあると、万感の書をひもといたとしても実感は味わえない。

人間は体験をすることによって成長をしていくのです。

知識だけでは生きていけない。

全ての学科は国語無しでは成立しない。数学でも問題の読解力で解いていく。

 橋本先生の授業を何故、文部省が取り上げないのだろう。ゆとり教育提唱し行ったが、学力が却って低下してしまい、またまた厳しい成果主義の教育に逆戻りしてしまった。

生きた教育をする為には「銀の匙授業」が、今こそ必要なのではないか。気が付いた人達だけでもスローリーディングでやって欲しい。

精神分析には言葉と知識が必要だから。お願いしたい。

拈湧 笑界・ねんゆ しょうかい
   (新インテグレーターネイム)
 
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テーマ

「ねばならぬべきだ症候群」

 一般的に母親は、自分の子供は優秀で世間的にも立派な子供だと思われたい、言われたいと願い、英才教育をしようとする。

「鉄は熱いうちに打て」と言う言葉を、幼少の頃から教育をする事だと錯覚をし、3才児教室などに取り入れて早く教え込もうとする。

学童になれば塾に通わせたり、ピアノ・習字・英語・水泳などのお稽古事も加わり、遊び盛りの時代に母親が思うがままに教育をしようとする。

子供は意味も分からないまま、母親の言われるままに仕方なくやる。

母親は、人並み以上早く上達する優れた子供を想像して、一段と熱が入る。

一方、子供の方は自分の能力以上の事を要求され、強いられて、苦しむ。

やりたくなく、いやいやする姿に母親は失望し不安になる為に、一層厳しくなる。

 何故こういう事が起こるのか?

これは、母親が過去に出来なかった事を子供にさせて、自分の劣等だった子供時代を、優秀な子供時代に変化させようとする母親の妄想なのである。

母親自身も「子供は優秀であるべきだ。立派な子供にならなければならぬ。」と厳しく育てられたその結果、母親の望み通りにはなれず、まあまあの所で終わっているのである。

故に、自分は母親には認められず・誉められず・満足のいかない子供時代を過ごしたまま結婚をする。

自分が出来なかった劣等感は、子供を産んだ所から動き出す。

自分の様には成ってほしくない。

子供は優秀な子供に育てなければならない。

完璧に育て上げなければならない。

子供時代はダメでも、母親としては優秀な母親を目指し、なろうとする。

これは非常に危険な事になる。

 母親は、自分の子供時代に辛く苦しい思いをした事を抑圧し、目の前の子供に、自分か成りたかった優秀な子供の姿を投影する。

そこには「優秀な子供にならねばならぬ・そうしなければ子供時代もダメ、大人になった母親でもダメ」と言うことになれば、自分は人間失格で・役立たずで・ダメ人間に成り下がってしまう。

そうなれば生きて行く事が出来なくなる。

ここまで考え思ってしまう。だから命がけなのである。

少しのミスも許さない完璧主義の教育ママが誕生する。

こうなれば考え方が人と違ってくる。

この子は、何でも一人で出来るはず。

成績も一番になるはず。失敗など考えられない程優秀なはず。

 完全に全て妄想の世界に入り、周りの人間が良いといったものは全てやらせようとする。

子供は能力以上の事を押し付け強制される為に、心は壊れてしまう。

やらなければならないと思っても、体が動かず行動に移す事が出来なくなってしまう。

そんな状態でも、それは気の緩みから怠け心が出て来てると思い、叱咤激励をヒステリーの如くやってしまう。

これは度合いの違いが有っても、一般的には全ての母親がやっている事。

 

 研究所に相談に来られる母親は、「子供が何もしなくなり、学校にも行かないのです。」と言う。

子供が壊れかけていて、どうする事も出来なくなって、お手上げ状態で来られる。

治療としては、母親の指示命令を一切封じ込め、子供を自由に解放する。

そうなれば、子供は一切全部のお稽古事を止めてしまう。

学校にももちろん行かなくなり、家でゲーム三昧。テレビは見放題と本来の子供らしい姿になる。

この状態は母親が一番恐れた姿である。

しかし、本当は母親自身がやりたかった事でもある。

子供を育てると言うのは、自らの劣等感を投影するのではなく、その子供が持っている能力が何であるのか?

それを見抜く事が親の役割である。

子供がやりたい事・好きなことを自ら選ばせ・自ら決めさせ・何処まで自分の力で出来るのかを、やらせて見て親が判断する。

そこには親が思っても見なかった偉大な姿に出会う事になる。

その姿こそが母親が望んでいた姿である。

勇気を持って自らの妄想を捨てて、子供の偉大な力を信じてその能力を引き出し共に育てていく、その忍耐と努力こそが偉大な母と賞賛を浴びる事になる。

そして子が育っていく行くのを見ることが母の喜びである。

   拈湧 笑界・ねんゆ しょうかい
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